とんびの視点

まとはづれなことばかり

「愛国心」のむずかしさ

2015年02月09日 | 雑文
2月5日の東京新聞に『難しい心の評価 道徳「読む」から「考える」に』という記事があった。道徳の教科化にあたって指導要領が改定される。その案が公表された、というものだ。教科となれば評価をしなければならない。そして評価にあたっては明確な基準が必要となる。そこで問題となるのが「愛国心」となる。

「愛国心」という言葉はなかなか難しい。一方では、かつての戦前・戦中の軍国支配につながるという考えがある。その一方では、自分の住んでいる土地や制度について関心を持つのは当然だという考えがある。

改訂案を見てみる。たとえば小3、4年は「わが国や郷土の伝統と文化を大切にし、国や郷土を愛する心をもつ」とある。また中学校では「日本人としての自覚をもって国を愛し、国家および社会の形成者として、その発展に努める」とある。

小3、4年では前半の「わが国の郷土の伝統と文化をたいせつにし」という部分と、中学校では後半の「国家および社会の形成者として、その発展に努める」という部分はとくに問題はない。ただし、「国や郷土を『愛する心』をもつ」とか、「日本人としての自覚をもって『国を愛し』」という部分は危うい。

「愛」という言葉がもつ危ういからだ。日本に生まれ育ち、生活する人が、その郷土や国の制度について関心を持つのは良いことだ。その関心は、郷土や制度を維持しよう、あるいはより良くしようという肯定的な関心であるべきだ。僕はそう思っている。しかしその肯定的な関心に「愛」という言葉を当てようとは思わない。

「愛」という言葉はいっけん素晴らしい。しかしそれは観念的なレベルにおいてだ。現実の世界における「愛」はなかなか困難である。多くの日本人が「愛」という言葉を実感するのは、恋愛感情を持ったときだろう。恋愛感情は体験に先立つもので、たいていが観念的で美しいものとなってしまう。しかし経験を通して、恋愛の現実が観念とは異なることを知る。

このとき、自分の「愛」という観念を疑わず、相手にそれを押し付けようとするとき、「憎しみ」が生まれる。「愛憎劇」とはよく言ったもので、「愛」が簡単に「憎」に変わることを私たちは経験的に知っている。昨今のストーカー事件などでも、そこに「愛」が不在であったケースなどあるはずがない。

「それは本当の愛ではない」とか、「国を愛する心は別である」というかもしれない。なるほどその通りだろう。僕が「愛」という言葉を避けたほうが良いと思うのもまさにその点である。一つの言葉を巡って「本当の」とか「真実の」という言い方が出てくるような不安定な言葉を、評価が絡む教科には用いないほうが良いと思うのだ。

そんなことをすると、かえって「愛」という言葉の内容を恣意的に変えようとする人間が出てくる。自分が望んでいる態度を他の人が取ることが「愛の証明」となる。そうしない人間を憎みさえする。不要な愛憎劇を作り出すことになる。

自分が生まれ育ち、生活する土地や制度を肯定的に受け入れることは必要だ。それらを維持したり、より良くして次の世代にきちんと渡す。それが「保守」ということだ。そのためには「愛」という観念的で不安定な言葉を教科に持ち込むことはよくない。個人的な心情の表明に使えば良い。

僕としては「愛」という言葉を「きちんと考える」に変えれば良いと思う。小3、4年では「我が国の郷土と伝統と文化をたいせつにし、国や郷土をきちんと考える心をもつ」となり、中学校では「日本人としての自覚をもって国をきちんと考え、国家および社会の形成者として、その発展に努める」となる。

そのほうが、福島の汚染地域や、沖縄の辺野古などをはじめとする郷土や、憲法や法制度などの国の仕組みをきちんと考え、それを良くしようとする次世代の日本人をより多く育てることができるように思う。
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