とんびの視点

まとはづれなことばかり

「大むかで競走」と「組体操」

2016年06月08日 | 雑文
6月が1週間が過ぎた。東京も梅雨に入り、汗かきには苦手な季節となった。
梅雨に入る少し前、先週の土曜日、中学校の運動会を見に行った。
長男は今年から高校、次男は小学6年生なので、自分の子ども運動会ではない。
小学校のPTA会長として見に行ったのだ。

中学校の運動会は見ていて面白い。
小学校の運動会は見ていてある種のほほえましさを感じるのだが、
中学校の運動会となると、生徒たちの真剣さが前面に出ていて手に汗握る感じがある。

そんな中でも僕が一番好きなのは、3年生がクラス対抗で行う「大むかで競争」だ。
クラスが男子と女子の2チームに分かれ、それぞれが大縄に足をつなぎむかでを作る。
最初に女子がグラウンドを一周し、男子にたすきをわたし、男子が一周して順位を決める。

先頭の生徒が大縄を両手に持ち、全員が前の生徒の両肩に手を乗せて、ひとつのむかでになる。
そして「ま~え、うしろ、いち、に」とみんなで大きな声をだす。
「いち、に」「いち、に」と声に合わせて足並みをそろえる。
どのクラスもスタートでは足並みはそろう。でも前に進むうちに、歩幅の違いや、
リズムのちょっとしたズレから足並みが乱れてくる。

ある部分では縄がたるみ、ある部分では縄が張り、むかでがストップする。
場合によっては、みんなが転んでしまうこともある。
他のクラスが順調に進んでいるのを気にしながら、なんとか体勢立て直す。
そしてもう一度、「ま~え、うしろ、いち、に」と声と出して、前に進む。

リードしているチームは少しでもリードを広げようと、
遅れているチームは少しでも順位を上げようと、
はやる気持ちをおさえながら歩みを進める。
みんなで声と足並みを合わせながら、チームが必死に一つになろうとする。

毎回のことだが、素直に感動する。
あれは、長男が中学2年の時だから、一昨年の運動会だ。

あるクラスの女子がコケてしまい、その後もうまく立て直せなくなった。
他のクラスが次々に男子にたすきを渡しても、まだグラウンドの半分しか進んでいない。
彼女らがたすきを渡すころには、他のクラスの男子も次々とゴールしようとしている。

たすきを受けた男子たちは、たった一匹のむかででグラウンドを一周した。
最下位が決まっていても、競う相手がいなくても、レースをやめるわけにはいかない。
気を抜くわけにもいかない。そんなことをすれば、足並みがみだれ、むかでは崩れてしまう。

「ま~え、うしろ、いち、に」「いち、に」「いち、に」。生徒たちは大きな声で、真剣に全力で歩む。
勝ち負けはもう関係ない。自分たちが力を合わせて、一つのことをきちんとやり遂げようとする。
そんな気持ちがグラウンド全体に伝わる。他の生徒たちも、保護者達も彼らを見守っている。

たまらず、同じクラスの女子たちが男子たちの方に駆け寄る。
本来ならばルール違反なのだろう。でも、それを止める人はいない。
「いち、に」「いち、に」の掛け声でゴールを目指す男子たちを女子たちが囲む。
そして、一緒に声を出しながら、横を歩いていく。
涙を流しながら応援している女の子もいる。そしてクラスみんなでゴールをする。
最下位だが、どのクラスよりもひとつになっていた。

とても感動的だった。今年はそれほどのドラマはなかったが、それでも心が動いた。
次男も3年後には同じように大むかで競争をすることになる。どんなドラマが待っているのか。

中学の運動会で同じくらい感動的なのが「組体操」だが、
僕はどうしても組体操を見ながら、感動している自分に対して自制を求めてしまう。
「無邪気に感動するな」と。

今年は事故の影響で組体操は中止になり、代わりに体操をすることになった。
組体操のような大掛かりな感動はないが、それでもあれだけの人数の生徒たちが、
みんなで気持ちを合わせながら、一つのことを成しとげようとする姿は無条件で心に響く。
今年も見ながら、何度も心が動かされた。

でも、動かされながら、どこかで動かされるなと自分に言い聞かせていた。
理由は簡単だ。あの手の集団行動が地続きで軍隊的なものにつながるからだ。

みんなが力を合わせて一つのことを達成しようとしてるという意味では、
「大むかで競争」も「組体操」も同じだ。
それなのになぜ、大むかでは無条件で感動できて、組体操には感動を自制するのか。
この違和感は何なのだろう。ちょっと考えてみた。

わかった。組体操には段上で指示を出す人がいるから嫌なのだ。
大むかでは、それに参加している人間たちだけで成り立っている。
誰もが一つのことを達成しようと、等しく汗をかきながら、心をひとつにしようとする。
みんなが、みんなに声をかけている。

しかし、組体操は違う。現場には参加しない人間からの指示に従って、みんなが動く。
それが受け入れられないのだ。だから感動しつつ、それを自制してしまう。
でも、受け入れられないというのは、組体操そのものではない。
受け入れられないのは、僕自身の中にあるある種の欲望だ。

組体操はすばらしい、そんな組体操をやらせるべく指示を出す側になりたい。
自分の指示ひとつで人々が思い通りに動くようにしたい、
そういう欲望が僕の中にはわずであるがあるのだろう。

そしておそらく、そういう欲望は多くの人が共有するところだろう。
自分は指示を出す側に回って、人々を思い通りに動かしたい。
それは権力欲であり、支配欲である。これは危険だ。

僕が神のような正しさのみを備えているならば、そういう欲望も悪くはあるまい。
残念ながら、僕は自分では正しいと思いながら、間違ったことをする人間だ。
そういう人間は権力欲や支配欲は持たぬほうが良いに決まっている。
組体操は僕の中のそういう欲望に火をつけかねない。
他の人の欲望にも火をつけてしまうかもしれない。

無邪気に感動して、その欲望に気づけなくなることが僕は嫌なのだ。
だから、組体操に違和感があったのだ。
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