今日は本格的な春を感じさせる1日だった。土手には枯れ草の中に青っぽいオオイヌノフグリの小さな花がたくさん咲いていたし、柳の枝も遠目にはぼわっとした黄緑色になっていた。そのぼわっとした黄緑が南からの風にゆらゆら揺れている。南風は花粉もたくさん運んでくる。春だ。
今夜は合気道の稽古があるので、7kmほど軽くジョギング。今月の目標も140km以上走ること。
『「なんとかする」子どもの貧困』(湯浅誠著、角川新書)を読んだ。「貧困」という言葉が巷間に流布するようになり久しい。子どものころにも(40年以上も前のことだ)、「貧乏」とか「貧しい」という言葉はあった。そういう家庭も存在した。しかし、いま使われている「貧困」という言葉は、かつての響きとは少し違う気がする。
著者によれば、「貧困」=「貧乏・貧しさ」+「孤立」だそうだ。つまり「貧乏・貧しさ」を抱えていても、社会や人とのつながりが保てていれば「貧困」ではない。(江戸末期に日本に来た外国人が見た日本の姿だ。)あるいは、「孤立」していても、ほとんどのことを「お金」で解決できる人は「貧困」ではない。
小泉政権のころから「ワーキング・プア」と「自己責任」という言葉が人口に膾炙するようになった。この2つは見事に「貧困」を生み出す構造を支える。「ワーキング・プア」とは、毎日まじめに働いていても十分な金銭的な収入を得られない状態だ。(本人の努力不足というよりも、ある労働制度が合法的に存在し、その結果、生じる現象だ。)そこに、自分に起ったことはすべて自分の責任である、自分で何とかしろ、という「自己責任」という言葉が重なる。
まじめに働いているけれども貧乏だ。でも、それは自分の責任で生じたことだから、人に相談したり、助けてもらうようなことではない。貧乏で孤立した状態ができ上がる。それが「貧困」である。
いまの日本社会は、まじめに働いても十分な収入が得られない、低賃金を合法的に支える制度と、何かあっても人に相談できない自己責任を内面化した人たちで成り立ってることになる。当然、そのような社会には問題が生じる。そのひとつが社会の分断である。貧富という格差による分断、左右という価値観による分断。そういう分断が少しずつ社会を蝕んでいく。(これは日本だけでなく、資本主義が行き詰まった先進諸国共通の問題だ。)
この本では、そういう分断を少しでも解消しようとする人たちの事例がいくつも紹介されている。自分のいる場所でできることをやっていく。決して大上段に構えない。トライ&エラーを繰り返しながら、少しずつ前に行く。そんな人たちの事例がいろいろと出てくる。
個人的に興味を引かれたのが、国立情報学研究所の新井紀子さんの話だ。新井さんは数学者で、社会共有知研究センター長だ。「ロボットは東大に入れるか(東ロボ)」プロジェクトで知られる人工知能(AI)の研究から、子どもたちの読解力テストに着手するようなった。(テストの結果は昨年の新聞などに
で、教科書を読解できていない中高生がかなりいる、という内容の記事になった。)
東ロボは、問題を解き、正解を出すことはできるが、問題を読んで理解してるのではない。現段階の人工知能にとって、文章の意味を理解することは不可能に近いらしい。では、どうやって正解を出しているのかというと、大量のデータの中から符合するキーワードやパターンを読み取り、最も確率の高いものを瞬時にはじき出しているそうだ。
たとえば、「アメリカは、1945年8月9日に(○○)に原子爆弾を投下した。それにより日本はポツダム宣言を受け入れることを決めた」とあれば、膨大なデータを検索し、そこから(長崎)と答えを導くことができる。これは、文章を読解して意味を理解しているのではなく、データの組み合わせの確率の高さから答えを導いているにすぎない。
というわけで、AIは英語や国語が苦手だそうだ。2015年度のセンター試験模試では、東ロボは5科目8教科全体の偏差値が58.7だったが、国語は45.1だったそうだ。
新井さんは、AIと同じように、勉強のできない子どもも読解ができてないのではないか、と問いを立てた。既知の知識というデータを探って、キーワードやパターンを見つけ出し、確率的に答えを言い当てる。それを無意識的に行っている。(いわゆる「勘」というヤツだ。)読解力のない子どもたちはそのように問題に向き合っているのではないか。
そうであれば、人間の持っているデータはとても少ないので、知識量を必要とする状況では通用しなくなる。(AIと同じやり方をしていたら、AIに取って代わられることになる。)だからといって、文章読解のやり方を知らない子どもに、「ちゃんと読め」と言っても通用しない。そもそも、文章読解のやり方を知らないのだから、ちゃんと読みようがない。きっと、勘を頼る読み方をより強化することになる。
そう考えれば、人間がAIに負けないため(仕事を奪われないため)には、あるいはAIと共存していくためには、パターン発見とデータ内での確率計算はAIに任せ、文章の意味を読解する力を身に付けることが必要となる。
そしてこの手の読解力は「貧困」な状態では身に付きにくい。読解力とはある程度の読書量が必要になるからだ。できれば読書は幼い頃からの方が良い。いわゆる「読み聞かせ」が入り口だ。「貧困」家庭は、幼い頃から子どもに「読み聞かせ」がをしにくい状況だ。親は収入確保のため、多くの時間を仕事に取られて、子どもに本を読み聞かせる時間的な余裕がない。その上、社会や他人とのつながりがない「孤立」状態が重なる。子どもに「読み聞かせ」をする人がいないのだ。
子どもは、文章を読解するという経験を持つことなく育つ。その場の雰囲気を察知して勘で判断するという処世術を身に付ける。その方法が文章を読むときにも活用される。しかしそれは読解力のない読み方である。データ量の著しく少ない、そして演算処理速度の遅い、AIのような読み方だ。当然、AIにはかなわない。(AIのディープラーニングの強みは膨大のデータ量によって確率が担保されていることになる。)
だから公教育には、文章を読みとける読解力を身に付けさせる義務がある。そうしないと、社会はさらに貧富の二極化が進む。二極化が進むということは、中間層がいなくなることだ。中間層がいなくなれば、民主主義も滅びる。民主主義とは分厚い中間層によって支えられた制度だからだ。
「貧困」というのは、当事者個人だけの問題ではない。自己責任だから放っておけとか、可哀想だから助けるということではない。社会のあり方と深く関係している。とくに「貧困」がある一定の数を超ると、社会に大きな影響が出てくるだろう。
社会の問題であれば、その問題は、その社会にすむ「私」の問題でもある。私の問題であれば私が多少のことをすることは当たり前だ。それは自分とは違う向こう側にいる他者をどうにかするという図式ではない。つまり、分断の図式ではない。同書にはそんな人たちの事例がたくさん出ていた。
(最後の方、時間切れ。話しを無理やり閉じました。次回、違う角度から書く予定。)
今夜は合気道の稽古があるので、7kmほど軽くジョギング。今月の目標も140km以上走ること。
『「なんとかする」子どもの貧困』(湯浅誠著、角川新書)を読んだ。「貧困」という言葉が巷間に流布するようになり久しい。子どものころにも(40年以上も前のことだ)、「貧乏」とか「貧しい」という言葉はあった。そういう家庭も存在した。しかし、いま使われている「貧困」という言葉は、かつての響きとは少し違う気がする。
著者によれば、「貧困」=「貧乏・貧しさ」+「孤立」だそうだ。つまり「貧乏・貧しさ」を抱えていても、社会や人とのつながりが保てていれば「貧困」ではない。(江戸末期に日本に来た外国人が見た日本の姿だ。)あるいは、「孤立」していても、ほとんどのことを「お金」で解決できる人は「貧困」ではない。
小泉政権のころから「ワーキング・プア」と「自己責任」という言葉が人口に膾炙するようになった。この2つは見事に「貧困」を生み出す構造を支える。「ワーキング・プア」とは、毎日まじめに働いていても十分な金銭的な収入を得られない状態だ。(本人の努力不足というよりも、ある労働制度が合法的に存在し、その結果、生じる現象だ。)そこに、自分に起ったことはすべて自分の責任である、自分で何とかしろ、という「自己責任」という言葉が重なる。
まじめに働いているけれども貧乏だ。でも、それは自分の責任で生じたことだから、人に相談したり、助けてもらうようなことではない。貧乏で孤立した状態ができ上がる。それが「貧困」である。
いまの日本社会は、まじめに働いても十分な収入が得られない、低賃金を合法的に支える制度と、何かあっても人に相談できない自己責任を内面化した人たちで成り立ってることになる。当然、そのような社会には問題が生じる。そのひとつが社会の分断である。貧富という格差による分断、左右という価値観による分断。そういう分断が少しずつ社会を蝕んでいく。(これは日本だけでなく、資本主義が行き詰まった先進諸国共通の問題だ。)
この本では、そういう分断を少しでも解消しようとする人たちの事例がいくつも紹介されている。自分のいる場所でできることをやっていく。決して大上段に構えない。トライ&エラーを繰り返しながら、少しずつ前に行く。そんな人たちの事例がいろいろと出てくる。
個人的に興味を引かれたのが、国立情報学研究所の新井紀子さんの話だ。新井さんは数学者で、社会共有知研究センター長だ。「ロボットは東大に入れるか(東ロボ)」プロジェクトで知られる人工知能(AI)の研究から、子どもたちの読解力テストに着手するようなった。(テストの結果は昨年の新聞などに
で、教科書を読解できていない中高生がかなりいる、という内容の記事になった。)
東ロボは、問題を解き、正解を出すことはできるが、問題を読んで理解してるのではない。現段階の人工知能にとって、文章の意味を理解することは不可能に近いらしい。では、どうやって正解を出しているのかというと、大量のデータの中から符合するキーワードやパターンを読み取り、最も確率の高いものを瞬時にはじき出しているそうだ。
たとえば、「アメリカは、1945年8月9日に(○○)に原子爆弾を投下した。それにより日本はポツダム宣言を受け入れることを決めた」とあれば、膨大なデータを検索し、そこから(長崎)と答えを導くことができる。これは、文章を読解して意味を理解しているのではなく、データの組み合わせの確率の高さから答えを導いているにすぎない。
というわけで、AIは英語や国語が苦手だそうだ。2015年度のセンター試験模試では、東ロボは5科目8教科全体の偏差値が58.7だったが、国語は45.1だったそうだ。
新井さんは、AIと同じように、勉強のできない子どもも読解ができてないのではないか、と問いを立てた。既知の知識というデータを探って、キーワードやパターンを見つけ出し、確率的に答えを言い当てる。それを無意識的に行っている。(いわゆる「勘」というヤツだ。)読解力のない子どもたちはそのように問題に向き合っているのではないか。
そうであれば、人間の持っているデータはとても少ないので、知識量を必要とする状況では通用しなくなる。(AIと同じやり方をしていたら、AIに取って代わられることになる。)だからといって、文章読解のやり方を知らない子どもに、「ちゃんと読め」と言っても通用しない。そもそも、文章読解のやり方を知らないのだから、ちゃんと読みようがない。きっと、勘を頼る読み方をより強化することになる。
そう考えれば、人間がAIに負けないため(仕事を奪われないため)には、あるいはAIと共存していくためには、パターン発見とデータ内での確率計算はAIに任せ、文章の意味を読解する力を身に付けることが必要となる。
そしてこの手の読解力は「貧困」な状態では身に付きにくい。読解力とはある程度の読書量が必要になるからだ。できれば読書は幼い頃からの方が良い。いわゆる「読み聞かせ」が入り口だ。「貧困」家庭は、幼い頃から子どもに「読み聞かせ」がをしにくい状況だ。親は収入確保のため、多くの時間を仕事に取られて、子どもに本を読み聞かせる時間的な余裕がない。その上、社会や他人とのつながりがない「孤立」状態が重なる。子どもに「読み聞かせ」をする人がいないのだ。
子どもは、文章を読解するという経験を持つことなく育つ。その場の雰囲気を察知して勘で判断するという処世術を身に付ける。その方法が文章を読むときにも活用される。しかしそれは読解力のない読み方である。データ量の著しく少ない、そして演算処理速度の遅い、AIのような読み方だ。当然、AIにはかなわない。(AIのディープラーニングの強みは膨大のデータ量によって確率が担保されていることになる。)
だから公教育には、文章を読みとける読解力を身に付けさせる義務がある。そうしないと、社会はさらに貧富の二極化が進む。二極化が進むということは、中間層がいなくなることだ。中間層がいなくなれば、民主主義も滅びる。民主主義とは分厚い中間層によって支えられた制度だからだ。
「貧困」というのは、当事者個人だけの問題ではない。自己責任だから放っておけとか、可哀想だから助けるということではない。社会のあり方と深く関係している。とくに「貧困」がある一定の数を超ると、社会に大きな影響が出てくるだろう。
社会の問題であれば、その問題は、その社会にすむ「私」の問題でもある。私の問題であれば私が多少のことをすることは当たり前だ。それは自分とは違う向こう側にいる他者をどうにかするという図式ではない。つまり、分断の図式ではない。同書にはそんな人たちの事例がたくさん出ていた。
(最後の方、時間切れ。話しを無理やり閉じました。次回、違う角度から書く予定。)
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