「俺のこと(あたしのこと)を愛せ、とにかく愛せ。何も考えなくてもよい愛してくれ」と言われたらどうだろう。あるいは「あなたのこと(お前のこと)を愛している。とにかく愛してる」と言われたらどうだろう。暑苦しいと思う。僕ならば、僕のことを考えて理解して欲しい。相手のことを考えて理解したい。
「愛」という言葉にはいろいろな意味がある。私たちが最初に思い浮かべるのは異性間(同性間でも構わない)での恋愛感情だろう。一般に肯定的な感情のように幻想されているが、ちょっとした拍子に憎しみに変わったりするので、それほど安定した感情ではない。
「愛」が肯定的な方に引き寄せられるのは、キリスト教の「愛」の影響だろう。辞書には「神が、みずからを犠牲にして、人間をあまねく限りなくいつくしむこと」とある。「あまねく、限りなく」というところがポイントだろう。何か特定のものに限定しないということだ。一方、仏教で「愛」というのは、盲目的な執着のことである。相手のことを考えも理解もせず、とにかく愛する、ということだ。
で、「愛国心」である。多くの人が知っていると思うが、安倍政権が行おうとしている憲法変更には「愛国心」的な要素が入っている。この「愛国心」という言葉はなかなか厄介だ。それは「愛」という言葉の持っている両義性のせいかもしれない。
「愛国心」という言葉に肯定的な印象を受ける人は、「自分が生まれた土地、伝統、文化などを大切に思う心」というふうに考えているのだろう。否定的な印象を受ける人は、「個人よりも国家を大切に思う心。国家に忠誠を誓う心」というふうに考えているのではないか。だとすれば、賛成している人と反対している人では、1つの言葉に対して、それぞれべつの意味を見て、それぞれ感情的な反応をしていることになる。
「愛国心」を英語で表すなら、「patriotism」か「nationalism」となる。前者は「郷土愛」のようなもの、後者は「国家主義的」なもの、という説明をよく聞く。どうも「patriotism」は土地、伝統、文化などを愛する方に近そうだし、「nationalism」は国家への忠誠に近そうな気がする。やはり両義性がある。これは人々を混乱させるだろう。どうやら誤解を招きやすい「愛国心」という言葉は避けた方がよさそうだ。
「愛国心」をキリスト教的な「愛」の文脈においても、仏教的な「愛」の文脈においても話はすっきりしない。キリスト教の文脈に置けば、愛のポイントは「あまねく、限りなく」である。だとすれば、愛国心とは「自国」のみを愛するのではなく、「すべての国」をあまねく愛さねばならないことになる。(そういえば、現行憲法の前文に「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて」というくだりがある。)また、仏教的な文脈に置けば、盲目的執着の対象に「国」がくることになる。これは国を危うくする。やはり、国に対して「愛」という言葉を使うことに無理があるのだ。
ではどうするか。僕は誰もが「国を考え理解する」ことが大切だと思う。もちろんその中心は「自国」だ。つまり「日本を考え、理解すること」がもっとも大切だ。そのためには、まず世界中の「国」に共通するものを理解することも必要だ。その上で「日本」という国について考え、理解する。私たちに必要なのは国について考える力、「考国力」のようなものだ。
キリスト教的な「愛」であらゆる国をあまねく限りなく「愛」するというなら、ある種の平和主義的で悪くはない。しかしそれでは現実の国家間のやりとりの熾烈さに対応できまい。だからと言って仏教的な「愛」で国民みんなが盲目的に執着したら一億総玉砕みたいな危ういことになる。恋愛感情で国を「愛」する?そんなこと可能なのか?
日本は自分の国です。きちんと「国」を考えて、理解しましょう。選挙というのはそのための良い機会です。よく考えて選挙に行こう。
「愛」という言葉にはいろいろな意味がある。私たちが最初に思い浮かべるのは異性間(同性間でも構わない)での恋愛感情だろう。一般に肯定的な感情のように幻想されているが、ちょっとした拍子に憎しみに変わったりするので、それほど安定した感情ではない。
「愛」が肯定的な方に引き寄せられるのは、キリスト教の「愛」の影響だろう。辞書には「神が、みずからを犠牲にして、人間をあまねく限りなくいつくしむこと」とある。「あまねく、限りなく」というところがポイントだろう。何か特定のものに限定しないということだ。一方、仏教で「愛」というのは、盲目的な執着のことである。相手のことを考えも理解もせず、とにかく愛する、ということだ。
で、「愛国心」である。多くの人が知っていると思うが、安倍政権が行おうとしている憲法変更には「愛国心」的な要素が入っている。この「愛国心」という言葉はなかなか厄介だ。それは「愛」という言葉の持っている両義性のせいかもしれない。
「愛国心」という言葉に肯定的な印象を受ける人は、「自分が生まれた土地、伝統、文化などを大切に思う心」というふうに考えているのだろう。否定的な印象を受ける人は、「個人よりも国家を大切に思う心。国家に忠誠を誓う心」というふうに考えているのではないか。だとすれば、賛成している人と反対している人では、1つの言葉に対して、それぞれべつの意味を見て、それぞれ感情的な反応をしていることになる。
「愛国心」を英語で表すなら、「patriotism」か「nationalism」となる。前者は「郷土愛」のようなもの、後者は「国家主義的」なもの、という説明をよく聞く。どうも「patriotism」は土地、伝統、文化などを愛する方に近そうだし、「nationalism」は国家への忠誠に近そうな気がする。やはり両義性がある。これは人々を混乱させるだろう。どうやら誤解を招きやすい「愛国心」という言葉は避けた方がよさそうだ。
「愛国心」をキリスト教的な「愛」の文脈においても、仏教的な「愛」の文脈においても話はすっきりしない。キリスト教の文脈に置けば、愛のポイントは「あまねく、限りなく」である。だとすれば、愛国心とは「自国」のみを愛するのではなく、「すべての国」をあまねく愛さねばならないことになる。(そういえば、現行憲法の前文に「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて」というくだりがある。)また、仏教的な文脈に置けば、盲目的執着の対象に「国」がくることになる。これは国を危うくする。やはり、国に対して「愛」という言葉を使うことに無理があるのだ。
ではどうするか。僕は誰もが「国を考え理解する」ことが大切だと思う。もちろんその中心は「自国」だ。つまり「日本を考え、理解すること」がもっとも大切だ。そのためには、まず世界中の「国」に共通するものを理解することも必要だ。その上で「日本」という国について考え、理解する。私たちに必要なのは国について考える力、「考国力」のようなものだ。
キリスト教的な「愛」であらゆる国をあまねく限りなく「愛」するというなら、ある種の平和主義的で悪くはない。しかしそれでは現実の国家間のやりとりの熾烈さに対応できまい。だからと言って仏教的な「愛」で国民みんなが盲目的に執着したら一億総玉砕みたいな危ういことになる。恋愛感情で国を「愛」する?そんなこと可能なのか?
日本は自分の国です。きちんと「国」を考えて、理解しましょう。選挙というのはそのための良い機会です。よく考えて選挙に行こう。