とんびの視点

まとはづれなことばかり

『阿武隈共和国独立宣言』と『電通と原発報道』

2012年11月29日 | 雑文
『阿武隈共和国独立宣言』(村雲司・現代書館)と『電通と原発報道』(本間龍・亜紀書房)の2冊の本を読んだ。意図して同時に読んだのではないが、どちらもフクシマ原発事故を受けて書かれた本だ。結果的には相乗効果があったと言える。

『阿武隈共和国独立宣言』は、直接的にフクシマ原発事故を題材にした小説だ。大飯原発再稼働や首相官邸前抗議行動の様子なども話の中に出てくる。官邸前には僕もときどき行くので、その意味では現実と小説が奇妙に地続きなったようなふしぎな感じがする。(現在進行形のフクシマがテーマであることも現実と小説を地続きにしている)。

放射能に汚染された南相馬郡阿武隈村の人たちが、汚染された故郷を「阿武隈共和国」として日本から独立させるという話しだ。短めの小説なので大きな物語にはなっていないが、読んだあとで現実のフクシマを考えさせるくらいの力は持っている。

故郷を捨てるくらいなら日本国を捨てたい。可能であればそうしたい。言葉には出来ずにそういう思いを抱えている人たちはけっこういるのではないか。故郷と日本国が2つの選択肢となるような状況になって来たのかもしれない。かつては日本国と故郷は大きな袋の中の小さな袋のような関係であった。どちらを取っても重なる部分があった。それが2つに分裂し出したのだ。

前に、沖縄と日本の関係について書いた。「沖縄と日本」という言い方こそ、「沖縄」と「日本」が2つの別ものであることを現しているのではないか、と。この小説の「阿武隈共和国」と「日本国」も似たようなものだ。私たちがフクシマを忘れるほど、「フクシマ」と「日本国」は分かれていくだろう。フクシマ絡みの報道は時とともに減るだろう。東日本大震災という形で周年的に取り上げるようになるだろう。しかしその一方で、こういう小説はこれからどんどん出てきそうだ。

仮にメディアがフクシマのことを報道しつづければ、私たちもフクシマのことを常に考えることだろう。焼き肉屋の直中毒事件などでしつこく報道できるメディアなのだから、やろうと思えばやれるはずだ。なぜやらないか。そのあたりが『電通と原発報道』という本を読むと分かってくる。

電通がメディアをコントロールして原発報道をさせない。その内幕を暴いた本。そんな内容を想像してしまうが、そうではない。電通と博報堂(著者は元博報堂社員)を使って広告代理店の仕事を丁寧に説明したものだ。しかし読んでみると、確かにメディアが原発報道をしない理由が分かってくる。

メディアは広告代理店の気持ちを忖度する、広告代理店はクライアント企業の意向のために全力で働く。クライアント企業は自社に不利益な報道はなるべく抑えたい。そういうシステムがしっかりでき上がっているのだ。だから多額の広告料を出す企業に関するネガティブな報道は消えていったり、扱いが小さくなったり、曖昧な表現になったりする。

そして電通からすれば東電はまさに上クライアントなのだ。年間200億以上の広告費をかけてくれる。(もちろんそれは私たちの電気代から出てものだ)。東電のために全力で働くことになる。原発事故以前には、安全神話を作るために努力した。東電をキー局、ローカル局の夕方のニュース番組のスポンサーにし、恒常的に巨額の広告費を払うことで、原発のネガティブ情報を流しにくい空気を作り出す。反原発発言をする知識人をチェックしてメディアに圧力をかける。などなど。

東電と電通とメディア。それは誰かが計画的に作ったと言うより、時間とともに自己増殖的に成長した1つのシステムだ。それゆえ、原発事故があったからと言って、掌を返すように方針が変わることはない。(そもそも明確な方針などない。みんな一生懸命自分の仕事をしていたにすぎない)。もちろん、事故後も東電としてみれば、自社に不利益な情報は出して欲しいとは思わないだろう。電通としても事故の見通しが立たないうちに東電を邪険には出来ない。(事故が簡単に収束すれば、今後も多額の広告費を出してくれる)。メディアも同じだ。

事故後しばらくの間、テレビや新聞など大手メディアがまともな原発報道を行なえなかった理由が、この本を読んでひとつわかった感じがした。そしてそれは現在でもあまり変わっていないのかもしれない。だからこそフクシマのことを忘れがちになってしまうのだ。

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