DREAM/ING 111

私の中の「ま、いいか」なブラック&ホワイトホール

池袋LIBRO/女のいない男たち

2014-04-18 | 
アマゾンにしようかなぁ、と思いつつ、

仕事の移動時間に見かけたのでゲット。

さくさく読んでいる、なう。

2つ読みましたが、
春樹イズムというか、春樹臭というか、春樹トーンというか・・・
決め台詞のように、んもうそれはそれはしっか、と楔うたれている感じ。
言いたいこと?メッセージ?とてもわかりやすくストレートな印象。

春樹な女性たちと春樹な男性たちの愛とヰタ・セクスアリスな物語。

2つめの「イエスタディ」は、「ノルウェイの森」のバージョン違いのようだなぁ、
とか思いつつ。

今回のBGMはこれ?ちょっと嬉しくなっちゃうのは性(さが)ですな。



また日記書きます(予定)。

関連:
村上春樹さん短編、「イエスタデイ」替え歌 大幅削除

削除された歌詞を掲載してくださってるブログ発見。
超ありがたし!
村上春樹 イエスタデイの替え歌 削除された原文を公開!




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BOOKMARC

2013-10-12 | 

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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年/感想

2013-05-09 | 
※あくまで一個人感想です。
今後も追記・削除を含む変更あります。

※一部読書メモと重複します。

内容に関わりますので未読の方はご注意ください。


読み出して数日、かつて「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」を
半日で読み終わった自分はもういないんだな、と気づくところからスタート。

なかなか集中できなくなっている自分が面倒。
これって年齢なのかな?とも思うし、強烈なドーパミン体験をイタプロでしてしまっているその反動もあるだろうし・・・でも、なによりも「対村上春樹バリア」のようなものが自分の中に確実にできてしまっている。

村上作品のいくつか(「ねじまき鳥クロニクル」「神の子どもたちはみな踊る」あたり)には、ひどい傷をおわされた(その傷自体が、私にとっての春樹価値を高めてしまうというアンビバレントな状況をちょっと面白く感じつつ)その強烈なマイナス記憶のせいで、どうも脳にダイレクトに情報がいかないように大量のチャフがばらまかれてる感じ。

そして、指定音源(?)がかえって物語世界を固定してしまって色がつく。
それが目的かもしれませんが、どうも好きな色ではなくて。

なので(ファン失格でしょうが・・・ってファンなのかなぁ??)
自分の好きな音源に切り替えたらやっと物語に入ることができました。

初期感想:
物語よりも、重箱にきちんと納められた言葉の質感と配置を楽しんでいる感じ。
きちんと発音された言葉のように、意味を届かせる作業。
ゆっくりとたんねんに選ばれた言葉を辿ります。

・・・だったのですが、いつもの春樹氏のヰタ・セクスアリス欲求(?)が出てきて、急ブレーキ。
うーーーーん、彼の作品って、ある意味、この欲求のバリエーションではないかと思える。

独特のにおい(プレ青年臭とでもいえばいいのでしょうか?少年期からの永遠の過渡期のようなとどまり感・・・カフカ君でも相当きつかったんですが;;)のある性欲バナシは、あまり得意ではないのだが、これがないと村上春樹物語にならない、というのもあるのかも。なので、BGMの力をかりて読み下す(推奨音源ではありません)。

物語自体はシンプル。で、個人の存在と他者との関わりの
せめぎあいのような関係が深刻にでも淡々と描かれる。

猟奇的事件とそこに至る狂気を1つ内包しているけれど、
それにはさほど色はついていなくて、かえってモノクロ映像のよう。
それによって個々にゆがんでしまった(らしい)エゴの色合いが主題かと。

あとは、自殺抑止効果?
しょせん、自分ではない他者のために、自分の存在を完全否定するな、
というメッセージでしょうか?いや、その周辺の空気というべきか。

夢が表舞台に近いので、わりと好きだった「アフターダーク」に通じる世界観で、個人的には嫌いではない、というか可もなく不可もない作品に落ち着きました(・・・これって新刊評としてはどうなのか?はさておき)。あ、「1Q84」も夢を紡ぐのでしたか。。。あれはちょっとへヴィだった(ロリ要素が)けど、今回はまぁ健全なのかな、と。。。

それにしてもこの本が爆発的に売れているのが、なにより興味深いです。

で、この作品が、3人称実験の続きだとしたら、登場人物の色とにおいは、どれだけ別の色を与えられていても極めて近い。誤解をおそれずに主観表現すれば、男も女もデルヴォーの絵の中の登場人物のよう。で、春樹作品はそれでいい気もします(どこかクリーンで生々しさがない)。

あ、そだ!19章はちょっと面白かった♪(表現として)。
駅の描写とつくる氏のありようが映像コラージュのようで。
で、読んでると夏目漱石の「それから」を思いだしました。
「忽ち赤い郵便筒が眼に付いた。すると其赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くるくると回転し始めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘を四つ重ねて高く釣るしてあった。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くるくると渦を捲いた。四つ角に、大きな真赤な風船玉を売っているものがあった。電車が急に角を曲がるとき、風船玉は追懸けて来て、代助の頭に飛び付いた。小包郵便を載せた赤い車がはっと電車と擦れ違うとき、また代助の頭の中に吸い込まれた。煙草屋の暖簾が赤かった。赤出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤になった。そうして、代助の頭の中を中心としてくるりくるりと焔の息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きる迄電車に乗って行こうと決心した。」

氾濫する赤の狂気!

でも、つくるは電車には乗らず、駅をつくっている。

このつきはなし感、対象との距離感が、今回一番の収穫だったかも。

つくるを春樹氏に置き換えれば
この物語は作品をつくることの比喩なのかもしれない、なんて
今ちょっと思いましたデス。

追記:
もう1つ。永遠に続く関係なんてない。
だから今を大切に。

参考:
Liszt, Franz: "Le mal du pays"


マルチメディア化の成功事例
(・・・そして同様にレクサスは売れるのだろうか?)

村上春樹氏の新刊でフィーチャーされたベルマンのリスト:「巡礼の年」
【早くも60万部。村上春樹新刊に登場で問い合わせ殺到、ベルマン演奏「巡礼の年」が今すぐ聴ける】l

Thelonious Monk - 'Round Midnight - 1963



111オススメ音源
EARLY CROSS/Pathfinder:特に6. The Pilgrimage
Blazing Bronze/Dominion of the EAST

※111内「村上春樹」関連記事はこちらからどうぞ


興味深かったレビュー:
【読書感想】色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年(琥珀色の戯言)
深読み「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(本読みな暮らし)
コメント (2)
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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年/読書メモ

2013-05-09 | 
※あくまで一個人の読書メモです。
今後も追記・削除を含む変更あります。

感想はこちらからどうぞ。↓
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年/感想

以下、文章抜粋あり。
内容に関わりますので未読の方はご注意ください。





読み出して数日、かつて「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」を
半日で読み終わった自分はもういないんだな、と気づくところからスタート。

なかなか集中できなくなっている自分が面倒。
これって年齢なのかな?とも思うし、強烈なドーパミン体験をイタプロでしてしまっているその反動もあるだろうし・・・でも、なによりも「対村上春樹バリア」のようなものが自分の中に確実にできてしまっている。

村上作品のいくつか(「ねじまき鳥クロニクル」「神の子どもたちはみな踊る」あたり)には、ひどい傷をおわされた(その傷自体が、私にとっての春樹価値を高めてしまうというアンビバレントな状況をちょっと面白く感じつつ)その強烈なマイナス記憶のせいで、どうも脳にダイレクトに情報がいかないように大量のチャフがばらまかれてる感じ。

で、今回も本の中でBGM的音源が書かれていて。
つべでチェックして、「ふうむ・・・」と思いつつ。
・・・どうも授業のように誘導されてしまうのが面白くない(笑)。
本を読むときくらい、自分の好きな環境でいたい。

で、PCにはいっている音源をランダムに流してたら、
「あ、これがあった!!!」(お師匠様、多謝です)、即CDをセット。
やっと物語世界に入ることができました。

というわけで超個人的読書足跡。

1日目:

メモを取りながら

やたら目に付く直喩に立ち止まりつつ。かえって混乱させられつつ。

「鋭く切り立った尾根が前後の植物相を一変させるように」(P29)
「まるで遠い辺境の地に出征する兵士を見送るみたいに」(P31)
「物理的に理屈の通らない風景を見るみたいに」(P35)←この表現は素敵
「誰かの運勢を見るみたいに」(P38)

「身体の組成が入れ替わっていくような不思議な感覚」(P40)


これはわかるなぁ。実際入れ替わってるのかも。
生命ホルモンとホメオスタシスの葛藤というか。

2日目:
木元沙羅さん。相変わらず春樹氏の描くヒロインは理性的。
そして色をもたない人間がまた1人。

灰田くん登場。相変わらず春樹氏の描く男友達は魅力的。
つねに主人公を補完する関係。

3日目:
BGMと珈琲の香りの中、超透明な音源(春樹氏推奨音源ではありません)のおかげで
ジャミングがなくなって頭がすっきりと物語を吸収しはじめています。

ここからは章だてメモ(※章タイトルはブログ管理人)

7.淫夢
今回はないなー、・・・と思ってましたが、
(またもや)夢の中ですか。うーん、春樹氏のヰタ・セクスアリス欲求は根強い。

彼のなんというか、独特のにおい(青年臭とでもいえばいいのでしょうか?少年期からの永遠の過渡期のようなとどまり感・・・カフカ君でもしんどかったんですが)のある性欲バナシは、あまり得意ではないのだが、これがないと村上春樹物語にならない、というのもあるのかも。なので、BGMの力をかりて読み下す。

8.灰田の退出
再登場を待つことに。

9.優秀な探偵力の沙羅さん
「私たちは基本的に無関心の時代に生きていながら、これほど大量の、よその人についての情報に囲まれている。その気になれば。それらの情報を簡単に取り込むことができる。それでいてなお、私たちは人々について本当にはほとんど何も知らない」(P136)


「しかしそれが基本的に、都合の良い思考システムの催眠的注入であることに変りはない。」P143
このあたりは宗教も同じですね。
アフター「アンダーグラウンド」の価値観が血肉化した春樹哲学。

10アオとの再会
最初のカタルシスと口の中がちょっと苦くなるドラマ。
・・・過剰なレクサス賛歌には意味があるのだろうか?
売上があがるのだろうか?

からっぽ=無色についての“省察”。

「産業の洗練化」P176

11.アカとの再会

「金のかかった匿名性」P181

「『『私は自分の頭でものを考えている』と思ってくれるワークフォースを育成する」P188
「反社会的な人間=建設的な姿勢をとるものは何によらず、頭から受け付けない」同
「もう1つは本当に自分の頭でものを考えられる人間」同
「全体のおおよそ85%」同

パレードの法則の逆利用。理にかなってますな。

==================
現時点での感想:
物語よりも、重箱にきちんと納められた言葉の質感と配置を楽しんでいる感じ。

きちんと発音された言葉のように、意味を届かせる作業という印象。

==================


12.六本指と優勢遺伝についての省察と沙羅とのデート

「サークルの完璧性の中の閉じこめられていた」P219

「私たちはあるいはおしゃべりかもしれない。でもある種の秘密は堅く守られる。とりわけ男の人たちに対しては」P221

春樹氏の描く女性のモナリザ的微笑のような空気感は、こうした女性崇拝のような視点から生まれてくるのだろうか。そしてハルキニストな女性達がモナリザ化していくのかも。世の中のモナリザ率が増えると、ちょっと楽しい?

おいしいレモンスフレについて♪

13.足の裏とフォースとともに進むフィンランドの旅計画

「人は日々移動を続け、日々その立つ位置を変えている」P233

「シベリウス、アキ・カウリスマキの映画、マリメッコ、ノキア、ムーミン」P215


沙羅と中年男性の関係は?

14.素敵なオルガ

15.素敵なエリの夫


オルガとエリの旦那様は、この本の中で一番好きな2人かも。
フィンランド人、素敵!と思わず思ってしまった(単純ゆえ;)。

エリ夫妻の陶器、見てみたい。ここの描写は好きだなぁ。。。
誠実な人の誠実さが伝わる描写。

16.クロ(エリ)との再会

エリの告白はすごくナチュラル。だが、多分こういう女性は実在しない。
なので、とっても男性的に見える。

17.クロ(エリ)との語らい

人に関わることの相互侵食。
支えるためには自分自身の足腰がしっかりしていなければならない。
相手に同調・共感はしても共依存してはならない。

「悪いこびとたちにつかまらないように」P326

18.沙羅との再会・前

19.自身との再会


後半はさくさく読めてしまって、メモをとるヒマというか必然がなかった。

19章の入り方は、古いようで新しいようで、面白いな、と思いましたが、
あくまで春樹的にて。

というわけで、重複しますが感想は別途。

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ゴールデンうぃーく・後半/春樹本げっと 他。

2013-05-03 | 

実家から、毎度の「帰ってこい」指令。

2-3日だったらいいかな~、と思ってましたが
イタフェスで予想外(でも想定内;)に出費したうえ、
そのあと超変なテンションで密林でアルバムばたばたばたと購入したので

帰れません・・・
(とはいえません;;)

でも帰省しなかったから時間ができました♪

後半初日(っていつ?)はひさびさの洋楽カラオケ、マイルド版。
みなさんは飲み入ってましたが、ちょっとここ1-2ヶ月
変な花粉症もどきの症状が消えず、
あと、連日の睡眠不足(ドーパミン病)で早めに退出。

ひさびさの仲間で、おしゃべりメインってこともあり
歌ったのは以下の定番3曲だけ。

●KATY PERRY/HOT N COLD
●GUDBUY T'JANE/SLADE
●MY FAVORITE THINGS/SOUND OF MUSIC
あとは友人の曲に乱入(上記も乱入されてます)

息子連れてまた8時間カラオケ行ってこようかな~。
(という息子は帰ってきませんが;;;)

昨日は少しだけ仕事
(というか、ハイファッション系のスタイリストさんを紹介してもらえるかどうか打診中)
して、そのあとは本屋さん巡り。
SNSマイフレさんの伝言で、Mxso熱を沈静させるのによさそう(笑)なので
ようやく村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を買う気に。。。
(初日にゲットできないと、ま、いいか、ってテンションさがっちゃうんですよねー)
あと、古書店で前から欲しかった図録を格安でゲット!ラッキー!!


ジャケ買いした「バレエ・メカニック」は作者のサイン本でした。美麗!

あ、「暗殺教室.4」買うの忘れた;;

今日は1日だらだら。ブログメンテとアクセス実験と。
今から映画を見てきますー。

・・・この記事、タイトル画面のズレ直し用&アクセス実験用なんですが
「村上春樹」で来て下さった方、ごめんなさい。

日記は数日後アップします(予定)。

もしよかったら関連の過去日記をお読み下さいませ。<(_ _)>

●読書メモ

読書メモ・なう ※『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』

村上春樹★IQ84 BOOK3

村上春樹★ノルウェイの森 感想

村上春樹★ノルウェイの森(BGM:Norwegian Wood)

歩くことについて語る時に私の語ること

村上春樹★「1Q84」パンデミック

200Q年の村上春樹マイブーム

村上春樹★1Q84 感想

●NAL×春樹思考関連戯れ言

梅田 望夫/茂木 健一郎★フューチャリスト宣言※対談内に引用あり

HIGH&LOW

ブックマーク★『あらたにす』

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仮死/八櫃長彦

2013-04-10 | 


内田百間 『サラサーテの盤」
江戸川乱歩『パノラマ島奇談』『芋虫』
夢野久作『ドグラ・マグラ』『人間腸詰』
夏目漱石『夢十夜』『永日小品』
稲垣足穂『一千一秒物語』
レイ・ブラッドベリ『十月のゲーム』『風』
スティーブン・キング『生きのびるやつ』
ヘンリー・ジェームズ『ねじの回転』
レ・ファニュ『吸血鬼カーミラ』
ラフカディオ・ ハーン 『茶碗の中』
村上春樹『加納クレタ』
京極夏彦『姑獲鳥の夏』『魍魎の匣』『陰摩羅鬼の瑕』
小川洋子『薬指の標本』『寡黙な死骸 みだらな弔い』『沈黙博物館』『猫を抱いて象と泳ぐ』
杉浦日向子『百物語』


    が、お好きな方へ

あ、そして
楠本まき『Kの葬列』
モルクワァラを機械猫に獲られた方へ



八櫃長彦『仮死』

封印された詩集・・・

言の葉が積もって、見えない一歩が
底なし沼に囚われたしても
大丈夫、その奥にはきっと
音姫様の棲む「竜宮城」があるから。
安心して、ずぷずぷと沈んでいってください。
そこにつく頃には「あなた」ではなくなってはいるだろうけれど。



関連:
ブレイジングブロンズ/死集
コメント (2)
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村上春樹★IQ84 BOOK3

2010-04-27 | 
感想を書こう、と思いつつ数日経過。
BOOK1&2の時は、書かずにはいられなかった・・・
なにが心騒がせるのかを見極めたくて。
↑・・・これが私の率直な感想なのかも。

とりあえず、メモ。

●私はBOOK1&2は天吾の作品として読んだが、
 BOOK3は作者によるなぞ解き解説書みたいな部分あり。
●作者の人称研究は、ここにきて
 なんか面白いことになってきてる気がする。
 主役?以外のほうが断然興味深い。
●読書中に何度か「20世紀少年」が頭に浮かんだ。
 BOOK4があるとしたらますますかな、と。
●誰もが空気さなぎの作り手であり
 マザでありドウタであり。
 もちろん影響力のある小説家は最強。
 だけど、村上氏の関心は
 BOOK3ではそこから離れている印象を受けた。
●個人的には1&2で終わった物語。
 続くのならこのままQ巻まで出ることを願う。

『IQ84』といえば、
ヤナーチェック作曲  シンフォニエッタ
が、刷り込み済みであるかと思いますが
わたくし的には
このあたりもたりらんと寝ころんで、
(って、あの本重すぎるから持ち上げて読めないのが難;)
読む時の、BGM的によいのではないかと。

world's end girlfriend - Garden in the Ceiling



ま、発端は“空気さなぎ”と『空気人形』の
連想からなわけですが<単純だ;

村上春樹氏は了解しないかも、だけど。
(いやー。その昔、キース・ジャレットをきっぱり否定されて以来、
彼とは音楽的な乖離を感じる・・・<大きくでた!

音楽がつきものの作家といえば
マーケティング力の高い石田衣良氏の
『池袋ウエストゲートパークシリーズ』(新刊はまだかー?)も便利。
CDまで出てたりして(買ってないケド

BGMって大事ですよね。
TVだと、あまり絵にならない場面でも、素敵な曲が流れると
「面白くない」ことが紛れるケド、
リアルではなかなかそうは行かず。
「あれー、こんな無愛想な場所だったっけ?」みたいな。
ま、それはそれでありなんですが
(無愛想感こそを「リアル」として愉しむ♪)


おまけ:
個人的オススメ本。
ノイタミナではじまったアニメ『四畳半神話大系』原作の
森見登美彦作品・同タイトル。
神山監督が今度一緒になにかやらかすらしいので
それも含めて要チェックです。

四畳半神話大系(ノイタミナ公式サイト)
※ちなみに監督があの超サイケデリックアニメの『カイバ』と
 私にはえぐかった『ケモノヅメ』でおなじみの湯浅政明氏。
 それだけでも必見といえましょうw

原作者ブログも面白いっす♪

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梅田 望夫/茂木 健一郎★フューチャリスト宣言

2009-10-03 | 
フューチャリスト宣言 (ちくま新書) (新書)
梅田 望夫 (著), 茂木 健一郎 (著)

2007年5月初版ですが、今読んでもかなり面白いです。
『ウェブ進化論』の梅田さんと、茂木さんの対談集。
この2人、どこまでも突き抜けるようにポジティブで最強です!

情報のあり方、ネットビジネスのあり方、大学のあり方、個人のあり方、ネットが壊して(変えて)いく知的インフラについて、大胆に切り込んでいます。

身近な話題として「そういう見方・考え方もあるなー」と思ったブログ論を抜粋してみました。ブログとSNSの差違を見極めながら、ネットの中の社会と個人のありようを分析している部分です。
※ざくざく編集してますので、興味をもたれた方はぜひご一読を。グーグル論だけでも面白くって読む価値あると思います(内容的に古くはありますが、企業ポリシーとかは変ってないので)。

※ネットの使い方や目的は個人によって異なるのが当然ですし、人によってはブログをSNS代わりに使っている方や両者を使い分けてる方(私含む)もおられるでしょうから、あくまで主機能面でのブログとSNSとの差違ということで解釈しました。

==================================
第2章クオリアとグーグル
※●はNAL

●ネットで消費される個人

茂木/(略)自分にとって本当に大切なことを書く時には、おそらく僕も梅田さんも匿名の巨大掲示板に書くことってないと思うんですよ。どうして我々がそういう感覚を持っているかというと、どんなに力を混めて書いたとしても、それは確率論、ポートフォリオの一要素として消費されてしまうという感覚がある。たとえば北朝鮮問題や中国の問題について、どんな極端な議論をしても、それはネットの上の後半な言語分布のなかの一部分に位置づけられる。単なる1つのスレッド、エントリーにすぎない。
(中略)
茂木/書く側はいろいろな想いを託して書くわけでしょう。それこそ自分の全存在のウエイトをかけて。ところが読む側、コミュニティ側は単なる1つのエントリーとして消費してしまう。なのにそれが自己実現だと思ってしまう人がいると思うんですよ。
梅田/僕の感じは少し違って、仮に消費されるにしても誰かの心に残る。結果として何が起きるかというと、ある種の社会貢献。社会への関与ですよね。
(中略)
梅田/映画「マトリックス」の電池みたいになっていくということでしょう。システムがみんなとつながっていて、みんな違う夢を見ている。だけど生体はシステムの維持のためにある。
茂木/SNSなんてまさにそうで(中略)そして友達ができればいいなぁ、出会いがあればいいなぁと思ってやっているのだけれど、運営側からすると「シメシメ」と思っているわけでしょう。そうやってデジタルの1ビットに回収されていく。(084-086)

●ブログの意味とポテンシャル

茂木/インターネットをグーテンベルクの活版印刷技術の延長だととらえる人が多いようですが、むしろ、個人のキャラクターを際立たせる場というか、自分とは何であるかということを説明するインフラが社会的にできたということの意味が大きい気がする(088)

茂木/「偶有性」という話を先にしましたが、インターネットのポテンシャルの最高の部分はオープンなところ。そういう意味でSNSにはやはりあまり共感できないなぁ。
梅田/SNSはウェブ1.0だということは、僕も言っているんですよ。ウェブ1.0と2.0の違いに関する僕の感性っていくつかあるんだけど、コンテンツが検索エンジンに引っかかるかどうかが大きいと思うんですよね。それが未知との遭遇になるので。匿名であれペンネームでもいい、ブログであれば匿名といってもアイデンティティがあるから。検索エンジンを通して未知との出会いがあるのか、それともないのかというところに、SNSとブログの決定的な違いがあると思う。(090)

●感情の技術

茂木/ブログには、厄介なコメントやメールもたくさん来ます。それを良しとして引き受けるべきという考えが、僕の中では倫理観としてある。少なくとも、文化活動をしようという人には、不特定多数の「声」にさらされるという荒々しい体験が、ネット時代の通過儀礼だと思うんですよ。
(中略)
梅田/ネット時代のリテラシーというのは感情の技術ですよね。
茂木/オープンになるということはいいものと同時にイヤなものも運んでくる。ときどき無菌状態にしたい衝動に駆られるんです。たとえば、ブログのコメント欄やトラックバックは最初から受け付けないようにしようとか、掲示板は閉じちゃおうとか。でもね、そのたびに「待てよ。ネットというのはオープンだからこそ価値がある。踏みとどまらないとしようがない」と踏みとどまる。一方でときにはすごくいい出会いもあるので救われる。
梅田/いい出会いのほうが圧倒的に多いんだけど、一個のイヤなことが吹き飛ばすようなときがあるんですよね。
(中略)
茂木/自分の感性をどうコントロールするかということ。先ほど述べたように、ネット上では、自分に向けられたプラスとマイナスの声のパターンが自分のキャラクターを織り成すという認識は、僕にとって1つの大きな発見であり、救いだったんですよ。そう思うと気が楽だなぁと。僕をサポートしてくれる人もいるし酷評する人もいるけれども、そのパターンによって、ある像が結び始める。あっ、こういうグループの人たちは僕の言ったことに反発することが多いなぁ、とか。
梅田/村上春樹が同じようなことを言っていて「一つひとつの意見がもし見当違いなもので、僕が反論したくなるようなものだったとしても、それはしょうがないんですよね。僕は正しい理解というのは誤解の総体だと思っています。誤解がたくさん集まれば、本当に正しい理解がそこに立ち上がるんですよ」(柴田元幸著「翻訳教室」新書館)つまり読者の感想の、誤解も含めた総体が、評価であり理解なんだということを言っています。

●ブログという倫理観

茂木/結局、ネット上のやり取りって、どんなコメントでも、返事をしてもそこでリアルなコミュニケーションはまず生まれないんですよ。(中略)みんな経験を積むといいと思うんだけどなぁ。ブログってそれぞれの人の倫理観が試されるような気がしますよね。(略)僕の倫理観としては、基本的にポジティブな気持ちを広げるような感じにしたい。イヤなことは書かない
(中略)
梅田/結局教育って、ポジティブなものを与えるということ以外に何の意味もない(中略)
茂木/(夏目漱石が)東京帝国大学の教授職を断って朝日新聞に入った理由は、そのほうが多くの人に読んでもらえるから。いまだったら絶対ブログで連載してると思うんですよ。(092-094)
=============================


今、mixi以外のSNSに参加しはじめて2週間目なのですが、日記のコメント欄、伝言板、メールというコミュニケーション手段があり、人によっては日記のコメントへのレスとかも含めて、メールだけでコンタクトしてくる方がいます。

私のように、ブログでのオープンコミュニケーションが当然だと思っていると、かなり面食らうんですが、確かに自己防衛的にはそれも「あり」なのかもしれない。
・・・と思いつつ、閉鎖的なのはやはり苦手(メールで、内容も個人的というのが特に)なので、レスしないでいたら、やはりちょっとクレームじみたものが来ちゃっいまして・・・。「うーん、多分経験や価値観が違うんだろうな、どう説明したらわかってもらえるかな?」とか考えてたんですが、この文章を読んでもらうのがもしかしたら早道かも?

私もネット&ブログの素晴らしさは、自分の知らないモノ・コト・人との出会いだと思っているので、茂木さんや梅田さんほど確固たる自信や気概はないけど、同じベクトルの端っこを歩いていたいなぁ、と思います。

ここで出会い、コメントをくださる方々は、リアルではまったく面識なくスタートして(もろもろのしがらみや利害関係から開放されて)、ある趣味や話題が偶然に紡いで・つないでくれたご縁なわけですが、だからこそ、あらかじめ決められた枠内での交流(それにも別のメリットもありますが)以上に、素晴らしい方々に出会えている、と今更に実感しています。私にはもったいないご縁でもあります。そういう意味で「111」は私のホームベースであり、ネットライフで一番やりたいことは全てここに詰まっていると思っています。

ご参加に感謝いたします。

※大学に代表される、限られた情報(リソース)の囲い込み型(特権)ビジネスの限界(と終焉)についてはまた別途まとめたいと思っています。いまやネットのほうがリソース的には大学より上という発想は頭では理解できますが、そこには物理的関わりという形での「場」「人」「教え方」の重要性もあると思う。いずれにしてもこのお2人がネット大学をやるなら参加したいなぁ、とは思いますが・・・。(・・・まずは英語で辞書なしレベルで論文読めるようにならないと;;;<遠いなぁ;;

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川上弘美★センセイの鞄

2009-07-21 | 
『1Q84』の周辺をうろうろしていて、川上弘美作品に出会った。

で、ブックオフにて『蛇を踏む』『センセイの鞄』を(状態がよかったので)入手。
芥川賞受賞作品の『蛇を踏む』は作品名は知っていたけれど未読。

読んでみると非常に不思議な時間感覚で、シュールな内容だった。
『蛇を踏む』はとぐろをまかれる感覚で、ずぶずぶ沈み込む不気味な怖さと、ずぶずぶ沈み込むブラックな快感があった。
『消える』はすごくシュールで、現実と幻想のはざかいを曖昧にする作者の作風が味わえた。この奇妙な感覚って「ウルトラミラクルラブ」にも通じる気がする。家族の「血」と故郷の土着感は一種の「呪い」であり「祝い」でもある。そういう部分で。
同書に収録されていた『惜夜記』はまさに夢十夜の遺伝子を持った作品で
初めて読んだのに、昔から愛読していたような近しい距離感。
内田百間の影響を受けている作家というのにも深く納得。
確かに同じ空気を感じます。

『センセイの鞄』はすごく好みの作品だった。
センセイは、内田百間御大にもかぶって、醸す空気が凛として心地よい。
文章の描きだすオーラが柔らかい。
ツキコさんの感じている温度が伝わってくる感じ。
ツキコさんのだらだらした半端感、それをきちんと見極めているシビアさが不思議と潔い。
ダシのきいた薄味のように、噛み締めると深くて、
何度も何度も読みたくなる作品。
2001年度谷崎潤一郎賞受賞作とは知りませんでしたが、
賞を取る作品の確かさを感じられて、最近ついつい軽んじてしまっていた
賞への信頼を新たにしました。

で、ドラマ化したらどうなるかな、誰がいいかな、
とあれこれ考えていたのですが
すでにドラマ化されていたのですねー。
うーん、見てみたい。
ちなみに、ツキコは年齢は大幅に違うのだけどどうも上田樹里ちゃんで
脳内再生されてしまう私でした。
センセイは石坂浩二さんかなぁ?頑固で昔気質な実直さながらも
ちょっと知的な色気と遊び心ある男性、という印象なのですが。

最近、アニメで脳内再生されることも多いのだけれど、
あの声がいいな、とか、こういう作画がいいな、とか
ここはこういうカットで、こういう演出で、
とかあれこれ考えてしまいました。楽しい。

追記:しばらく考えてるうちに、小泉今日子と柄本明以外で
考えられなくなってきた。なんというビジュアルインパクト!
(・・・あっしが単純なだけ?;;
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中川淳一郎★ウェブはバカと暇人のもの

2009-07-14 | 
必ず7641になる(茂木健一郎 クオリア日記)
で知って、興味を持ったので読んでみました。

『ウェブはバカと暇人のもの 現場からのネット敗北宣言』

アマゾンな罠(や、重宝しております)で下記もついで買い。
『僕が2ちゃんねるを捨てた理由』
こっちは前に書店で見て、時間ができたら読もうと思ってたので
送料調整もでき一石二鳥にて。表紙がかわゆいw

『ウェブはバカと暇人のもの 現場からのネット敗北宣言』
は、タイトルとはうらはらに硬直化しつつあるネットビジネスへの
警告および提言であり、
webマーケティング批判、という体裁をとったwebマーケティング本、
ウェブビジネスの落とし所伝授本、著者のビジネス視点&ノウハウ紹介本、
として面白く読めました。

オーマイニュースの撤退の経緯のような事例検証
×自らの体験情報を積み重ねた検証型で、
掘り下げ、噛み砕かれた文章で理解しやすい。
いまだ正体不明なweb2.0への意見は
それ自体がweb2.0の本質を探る内容になっているし、
ウェブを必要以上に敵視しているテレビ(業界人)への意見
(↑これは『僕が2ちゃんねるを捨てた理由』でも指摘されていたけれど)や
ウェブへの過度の期待を含めた勉強不足な企業やユーザーへの批判
(特に4章・5章)は、よくまとまっていて一読の価値ありかと。
・・・もちろん反論部分もありますが。

毒舌(ちょこっと恨み節風w)で、ちょっ上から目線ではありますが
それは表現として意図的なもの、として私にはOKレベルでありました。
てか、かえって著者のネットへの向きあい方の真摯さが伝わってきた。
(かつて惚れていた恋人への落胆について語ってるかのごとく)

まぁ、それ(バカと暇人)がテーマで、書籍化してるわけだから
イヤなら読まなければいいわけだし。
そう、イヤなら接触しないですむ/率が高い、というのが、
ウェブと紙媒体の違いでもある、ことは本書でも繰返し書かれています。
ハブ的なサイトやブログ(茂木さんのように)にアップされでもしない限り、
という条件付きだし、それを逆手に取ることもできるわけですが・・・

私もバカな暇人の1人なわけで、それには特に反論しません(本書の
定義に従えば正しいので)が、バカな暇人=マイナスではないとは思っている。
平和ボケがマイナス(だけ)でないのと同義で。
資産継承型の富裕層以外の人間に「(遊ぶ)暇ができた」というのが
資本主義×情報化社会の恩恵だとも思ってるので。

&「火」が一部の人間の特権であった時代(たとえば神とか)のほうが
よいのか悪いのか、今火を使ってる人間にはきっと判断しきれないように
誰でもが(といいつつ、まだまだ世界的には制限も多いけれど)
情報を発信できる時代が、マイナスだけだとは決して思えないので。

以下ドッグイヤーポイント
※個人的にマーキングしたいポイントです。
 一部を抜粋しているので関心ある方は購読をお薦めします。

●集合愚(P17~18)

●匿名の個人として発信し、組織を背負っていないがゆえに、「絶対に勝てる競争」を高みから仕掛けてくる。クレームを受ける側は組織を背負っているため、逆ギレもできない。完全なるハンディキャップマッチに巻き込まれているのだ。(P40)

●かくして企業も個人もネット世論にびくつき、自由な発言ができなくなっていき、企業の公式サイトはますますつまらなくなっていく。(中略)テレビのコメンテーターは以前にもまして無害なことしか言わなくなった。(中略)強者を叩く発言をしておき、全面的に弱者をフォローしておけばとりあえずクレームは減る(P41)

●リアル世界によるネットへの介在は、「不当な書き込み」への抑止力を生むが、同時に「正しい書き込み」に対する抑止力も生む(P84)

●・ネットはプロの物書きや企業にとって、もっとも発言に自由度がない場所である。
・ネットが自由な発言の場だと考えられる人は、失うものがない人だけである(P90)

●ネットによって本来出会わなかったであろう人と人が交流できるようになったのは良いことだ!などとよく言われるが、おそらく、本来出会うはずがなかった人々が交流するようになったことで、摩擦のほうがより生まれたのではないだろうか。(P90)

●ネットでうけるネタ(P104)

●ネットでうまくいくための結論(P130)

●ネットはあくまでも自由な「雑談の場」。人々が居酒屋で交わす会話をコントロールできないのと同じで、ネット世論だって強引に変えることはできない(P207)

●その幻想が生まれる理由はただひとつ。
みんなネットのことをよくわかっていない
からである。(P220)

●そもそも「ネットによって人々の嗜好・生き方が細分化」されたというのはウソである。(P227)
●ヤフーを筆頭とするメガサイトの圧倒的集客力と、グーグルによる検索結果に従うことにより、ネットは人々をより均一化したのである(P229)
●細分化された興味・嗜好に対応する多種多様な情報はたしかにネット上に存在するが、その細分化されたなかで皆が知る情報は、ネットによって均一化されたのだ。(P230)


なんというか、スケールの問題は感じつつ。
(たとえば、 細分化と均一化の視点は興味深いけれど、ユーザーは結局は自分の
理解できる・行動できる範囲でしか理解しないし、行動しない・できない。
それは著者も把握しているような・・・。)

企業(及びユーザー)にネットヘの過度の期待や幻想を捨てよ、というのは
ひろゆき氏が「ネットはメディアではなくツールだ(=どう使うか、誰が使うかが重要)」と言ってるのと同義だな。
とはいえ、ネットをビジネスにする人間にとっては「ネットはとにかくすごいですよ!」「なんでもできちゃいます!」と煙に巻くことが(主に予算/経費を引きだす面での)メリットでもあり、そうした刷り込みが結果的にネットへの過信と落胆のギャップを生みだす。
そのあたりはネットビジネス従事者の今後の課題なんだろうなー、
と思いました。


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村上春樹★ノルウェイの森 感想

2009-06-18 | 
記憶から欠落していて、こんな話だったっけ?と戸惑うほどの、たくさんの性描写(性交だったりマスターベーションだったり手や口だったり)をガブガブと読んでいるうちに、人間を含む生き物の原形は「管」だ、という言葉を思い出した。食べ物を取り入れ、排出する1本の管。(福岡新一氏の著書だったと思うのだけど定かではありません)
食べ物を食べる、という行為はそれが他人の行動であっても、目にすると即座に脳が活性化する、というミラーニューロンの仕組み。こちらは茂木健一郎さんの講演会&著書で知った。それと同様に、性行為に関してもミラーニューロンは関与してるのだろうか?そんなことを考えつつ。
読み手はそこでどうしても反応してしまう、それを狙ってるのだろうか?だったら成功している&村上表現の術中にはまってる、と認めます(『1Q84』ではシチュエーションが通常ではありえないので、ゲーム感覚になってしまうのだ、と思う。脳が想像のセックスだけで満足できるのもある種の可能性かもしれませんが、なんというか社会全体の生命感は欠如していく気がする。もしくは想像の暴走が暴力になったり。・・・ってそれはまた別の話)

「でも彼の場合相手の女の数が増えれば増えるほど、そのひとつひとつの行為の持つ意味はどんどん薄まっていくわけだし、それがすなわちあの男の求めてることだと思うんだ」「それがストイックなの?」直子が訊ねた。「彼にとってはね」(P200)

上記で語られている永沢さんだけでなく、主人公の僕=ワタナベ君もまた永沢さんと組んで、好きな子はもちろん、好きでもなんでもない女の子、行きずりの女の子とも自分が求めるままにセックスしていて、「どうしてもそれが必要だったから(相手にとっても)」という考え方で、いまいち納得しかねる部分があるのだけど(特に最後のレイコさんとのある種の穢れ落しのようなセックスは蛇足に過ぎると思う。まぁ、個人差の範疇かもしれないケド・・・)
それでも、なぜか読後感にとてもストイックでプラトニックな感覚が残る。まさにそのひとつひとつの行為の持つ意味はどんどん薄まっているのかもしれない。あまりにもさらりと語られる性描写が、「想う」だけの時間を限りなくプラトニックに感じさせる。直子との&緑とのセックスを我慢する“僕”が限りなくストイックに印象づけられる。ネガポジのように。

そう、だから私は長い間ずっと『ノルウェイの森』はストイックでプラトニックな小説だと思っていたんだ、と気がついた。そしてその印象は、再読が終った今もその印象のまま更新された。不思議だけど、読後感は夏の陽射しのようにまっすぐで、秋の紅葉のように切なく、雪山のように済みきって、春の風のように優しいのだった。
・・・性描写にまみれてたはずなのに、なんともシャクな話だけど・・・。

で、ワタナベ君のシチュエーションが異なるさまざまな女の子(名前すら与えられず
「女の子たち」と一般名詞にまとめられてしまう子たち含め)とのセックスを読みながら、村上春樹にとってセックスは生殖行為ではないんだな、という印象をより深めた。そしてそれらは登場人物にとってものすごくヘヴィでシリアスに意味があるものと、まったく意味がないものに区別されている、明確に。
後者は、よく言うようなスポーツ感覚に近いのだろうか?それとも肉体的な感覚器官の可能性を試す、というものなのか?まさに「女の子と寝た、とても簡単だった」(P78)としか言いようのない(でも個人としてはそれなりに必然性のある)行為。喫煙や飲酒と同じような手軽な嗜好のような。そして前者は「禊」であったり「お祓い」であったり、なんだかかえって肉欲否定な印象を残す。

でもこれは本当に何でもないことなんだ。どちらでもいいことなんだ。だってこれは体のまじわりにすぎないんだ。我々はお互いの不完全な体を触れあわせることでしか語ることのできないことを語り合ってるだけなんだ。こうすることで僕らはそれぞれの不完全さをわかちあっているんだよ、と。

食欲と性欲(&排泄・・・って欲求なのかな?)は
人間の原形だからプレーン度=100%感が高いのかもしれない。
(あくまで1人の作者の1つの作品への感想としてですが)

まったく別の視点から見ると、
まだ社会に対し自分のポジションを持っていない「学生時代」を「管」として
入ってくるものとでていくもの、
大学闘争や就職(社会との折りあい含め)やなんやかや。
つまり世間的に“大人になる”ということと
その(ネオテニーな)葛藤を描いた青春本。
そしてだからこその100%の恋愛、そういう感想も持ちつつ。

■BOOK MARK POINT

〈上〉

日常生活というレベルから見れば右翼だろうが左翼だろうが、偽善だろうが偽悪だろうが、それほどたいした違いはないのだ(p22)

大学は解体なんかしなかった。大学には大量の資本が投下されているし、そんなものが学生が暴れたくらいでえ「はい、そうですか」とおとなしく解体されるわけがないのだ。そして大学をバリケード封鎖した連中も本当に大学を解体したいなんて思っていたわけではなかった。(P87)

この連中の真の敵は国家権力ではなく想像力の欠如だろうと僕は思った。(P106)

「紳士であることって、どういうことなんですか?もし定義があるなら教えてもらえませんか」
「自分がやりたいことをやるのではなく、やるべきことをやるのが紳士だ」(P103)

「女の子にはね、そういうのがものすごく大切な時があるのよ」(P141)

たぶん何が美しいとかどうすれば幸せになれるかというのは私にとってはとても面倒でいりくんだ命題なので、つい他の基準にすがりついてしまうわけです。たとえば公正であるかとか、正直であるかとか、普遍的であるかとかね。(P156)

●180人分の生理用ナプキンを焼いている煙(P109)
●小林書店(P118~P121)
●料理する緑と食後の会話と水仙(P122~P128)
●『なにもない』という歌(ちなみに今読むと時効警察の名曲「しゃくなげの花」が浮かびます)
●阿美寮までの道行き(P165~P168)


〈下〉

現実の世界では人はみんないろんなものを押し付けあって生きているから(P46)

ねぇ、私にはわかっているのよ。私は庶民だから。革命が起きようが起きまいが、庶民というのはロクでもないところでぼちぼちと生きていくしかないんだってことが。革命が何よ?そんなの役所の名前が変わるだけじゃない。(P60~P61)

口でなんてなんとでも言えるのよ。大事なのはウンコをかたづけるかかたづけないかなのよ。(P72)

「あれは努力じゃなくてただの労働だ」と長沢さんは簡単に言った。「俺の言う努力というのはそういうのじゃない。努力というのはもっと主体的に目的的になされるもののことだ」(P100)

「人が誰かを理解するのはしかるべき時期が来たからであって、その誰かが相手に理解してほしいと望んだからではない」(P113)

それくらい確信を持って誰かを愛するというのはきっと素晴らしいことなんでしょうね(P125)

「僕も時々そう思うよ。まぁ俺でもいいやって」(P148)

「自分に同情するな」と彼は言った。「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」(P167)

「大人になったからだよ」と僕は言った(P180)

●僕と緑のお父さんとキウリ(P74~P83)
●春の熊(P152)
●「車輪の下」(P153~P154)
●日本橋高島屋の食堂&屋上(P199~P201)


リアルでは(実は)なかなか実現しないもしくは出会うことのない現実。
それが絶妙なスパイス。「あ、こんなかくし味が!」みたいな感じで。
材料の収穫のタイミングと調理の仕方と味つけの
絶妙なハーモニーが、村上春樹の物語力なのだと思う。
もしくは、普通の風景を切り取りながら、そこにありえない要素を
紛れ込ませる。それが村上春樹の世界力なのだと思う。
&I LOVE IT

一人称小説として「僕」の視点で見せられるせいもあって、直子やレイコさんのような、本人いわく“歪んだ”存在の方がまともに思える。そしてそういう存在を守りたいと思う。ただ本人たちはその歪みに耐えきれない。そして直子は歪みの中で命を断つ。この物語では、4人の人間がそうして社会=歪んだ現実を出ていってしまう。
歪んだ社会を今まで生き残ってきた読者の1人としては、直子は(極めて特殊なシチュエーションではあるが)弱すぎるし、自分を整えることで精一杯な狭量さがしんどくなってくる。そのしんどさを引き受けようとするワタナベ君が無謀にも見える。そうした若さのエゴのさりげない暴走が、きちんと物語としてまとまっているのは凄いと思う。
そして、そういう世界に置かれた緑の配置が絶妙。緑がワタナベ君を好きになるのは、実はその背後に直子の影があるからこそ、で、ワタナベ君が緑を好きになるのもまた直子の重さがあるからこそ、で。100%の恋愛は、あらかじめ引き算がなされているからこそ成立しているのだ、とも思う。

そこに大学闘争とか、同世代の社会に対する作者の“本音(もしくは評価)”がちりばめられていて、重低音を奏でている。
そういう意味では『ノルウェイの森』は特定年齢にとっては同時代〈青春〉文学であり、別世代にとってはファンタジーだといえるかもしれない(中国の風景画の実写が、その風景を見たことのない人には想像画に見えるように)。

ある種の優しさは、ある種の諦めや無関心から来る場合もある。60年代文学の多くはどこか優しくか弱く、そして歪んでいる。『ノルウェイの森』の「歪み」は、時代のひずみを写し取ったものだと思うが、それは段々ファンタジー(そしてノスタルルジーもしくはフォークロア)になっていくのかもしれない。
コメント (6)
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村上春樹★ノルウェイの森(BGM:Norwegian Wood)

2009-06-13 | 
と、ゆーわけで、ただ今『ノルウェイの森』を読んでます。
なんとなくだらだらと移動中やティータイムに。

で・・・やっぱり女性がみんな
nymphomaniaみたいなんですケド。;;;
女性がみんな男性の「性欲」に興味持ってるっぽく。
主人公を筆頭に男性陣はクールっぽく。
それにしても「マスターベーション」という単語がいくつ出るんだ?
あまりに多いので意味的にゲシュタルト崩壊起しそうー。

てか、そうだっけ?こんな感じだっけ?『100%の恋愛小説』。
私の中では、どちらかというと禁欲的&クリーンな印象で記憶されてた
という(新鮮なw)驚き。
これぞ春樹マジック!(なのか?

改めて検索すると『ノルウェイの森』は発売当時から
性描写でしっかり話題になってたのですねー;
なぁんだ、『1Q84』と変わらなかったのか・・・。
てか年月を超えて作者の「性」への執着加減が変わらない
(どころか高まっている?)のが凄いのか???

でもって、その点をあまり意識していなかったのは、
私の当時の年齢のせいなのだろうか???;;;
(ある種の周波数が若者にしか聞えないように、ある年齢を過ぎると
やんなっちゃう性描写というのがあるのだろうか?)
ワタナベ君の性格のよさだけが強い余韻として残っていて、
『ちょっと理想的な男の子』になってた;;;
もしや大きな読み違えをしてたんだろうか?;;;

でも、かなり久々に再読しても、
ワタナベ君は、やはりとてつもなく魅力的だ。
そして空間描写や空気感が絶妙&極上に美味だ。
音楽や街の空気や、そうした時代感も、うまく構図を切って
写真に閉じこめたように鮮やかだ。
初期作品で多用されたヴォネガットな表現(こなし方がうまい!)
もまだ垣間見られて、
元々ヴォネガットファンつながりで春樹作品を
愛読するようになった私としては嬉しくなる。
ピース。

今回、松山くん含め映画のキャストで脳内変換して読んでみたのですが
かなりいいかも。
松山くんなんて、セリフや表情が浮かぶー。
なんか勝手にもっとフツーの、ちょっと線が細い男性という
思い込みがあったが、
ワタナベはなにげにモテ男だし、セックスアピールありそうだし、
でもって素朴な感じは松山くんバッチリ☆(死語

映画版公式サイト

映画[ノルウェイの森]キャスティング Norwegian Wood Director and cast


ノルウェイの森 映画化 松山ケンイチ
 


『Norwegian Wood』は『ラバー・ソウル』の中では実験的で
どちらかというと『リボルバー』に入っていてもおかしくない作品。
歌詞を読むと、『ノルウェイの森』のメインフレームになってるのが
わかる気がする。
『Norwegian Wood』を聴くと、
私の中ではいつもムンクの使う複雑な紫色の部屋が浮かび上がる。
それはきっとパープル・ヘイズへの連想でもあって。
なんか淡々と現実的な歌詞がかえって幻想的な、ドラッグな感じ。
だから最初に『ノルウェイの森』のクリスマスカラーな装丁を見た時
かなり違和感があった。
今はとても好きな装丁ですが・・・。

Norwegian Wood Demo 

デモ。ポールとジョンが一緒に歌ってる、というだけで切なくしあわせになる。
普通の・日常の・ほんの一片の奇/跡。

Norwegian Wood (This Bird has Flown) 

テイク違い。

The Beatles-Norwegian Wood Lyrics 

カラオケ用♪

参考:
Norwegian Woodとは(wiki)
確固たる証言は無いものの、「I was knowing she would」(オレは彼女がそうすると(俗的に言えば「ヤらせてくれる」と)知って(思って)いた)という言葉を早く言った場合に「Norwegian Wood」の発音と似ているためではないか、という説も古くから言われている。

ジョンならやりそう。
・・・こっちが『ノルウェイの森』基本???<んなわけないだろう

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村上春樹★「1Q84」パンデミック

2009-06-10 | 
1Q84(Wiki)

村上春樹さんの「1Q84」が100万部突破(読売新聞) - goo ニュース
「1Q84」が100万部突破(時事通信) - goo ニュース
村上春樹さん「1Q84」100万部 引用本にも波及
春樹新作爆発ヒット 「1Q84」 飢餓感あおり?1週間で96万部(産経新聞) - goo ニュース

というわけで、ある種の社会現象と化している『1Q84』。
まさに『空気さなぎ』のごとく。

まぁ、マイブームなので日々、時間があれば追っかけまくってるわけですが;
『1Q84』の書評はどんなものもすべて興味深い。
それぞれが村上春樹との関係を見つめ直し、“自分の物語”を語リ出す。
これこそ、空気さなぎ的物語ウイルス!!
この状態はパンデミックというにふさわしいのでは?

そしてそうした書評を読めば読むほど、
『1Q84』という本は巫女であり、ウイルスのキャリアであり、レシヴァでありまたパシヴァでもある、村上春樹氏自身の物語なのだな、と実感する。
世間の声と交わり、物語を生み出す。そしてそれはずたずたに自分を酷使する。
登場人物はすべて作者の分身(作品的に言えばドウタ)だというのは大前提だとして・・・
言葉を受け取って、傷つき苦しむリーダーは
村上春樹自身の創作の葛藤をイメージさせる。
物語を紡ぐ天吾もまた作者自身の影だとも思う。

『1Q84』は、まさに物語の形をとった“物語の物語”なのだと感じる。
その行為が、読み手の中の物語に共振し、新しい物語を作りだす。
遺伝子の書き換えのごとく。
それがどう結実するのかは本人にもわからない。
ただ、自分が主人公として物語を引き受け、
動かし結実させる意思を持つことが重要なのだ、・・・と
最後の天吾の決意を私はそう読み取りました。

「動的均衡」「生物と無生物のあいだ」の著者で
分子生物学者の福岡伸一氏の書評を発見!
先生も読んでおられましたかぁー、なんだか素敵だ♪
※過去記事:福岡伸一★できそこないの男たち

遺伝子支配に対抗する均衡 評:福岡伸一(よみうり堂)
遺伝子が利己的な支配者に見えるのは、私たちがその物語を信じ、身を委ねたいからである。そこに私たちがたやすく切り崩されてしまう契機が潜んでいる。それはかつて外側に存在していたビッグ・ブラザーを内側に求めることに等しい。リトル・ピープルに象徴されるこのような不可避的で、それでいて誘惑的な決定論に対抗するには、一つ一つの人生を自分の物語として自分で語り直すしかない。重要なのはその均衡であり、均衡は動的なものとして、可能性の在処(ありか)を示す。そう本書は宣言している。

私たちは時に合理性を無視し、利他的に行動しうる。その動因として私たちは自らの内部の核に、自らの複製ではない「さなぎ」をはぐくむことができる。本書の結末をそういう風に私は読んだ。


現時点での私的解釈として
●リトル・ピープル:ある種の媒介。ヴォイス(※下記信濃毎日新聞インタビュー参照)を運び空気さなぎを作る(作らせる)。組織ではないが、ある方向に(本人が無意識のうちに、あたかも本人の自主的意思のごとく)物事を押し流していく力。
それはマスコミだったり、それに反応する視聴者だったり、「国民」だったり、ネット世論だったりする。(参考ページ BOOK2/P279)

と思ってるので、福岡さんの「一つ一つの人生を自分の物語として自分で語り直すしかない」に共感します。
それにしても、第11章タイトルの「均衡そのものが善なのだ」はかなり深いテーマだと思うし、ある種「動的均衡」にも通じて興味深い。陰陽的でもあり、世界の成り立ち的でもあり。何かがものすごく圧倒的な力を持つ独裁的状況はやはりロクでもないだろうから。
月と太陽、月とペーパームーン、
渦とQ、善と悪のバランス。
陰陽のように、2つあるものの関わりが意味を持つ物語なのだとも思う。
(そういえば、登場人物は多いが、関わり方は見事なまでに1対1だなと今気づいた)
そういう視点で、村上春樹氏自身が『1Q84』のマザのような『空気さなぎ』を批評しているのは(その内容も含めて)とてつもなく興味深い。露骨に見えて実はとても巧妙な罠のような・・・。(なんてことをアレコレ思っていくのもまた呪術的魅力ですな)


以下、現時点で、個人的に参考にさせていただいているレビューをリンク。
(って、レビューも全部読むことができないのが悲しいっすね;
個人の数だけ物語はあるから・・・)

村上春樹『1Q84』感想 - 琥珀色の戯言
人称含め、多角的な視点で総括されていて、勉強になります。
※『モンキー・ビジネス』でのインタビューが紹介されています。


ROBARTious: 1Q84感想(2)~まだ温もりが残っているうちに
引用と読み込みの深さに何度も唸ってしまいました。特に下記。
誰にそんなことがわかる?
そう、誰にもわからない。これが現実なのか、物語なのか。
けれど、他人が語る物語を現実だと信じ込んだときに起こる暴力を『1Q84』は示している。それはオウム真理教であり、パレスチナをめぐる言説である。
イエーツは”In dreams begin the responsibilities.”と言った。
僕たちは現実か物語かわからない世界を生きている。指標はない。「こうであったかもしれない」過去が、その暗い鏡に浮かび上がらせるのは、「そうではなかったかも「しれない」現在の姿だ。
それでも、そうだとしても、僕たちは自分の物語を見つけ出し、創造し、生きていかなくてはならない。
あるいは、生きていくことができる。
2009年だろうと、200Q年であろうと。


レビューではありませんが、重要参考資料として。
af_blog: 物語は世界共通言語---村上春樹インタビュー
信濃毎日新聞の全文を写真でアップされているので読むことができました。
読んでる最中、平家物語を暗証するふかえりが浮かびました。

※一部抜粋/2008年3月30日付け信濃毎日新聞
「物語を書いていくことは、自分の魂の中に降りていく作業です。そこは真っ暗な世界。生と死も不確かで混沌としている。言葉もなければ、善悪の基準もない世界」
「でも魂の世界まで降りて行くと、そこは同じ世界なんですよ、それゆえに物語がいろいろな文化の差を超えて、理解し合えるのだと思う」
「物語というものは非常に有益なことでもあるのですが、一方でものすごく危険なことでもあるのです。このことを河合先生は本当によく分かっていた」
「あの人(オウム真理教の実行犯)たちは、どうしてあっちの方に行ってしまったのか。そのことはちゃんと解明しておかなくってはいけないことなんです。皆死刑にしておしまいというのではいけないことなんです」
「この人たち1人1人それぞれに弱いところもある。でもその六十何人もの普通の人たちの声が、1つのボイスになるとすごい説得力を持っていて、信頼してもいいような力を感じました(中略)だからこそ、そのボイスが戦争みたいなことに引きずりこまれないことを真剣に望んでいます」

「人というのは、そんなに上とか下とか、前とか後ろとかで決められるものではないんです。それぞれの人には物語があり、その物語の中で生きている。それが人を救うんです。僕の書きたいのはそういう物語。明るい物語ではないけれど、ある暗さの中で共振するものを見いだすことで、救われるような物語です」
「僕の考える総合小説はいろんな人のいろんな視線があって、いろんな物語があって、それが総合的な1つの場を作ってる小説です。そのためには三人称にならないと書けないですね」。

作品の重要なポイント「それは『恐怖』です。手応えはある。僕の重要な作品になるような気がする」


「1Q84」はやはりオウム真理教取材での1つのアンサーなんだろうな、と。
もしくはQ(問いかけ)?

こうしてみても、やはり今までの作品を読み返してみたくなる、
村上ワールドに降りていきたくなる、
そんな、世界が変わってしまった200Q、6月。

※もう少し時間がたったら、ちゃんとしたレビューを書きたいと思います。
 今は空気を集めて糸を取りだしている状態。

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200Q年の村上春樹マイブーム

2009-06-09 | 
並べてみると『1Q84』の装丁はよいですね。好きだ。

『1Q84』で確かに確実になにかのスイッチが入ってしまったらしく、
200Q年・村上春樹マイブーム到来のようです。
ントに我ながらこのはまり体質は感動すらする(自己憐愍的に)。
長年連れ添ってても、仕組みがよくわからん。
ひょっとしたらリトル・ピープルが7人ほど来てるのかもしれない。
・・・ま、いいか。

思い立ってあちこちにバラバラにある春樹本を朝から(仕事が超忙しいのに)
さくっと整理(整理??;;))してたら、
ゼッタイあるはずなのに見当たらない本
(ピンボール含め一部は息子の部屋にあると思われ)
と同時に「あ、これ持ってたのか~」もあってちょっと新鮮♪&お得気分w

読んでない本はゲットしなくちゃ、だなぁ。


今更ながらWiki、サンクス!
最初に集大成が出てきてくれるので、あっとー的に便利である。

今確認したら長編・中編・短編集では、『街と、その不確かな壁』のみが
未読(って、失敗作扱いのうえどこにも未収録なのか;うーむ;;)。
『1Q84』につながる作品として、『約束された場所で』も読まなくちゃ。

・・・今問題なのは、友人に貸したまま数十年帰ってこない『アンダーグラウンド』
(個人的には好きなノンフィクションです)と
さっさと手放したいくつかの本(クロニクル含め)を買い直すかどうかである。
ブックオフにあったらとりあえず連れて帰ってこようかなぁ。
ダメだったらまた手放せばいいだけだし<オイオイ

でもって、今は『ノルウェイの森』を読んでます。
うんうん、こういう話だった<オイオイ

いつもながら、はまり対象が変わると、今までのブームが一気に
色褪せるのは困った傾向だ、と思ふ。
本日、50冊近くブックオフ行き決定。(あとで反省するかも、ですが

・・・毎月数十冊単位で増え続けるビジネス本とか雑誌とか、
マジ処置に困るけど、必要になればまた買えばいいか、と思うようになるのも
またブックオフ&ヤフオクの功罪っすかね。
ビジネス本は足が早いしね(ナマモノか?
コメント (2)
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村上春樹★1Q84 感想

2009-06-04 | 
過去記事:
村上春樹★1Q84
村上春樹★1Q84 読書メモ
村上春樹★1Q84 読書メモ 2

まず、大きな私的感想として、この作品は嫌いではない。
けれど、現時点では好きでもない。
すぐに判断できない、それは今までの村上作品とは違うかもしれない(私にとって)
いろんな意味でかなり興味深い作品であることは確か。

読書終了直後に感じたこと:
行動せよ、強く求め、それを得よ

時間をおいてもう一度読んでみる予定ですが、
以下、現時点での超私的雑感。(物語の概要ではありません)

以下、ネタばれまくりですので
読書中、もしくはこれから読まれる予定の方で
ストーリーを知りたくない方は避けていただくほうがよいです。



●すべての小説は空気さなぎだということ。作者は物語をつむぎ、自分のドウタ(分身、影、観念)を生み出し、読者は物語を受け取り、やはり自分のドウタを生み出す。パシヴァとレシヴァ。それは一種の生殖のない性行為のような関係でもある。
●ある時点で小説家もまたレシヴァであり、なにか(誰か)をパシヴァとして物語を受け取る。
●小説はウイルスのようにメッセージを世界にばらまき、小説家はそうしたウイルスの保菌者であり、うまくすれば世界を変える力を持っている。
●選び取る、ということ。そして選びとる本人が世界に含まれているということ。
 世界が本人を選び取るのか、本人が世界を選び取るのか、その意味するところは同じだ。
●どちらが主体かが問題なのではなく、受け取ったのが自分であることが世界を成立させ、それを自分の物語として引き受けることが、自分を生き続けさせる。
●自分が信じさえすれば、どんなものであれそれが現実世界だということ。たとえ月が2つ出ていても、それがペーパームーンであっても。フィクションであっても。
●そしてそこには変化があり、一度変化したらその前には戻れないということ。
●自分にとって絶対的に大切ななにかを持つこと。

可能性Q:
●『1Q84』全体を天吾の書いた物語としても読める。

全体構成は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』にも似ている(そしてやはり秀逸だと思う)けれど、一歩進んで、というか、全く別設定というか“ワンダーランドもまた現実だ”という描かれ方をしていて、寓意ではなく「リアル」と向きあってる感が強い(そして出口はない)。
失われた母や恋人は『海辺のカフカ』にも続いていくし、
リトルピープルは『TVピープル』的だし(こうして考えると、私は作品集として『TVピープル』が苦手だったのだけど、そのスイッチングの理由がなんとなく腑に落ちた。・・・気がする。)、『めくらやなぎと眠る女』にも通じるニュアンスがあるし、
父との再会エピソード(実はこれがある意味一番印象的だったりする)はどことなく『どこであれそれが見つかりそうな場所で』を思い起こさせるし、
犯されなければならない巫女は『加納クレタ』から引き続いてるし、
読みきれない&行き違う「強い思い」は『ノルウェイの森』だし、
そしてベースは『100%の女の子』だし、
村上作品の図書館を彷徨ってるような印象。(図書館員は羊男で)
最終的には作者と読者の『自分探し』バリエーション。とも言いきれたり。(生きること、と同じ重みづけで)

かくかように自分との接点を探してしまう作家は、私にとっては
村上春樹しかおらず、そういう意味で
「あぁ、村上春樹を読んでいる」というある種の満足感は強い。

ただ、この本が初・春樹・体験な読者もいるわけで、
私としてはそういう読み方をしてみたい、と願ってしまった。
(“自分”という雑音がうるさいので;)

要素が多く、また放置されているけど、主旋律があるので
それを追っている限りは気にならない。
破綻もまた世界、な感じ。

意外だったのはカルト集団の扱い方。
それがメインテーマだと思ったけど、偏執狂的な人々そのものより
彼らを汚染させる「リトルピープル」的ななにかが「悪」なのであって
汚染された人そのものは悪くない(たとえ行為は悪でも本人だけのせいではない、というべきか)、という感じを受けた。
弱さみたいなもの、それは悪ではない、というか。
そして、たとえばそれはシホンシュギに汚染されている人々も同様に。
まぁ、勝手な解釈ですが。
はじめはそれが主旋律だと思ってたので、そのあたりの追い込みは
「え?」という部分も残しつつ。

あとやっぱり一部の性的表現は不必要感も感じつつ。
(生み出すという行為はSEXに通じていくのだろうか。
いずれにしても村上春樹の作品はある意味非常にマッチョだ。
私からすると男性感覚に満ちている。(性差別ではなく性分担的に

所詮、読書は個人的体験でしかなく、
1人1人が1人1人「村上春樹」と交わるものでしかないのだ、と思いつつ。
(読むという行為もまたSEXに通じていくのかもしれない、よくわからない。
や、遺伝子の結びつき=確かにコミュニケーションのベースとはいえますが。

今はとりあえずここまで。
熟成するか、そのままの感想で留まるか、それはまた次の機会に。


参考:
1Q84(池田信夫 blog)

『1973年のピンボール』が好きなone of読者の感想として
なんかコンパクトにうまくまとまってるのでリンク。
(感想そのものはかなり違いますが)

古典的な「純文学」とか、「国民的作家」とかって
なかなか難しい記号だ。
「国民的作家」の事例が不明なままではありますが、例えば夏目漱石だとしたら、そうした文豪登場の条件には時代性(「戦前」「高度成長期」等なperiodな意味で)や人口構成も大きいと思いつつ(読書人数の経験累積も含めつつ)。
今や誰でも自称・ネット作家になれる時代、
「国民的」かどうかがその時点での読者人数で決まるのなら、ある意味村上春樹は今一番ホットな「国民的作家」かもしれません。
・・・タレント本のほうがより「国民的」かもしれないけど。

村上春樹が日本の現代文学をどう見てるかは、『1Q84』に明快かな、と。

いずれにしても、個人の感想は自由だし、
読書体験って、読者が作品に
いつ・どこで・どう出会うかがすごく重要だとも改めて思うわけで。
(課題図書なんてものではない限り・・・いや課題図書という出会い方
も「あり」ですね、多分)

村上春樹中毒者のためのインターネット情報源

関連:
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コメント (15)
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