スミダマンのほのぼの奮戦記

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瑠璃光寺

2018-12-18 06:20:55 | 旅 ~国内

曹洞宗瑠璃光寺は陶6代弘房の菩薩寺で本尊は薬師如来

(瑠璃光如来とも言う。)陶弘房は(大内氏第一の重臣)応仁2年(1468年)

応仁の乱で京都の相国寺で戦死したので、その夫人

「妙栄大姉」が夫の菩堤を弔うため弘房念持佛の薬師如来をもって

本尊とし、山口の奥地仁保に文明3年(1471年)に瑠璃光寺を建立した。

当寺は福井の永平寺と横浜鶴見の総持寺が本山です。

開山は石屋門派の知恵大庵須益大和尚、中国の三山の一つと言われ

江戸末期まで僧禄司の要職を務め、常恒会16ヶ寺の中に入る格式を

与えられた、1586年(天正14年)毛利元就次男

吉川元春(岩国城主)が小倉で逝去した時、瑠璃光寺11代

華翁和尚が、その導師となり寺を霊牌所とした。

のち藩の了解を得、瑠璃光寺に復号した。

現在末寺県内22ヶ寺、県外11ヶ寺ある。

国宝五重塔は足利義満と戦った応仁の乱で戦死した大内義弘の

霊を弔うために、地元を護っていた。26代大内盛見が建てた。

故に塔は一種のお墓なのだ。創建は嘉吉2年(1442年)、

今から570年以上も前のもの。関ヶ原の戦いで、毛利輝元が破れ、

この時、五重塔も解体されそうになったので山口町民が

奉公所に嘆願書を提出、これが了承さえ、塔は残された。

塔の高さは31.2mで中心柱が五層目まで届いている。

ここの五重塔は全国で10番目に古く、国宝だ。

国宝の五重塔は9基あり、奈良の法隆寺と京都の醍醐寺と

瑠璃光寺の塔が日本三名塔と言われている。

この塔の屋根は桧皮葦で屋根が滑らかに葺かれ美しいと

言われている。五重塔が桧皮葦は奈良の室生寺・長谷寺・

宮島の厳島神社の4基で後はほとんど瓦葺だ。

一層の屋根と五層の屋根の低減は70%で塔の姿を美しく見せている。

勾欄が二層目しかないのはここの塔の特色だ。

五重塔は地震台風に強い柔構造建築になっていて

今日の高層ビル建築と同じ手法と言われ

改めて古い時代の技術には驚かされる。

大内氏24代弘世像 山口開府の祖、弘世は防長二州を制して

1360年頃あこがれの京都を模して都市計画をした人だ。

五重塔の前の広々した芝生の緑地にまるでまんまるな

ゴルフのバンカーの様なものがある。これが満月の庭だ。

本堂、そして薬師如来が本尊で拝み方は「オンコロコロ

センダリ マトウギ ソワカ」を3度唱えるとの事。

境内には多くのものが祀られて信仰を集めている。

びんずる尊者、一畑薬師山口分院、金毘羅様長寿薬師如来、

慈母観音、身代わり地蔵、佛足石 等々。

山口市指定文化財の梵鐘。この梵鐘は中世の防長の歴史、

金工資料として貴重なものだ。

ぼけない五ヶ条なるものを発見。写真を撮った後よく見ると

「撮影はご遠慮ください」と小さくステッカーが張ってあった。

外部の廊下にあって、誰でも撮ってしまいそうなもの。

撮影禁止の理由がいまいち理解できない。

司馬遼太郎の代表作「街道をゆく」の長州路から五重塔を見た

感想の一節が次のように刻まれている。

「長州は、いい塔をもっていると、惚れ惚れする思いであった。

長州人の優しさというものは(中略)

大内文化を知らねば分からないような気がする。」

瑠璃光寺を取り囲むような山並。本当に自然豊かで、静寂の中に佇んでいた。

駐車場、お土産物屋さんの前に気に成るお店が。

「西京山口の味 全国唯一のそば寿し 長州生蕎麦 東京庵」

「山口市は明治維新策源地」ののぼり

今年は明治維新150年の年の為、ここ長州では色々なイベントが行われていた。

この策源地とはどんな意か?

山口市は山口県の県庁所在地。行政の中心地が緑の多くの中に

ポツンポツンとあり、とても印象深い街になっている。

下の写真が県庁なんて!


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