市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

目で見たもの どっちがほんとうなのだろう

2013-06-19 | 日常

 赤江大橋から目を射る一列の輝く照明は、宮崎空港の空港ビルにとりつけられた投光照明であったと確認できた。一昨日は、日中30度ほどの猛暑であったが、日が落ちると、午後8時過ぎには、涼しい風が吹き出してきた。投光照明の正体もわかったし、今夜は、幽霊の正体みたりという気分を味わおうと、大橋に出てきた。照明は、橋上に出ると、20メートルほどでぎらぎらとした光の並びが一直線に並ぶのが目を射た。

 それにしてもこの輝き、現場で光っているのに比べて、なんばいも輝きを増しているのだろう。それにその大きさも、そしてその直線のならんだ行列の長さ、どうみても、前夜に見た空港ビルの壁面に収まっているようなものではなかった。これは目の錯覚なのだろうと、街灯風の照明を確認しながら歩いた。黄色味をおびる照明は、赤江大橋から見えてくる、あらゆる光のどれよりも明るいのだ。あの黄色の光線のせいであろう。それにしても大きい。大きいのは満月が出てくるときに天空にあるときの何倍も大きくなるのと同じ理屈であろうと思った。

 あの空港の金網に手をかけて眺めたときは、はるかに輝きは弱弱しかった。それに、目の高さくらいの位置にしかなかった。それが高いポールの上の街灯に見えるのは、どういうわけなのだろうか。なぜ、この位置からは地上からそびえるポールの上にみえるのだろうか。その街灯風の並びをあらためて見ながら、歩き、停まり、全体を眺める。なぜ、これほど、橋の上からは、一キロ近くも直線になっているのだろうか。空港ビルは長くても200メートルくらいではないか。300メートルほど前方の川岸にそって7、8階建てのマンションが蛍光灯の外灯を光らして、建っている。直線にならんだ照明は、その2個の照明の間にこのマンションの一棟を楽に挟んでいる。ということは、マンションが小さく見えるから、比較して照明が大きく見えるのだろうか。これも錯覚か。そのとき、はっと気づいたのは、マンションが遠方で小さくみえるのなら、空港ビルはもっと小さく見えるはずではないかということだった。照明だけがなぜ、拡大しているのだ。さらに目の先に2キロほどはなれたところに橘橋がある。その外灯は、線香のあわい光のようにかぼそい。1キロさきの大淀橋のものでも、輝いてはいるが、小さい。同じ距離にある空港ビルの照明が、なぜその何倍も大きく輝くのだ。目の錯覚だけでは、説明が聞かない。

 この照明については、説明が不可能になってきた。となると、結論は、空港ビルの照明ではないということだ。じゃあ、その夜、ぼくは何をみたのだろうか。別の照明をみたのか。この照明は、まだべつのところにあったのか。結局それを確かめるしかない、こうしてあらたな疑問が出てきだした。これじゃ眠れそうも無いと、ウォーキングを終わった。

 翌朝、土曜日、幸い臨時休業となったので、午前10時半ごろ、双眼鏡を持って、(この手のひらにはいる倍率8倍のニコン双眼鏡)赤江大橋から、あの照明の正体をたしかめようとしたのだ。だが、双眼鏡では、見えないのだった。空港のビルさへ視界に入らない。たぶん、もう30年前ごろ登山を毎週のようにしていたころのもので、長時間ほっといていたため、視界もにごり、レンズもカビが生えて解像力は低下しているせいかもしれない。そこで、ふたたび、照明を求めて空港に自転車をはしらせていった。今回は、前夜とは別の西から細い農道風な道路をぬけ、ダイキン工場横から、エコア工場にいたり、例の鉄条網についた。みると、ありました、8メートルほどのポールの天辺に左右に並んだ4個の投光灯がついていたのが、それは空港ビルについているのでなく、ポールで、11個が並んでいた。その間隔はおよそ100メートルであった。これであったのだ。だが、それなら、ぼくのみたものはなんだったのか。そこで、疑問がまたわいてきた。

 日曜日の夜、ふたたび、ぼくの見たであろう空港ビルの照明をたしかめるために空港に向かう。いったい何を見たのかと、鉄条網の前に近づくと、はじめて、同じ照明を見ていたのがわかった。実は空港ビルの輪郭は、見えなかったのだ。ビルの1階と2階の並んだ窓の灯りだけが、実は見えていたのだ。建物は、この窓の灯りのほかは暗闇の中に消えていた。空中に光っている投光照明はそこで、見えない空港ビルに設置されたように見えたのであったわけである。つまりビルの輪郭は見えないが、ビルの全体が見えていると錯覚した。投光照明のポールは、ポールをみることができず、ビルに設置されているように見た。あるべきものが見えず、存在しないものが、存在してみえていたのだ。

 それから、ふたたび、ぼくは、その夜、橋上からあの外灯風に堂々と夜の闇にならぶ照明を見るために歩き出した。なぜ、外灯が、たかだかと道路上高く並んだ街灯にみえるのかを確かめた。わかったのは投光照明部分しか実は見えないのだが、つまりそれは、バイパスの有料道路の土手の上にわずかに出ている部分だけが見えていたのだが、道路の土手の部分と、その手前の平野や住宅は全部、暗闇に溶けてしまっていたので、その暗闇が空間になり、照明は、空中に高く輝くように見えていたのだ。おまけにそれはあるはずもないポール支柱の上だとみえたのであった。つまり見たというが、自分で想像していたのだ。つまり客観的存在は、いとも簡単に夜の闇によって、消滅し、かわって思い込みや既成概念による存在に変じてしまうことを、あらためて実感できたのである。かんがえてみると、この錯覚の必然に起きることはじつに恐ろしいことである。

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