市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

目を信じない その2

2013-06-14 | 日常

 真っ暗闇をランプで足元を照らしながら進んでいくと、小川があり、橋に突き当たった。そこから左のほうに住宅が寄り集まって団地のようになっている。そこは10年ほど前に次男夫婦が格安の一戸建てがみつかったと借りていたことがあった。畑も30坪くらいついていて、閑散とした一軒屋であった。村でもなく新しい住宅地であったが、コンビニと美容室があるばかりの侘しい住宅街であった。2年ほどして、二人はいわゆる団地の家を建てて引っ越した。かれらのあとを借りた若い夫婦は、まもなく畑にマリワナを栽培していたとして、逮捕された。この住宅街を過ぎると、200メートルして、ふたたび、道路脇に家が並びはじめる。家といっても住居ではなかった。

 住居ではなくて、工場、倉庫、事務所などの広がりである。樹木一本もなく、道路も構内もセメントの舗装で草も生えていない。人の気配もない。薄暗がりの中で、建物の看板を判じながら、ここは工場、ここは事務所、ときにはオーナーの住居があるが、日常生活の気配はまったくない。犬もいないし、猫が一匹だけ道路に出ていた。腰を下ろして、手をさしだすと、さっと逃げ去った。
ぼくの日常とかろうじてつながっているのは、看板から推察できる建物の内容であったが、それさへも、ほとんどわからなかった。ただ一つ、「奈良鐵工」をみたとき、あの工場は、ここに移ったのかと、懐かしかった。城か崎の通りにあって、昭和30年代、40年代と、ここのオーナーであったか息子さんだったかしらないが、資産家として大分貢献して、宮崎市文化協会の事務局長なども引き受けた人だったが、その後、消息も絶え、工場もなくなっていたのだ。こういう場所でその名をしるとは、驚いた。

「液化石油ガス製造」という赤い文字だけの看板などもあったが、ただの大きな倉庫のような建物で、製造しているとは、想像できなかった。いや製造するとしても何を製造品としているのか、つかめない。電話番号も会社名もない。ここにあるだけである。ダイキン工場もあった。さすがに門柱があり広い構内に数台の車も駐車していたが、人の気配はまったく無かった。ダイキンといえば空調の一流企業だが、ここでなにをしているのだろうか。そういえば、この一帯の入り口にはダイハツがあり、ムーブ、ミラなどの車名が4種類ほど書かれていたが、整備工場にも、車販売所にも事務所にもみえなく、なにをしているのだろうかと、その門内をうかがったが、これも不明。隣は巨大な倉庫があった。番号で区切ってある入り口が17番から30番まであるのだが、「菓子入庫」とあった。どんな菓子がこの巨大な倉庫に収められているのだろうか。17番以前の番号はなく、こんどは1番から14番まで、やや小さい数字で書かれて入り口がならんでいた。「雑貨庫」と表示されていて、この番号は右の「菓子入庫」の番号とは関係ないようだ。両者の間には、シャッターのしまった部屋が3部屋ならんでいた。雑貨のほうは、どうして「雑貨入庫」としないのだろうか。ここも謎だ。宮崎畜産というのがあった。かすかに「豚舎」の匂いが当たりに漂うが、それにどどどという音も聞こえてくる。どこでなにをしているのか見当もつかない。そんな建物の並びに組合もあり、個人の事務所兼住宅もありで、すべてが、ばらばらで、関連もなく、闇のなかに孤独に立ち並んでいる。だが、その一つに「宮崎高等技術専門校」とあった。誰もいない。侘しすぎる。こうして、横に入ったり、引返したりして、とうとう道も尽きるところで「エコア」という看板で、鉄条網の塀があって、行き止まりになっていた。

 その鉄条網の向こうが宮崎空港であった。真正面に空港ビルが建っていた。屋上がデッキ,2階部分が送迎ロビーか、横に長いが、およそ200メートルほどだ。その建物に探していた照明がついていたのだ。これか、これだったのかと、唖然として光る照明の列を眺めるのだが、あの赤江大橋からみるのと、とても同じ照明とはおもえなかった。まずか細く小さい。なによりも、目のやや下に見える。ビルにつけられて、到着した飛行機周りを明かす投光照明器であった。こんな当たり前のどうということはない、景観であった。それは、ぼくの見る橋上の照明のイメージを、容赦なくぶち砕くのであった

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