金刀比羅宮の紋(神文)は金に似ているようで似ていない奇妙な字だ。
「人は長く平和に丸く」という意味が込められているらしい。
公式の紋ということで私的には使えないとの事。
早朝6時30分からの参拝、いよいよスタート。御本宮まで参道石段
785段を案内人のガイドを聞きながら、要所要所で休憩を取って
全員のお参りを目指しました。ある意味金毘羅宮参拝は
この石段が名物と成っている。
この付近から大門までの急な坂を「一の坂」と呼ぶらしい。
この狛犬は備前岡山の長栄講により天保15年(1844年)に
奉納されたもので重要有形民俗文化財となっている。
石段230段位から見た琴平の町並み。正面は一晩お世話になった
ホテル桜の抄。この日はあいにく途中から雨模様になってしまった。
明治維新後の近代日本の黎明期に、今日の金刀比羅宮の礎を築いた
宮司 琴陵宥常の銅像。この方が金毘羅大権現を金刀比羅宮と改めた。
この大門は神城の総門でこれより内が境内になる。
この大門は水戸光圀公の兄松平頼重候から寄進された。
境内で古くから金刀比羅宮と縁故ある家柄をもって唯一代々営業を
許されている飴やの五人百姓。加美代飴を売っている。
鳥居の両側、どこまでも続く参道に報賓の石灯篭、玉垣などが
無数に建ち並び、参拝客に無言の激励を送ってくれている。
この日はホテルで貸してくれた転ばぬ先の杖と傘を両手に皆本宮を目指した。
この鳥居で小休止。ガイドさんより説明を聞く。ガイドさんより
説明を聞く。やはりガイドさんの話が有ると無いとでは
こんぴらさんの重みがずっと違ってくる。
江戸時代に犬に飼い主が初穂料と犬の道中の食料などを
首にかけて代参させることもあった。その犬は道中の人々の
善意によって金刀比羅宮に連れて行った。いつの頃からか
こんぴら参りのこの犬を「こんぴら狗」と呼ぶようになった。
ここでも一服。ここ書院は四脚文(重要文化財)奥書院(重要文化財)
そして万治2年(1659年)に建立された書院造りの建物で、
内部は円山応挙、伊藤若沖、岸岱らによる障壁画で飾られている
表書院(重要文化財)がある。
又々一服。いよいよ石段登りも佳境に入って来た。高崎達磨寺で
心配した太もももまだ問題なく、随所が効いているかも。
石段の勾配が緩いのも助かった。石段の中腹にいる2人は
しばらく動かず相当足にきているようだ。
我々が参拝した3日前はこんぴらの日(例大祭)だった。
お頭人様で4人の男女の子供が神事を行なったようだ。
いよいよ本宮に近づいて来た。左に見えるのが祓戸社で清めて参詣する。
ここでガイドさんより正しい手水のやり方を教えてくれた。
分かっているつもりだったが改めて一つ一つの所作を聞くと勉強になる。
一連の所作がスムーズにできると周りから見ても
美しく、さすがと思われるとの事です。
天保8年(1837円)に建立された旭社(重要文化財)。神仏分離以前の
松尾寺の金堂であり、そのあまりの豪華さに江戸時代に
参拝した森の石松は本堂と誤り、ここへの参拝のみで帰ってしまったと伝えられる。
又、鳥居をくぐって賢木門へ。江戸時代中期に入ると全国の庶民へ
金毘羅参りの信仰は広がったと言う。伊勢神宮のお陰参りに
次ぐ庶民の憧れだったらしい。
この石段が最後の石段。この石段は高崎達磨寺を思い出す急
勾配であった。あと一息、気合で登るゾ!
いよいよ本堂に到着。午前7時33分、着いたと同時に
幻想的な露雨が降ってきて、より一層厳粛な気分に成った。
これは御利益があるぞ。尚本堂は正面から写真を撮ってはならずと
ガイドさんからアドバイスを受けた。
金刀比羅宮は香川県琴平町の象頭山中腹に鎮座する神社で
「こんぴらさん」の愛称で親しまれている。
又、パワースポットとしても注目されている。
主祭神は大物主命。永万元年(1165年)、讃岐国に流されたまま
崩御した崇徳天皇も合祀されている。
全国にある金刀比羅神社、琴平神社、金比羅神社の総本宮としても知られている。
早朝から苦労して御本宮に来ただけに皆さん
お礼を買い求めていたのが印象的であった。
こんぴらさんは海上交通の守り神としても信仰され
漁師、船員などの海事関係者の崇敬を集めている。
戦前は大日本帝国海軍の慰霊祭も行われていたそうだ。
昭和37年日本初の太平洋単独無寄港横断した「太平洋ひとりぼっち」で
有名な堀江謙一さんが平成8年、世界初のアルミ缶リサイクル
ソーラーボートモルツアーメイド号で再度太平洋横断の快挙を
達成した船も奉納されていた。
午前8時11分全員無事下山。その頃から参道のお店が
シャッターを開け始めていた。その中で前から話題になっていた
駕籠屋さんも店を開けていたのを発見。これがその駕籠だ。
代金は往復で6,800円 上り5,300円 下り3,200円
この価格設定は意味が深い。尚、琴平の有名な民謡
「金比羅船々・・・」は江戸時代末期から歌われ始めたとの事。