とんびの視点

まとはづれなことばかり

自由ではなく、自在に走る

2013年02月09日 | 雑文
2月になり少しは暖かくなったのかと思えば、また真冬のような寒さだ。窓から遠くに見える洗濯物が屋上で北風に揺れている。昨日も昼休みに荒川の土手までランニングに行った。家から土手まで2kmちょっと。土手に着くと、秒速10メートルを越える冷たい北風が吹き続けていた。時折、さらに強い突風が追い討ちをかける。桜の枝は揺れ、川面には白い波頭が立つ。

北に向かって走った。風が体を押し返す。ウィンドブレーカーが波打ちながら体に張り付く。顔が冷たい。手足の指先から熱が奪われていく。「ざーーっ」という風の音が吹き続ける。午後の仕事のことを考える。あまり体力を消耗するわけには行かない。13km走るつもりだったが、今日は短めにしようと思う。

ランナーたちの姿も少なかった。2人乗りをした自転車の高校生が、風に向かってまっすぐに走れないで騒いでいる。寒そうにした小型犬を寒そうにした老人が散歩させさている。そんなものを見ながら、フォームを意識しながら走る。骨盤の辺りと、重心の移動に意識を集中する。

1kmも走っただろうか。いつの間にか風が気にならなくなっていた。もちろん風の影響は受けている。体は流されるし、いつもに比べスピードも落ちている。でも苦痛を感じていない。うまく風と調和が取れている。ランニングの調子が良いときは、大抵、こういう感覚になる。そう、「自在」という言葉がふさわしいのかもしれない。

「自由自在」という言葉があるが、かつて「自由」と「自在」を分けて考えた。「自由」というのが、状況に縛られずに自分の思うままに行動することだとすれば、「自在」というのは、自らが置かれた状況で滞りなく振る舞えることだ、というところに落ち着いた。

「自由」を追い求めれば、自分の行動を阻害するものとの戦いが起きる。(だから「自由は勝ち取るもの」となるのかもしれない)。「自在」であるためには、そこでよりよい状態を引き起こすために、流されるのでもなく、逆らうのでもなく、状況と自分を調和させることが必要になる。北風が吹いているからいつものような走りが出来ない、と言う事なかれ。北風と調和が取れている走りが結果的にはもっとも良い「自在」な走りなのだ。

こういう調和のとれている感覚は大事にしている。たとえば、新聞の見出しを音読するということをほぼ毎日行なっている。竹内敏晴氏の本からヒントを得たのだが、声を出して新聞の見出しを読みながらその内容が自分に伝わっているかを確認する。音読というと、書いてある言葉を音として口から出す事になりやすい。読むことに気を奪われ、内容が入ってこない。そういう読み方だと、仮に相手がいても、音のみが伝わって内容は伝わらないだろう。まずは自分自身に伝わる声の出し方をしなければならない。やってみれば分かるが、自分に伝わるときには、ちゃんと「ぴたっとした感覚」がある。

何であれ、そういう「ぴたっとした感覚」を土台に物事を積み上げていくべきだろう。「ぴたっとした感覚」というのは、結局は世界と自分との調和の程度だ。すべてが「ぴたっと」していることなどないだろうが、その感覚があまりに少ないと、世界からリアリティーが失われていく。どんな思考や行動も、そういった感覚にもとづいて組み立てられているからだ。世界と調和の取れた感覚がないままに思考し行動すれば、それらはどんどんと世界とズレていくことになる。言い方を変えれば、世界とは自分が思うように行動できないような障害の多い場所となる。当然、そんな世界は打ち壊されるべきだし、それを打ち壊す人を恃むようになる。

「ぴたっとした感覚」を確認できないほど、今の日本社会は息苦しいものになっているのかもしれない。しかし本当は、1日5分の新聞の音読のようなものでも確認できる。何より、ここ数年、ランニングがブームになっているのは、そういう感覚を実感できるからではないかと思っている。特別な技術もいらない。1人でも出来る。走った分は距離や時間で計れ、それに合わせて達成感が味わえる。シンプルなのだ。

だから今日も土手まで走りに行く。昨日ほどではないが、今日も北風が吹いていそうだ。自分の身体の声や北風の声を聞き、それらとぴたっと調和し、自在に走れるようになるために。
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