とんびの視点

まとはづれなことばかり

「米原」発、原子かむら。

2018年02月18日 | 雑文
時が経つのが早い。時が経つのが早い。あっという間に1週間過ぎいているし、2月もすでに半分が終った。とにかくここのところ忙しい。忙しいから、立ち止まって考える時間がない。何の考えもないまま、これを書こうとしている。

それでも、書こうと思えるのは、冬休みに集中的にランニングをしたおかげだ。効果はいまだに続き、今月もすでに100kmを走った。きちんと走っているときは、生活も上手く回る。だから、とりあえず書こうという気持ちにはなる。むむむ、まずはどうでもよいことを書こう。

新聞で「原子力ムラ」という見出しを見るたびに「原子カムラ(かむら)」と読めてしまう。同時に木村カエラとスチャダラパーが歌うアニメ『メジャー』の主題歌が流れる。ちょっとだけ鉄腕アトムとも繋がっているような、そんな気配もある。同じことは「米原発」にも当てはまる。「東芝、米原発…」などの見出しを見ると、「東芝、まいばら発」と読めてしまう。同時に線路とホームと電車の映像が目に浮かぶ。東芝さんが米原から旅立つのだ。

くだらない話しだ。どこにもつにがらなそうだ。でも、強引につなげる。どこに。人は縛られた存在だというところに。「原子力ムラ」が「原子かむら」に、「米原発」が「米原、発」と自動変換されるように、人は縛られているものだ。(人に一般化してよいのか?単なる個人的な問題ではないのか?)

たとえば「答え」は「問い」に縛られている。「お姫さまら送ったバラの花はいくらでしょう?」に「3500円とか「35ドル」と答えるのはよい。「ちょっと高いよ」というのもぎりぎりセーフかもしれない。でも「7メートル」とか「日馬富士」と答えるのはダメ。意図的に外してその場を寒からしめることはできるが、それでまじめに答えたつもりなら何らかの検査が必要になるだろう。(国会で突然「日教組、日教組」と言うのはご愛嬌。)

このところ先進各国で社会の分断が進んでいる。基本的には右翼的なものと左翼的なものの分断だ。日本も同様。新聞で言えば産経新聞的なものと朝日新聞的なものの分断と言えばよいのか。意見の違いがあるのは当然だが、そのことが分断とイコールになるようではまずいと思う。(右翼と保守は違うし、左翼とリベラルも違う。このあたりが日本社会で広まるとよい。)

「愛国か、反日か」という言葉がある。うすぼんやりしていると、あっという間に分断図式に縛られる。人は「反日」か「愛国」かのどちらかに分けられる。「愛国」でなければ「反日」、「反日」でなければ「愛国」と。これは危険だ。社会の分断を加速するだろう。日本の現状に反する態度は、国を愛していない反日的なものとされるからだ。日本のことを考えて現状批判することも「反日」であり、「愛国心」がないと言われる可能性がある。

「愛国か、反日か」という言葉のペアはよくないと思う。間違った縛りが発生する。たとえば「愛国」「非愛国」と「親政権」「反政権」の組み合わせで考えた方がよいと思う。そうすれば、「日本を愛していて、現政権を支持する」「日本を愛しているけど、現政権には反対」「日本を愛していないが、現政権を支持する」「日本を愛していないし、現政権も支持しない」と4つの枠が出来る。

そうすれば、日本を愛している人同士であれば、政権への態度が違っても、対話の可能性がでてくる。政権を維持することが大事な人は、国を愛することは脇においてさまざまな駆け引きをすることができる。少なくとも、単細胞的な敵対関係による分断は起りにくくなるかもしれない。

分断図式で見ていると、外国を誤解することにもなる。「愛国か、反日か」を「愛国か、反北朝鮮か」に置き換えてみればよい。北朝鮮に住む人は、おそらく自分たちが生まれ、育ち、生活している国を愛する気持ちはあるだろう。ただ、そのことは必ずしも現体制を支持することには繋がらない。自国を愛しながら、その時の政権に反対の姿勢を取ることはありうるし、あったほうがよいのだ。

「愛国か、反日か」と分断図式で迫ることは、国を愛することは今の政権を批判しないこと、というメッセージを迫ることだ。それをすると、かえって日本を愛せなくなる人間が出てきてしまうのではないか。自分が生まれ、育ち、生活している場所を愛せないというのは、あまり幸せなことはではない。(もちろん、その場所でつらい経験をした人もたくさんいるだろう。水俣も福島も沖縄もそうかもしれない。)

分断がないことは、全員が同じ意見や態度でいることではない。異なる意見や態度の人たちが、同じ時にひとつの場所で共存できるということだ。分断が起らないような社会を生み出せる縛りをもった言葉、そんな言葉をみんなで探していくことが必要なのだろう。

話しは変わるけど、ニュースでは国会の報道がほとんどないようだ。オリンピックの方が大切らしい。国会(自分たちの税金の使われ方や自分たちを縛る法律を決めること)よりも、オリンピックのことをみんなが知っている社会。人は知らないことは考えられない。ニュースやメディアが何を報じ、何を報じないか、それもひとつの縛りなのだ。
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