ショートシナリオの館

ボケに抵抗するため、日常生活の中から思いつくままに書いています。月2回・月曜日の投稿を目指します。

環境破壊で甦った、大正時代の竹内農場西洋館

2019-07-22 07:42:56 | 日記


先日、「旧竹内農場西洋館がきれいになっている」との小さな囲み記事と写真が目に飛び込ん
できました。年に1回程度の頻度で歩く散歩道にある建物のことです。

10年近く前のことです。新しい散歩ルートを開拓中に偶然に廃屋となっていた赤レンガの西洋
館を見つけた時は、衝撃的な発見で今でも鮮明に覚えています。
一般の人は通らないうっそうとした広大な林の脇道を、探検のつもりでどこかにたどり着くの
だろうと、気楽な気持ちで奥に歩いていくと、網で囲われて中は樹木や雑草そして竹藪で覆わ
れた敷地に、しょうしゃな赤レンガ壁の西洋館の建物がチラチラと見えたのです。広い敷地を
囲う網に沿って歩きながら、全体像が見える場所を探しました。
見えたのは、おそらく1世紀近くの年月が流れ、昔はモダンだったはずの西洋館が、床が抜け
屋根は朽ち落ち見る影もなく、御影石の土台と赤レンガの壁面を残すだけの廃屋となった廃墟
でした。
古さを象徴するように空洞となった館の真ん中から、屋根が朽ちた後に育った樹木が太く、大
きく育っていました。古いだけ、ただの廃屋だけの廃墟ならここに書き記しませんが、目の前
の赤レンガ壁は一見して、当時の色彩がそのまま残されていると思いました。かなり高級なレ
ンガが使われていたのでしょう。そして、遠くから見ても意匠の素晴らしさが分かりました。
この西洋館の赤レンガ壁は関東大震災や東日本大震災に耐えて、今もここに建っています。こ
れは遺構として価値があると思いました。私は地元に住みながら、この廃墟の存在を発見当時
まで知らなかったのです。

私はその記事に触発されて、久し振りにこの西洋館の廃墟に行ってみることにしました。行っ
てみて驚きました。あのうっそうと広がった林が見事に伐採されて、広大な敷地を占有する太
陽光パネル畑(メガソーラー)となり、想像することもできなかった遠くの家並みが見通せた
のです。
林の環境は完全に破壊されました。衝撃的な悲しい気持ちを抑えて、太陽光パネルの脇道を通
り、更に前に進むと、見覚えのある西洋館の敷地を囲む網が見えてきて、「まだ残っている」
とホッとしました。
そこで再びの驚きです。近づくと西洋館の敷地内が本当にきれいに整備されていたのです。敷
地内は立ち入り禁止ですが、敷地内の雑草、樹木そして竹藪が刈り取られ、廃墟の中もきれい
になっています。瞬間に、1世紀前にここに住んでいた人たちの、日常の生活が目の前で繰り
広げられている姿が浮かびました。私はきれいに整備されたことで甦った西洋館の建物と敷地
をゆっくりと観察しました。

帰宅した私はこの何十年の間、全く手が付けられず、草ぼうぼうの廃屋が、なぜここに来て整
備されるようになったのかとその理由を調べました。すると、「平成26年(2015)の暮れに、
西洋館の敷地が、創設者の竹内家のものから、太陽光発電業者に名義が変わってしまいました。
それを受けて龍ケ崎市は急遽、保存調査のために、太陽光発電業者から、その土地を3年契約
で借り受けて、施設工事をストップさせています。市の調査のため、敷地の藪は刈り取られ、
廃屋となった西洋館は再び人々の前に姿を現し、俄かに注目を集めております。」との保存に
立ち上がったNPO法人の記事が見つかりました。そして、市の施設を使ったパネル展の開催や、
市とNPO法人が共同でこの西洋館の見学会も行われており、その見学会の様子の映像もありま
した。そうなのです、この建物の敷地はすでに太陽光施設の業者に買い取られており、慌てた
市が急遽、保存調査のために、太陽光発電業者から、その土地を3年契約で借り受けて、施設
工事をストップさせていたのです。見学会を行ったことで敷地内が整地され、きれいになって
いることが納得できました。

この西洋館は文化財の指定を受けているわけでもないので、民間の所有地にある廃墟の扱いな
のですね。借地権が切れたらここはどうなるのでしょうか。今のままなら間違いなく、潰され
て太陽光パネル畑になってしまうのでしょう。この建物に使われているレンガは東京駅に使わ
れたものと同じだそうです。そしてレンガ造りの西洋館は鉄筋コンクリート造りに変わった建
築方式への移行により、あの時代が最後であり、将来にわたっても赤レンガの西洋館が建造さ
れることはないでしょう。現在NPO団体が保存に動いているようだが、どうなるのであろうか。

私としてはこの建物の復元保存を願うと共に、史跡として、文化財としての価値を市民にアピ
ールし、保存運動の大きなネットワークを創生したいと考えているNPO法人に協力していきた
いと思っております。

<旧竹内農場西洋館とは>
大正時代、蛇沼の沼畔に小松製作所の創業者であり、日産(ダットサン)の創業者の一人でも
ある竹内明太郎(1860-1928)が経営していた竹内農場がありました。そして農場主の住居とし
て建てられたモダンな赤レンガの西洋館は竹内農場のシンボル的存在で東京から有力な政財界
人を招いたといいます。竹内明太郎の弟である吉田茂(戦後の総理大臣)も訪れたという記録
も残っています。この西洋館に、戦前から住まわれた家族は、昭和27年(1952)頃に家を購
入して引っ越しされたとのこと。おそらく西洋館にとって最後の居住者だと考えます。
しかし、手入れはされていたようで昭和60年頃まで、屋根があったという証言がありますので、
屋根が落下し、床が抜けた現在の姿になったのはそれ以降と考えられます。
そして、その敷地はまるで西洋館の存在を隠すがごとく藪が覆い、半世紀以上が経過し、人々
の記憶の中からも消えていきました。

<西洋館の構造>
西洋館は地下を有する一部2階建てで、周囲に約80ヘクタールの竹内農場を開設し、北茨城
市にあった無煙炭鉱の従業員の食糧を賄う付属農園として経営したそうです。
レンガというのは時間が経っても、鮮やか且つ美しさが褪せません。異なるサイズのレンガが
交互に積まれていることからイギリス積みと推測されており、意匠も凝っています。使用され
ているレンガは、渋沢栄一が埼玉県深谷市に設立した日本煉瓦製造で作られた、東京駅丸の内
駅舎にも使用されていた物と同様だそうです。
レンガ造りの建物は思わず見入ってしまう魅力がありますね。

あんな場所に農場だけでなく牧場もあったなんて驚きです。あの廃屋となった西洋館が単なる
大正時代の遺構としてだけでなく、市民に活用されて残されることを願っています。

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