夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

イタリアンレストラン C  いすみ市国吉

2008年07月11日 21時36分00秒 |  食べるために生きる
以前のブログでは、いすみ市(当時はまだ夷隅郡岬町だった)に通いだしたころだったので、いろんな場所、店に通い、いすみを知ろうとしていた。
だから、おなじ「食べるために生きる」ってカテゴリーでもいろんなレストランの紹介もしていた。

もちろん、料理の専門家でもないし、味に詳しいわけでもない。その辺の人が、その辺のレストランに行ってどうこう言っているレベルのものだったけど。
でも、こんどのブログではなんとなくそれがお留守になっている。
ということで、今日はお気に入りのイタリアン Cに行ってみた。
残念ながら超辛口のガイドになってしまうので、レストランの名前は出さないことにしました。自分の味覚がそれほど正当か、適切かってことにも自信がないしね。




最初このレストランに行ったのは、ここができてそんなにたっていないころだったけど、青山辺りにあっても評判をとるのじゃないかと思うほどの味付けだったし、おまけに値段が半分くらい。グルメを気取る友人を連れてきても、驚いていたくらいの店だった。

地元の新鮮な素材にこだわるというだけあって、ちょっと薄味で、でもその素材のよさをきっちりと引き出している味付け。肉などもエージングや焼き加減は最高だった。

当時のシェフは代わってしまったのだけど、彼が代わるころから味に変化が出てきた。味、特に塩味が濃くなったのですね。肉もどうも少し火を通しすぎかなって感じになってきた。
せっかく、美味しい新鮮な素材が手元にあるのに、味付けで食べさせることはないんじゃないかなって残念に思えてならなかった。

何回かその無念さを味わってから、ある日、味付けが変わったけどどうしたのって聞いたら、シェフが代わりましたってこと。
味付けが濃くなったというのは、他の客からも言われたみたいで、言っておきますって話だったけど、そのまま変化なし。
これが今のシェフの味なのでしょうね。

ある小さな会合をここでやったら、大勢が、塩味がきついとか味付けがきつすぎるってもっと辛らつな評価だったので、私が歳をとって味覚に変化がでてきたのじゃないんだなって変な安心を覚えたりした。

10日ほど前に行ったときには、それが以前のようになっていたので、元の味に戻ったのかなって喜んでいたのだけど。

このときはシザーサラダと子羊のロースト、子羊はちょっと火を通しすぎって思えたのだけど、それはたいしたことではなかった。

でも今日、また行ってみたけど、逆に今までで、一番濃い塩味。
シザーサラダは野菜(トマトでさえ)の味も、チーズの味もしない。感じられるのは塩味だけ。
いすみ豚は火が通り過ぎて、ぱさぱさ寸前。これもまた塩味がきつすぎて、豚の味はしなかった。

結局、サラダもメインも普段はしたことのないような無作法、食べ残しをした。
会計のときに聞かれて、塩味が濃すぎたことを伝えたけど、一応、今日は汗をかいていないので、塩味がきつく感じられたのでしょうねって付け加えてはいたけど、、、

料理人にとって、ソースで食べさせるものであっても、塩味は基本中の基本だとおもうのですね。それが顔を出す、あるいは一定していないのはものすごく疑問。

テーブルでは水をがぶ飲みして、夕食を終わって、家に帰ってきてもまだ唇がしょっぱい。
これじゃ、次回はしばらくないな~って。
友人が来ても、連れて行けない。
以前が、私好みだっただけに、すごく残念。




蓮 いすみ市 環境と文化のさとセンター

2008年07月11日 02時28分04秒 |  岬な日々
蓮は好きな花なので何度もアップしています。
先日もいすみ市にある環境と文化のさとセンターで撮った蓮をH.Heineの「歌の翼に」と一緒にアップしました。このときには咲いていたのは一輪だけ、ちょっとしみそばかすのある花でしたけど、仕方ないってそのままアップしました。
この歌は去年も使ったと思います。
そのまえはとんぼの沼の未草のときに枕草子からの引用でしたね。
去年は「尿じゃいな、、、」なんておちゃらけまで書いております。

ということで、もう種切れに近い。
窮余の一策で万葉集を引っ張り出しましたよ。

蓮葉(はちすば)はかくこそあるもの
  意吉麻呂が家なるものは
    芋の葉にあらし
      長意吉麻呂
      16-3826

(美しい)蓮の葉ってこうあるべきものだよな~
  私の家にあるものは
    芋の葉に違いない

意吉麻呂さんがどっかの美人を見て、あぁ、美人ってこんな人のことを言うのだな、家の嫁さんは、ありゃ、芋だ! って嘆いている歌なんでございますよ。

  
   
ところで日本の古典(少なくとも詩には)蓮を詠むときに、蓮の花よりもむしろ蓮の葉や、葉に溜まった水を詠んでいるのが多いような気がするんですけど?



なぜなんでしょうかね~
まさか、蓮の葉なの美しさに気おされたためってことではないでしょうけど、



バラなんかももっと後の時代に入ってきているから、万葉の時代の日本では文句なしのぴか一の花だったんじゃないかと思うのですけど。



確かに、バラや、その他の美しい花のなかでも蓮の花の端正さと、気品、優しさは見ている私を圧倒してしまいますけど、、



でも、野辺の花の手を差し伸べたくなるような愛らしさ、近親感みたいなものからいうと、どこか雲の上の花、どうせおしゃかさんの花なんでしょうって感じがするのでしょうかね? 
だから、写真もきっちりした端正なものじゃなくて、どこかちょっと崩れているような蓮の花を撮りたがるのかな?
まさか万葉の歌人たちが同じ感じを受けて、葉っぱとか水を読んだということではないですよね。