とんびの視点

まとはづれなことばかり

『子どもの無縁社会』を読んで愚考

2012年03月02日 | 雑文
『ルポ 子どもの無縁社会』(石川結貴、中公新書ラクレ)を読んだ。何ヶ所か目に留まり、連想したことをメモ程度に書いておく。

1つ目は、2011年の「居所不明児童生徒」が1183人いること。「居所不明児童生徒」とは、住民票を残したまま1年以上所在不明になり、その後の就学が確認されない日本国籍を持つ子どものことだ。児童生徒の数も知らないし、この数字が他の国と比べたときにどのような意味をもつのかもわからない。しかし、同じくらいの子どもたちが学校に行くのをみながら、それとは違う日々を過ごしている子どもが1000人以上もいるのだ。その一人ひとりの目から社会はどんな風に見えているのだろうか。あまりよい世界ではないだろう。大人になったときにその世界に何をするのだろう。

2つ目は、子どもの「行旅死亡人」について。同書によれば、「行旅死亡人」とは、身元不明の死亡人、いわば無縁仏のことである。行旅病人及死亡人取扱法では、「住所、居所、もしくは氏名が知られず、かつ引き取り者なき死亡人は、行旅死亡人とみなす」と規定されている。この行旅死亡人の情報は官報に載せられている。

僕は、「行旅死亡人」という言葉を数年前にテレビ番組で知った。NHKスペシャルの『無縁社会』という番組だった。どちらかというと孤独な老人の方に焦点が当たっていた気がする。しかし同書によれば、子どもの行旅死亡人もいるのだそうだ。官報にはこんな風に掲載してあるらしい。

◆平成18年12月22日付
名前 本籍・住所・氏名不詳
年齢 10代前半
性別 女性
上記の者は、平成17年10月14日午後9時頃、岩沼市○○○の川で頭蓋骨で発見されました。死後10年程度、死亡場所及び死因は不明。(後略)

◆平成20年10月9日付
名前 本籍・住所・氏名不詳
年齢 嬰児
性別 女児
身長 48センチ
上記の者は、平成20年7月17日、仙台市○○○の公園内において、造園の剪定作業を行なっていた作業員が、ツツジの植え込み内に置かれた紙袋を発見し、臨場警察官が同袋内を確認した結果、ビニール袋にくるまれた嬰児死体であることが判明したもの。(後略)

◆平成21年11月9日付
名前 本籍・住所・氏名不詳
小児の顔面頭蓋、下顎骨を欠く。所持金品はなし。
上記の者は、平成21年5月8日午前11時、姫路市○○○約7.6キロメートル沖海底で発見されました。死亡推定日時は平成16年頃と推定され、死亡の原因は不明です。(後略)

何よりも子どもの行旅死亡人という存在に驚く。名前のない死だ。どう考えても自然死ということはないだろう。事故なのだろうか。場合によっては犯罪の被害者なのかもしれない。家族などから総督願は出ているのだろうか。居住不明児童生徒の1人が何らかの理由で命を落す。その死体を川や海に遺棄する。そんなことが起こっているのかもしれない。

実際、公園で発見された嬰児は捨てられた。生きているうちに捨てられたのか、死んでから捨てられたのかわからないが、いずれにせよ捨てられたのだ。当然、探す人などいないだろう。(ちなみに、2009年度に児童相談所が対応した「置き去り児童」は212人、「棄児」は25人。こうした対応に引っかからない子どもはどのくらいいるのだろう)。

3つ目は、「個人情報保護法」だ。虐待事件などの報道では児童相談所という言葉を目にする。事件によってはひどく叩かれたりしている。(マスコミは上手くいったケースはまず報道しない)。確かに、対応に不備のある児童相談所もあるだろう。しかし全体的には、少ない人数で頑張っているように思える。

その頑張りを邪魔する一因が「個人情報保護法」のように思える。例えば「あのマンションで子どもの泣き声がする、虐待のようだ」という連絡が入る。児童相談所の職員がマンションまで行く、オートロックで中に入れない。このマンションの住民の情報を管理会社に問い合わせる。個人情報保護法を理由に断られる。(マンションの住民がオートロックをあけたスキに建物に入ったりする。通報されれば犯罪である)。個人情報保護法という法律があるせいで、名称の印象とは反対に、虐待を受けつづける個人を作り出すようなことになる。

時おり、個人情報保護法のメリットは何だったのかと疑問に思う。保育園や学校での写真の名簿の扱いなど非常に気を遣っている。ある時処に人が集まれば自然と生まれるような繋がりも、手続きを踏まないと作れないような時がある。確かにそれは自由でしがらみがないかもしれない。しかし裏を返せば、人々がばらばらに分断されていることでもある。(統治者からすれば分断された個は御しやすいだろう)。一方、政治家や財界人などが自分を守るために個人情報保護法をたてにしている姿をよく目にする。なるほどこういうメリットを狙っていたのかと思ってしまう。

4つ目は、本の中に出ていた子育てよりもネットゲームを優先する母親の話。もともと実家で両親と同居。月10万程度のバイト代はすべてネットゲームに。ゲームで知り合った男性と結婚。そのまま夫も転がり込んでの同居。本人はそのままゲームを続ける。そして妊娠。出産。やがて子育てがゲームに支障をきたすので、同居の両親に子育てをおしつけ、ゲームに専念する。

僕が驚いたのは、子育てよりネットゲームを優先する理由だ。子どもは同居の両親や夫でも育てられるが、ネトゲのキャラクターを育てられるのは自分しかいない。そして、ネトゲの世界では、やればやるだけ、がんばればがんばるだけ成果が出るから、というものだ。内容としては破綻している。しかし思考形式(=考え方)だけをとり出せば次のようになる。

「Aは誰でもできるが、Bができるのは自分しかいないから、私はBを行なう。そしてBを行なう世界では、自分が努力すればするだけ報われる」。内容ほどの破綻は感じられない。だから同じ考え方で次のような内容を想像することもできる。「コンビニのレジなら誰でもできるが、原発の処理が出来るのは自分しかいない、だから私は原発の処理をする。そして原発処理においては、自分が努力すればするだけ、その成果がはっきり出る」。こちらは内容にも破綻はない。

別の話しに横滑りしそうなので戻す。僕が感じたのは、この主婦は現実の世界では努力が報われる実感を持てないのか、それは不幸なことだな、ということだ。確かに、高度成長期的な頑張れば報われる、というような世界ではなくなった。その意味では主婦の気持ちは分かる。しかし一方で、子育てができないのは彼女の未熟さだ。その親が未熟なだけ、子どもが「無縁」に近づくのだろう。

ここまで書いて言葉が降りてきた。

ゲームというのは人間が作ったものだ。だからいくらそれを極めようとも人間を超えられない。しかし子どもとは自然の摂理によって作られるものだ。だからそれを極めれば、人間を超えた何かを理解することができる。だから、自然の摂理にかなったものを極めることこそ、人間を超えることになる。
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