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■御知らせ■
本日14日、午後7時よりチャンネル桜沖縄の声の「終戦記念特別番組」に出演します。
ゲストは、日本兵として散華した台湾人兵士の慰霊碑を平和公園に建立する活動をしている許光輝さんと沖縄側のサポーターの錦古里正一さん。ご視聴頂ければ幸いです。
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■自己矛盾の極地のデモ
昨日のエントリーで「辺野古移設反対派」の支離滅裂な自己矛盾について述べた。
それを象徴するデモが行われたようなので、引用する。
デモ行進の先頭に掲げた横幕の「普天間基地を無条件返還せよ! 辺野古新基地建設をとめよう!」という文言が非現実的で自家撞着に陥っていることに気が付かないのだろうか。
例えて言えば「便秘で腹に溜まった宿便が爆発しそうで危険なので、トイレに行って排便しようとしたら、トイレに行くのは反対」とトイレ行きをを妨害するようなもの。(多少お下品で失礼)
こんな矛盾に満ちた主張を掲げて行進する人達って、自分で自分をバカと表示しているのと同じと思うが、どうだろうか。
普天間返還求めデモ=ヘリ墜落10年で市民ら-沖縄
「普天間を撤去せよ」「辺野古新基地を許すな」。米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)所属の大型輸送ヘリが隣接する沖縄国際大に墜落して10年となった13日夕、市民らが飛行場周辺でデモ行進を行った。
この日は市民団体や普天間爆音訴訟の原告団が中心となり、数百人が宜野湾市役所前に集結。米軍の攻撃ヘリやオスプレイが飛ぶごう音の下、普天間飛行場に沿って行進し、シュプレヒコールを張り上げた。
宜野湾市我如古のパート従業員高橋恭子さん(61)は「自宅は飛行ルートの下で、規制されているはずの夜間飛行も日常茶飯事。墜落事故から10年たったけど悪くなるばかり」と語った。
政府が普天間の移設先とする名護市辺野古では、立ち入り禁止海域を示すブイの設置や海底地質ボーリング調査など、本格的な海上作業が始まろうとしている。デモ冒頭、あいさつした照屋寛徳衆院議員は「新基地を許すな。うちなんちゅ(沖縄人)の尊厳を取り戻そう」と呼び掛けた。(2014/08/13-20:14)
大田は取材相手を覚えていないとし、メモも残っていないと言っているが、筆者(江崎)は、ガセネタの発信源は、梅澤と共に座間味島で米軍の猛攻撃を体験した山城をおいてはほかにあり得ないと確信する。 発信源が山城であるとする根拠は後に詳述するが、「梅澤不明死」に関しては、大田記者は「鉄の暴風」が発刊されてから26年後の昭和61年、「沖縄タイムス」紙上で「梅澤隊長”生死”の誤記」と題して弁明記事を書いた。 (同書176頁)
梅澤裕隊長永眠す
沖縄発のコラム:美ら風(ちゅらかじ)
沖縄戦時、座間味島で米軍と戦った元陸軍海上挺進第一戦隊長の梅澤裕(うめざわ・ゆたか)氏が6日、兵庫県の自宅で逝去した。97歳だった。ドキュメンタリー作家、上原正稔さんによると、6日午前中に病院から退院して自宅に戻った後、午後3時30分、「苦しい姿を見せず、安らかに旅立った」(梅澤夫人の美奈子さんの話)という。
梅澤氏は、昭和19年、27歳で挺進隊長として座間味島に着任。同20年3月25日、住民の宮里盛秀氏らの自決用弾薬要求を断り、「最後まで生き残って闘おう」と諭した。翌26日、米軍が座間味島に上陸、住民多数が自決した。同6月上旬、梅澤氏は戦闘で負傷し、米軍の捕虜となり、同21年1月、日本に復員した。
同32年、座間味島で援護法適用調査があった時、戦時中婦人部長だった宮城初枝氏が長老の指示で隊長命令の偽証をした。自決が軍命なら援護法が適用されやすかったからだ。これがもとで、梅澤氏は「集団自決の軍命を出した」との濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)を着せられた。宮城初枝氏と再会した際、「命令したのは梅澤さんではありません」と告白された。
しかし、大江健三郎氏の『沖縄ノート』などで「極悪人」と称されていたため、平成17年8月、渡嘉敷島の赤松嘉次元隊長(故人)の弟とともに大江氏と岩波書店を提訴。一審、二審で軍命について「断定できない」としながらも、名誉毀損の不法行為責任はないとして敗訴。
その後、上原さんが梅澤氏の無実を記載しようとした連載を一方的に中断した琉球新報社を相手に提訴、昨年7月、控訴審で原告側が逆転勝訴。上告を断念した琉球新報社が、「軍命がなかった」ことを認める結果に。
「梅澤さんは決して人を憎まなかった真の英雄」と上原さんは語った。(H)