今日は15kmランニング。1つの書き方として。11月最初のラン。今月の目標も200km。しかし週末の予定も多く達成は厳しい。ヒザの調子を見ながら一度の距離を伸ばすつもり。月の後半にはハーフを走りたい。距離とは別にスピードの練習もある程度必要だ。今日はヒザも無事、悪くないスタート。
別の書き方。久しぶりの15kmラン。土手まで走り、土手を上流に。岩淵水門を抜け、新荒川大橋の下を通り、京浜東北線の鉄橋をくぐる。人が少なく北風が吹く。秋の風の音は春とは違う。乾いた空気が乾いた草花を揺らす音だ。そこに自分の足音が重なる。1年前も同じようなことを感じた気がする。
さらに。午前中に詰め込めるだけのものを頭に詰め込み、ランニングに。走ることで、意識によって捕まえられた言葉が、ランニングのリズムに合わせ無意識へと落ちていく。その過程で濾過や濃縮や取捨選択が行われる。すっとした気持ちが家に帰る。次は無意識を言葉にする作業だ。それが僕のランニング。
沖縄で米兵が住居侵入したらしい。関係者がコメントしてるが、森本防衛相は「事実であればまったく許しがたい行為で、到底受け入れられない」と述べたそうな。この言い回しよく聞くが、よく考えると変だ。怒りを表現しているようで、出来事を自分とは関係の無いものとして拒絶しているように聞こえる。
言葉は多義的で、それを発する人や文脈によって意味が変わるものだ。「事実なんだからとりあえず受け入れようよ。それから考えるんだよ」という言葉が浮かぶ。日本政府の沖縄への姿勢を見ていると。
以前、沖縄絡みのテレビ番組で「沖縄と日本」という言葉を見た。(実際よく見聞する)。「東京と日本」とか「埼玉と日本」という言葉はあまり聞かないと思った。(ふつう「日本の東京」とかだ)。無自覚に使っている言葉は、案外、いろんなことを明らかにしてしまう。
やはり「沖縄」と「日本」なのだ。前提が異なる2つの項目で、けっして1つのものではないのだ。だから常に問題になるのは関係だ。強者からすればどう弱者をコントロールするかという。そういえば、歴史的にもずーっとそうであった。
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