DREAM/ING 111

私の中の「ま、いいか」なブラック&ホワイトホール

茂木 健一郎★欲望する脳 その1

2008-01-06 | 
おもしろすぎます。ただいま2巡目。

欲望する脳 (集英社新書)
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毎回ドッグイヤーだらけになってしまうんですが、今回は移動中に読んでいたこともあって、メモをたくさんとりました。メモなのでランダムなんだけど、私にとっては再確認や発見に満ちています。それはまた、この本で書かれている『ドーパミン放出による快感は「学び」のためにある』という言葉の追体験であるとも思います。
※色文字はなる@アンダーラインです。その前後にも意味があるので、抜粋は書籍に対してリスキーな自己編集であることを自覚しつつ。一部をログ化。

・欲望とは、その本質において、自分の所有にも主体性にもかからない他者に関して生じる。自他の間に矛盾があるからこそ、生命は無限運動を続けるのである。(02欲望に潜む脆弱性)

・(中略)欲望に従うことが経済システムにとっても望ましいことである、という欲望の制度化が進んでいる。自分の欲望をできるだけ制限しないという態度を支えるテクノロジーがここまで進んだことと、昨今私たちが目にする文化的表象は決して無関係ではない。現代人はいろいろな意味で我慢することを忘れたのである。(02欲望に潜む脆弱性)


●IT化が脳の欲望開放を支えるテクノロジーである、という部分で、ITのネットワークやそこでのアクションそのものが、「脳という欲望する臓器」の活動に似ていることをまずイメージしてしまいました。「06現代の野獣たち」の「野獣化」という考え方が面白い。ある種の原点回帰がテクノロジーを極める人間の欲望の先にあるのなら、恐竜の脳を内包するとされる、脳の歴史を遡るのもまた興味深いかも。
同時に、思ったことを世界発信してもいい、というブログはまさに野獣化促進メディアでもあるのかも。同じく「07現代の多重文脈者たち」も、自分を振り返るだけですごく実感できる。多重な文脈が「自我」を希薄化させ、その結果それが子ども化を進めると考えれば「08子供であることの福音」まですとんと腑に落ちる。

・ITがもたらす文脈の複数化は「人間はいかに生きるべきか」という倫理の領域において、様々な難しい問題を引き起こしつつある。(07現代の多重文脈者たち)

・高度化した経済システムは、子供のように欲望をむき出しにした消費者のあり方を必然化する。(中略)生産者としての「子供」が、消費者としての「子供」と結びつくのである。(08子供であることの福音)

・文脈から自由になるということも、放っておけばまた1つの文脈に着地する。自由とは、結局、文脈から文脈への遷移のダイナミクスの中にしか現れない。(08子供であることの福音)

・多重人格者は、より多くの文脈を引き受けるに従って、次第に文脈が希薄な「子供の領分」に近付いていく。(一部略)「一回り」して文脈について無垢だった頃の境地に戻る。
(中略)この世界に無限が示唆されるという形式(可能無限)の中に「大人」が自分の中に「子供」を保ち続けるという人間の精神的「ネオテニー」(幼形成熟)の奇跡はある。(08子供であることの福音)

●希薄化の対極が「精しさ(くわしさ)」かもしれない。文脈の希薄化が文化や社会の子供化を引き起こすなら、精しさは大人化を促進するのかも。この章だてのように、どちらにも捕まらず、子供と大人の間を行き来する(できる)スタンスが茂木さんの目指す中庸だと感じた。
仕事で以前から感じている、企画を突き詰めるとスパイラルアップする感覚は、下記に準じる気がしています。タブラ・ラサから疾風怒涛、老成した子供らしさまで、脳は繰返し自己組織化するのだろう。

・記憶のアーカイブの「増大」においても、成長を続けても全体の様子がそれほど変化しない「フラクタル」のダイナミクスが関与しているのではないかと考えている。(09「精しさ」に至る道筋)

●このブログでもよく考え込んでいる(w)「私」と「他者」との関係性(優位性)。脳が開放系ダイナミクスであるということがキーなんでしょう。これもまたネットと相似する。というか、知の集積=考えるテクノロジーとしてのITの必然でもあるのでしょうけど。ブログを考えることが、自分を考えることになるのもまた1つの「フラクタル」現象。

・私の意識の中で表象される内容が私の脳の神経活動によって引き起こされるものであることは事実だが、その神経活動に他者との関係性のダイナミクスが介在する以上、結果として他者との交渉が私の意識の中に反映されることになるのである。(10私の欲望は孤立しいているのか)

●人間は自分の文脈でしか物事を理解できず、語れない。
そういう意味では、文脈のタイプ(雛形)を多く持つことが、
より多くの理解に通じるとも考えられる。
「私」が何を求めるのか、何を重視するのか。
それによって好ましく感じる文脈そのものもまた変化するのだろう。

ものすごくたくさんの人に積極的に出会い、その文脈に入り込み、できるだけそれをそのままの形で取りだす努力をしながら、改めて自分の文脈として読替える・・・、その作法含めて、茂木氏の書籍や、ブログでの記事を読むと、人が自分でありつづける困難や葛藤、それ以上に自分でありつづける喜び・悦び・歓びのようなものを感じる。なんだかものすごく満たされる。私は私に見えている彼の文脈が大好きです。


※その2に続きます(多分;;

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