先日、『THE BEE』のイングリッシュバージョンを見た。(日本語バージョンのチケットは何度もトライしたが取れなかった)。水天宮ピットという250人くらい収容の小さな劇場だったので、役者がとても間近に観れた。出演は4人。野田秀樹とキャサリン・ハンターという名女優、あとは男性2人。(4人で8役ぐらいを演じる)。
筒井康隆の『毟りあい」という小説が原作、野田秀樹が戯曲を書いた芝居だ。何年か前にもイングリッシュバージョンと日本語バージョンで上演をしていて、僕はその時、日本語バージョンを見た。とても痛い芝居で、見たあとすごく消耗したことを記憶している。こんな筋の芝居だ。
主人公の普通のサラリーマン井戸(キャサリン・ハンター)が、息子の誕生日のプレゼントに電卓を買い帰宅すると、脱獄犯が妻と息子を人質に家に立てこもっている。脱獄犯はストリッパーの自分の妻と会うことを要求する。
井戸は妻子を救いたい気持ちから脱獄犯の妻を説得に行くが、邪険に扱われる。井戸は同行していた刑事から銃を奪い、脱獄犯の妻と息子を人質にとる。偶然にも脱獄犯の息子は井戸の息子と同い年で、誕生日も一緒。そこから、電話(と間に入る刑事)を通して井戸と脱獄犯の救いのないやり取りが始まる。
お互いに妻子を解放することを要求する。どちらもゆずらない。子どもの指を折る。暴力が電話越しにお互いに伝わる。エスカレートする。井戸は脱獄犯の息子の指を包丁で落とし封筒に入れる。ストリッパーの母親が封筒をなめて封をする。それを刑事に渡し、脱獄犯に届けさせる。刑事が脱獄犯からの返事を持ってくる。封筒には自分の息子の切り落とされた指が入っている。
井戸はすべてをあきらめ、受け入れた表情で頭をゆっくりと振る。そしてまた子どもの指を切り落とし、母親が封をなめて、刑事に渡す。刑事が返事を持ってくる。指の入った封筒だ。井戸が子どもを見る。子どもはいやがる。いとおしそうに子どもを抱きしめる。(誰が誰の子どもを抱きしめているのだろう?)。そしてまた指を切り落とす。母親が封をなめる。刑事が封筒を持っていき、また持ってくる。
子どもは自分から手を差し出す。切り落とし、封をなめ、刑事が封筒を持っていき、持ってくる。子どもの指を落そうとするが、子どもは息絶えている。今度は母親の指を切り落とす。母親は自分で封をなめ、それを刑事に渡す。母親も息絶える。井戸は自分が勝った、今度は自分の指を相手に送り付けてやる、という。そして蜂のうなりが高くなり、芝居は終わる。
とても痛い芝居だった。切り落とした指のやり取りが始まると、涙が出てきた。野田秀樹の芝居に痛みは付きものだが、どこかに(救いはないかもしれないが)逃げ道はある。でもこの芝居にはそれがない。徹底的に人間のどうしようもなさを見せつけられる。
指を切り落としてから、再び指を切り落とすまでの間、同じことが繰り返される。指を切り落とす。ストリッパーの女とセックス(ある意味でのレイプだ)をして眠る、朝起きる。洗面台で蛇口をひねり顔を洗う。三面鏡をひらく。鏡に向かって丁寧にヒゲを剃る。自分の容姿を確認する。きちんと背広を着る。そして食事をとる。そこで指が届く。また、指を切り落とし、セックスをして、眠る。プッチーニの「ハミングバード」の美しい静謐な音楽の中、セリフはなく、儀式のように同じ行為が繰り返される。
暴力と理性とセックスがひとつのサイクルとして日常を作り出している。静かにきちんと手順を辿るように繰り返される。そしてそれが繰り返される度に、事態は少しずつ悪い方へと向かっていく。最終的にそれを断ち切るのが「蜂」である。蜂のブーンッ、ブーーーンッ、という音が井戸の暴力と理性とセックスのサイクルに垂直に切り込む。井戸と脱獄犯がお互いを思い通りにしようと、暴力と理性と性を用いても変えられない状況を1匹の蜂が簡単に変えてしまう。
もちろん蜂のうなりは状況を解決はしない。しかし当事者に自覚を促し、状況を一時停止させることはできる。暴力と理性と性によって現実が悪化していくのは、この芝居に限ったことではない。私たちの世界は多かれ少なかれ、自分の好まない人間への攻撃性と、無自覚な欲にもとづく理性的な思考(策略)と、ちょっとした性的な倒錯によってなりたっている。(それらすべてが揃ったものが戦争だろう)。
芝居と同じように、私たちはそのサイクルに気づかずにある部分では事態を進めているかもしれない。暴力には暴力、策略には策略というように、カウンターとなる対抗手段を取ることは相手とぶつかることになしかならない。(そういえば、力に対して力で対抗してはダメだと合気道では言われる)。状況の自覚を促す「蜂」のようなうるさいうなりが必要なのかもしれない。
それとどこかで繋がっているのだろう。今日はこれから家族で日比谷公園に行く。震災被害者への追悼と反原発のデモに参加するためだ。この時期、ブーンッ、とやっておかないとあとで文句も言えないような気がする。
筒井康隆の『毟りあい」という小説が原作、野田秀樹が戯曲を書いた芝居だ。何年か前にもイングリッシュバージョンと日本語バージョンで上演をしていて、僕はその時、日本語バージョンを見た。とても痛い芝居で、見たあとすごく消耗したことを記憶している。こんな筋の芝居だ。
主人公の普通のサラリーマン井戸(キャサリン・ハンター)が、息子の誕生日のプレゼントに電卓を買い帰宅すると、脱獄犯が妻と息子を人質に家に立てこもっている。脱獄犯はストリッパーの自分の妻と会うことを要求する。
井戸は妻子を救いたい気持ちから脱獄犯の妻を説得に行くが、邪険に扱われる。井戸は同行していた刑事から銃を奪い、脱獄犯の妻と息子を人質にとる。偶然にも脱獄犯の息子は井戸の息子と同い年で、誕生日も一緒。そこから、電話(と間に入る刑事)を通して井戸と脱獄犯の救いのないやり取りが始まる。
お互いに妻子を解放することを要求する。どちらもゆずらない。子どもの指を折る。暴力が電話越しにお互いに伝わる。エスカレートする。井戸は脱獄犯の息子の指を包丁で落とし封筒に入れる。ストリッパーの母親が封筒をなめて封をする。それを刑事に渡し、脱獄犯に届けさせる。刑事が脱獄犯からの返事を持ってくる。封筒には自分の息子の切り落とされた指が入っている。
井戸はすべてをあきらめ、受け入れた表情で頭をゆっくりと振る。そしてまた子どもの指を切り落とし、母親が封をなめて、刑事に渡す。刑事が返事を持ってくる。指の入った封筒だ。井戸が子どもを見る。子どもはいやがる。いとおしそうに子どもを抱きしめる。(誰が誰の子どもを抱きしめているのだろう?)。そしてまた指を切り落とす。母親が封をなめる。刑事が封筒を持っていき、また持ってくる。
子どもは自分から手を差し出す。切り落とし、封をなめ、刑事が封筒を持っていき、持ってくる。子どもの指を落そうとするが、子どもは息絶えている。今度は母親の指を切り落とす。母親は自分で封をなめ、それを刑事に渡す。母親も息絶える。井戸は自分が勝った、今度は自分の指を相手に送り付けてやる、という。そして蜂のうなりが高くなり、芝居は終わる。
とても痛い芝居だった。切り落とした指のやり取りが始まると、涙が出てきた。野田秀樹の芝居に痛みは付きものだが、どこかに(救いはないかもしれないが)逃げ道はある。でもこの芝居にはそれがない。徹底的に人間のどうしようもなさを見せつけられる。
指を切り落としてから、再び指を切り落とすまでの間、同じことが繰り返される。指を切り落とす。ストリッパーの女とセックス(ある意味でのレイプだ)をして眠る、朝起きる。洗面台で蛇口をひねり顔を洗う。三面鏡をひらく。鏡に向かって丁寧にヒゲを剃る。自分の容姿を確認する。きちんと背広を着る。そして食事をとる。そこで指が届く。また、指を切り落とし、セックスをして、眠る。プッチーニの「ハミングバード」の美しい静謐な音楽の中、セリフはなく、儀式のように同じ行為が繰り返される。
暴力と理性とセックスがひとつのサイクルとして日常を作り出している。静かにきちんと手順を辿るように繰り返される。そしてそれが繰り返される度に、事態は少しずつ悪い方へと向かっていく。最終的にそれを断ち切るのが「蜂」である。蜂のブーンッ、ブーーーンッ、という音が井戸の暴力と理性とセックスのサイクルに垂直に切り込む。井戸と脱獄犯がお互いを思い通りにしようと、暴力と理性と性を用いても変えられない状況を1匹の蜂が簡単に変えてしまう。
もちろん蜂のうなりは状況を解決はしない。しかし当事者に自覚を促し、状況を一時停止させることはできる。暴力と理性と性によって現実が悪化していくのは、この芝居に限ったことではない。私たちの世界は多かれ少なかれ、自分の好まない人間への攻撃性と、無自覚な欲にもとづく理性的な思考(策略)と、ちょっとした性的な倒錯によってなりたっている。(それらすべてが揃ったものが戦争だろう)。
芝居と同じように、私たちはそのサイクルに気づかずにある部分では事態を進めているかもしれない。暴力には暴力、策略には策略というように、カウンターとなる対抗手段を取ることは相手とぶつかることになしかならない。(そういえば、力に対して力で対抗してはダメだと合気道では言われる)。状況の自覚を促す「蜂」のようなうるさいうなりが必要なのかもしれない。
それとどこかで繋がっているのだろう。今日はこれから家族で日比谷公園に行く。震災被害者への追悼と反原発のデモに参加するためだ。この時期、ブーンッ、とやっておかないとあとで文句も言えないような気がする。