とんびの視点

まとはづれなことばかり

『帰郷』と『亡国記』

2017年01月22日 | 読書
先日、予約していた本が届いたとのメールが図書館から来た。小雪の舞うなか、歩いて図書館まで行く。連絡メールでわかるのは、借りた本のタイトルが『帰郷』ということだ。「帰郷」?、まったく記憶がない。なぜ予約したのか、誰が書いた本なのか。おそらく、新聞の書評欄などで目に付いたのだろう。買うのもなんだから、とりあえず図書館で借りてみようと思ったのだろう。

原発事故か太平洋戦争に関係した本だろう。そう思って、リファレンスの人から本を受けとる。浅田次郎の本だった。「浅田次郎?」ピンと来ない。表紙は大きく「帰郷」とある。背景には白黒の写真。よく見ると、日本人の帰還兵が日本の町の中で敬礼をしている。なるほど「帰郷」だ。やはり戦争物だった。

冬休みにも同じように『亡国記』という本を借りた。手にしてみると、原発事故をテーマにした小説だ。大地震で浜岡原発が壊れ、放射能が日本中に広まり、日本が崩壊するという話だ。福島の事故の経験をベースにしているので、首相官邸前での原発再稼働反対の抗議行動などの描写などもある。過去の現実と将来の危険をうまく接合して、現在の社会で潜在化している現実を想像させようとしているのだろう。

福島の原発事故がなければ、こういう小説はなかっただろう。かりに書かれたとしても、まったくリアリティーがなかっただろう。原発事故で本州には人がほとんど住めなくなる。北海道はソ連に占領され、九州は中国に占領され、本州はアメリカの核関連の施設や廃棄場になる。多くの日本人が難民のように外国に避難したり、たんなる労働力として扱われたりする。日本の国土も壊滅し、政府もなくなり、日本人もなくなる。まさに亡国だ。

福島の事故がなければリアリティーがなかっただろう、と書いた。しかし正確に言うとそれは違う。福島の事故そのもののリアリティーが人によって違うからだ。僕などは震災当時も以後も東京で生活をしている。事故後、放射性物質を含んだ雨が何度か降ったが、直接的な影響はそのくらいだった。(食品などの問題は続いているけど)。だから、どちらかと言うと原発を巡る歴史的な経緯や制度などが気になり、本を読んだりしている。だから、多少は小説にリアリティーを感じる。

しかし、福島で実際に原発事故にあった人にとっては、この小説のリアリティーは僕とは違ったものになるだろう。福島での自分の生活が取り戻せないことを、主人公たちの流浪に重ねて考えるかもしれない。あるいは、この小説すら作り物のように感じるかもしれない。

「福島で原発事故があった」ことは知っているが、原発事故については何も知らず、何も考えていない人には、こういう小説は荒唐無稽な作り話に見えるかもしれない。福島の原発では何が起こっていたのか、なぜ事故が起こったのか、どんな危機がどんな幸運があったのか、事故はアンダーコントロールで、すでに終わってしまったことなのか。そんな言葉と出会わない人もたくさんいるだろう。そういう人は、この手の本の存在自体に気づかないかもしれない。

太平洋戦争も原発事故も過去の出来事だ。出来事は終わってしまったが、影響はいまだに続いている。それは本当に終わった出来事と言えるのだろうか。そもそも何かが終わったと知るためには、それがどんな出来事であったのか知らなければならない。太平洋戦争は「アメリカと日本の戦争」で、原発事故は「東日本大震災の時に福島で起こった原発の事故」である。これは単なる言葉でしかない。言葉を知っても中身を知ったことにならない。

沖縄の基地問題も日米同盟も現在の社会の大きな課題だ。これは明らかに太平洋戦争の影響である。福島では事故収束まであと40年かかり21兆円かかると言われている。社会や日本人にとってすごい負担になるだろう。でも、太平洋戦争や原発事故が何であるのか知らなければ、いま起こっている影響にもリアリティーは感じないだろう。それは将来のリアリティーのなさにつながる。

いろんな時、いろんな処で、何が起こったのか。何が起こってるのか。何が起きるのか。知らないことばかりだ。すごく気になる。




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