スミダマンのほのぼの奮戦記

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史跡 高松城跡 玉藻公園

2023-04-20 06:03:35 | 旅 ~国内

ホテルの部屋から眼下に見えた史跡・高松城跡。

そして右手前に見えるのが通称「ことでん」の高松築港駅。

この電車に乗っていくと琴平さんまで行くのだ。

朝の散歩はここ1点で決まりだ。

高松城は、またの名を玉藻城と呼ばれていますが、その由来は万葉集で柿本人麻呂が

讃岐の国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことにちなんで

このあたりの海が玉藻の浦と呼ばれていたことによるといわれている。

この城は天正15年(1587年)に豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正が

天正16年から香東郡野原庄と呼ばれていた現在地を高松と改め築城に着手した平城(水城)です。

縄張り(設計)は当時築城の名手であった黒田孝高(如水)とも細川忠興ともいわれている。

瀬戸内の海水を外堀、中堀、内堀に引き込んだこの城は日本三大水城のひとつといわれている。

城には本丸を中心に時計廻りの方向に二の丸、三の丸、桜の馬場、西の丸が配され、

三重の堀とともに堅固な構えとなっていた。

園内の案内図はポイントポイントに説明書きが記され、この図をじっくり見るだけでお城の全容がつかめる。

今gooブログは皆さん、春の花爛漫。

全国の桜の絶景が次から次へとアップされていますが、スミダマンのブログは秋の代表的な花・菊が爛漫。

このギャップも決して悪くはないですよネ。(笑)

本丸と二の丸を結んでいる唯一の連絡橋の鞘橋(さやばし)。

当初は欄干橋でしたが、江戸時代中期末頃にはこのような屋根付の橋になっていたようだ。

この城は堀と海がつながっているので潮の干満による水位調節のため水門が設けられている。

堀にはタイやチヌなどの海の魚がいて、エサつり体験が楽しめる。

生駒氏時代の天守は絵図や古文書によると3重だったとされている。

松平氏時代の寛文10年(1670年)に改築された天守は3重5階(3重4階+地下1階)の

南蛮造りで四国最大の規模をほこっていたが明治17年(1884年)老朽化を理由に取り壊された。

平成17年から天守台改修工事が行われ、発堀調査の結果地下1階部分から58個の礎石が当時のまま現れた。

平成25年には修復工事も完了し、今後天守閣復元までに期待がかかっている。

現在堀と海は唯一城の北側を通る国道30号の下に所在するこの水路によってつながっている。

堀の水位は潮の干満によって変わっているが、水門によって水位調節することもできる。

海から稚魚が潮に乗って水門から堀に入り、成長した魚(クロダイ、スズキ等)が泳いでいる。

そのための鯛のエサが自販機で売っていたのには驚いた。

「鯛願城就」だって。

マイッタナー。

内濠遊覧の和船もある。

ハゼの紅葉が美しい。

もう春ですからこれ以上言えません。

蘇鉄も素晴らしい。

重要文化財の「披雲閣」。

松平藩時代に藩の政庁及び藩主の住居として使われていた。

その後大正6年に現在の披雲閣が再建された。

この中の波の間には昭和天皇・皇后両陛下が宿泊された。

現在高松市が管理して会議、茶会、華展などに利用されている。

故に水飲み場にも松平藩の三つ葉葵の紋が。

生駒氏の治世は4代54年間続いたが寛永17年(1640年)に

生駒騒動といわれる御家騒動により讃岐一国を召し上げられ、出羽国(秋田県)矢島1万石に移された。

このあと寛永19年(1642年)に当時常陸国(茨城県)下館藩主だった松平頼重が

東讃岐12万石の領主として入城した。

頼重は徳川家康の孫で徳川光圀(水戸黄門)の兄にあたる。

頼重以降、松平氏の治世は11代228年間にわたり、高松は松平氏の城下町として栄えた。

 


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