昨夜、あるテレビ番組の中で日野原重明先生のことが紹介されていました。成田空港に勤務していた際、直に先生を間近で拝見したことがあります。当時でも90歳を超えていらっしゃいましたが、ご高齢にもかかわらず颯爽と歩く姿が印象的でした。先生は明治生まれであり、西暦でいうと1911年生まれだそうです。私が知っていた知識は、先生が聖路加国際病院の偉い人で、90過ぎでも働いているといった漠然としたものでした。
昨夜の放送では、驚きのエピソードも知ることができました。まずは、先生が59歳の時に、あの「よど号ハイジャック事件」に巻き込まれ、韓国の空港で解放されるまで赤軍派のゲリラに人質とされていたことでした。先生はあの経験で、死生観が変わったと仰っていました。あの事件後、自分の命は「与えられた命」と認識するようになり、いかにしてその命を世の中の為に尽くせるかを一層真剣に考えるようになったそうです。
次に、先生は、東京大空襲の際に満足な医療が出来なかった経験もあり、「過剰投資ではないか」と言う批判を抑えて、大災害や戦争の際など大量被災者発生時にも機能出来る病棟として、1992年に聖路加国際病院の新病棟建設にもご尽力されました。3年後の地下鉄サリン事件の際には、院長であった先生の判断により、事件後直ちに当日の全ての外来受診を休診にして被害者の受け入れを無制限に実施したそうです。
当時、サリンが巻かれたことが判明するまで、様々な情報が錯綜する中、同病院は被害者治療の拠点となり、一躍有名になりました。病院の設備を充実したことや被害者の受け入れに関わった日野原先生こそ、朝の通勤時間帯に起きたテロ事件なのに、犠牲者を最低限に抑えられた最大の貢献者と言えます。先生は現在、日本各地の子どもたちに命の尊さを話して回る活動をされているとのこと、本当に尊敬できる人物ですね。
昨夜の放送では、驚きのエピソードも知ることができました。まずは、先生が59歳の時に、あの「よど号ハイジャック事件」に巻き込まれ、韓国の空港で解放されるまで赤軍派のゲリラに人質とされていたことでした。先生はあの経験で、死生観が変わったと仰っていました。あの事件後、自分の命は「与えられた命」と認識するようになり、いかにしてその命を世の中の為に尽くせるかを一層真剣に考えるようになったそうです。
次に、先生は、東京大空襲の際に満足な医療が出来なかった経験もあり、「過剰投資ではないか」と言う批判を抑えて、大災害や戦争の際など大量被災者発生時にも機能出来る病棟として、1992年に聖路加国際病院の新病棟建設にもご尽力されました。3年後の地下鉄サリン事件の際には、院長であった先生の判断により、事件後直ちに当日の全ての外来受診を休診にして被害者の受け入れを無制限に実施したそうです。
当時、サリンが巻かれたことが判明するまで、様々な情報が錯綜する中、同病院は被害者治療の拠点となり、一躍有名になりました。病院の設備を充実したことや被害者の受け入れに関わった日野原先生こそ、朝の通勤時間帯に起きたテロ事件なのに、犠牲者を最低限に抑えられた最大の貢献者と言えます。先生は現在、日本各地の子どもたちに命の尊さを話して回る活動をされているとのこと、本当に尊敬できる人物ですね。
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