治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

虐待と身体LD

2015-06-15 11:42:33 | 日記
「誕生日を知らない女の子」(黒川祥子)という本を読みました。
基本は虐待サバイバーへの取材で構成されていますが
私的には身体LDの本としても読みました。

虐待、とくに性的虐待を受けた人は身体感覚を鈍感にして乗り切ります。
それはそれで知恵のある乗り切り方なんですけど
身体の感覚をなくしたまんまだとメンタルが病んだとき、いくら認知方面で治療しても治りません。
神田橋先生のとこに行って、なんだか不思議なアドバイスをされて、治っていってしまうのは身体感覚を取り戻すから

っていうのがわかってきたのでこういう虐待の本を読むと、身体のLD性が目につくのです。
ちなみに身体の賢さとは健康状態とはイコールではないですよ。
病気がいっぱいあっても身体が賢い人はいます。奇形があっても身体が賢い人はいます。モデルさんのようにスタイル抜群でも身体がおばかな人はいます。
自分の身体を身体として認識しているかどうかです。
自分にとっての「気持ちいい」が頭ではなく身体でわかるかどうかです。
別の言い方をすると
本来なら頭と身体で分担してやるほうが疲れない仕事を分担できる人は身体が賢い。
頭だけ使っている人は頭でっかちです。
頭でっかちもそれなりの処世術なんですけど、なかなか思い込みから自由にならなかったり、新しい考え方になじめなかったり、第一病んだときに治りにくいようです。

愛着の問題と身体性の問題ってリンクしているのですが、ギョーカイ的にはここは無視します。青いお札が大事ですから。
でもね、愛甲さんも長沼先生も、そしてそもそも杉山先生も、「愛着障害があるからといって親のせいとは限らない(発達障害の子の場合)みたいなことを言っているのに、とにかく被害者意識が先に立って「愛着障害」の「あ」の字に過敏反応し騒ぎ立てる親におおよしよししているギョーカイメジャー、という気持ち悪いものを私は死んだふり祭り(自閉症協会の全国大会とも言う)で見てしまったんで

そんなの愛着障害が親のせいとは限らないって言えよ

って思いました。
そのカンタンな説明をしないっていうことは、逆にギョーカイメジャーは親のリテラシーを低く見積もっているんじゃないのかね。

ていうか、第四の発達障害の概念を持ち出された杉山先生へのいいがかりも発達障害方面からは結構ありましたけど
実は「誕生日を知らない女の子」にも杉山先生は出てきます。発達障害方面じゃなく虐待方面の権威としてね。
それを見たら「おー先生がんばってるじゃん」(←上から目線
って思いますよ。
こうやって現場で被虐待児をこつこつ治療される中から出てきた「第四の発達障害」なんだと思いますよ。臨床家の良心からね。
それを「偏見を助長する!」と騒ぎ立てるって、本当に発達障害以外の人はどうなってもいいのかね、っていう感じ。今の発達障害の啓発ってこういう感じですよね。「発達障害の人だけが大事」って。これは理解されないわー外の世界の人に。

昨日「脳みそラクラクセラピー」から愛甲さんのお言葉を引用してくださった方がいたので貼らせていただきます。

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「発達障害があるということは、親からの愛情がしっかりと注がれていても、愛着形成の遅れが生じやすいということです。それは子ども側に感覚過敏があったりすることで、お母さんの匂いが不快だったり、抱っこされるのが苦痛だったり、衣類が痛く感じられたりすることなどから、心地よさのやりとりであるはずの愛着関係が育ちづらいからです。」(愛甲修子「脳みそラクラクセラピー」より)

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「絶歌」読む限り、元少年の弟さん二人はすごく優しい人たちに育ちましたね。
偏見にもさらされ、つらい思いをしたでしょうにね。

同じお母さんですよね。
でも一人だけ愛着の問題があって、その治療に国家プロジェクトとして取り組んだんですよね。

こういう例をみてしまった国が、愛着の問題をほったらかして、ていうか「ないもの」にして、行動面認知面の介入をちょろっとやって
「治らない治らない」といって、大卒の人の親亡き後の安心のために金を出せーと言ってくるギョーカイ人を見て、どう思うかみんな考えた方がいいですね。