過去記事:
村上春樹★1Q84
村上春樹★1Q84 読書メモ
村上春樹★1Q84 読書メモ 2
まず、大きな私的感想として、この作品は嫌いではない。
けれど、現時点では好きでもない。
すぐに判断できない、それは今までの村上作品とは違うかもしれない(私にとって)
いろんな意味でかなり興味深い作品であることは確か。
読書終了直後に感じたこと:
行動せよ、強く求め、それを得よ
時間をおいてもう一度読んでみる予定ですが、
以下、現時点での超私的雑感。(物語の概要ではありません)
以下、ネタばれまくりですので
読書中、もしくはこれから読まれる予定の方で
ストーリーを知りたくない方は避けていただくほうがよいです。
●すべての小説は空気さなぎだということ。作者は物語をつむぎ、自分のドウタ(分身、影、観念)を生み出し、読者は物語を受け取り、やはり自分のドウタを生み出す。パシヴァとレシヴァ。それは一種の生殖のない性行為のような関係でもある。
●ある時点で小説家もまたレシヴァであり、なにか(誰か)をパシヴァとして物語を受け取る。
●小説はウイルスのようにメッセージを世界にばらまき、小説家はそうしたウイルスの保菌者であり、うまくすれば世界を変える力を持っている。
●選び取る、ということ。そして選びとる本人が世界に含まれているということ。
世界が本人を選び取るのか、本人が世界を選び取るのか、その意味するところは同じだ。
●どちらが主体かが問題なのではなく、受け取ったのが自分であることが世界を成立させ、それを自分の物語として引き受けることが、自分を生き続けさせる。
●自分が信じさえすれば、どんなものであれそれが現実世界だということ。たとえ月が2つ出ていても、それがペーパームーンであっても。フィクションであっても。
●そしてそこには変化があり、一度変化したらその前には戻れないということ。
●自分にとって絶対的に大切ななにかを持つこと。
可能性Q:
●『1Q84』全体を天吾の書いた物語としても読める。
全体構成は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』にも似ている(そしてやはり秀逸だと思う)けれど、一歩進んで、というか、全く別設定というか“ワンダーランドもまた現実だ”という描かれ方をしていて、寓意ではなく「リアル」と向きあってる感が強い(そして出口はない)。
失われた母や恋人は『海辺のカフカ』にも続いていくし、
リトルピープルは『TVピープル』的だし(こうして考えると、私は作品集として『TVピープル』が苦手だったのだけど、そのスイッチングの理由がなんとなく腑に落ちた。・・・気がする。)、『めくらやなぎと眠る女』にも通じるニュアンスがあるし、
父との再会エピソード(実はこれがある意味一番印象的だったりする)はどことなく『どこであれそれが見つかりそうな場所で』を思い起こさせるし、
犯されなければならない巫女は『加納クレタ』から引き続いてるし、
読みきれない&行き違う「強い思い」は『ノルウェイの森』だし、
そしてベースは『100%の女の子』だし、
村上作品の図書館を彷徨ってるような印象。(図書館員は羊男で)
最終的には作者と読者の『自分探し』バリエーション。とも言いきれたり。(生きること、と同じ重みづけで)
かくかように自分との接点を探してしまう作家は、私にとっては
村上春樹しかおらず、そういう意味で
「あぁ、村上春樹を読んでいる」というある種の満足感は強い。
ただ、この本が初・春樹・体験な読者もいるわけで、
私としてはそういう読み方をしてみたい、と願ってしまった。
(“自分”という雑音がうるさいので;)
要素が多く、また放置されているけど、主旋律があるので
それを追っている限りは気にならない。
破綻もまた世界、な感じ。
意外だったのはカルト集団の扱い方。
それがメインテーマだと思ったけど、偏執狂的な人々そのものより
彼らを汚染させる「リトルピープル」的ななにかが「悪」なのであって
汚染された人そのものは悪くない(たとえ行為は悪でも本人だけのせいではない、というべきか)、という感じを受けた。
弱さみたいなもの、それは悪ではない、というか。
そして、たとえばそれはシホンシュギに汚染されている人々も同様に。
まぁ、勝手な解釈ですが。
はじめはそれが主旋律だと思ってたので、そのあたりの追い込みは
「え?」という部分も残しつつ。
あとやっぱり一部の性的表現は不必要感も感じつつ。
(生み出すという行為はSEXに通じていくのだろうか。
いずれにしても村上春樹の作品はある意味非常にマッチョだ。
私からすると男性感覚に満ちている。(性差別ではなく性分担的に
所詮、読書は個人的体験でしかなく、
1人1人が1人1人「村上春樹」と交わるものでしかないのだ、と思いつつ。
(読むという行為もまたSEXに通じていくのかもしれない、よくわからない。
や、遺伝子の結びつき=確かにコミュニケーションのベースとはいえますが。
今はとりあえずここまで。
熟成するか、そのままの感想で留まるか、それはまた次の機会に。
参考:
1Q84(池田信夫 blog)
『1973年のピンボール』が好きなone of読者の感想として
なんかコンパクトにうまくまとまってるのでリンク。
(感想そのものはかなり違いますが)
古典的な「純文学」とか、「国民的作家」とかって
なかなか難しい記号だ。
「国民的作家」の事例が不明なままではありますが、例えば夏目漱石だとしたら、そうした文豪登場の条件には時代性(「戦前」「高度成長期」等なperiodな意味で)や人口構成も大きいと思いつつ(読書人数の経験累積も含めつつ)。
今や誰でも自称・ネット作家になれる時代、
「国民的」かどうかがその時点での読者人数で決まるのなら、ある意味村上春樹は今一番ホットな「国民的作家」かもしれません。
・・・タレント本のほうがより「国民的」かもしれないけど。
村上春樹が日本の現代文学をどう見てるかは、『1Q84』に明快かな、と。
いずれにしても、個人の感想は自由だし、
読書体験って、読者が作品に
いつ・どこで・どう出会うかがすごく重要だとも改めて思うわけで。
(課題図書なんてものではない限り・・・いや課題図書という出会い方
も「あり」ですね、多分)
村上春樹中毒者のためのインターネット情報源
関連:
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