ここは青山霊園の管理所。都立の霊園として明治7年9月1日に開園した。
都営の墓地としては8ヶ所ある。私には変な興味があって、
墓地めぐりが好きだ。その故人の生きた時代、その歴史に瞬時に戻る。
言わば、タイムトリップして歴史を振り返ることができる。
そのリアリティーが墓にはある。
青山墓地は港区の北西に位置してビル街の中にあり、園内を
縦横に走る桜並木を始め、武蔵野の面影を留める樹木が
生い茂り、落ち着いた雰囲気を保っている。
この地は江戸時代、美濃郡郡上藩(岐阜)、青山大膳亮幸哉の
下屋敷のあった所だ。都内のブログを書いているうちに、
気がついたことは、東京の大きな施設のある所は、だいたい
江戸時代の武家屋敷の跡というケースが多い。
墓地の近くにそびえている高層ビル。六本木方面の東京ミッドタウンと六本木ヒルズビル。
墓地から見た近代的ビルは町中から見たものと随分趣きが違うものだ。
これが宏大な青山墓地の案内図。総面積は約7万9000坪。
墓所面積は約3万8800坪。48.6%が墓所で緑比率は59%。
因みに港区の緑比率は18.6%だ。
如何にここは緑が多いエリアかよくわかる。
平成19年に石原慎太郎東京都知事銘で建てられた
「外人墓地」の顕彰碑。江戸時代末期から大正時代にかけて来日し、
我が国近代化に指導的役割を果たされた外人が埋葬されている。
日本近代スポーツの父といわれているフレデリック・ウィリアム・ストレンジ
(1853-1889)の墓。氏はイギリスロンドンの出身で英語教師として来日。
今日の日本の学校において、一般化している「部活動」や「運動会」
といった活動の礎を築いた。
メルマン・コルバート・ハリス(1846-1921)の墓。
アメリカ・メソジスト監督教会宣教師で、アメリカ生まれの日本人である
と言うほどに日本を愛して、明治期の日本人クリスチャンに
大きな影響を与えた人物。内村鑑三、新渡戸稲造等に洗礼を授けた。
維新の三傑の一人大久保利通の墓(1830-1878)
明治11年5月14日、馬車で太政官に向かう途中、麹町清水谷で
石川県士族島田一郎ら6人に暗殺され、47年の生涯を閉じた。
大久保のお墓の側には、ともに犠牲となった 馭者や馬も眠っている。
青山墓地に来た目的のひとつは大久保利通に会う為だったが、
その墓石の大きさに圧倒された。
大久保公墓の比較的近くに、白樺派を代表する小説家のひとり
志賀直哉(1883-1971)の墓がある。周りに志賀家の墓石がいくつもあり、
一族の人々だと思う。その簡潔な文章に若い時魅了されたものだ。
明治末から昭和期にかけて活躍した洋画家 藤島武二(1867-1943)の墓。
ロマン主義的な作風の作品を多く残している。ブリジストン美術館
所蔵の「黒扇」は最もよく知られている。
明治期の日本で内閣総理大臣を2度務めた薩摩藩士、松方正義の墓。
大蔵大臣を長期間務めて日本銀行を設立し、金本位制を確立した。
晩年は元老、内大臣として政局に関与し、影響力を行使した。
日本の陸軍軍人、華族。参謀総長、陸軍大臣を務めた川上操六
(1848-1899)の墓。桂太郎、児玉源太郎とともに、
「明治陸軍の三羽烏」と呼ばれていた。
肥前国佐賀藩の大名だった鍋島家の墓。
鍋島直大は第11代で最後の藩主。このお墓をしみじみ見ていると
江戸時代にタイムスリップしてしまう。青山墓地には
鍋島家の様に爵位が書かれた墓石が多いのには驚いた。
広大な墓地の中を著名人の墓を探して歩いていると
突然、上空に大型のヘリコプターが飛んで来た。
肉眼で見ると高速で回転しているプロペラは弧を描いて
見えるのに、写真ではこの様にはっきりと羽根が見える。
どうしてだろう不思議だ。
幕末から明治時代の佐賀藩士、政治家、書家であった副島種臣(1828-1905)
第九代、第十一代市川団十郎の墓。屋号は成田屋。
定紋は三升(みます)。市川団十郎家は歌舞伎の市川流の家元であり、
歌舞伎の市川一門の宗家。その長い歴史と数々の事績から、
市川団十郎は歌舞伎役者の名跡のなかでも最も権威のある名とみなされている。
時間も昼時になり、ちょっとくたびれて来たので、一度出る為に
南中央入口まで来た。そこにはどこの墓地にもある花店を兼ねた茶店があった。
この建物の風景を見るとホットするものを感じた。
そこから青山葬儀所の方へ歩いていくと、よくTVなどで報道された
タクシーの列が両側にずーっと並んでいる、タクシーの中で
運転手が仮眠している。この通りはタクシーが休む有名な通りだ。
この通りの逆サイドには、日本で5番目の国立美術館「新美術館」が見える。
壁面がオールガラスで波打っているデザイン。黒川記章の設計で
平成19年1月に開館した。そういえば埼玉県立美術館の設計も
黒川記章だったけ。作風も随分変わってアールが全面に出てきている。
都心にある唯一の公営葬儀所「青山葬儀所(青山斎場)」。
昭和49年に改築したもので、政財界や芸能関係者の団体葬が多く、
会葬者500人~2000人の大規模葬儀ができる。
第21代内閣総理大臣、海軍大臣などを歴任した加藤友三郎(1861-1923)の墓。
氏は日本の海軍軍人で海軍大将。日露戦争では
連合艦隊参謀長として日本海海戦に参加した。
青山墓地は爵位のついた家族。それと軍位が書かれた
軍人の墓が多いのにはビックリした。
青山墓地は1種イ、1種ロ、2種イ、2種ロの4種類に種別されており、
これを頼りに主だったお墓を探したが、すごくわかりずらかった。
約40名を事前にリストアップして8割も見つけることができなかった。
外務大臣を務めた小村寿太郎(1855-1911)の墓。
小村は日露戦争後のポーツマス会議で日本全権として交渉し
ポーツマス条約を調印した。小村は大変小柄(約150cm)で外交団から
「ねずみ公使(ラット・ミニスター)仇名され、同朋からは小村チュー公と呼ばれていた。
日本銀行第9、第11代総裁を務め、大蔵大臣にも就任した
井上準之助(1869-1932)の墓。井上は関東大震災の混乱の中、
モラトリアムを断行。経済界でも辣腕を振るい第2の渋沢と称された。
昭和7年血盟団の標的となり、暗殺された。(血盟団事件)。
今回の目的のひとつ、日本一有名な犬「忠犬ハチ公」と
飼い主としても有名になった、東京帝国大学農科大学教授
上野英三郎(1872-1925)の墓。氏は日本の農業工学の始祖で
大正14年5月、駒場東大の教授室で突然倒れ54才の若さで亡くなった。
偶々、犬の散歩をしていた男性にハチ公の墓の場所を尋ねた所、
案内をしてくれた。「この小さいお墓の中に忠犬ハチ公の骨が
埋葬されていますよ」とまで教えてくれた。散歩していた犬とのツーショット。
青山墓地には他にも犬養毅、浜口雄幸、吉田茂、池田勇人などの総理大臣、
後藤象二郎、後藤新平、松岡洋右、東郷茂徳などの政治家
国木田独歩、岡本綺堂、尾崎紅葉、宮本百合子などの文化人。
御木本幸吉、森永太一郎などの実業家。そして「坂の上の雲」の
秋山好古、真之兄弟、乃木希典大将、石原莞爾、日露戦争の軍神
広瀬武夫などの軍人。他にも名を挙げたらきりがない程の人々が
この墓地で眠っている。今回でたいだいの青山墓地の全容がわかったので
次回からはもっと多くの著名人に巡り会えるはずだ。