昭和20年、ボクが国民学校(現在の小学校)2年生になったとき、担任の先生が手榴弾を見せてくれた。
手榴弾は野球ボールほどの大きさで縦横に筋が入っている黒い鉄の塊りに見えた。
敵が上陸してきた所があるので、子供たちも敵兵へ手榴弾を投げて戦っているということであった。
たぶん沖縄のことだろうが、2年生のボクたちには地理的なことや、戦場の様子などは知るよしもなかった。
学校へ行く途中に、軍隊が訓練をしている広場があった。
そこは蒸気機関車の石炭の燃えカスを捨てて平らにならされ、野球場ぐらいの広さがあった。
ボクたちは学校の帰りに、ここを通り抜けながら軍事訓練を見ていた。
ある朝、ボクたちは広場に手榴弾が落ちているのを見つけた。
先生が見せてくれた黒い鉄ではなく、白っぽい色をした陶器のようであった。
蓋を外すと中から白い粉が出てきた。
友達はそれを半分ほど地面にまき散らした。
その日の授業が終わるとボクは急いで帰り、手榴弾を拾ってズボンのポケットに入れた。
先生から教わったようにボクたちも手榴弾で戦わなければならないときが来ると感じていたためかも知れない。
手榴弾はずっしりと重かった。
重い手榴弾は歩くにつれ負担になってきた。
そして、一人の兵隊にばったり出会ったとき、ポケットの中を検査されたらどうしようかと不安になった。
兵隊が通り過ぎたあとにボクは手榴弾をそっとドブに捨てた。
先日このことを思い出して、あの手榴弾は陶製だから練習用の模擬手榴弾ではないかと考えた。
それで、手榴弾についてネットで調べ、記憶にあるものと似ている陶製の手榴弾をみつけた。
敗戦の色が濃くなり金属が手に入らなくなったとき、鉄の代わりに陶製の手榴弾を造ったとの記述を見つけた。
陶製の手榴弾を造ったが、鉄製に比べ殺傷力は弱かったそうである。当然のことではないか。
ボクが拾った手榴弾は本物か練習用なのかについて検討してみた。その結果、信管を外した本物であることが分かった。
信管が外されていなかったら、あの朝、ボクたちは吹き飛ばされていたであろう。
大日本帝国は家庭の鍋釜をも供出させて武器を造ってきた。
それでも金属が不足すると、「土」で手榴弾を造って戦争を続けたのか。
数知れぬ国民を犠牲にして。
ボクが拾ったものに似ている陶製の手榴弾(右側)
URL元
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%BC%8F%E9%99%B6%E8%A3%BD%E6%89%8B%E6%A6%B4%E5%BC%BE