夢職で 高貴高齢者の 叫び

          

砕氷船亜庭丸で疎開  *ボクの見た戦中戦後(18)

2014年01月19日 | ボクの見た戦中戦後

 

昭和20年7月末の夜、ボク(7歳)は父と姉(11歳)妹(3歳)の4人で青函連絡船に乗り、疎開しようとしていた。灯火管制で埠頭は真っ暗であった。乗船を待つ建物の中で船員が高い所に上がり、メガホンで何か叫んでいる影が闇のなかに見えた。子供の「オカアサン、オカアサン」と泣き叫ぶ声と「ココデスヨ、ココデスヨ」と母親の声。混雑のため母子は離ればなれになってしまったが、だれも手助け出来ない。ボクは父から離れたら、あの子のようになってしまうと、父の洋服にぎっしりとしがみついていた。父は妹を背負っていた。

実は退職後に調べて分かったことだが、連絡船12隻は米機の爆撃で全滅していたのだ。それで、稚内樺太間の連絡船、亜庭丸を臨時の連絡船とし、二日で青森函館間を往復していたのだ。亜庭丸は砕氷船の機能をもった貨客船であった。

8隻沈没、2隻大破炎上、2隻航行不能、死者352人という被害がありながらも秘密にされ、国民には知らされていなかった。新聞では「被害状況は目下調査中なるも極めて軽微の見込みなり」と報道されたにすぎない。(朝日新聞縮冊版参考)

ボクの父は当時、函館鉄道管理局に勤務していたから、国鉄管理下の連絡船の状況については細かに知る立場にあったはずだが、子供たちには知らせていなかった。他の乗客はこのことを全く知らずに港へきたのだろう。前日から出航を待ち続けた人もいたことだろう。

亜庭丸出航の時刻に合わせて、父は夜になってから子供たちを連れて港へ来たのだ。暗闇の中を歩いて船室へ入った。船室は畳を敷いてあるだけである。ここで大勢の人たちが雑魚寝をするのだ。ボクは疲れたのかすぐ眠ってしまったようだ。翌朝、青森へ着いた。デッキへ出ると、上の方の船室(1等船室・2等船室)から兵隊が出てきた。兵隊が降りてから、一般客が船を降りた。

そして、青森駅前で恐ろしい光景を目にした。駅前には半分焼けた家が一軒ぽつんとあるだけで、一面焼け野原なのだ。半焼した家の前で男が一人、ぼんやりと立っているだけで、他に人影は一人も見えなかった。

秋田行きの汽車に乗った。超満員である。線路沿いの田んぼの稲の中に、丸い穴がところどころにあった。大人たちは「焼夷弾だ。焼夷弾のあとだ」と騒ぎ出した。汽車の窓からは点々と続く焼夷弾の穴が見えた。

父は子供たちを秋田の親戚へあずけた。ボクのすぐ下の妹(5歳)は6月に疎開していたから、子供4人が親戚の家で暮らすことになり、北海道には父母と末の妹(2歳)と弟(5か月)の4人が住むことになった。たぶん、函館の街も空襲で全滅する恐れがあったから、子供4人だけでも助かればと思い、疎開させたのだろう。

父は再び亜庭丸で函館へ向かった。この船も数日後の8月10日、青森湾で米機の攻撃を受け、沈没した。今もなお沈んだままになっている。

 

《青函連絡船が攻撃され沈没していく様子》

(アメリカ軍が撮影した動画です 1945 Strafing Japanese Ships 

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 https://www.youtube.com/watch?v=yg2TxeoHNqk

 

 

《青森空襲》

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http://blog.livedoor.jp/shihobe505/archives/2014-05-11.html