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スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

2019 新春の鎌倉風情

2019-01-31 06:40:47 | 旅 ~国内

3年連続で新春を鎌倉で迎えると、さすがにブログネタも重複してしまう。

今回はパッと目についた一コマを切り取ってアトランダムにアップしてみた。

ある風情の詳細は2017年1月にアップしたものが

ありますので参照してみて下さい。

(2017-1-25付ブログ参照)

長谷の浄土宗寺院「高徳院」のご本尊が鎌倉の大仏。

原型作者は不明だが、今から750年程前の13世紀

鎌倉時代に造立されたとされている。造立当初とほぼ同じ姿を

今に残す大変に貴重な遺産で、鎌倉にある仏像で唯一国宝に指定されている。

かの有名な歌人、与謝野晶子は「美男におわす」と詠み

その端正な顔立ちがイケメンと評されることが多いとか。

相変わらず鎌倉大仏には外国人の観光客が多い。一枚目の

外国人女性は一生懸命手の中に大仏を抱く様にしているのか

幾度もポーズをとり、トライしていた姿が印象的であった。

二枚目の着物を着たシルバーの髪の毛の女性は

多くの外国人女性の中でも特別目立った存在だった。

大変穏やかな陽気だったので鎌倉文学館からブラブラと江ノ電

「由比ヶ浜」駅まで歩いて来た。ご覧の様にこの駅は単線の駅で

のんびりした情緒がある。江ノ電の駅にはナンバーが付いていて

当駅は「EN13」車内放送される。鎌倉駅から2つ目の駅。

時刻表を見ると12分に一本、1時間に5本、上り下り(?)走っている。

いかにも江ノ電らしい注意事項として「水着・半裸姿で乗車禁止」

「サーフボードは専用の袋に」「自転車は専用の袋に」

「ペットは専用のケースに」先頭の車輌案内をよーく見ると

「あけましておめでとうございます」と書かれてある。

江ノ電には他の鉄道と違ってメルヘンチックなエンターテイメント性がある。

このカップルの写真にも物語性を感じてしまう。

(2017-1-20付ブログ参照)

終点鎌倉駅に到着。3番線の車止め上には親子カエルが

鎮座している。この親子カエルはゲーム「電車でGo!旅情編」でも

鎌倉駅の車止めの上のオブジェとして登場する。

これは利用客が無事「カエル」ことを祈って職員が設置したのが

キッカケとか。年6回程カエルの模様替えも行なっているらしい。

行き先「藤沢」に変えるとそこには門松の絵が!江ノ電サスガ!ヤルネー!!

新田義貞の鎌倉攻めにより、この寺の南東にある「腹切りやぐら」で

最後の執権・北条高時をはじめ北条一族八百七十余名が

自害したと伝えられている。滅亡した北条氏の霊を弔うため

また修行道場として、後醍醐天皇が足利尊氏に命じ

北条氏の屋敷があったとされるこの地に「宝戒寺」を建立させた。

実は鎌倉駅に近づくと大変な人出で、コンビニのトイレも

列が出来ている程。丁度宝戒寺にトイレの表示を見つけ

200円払って緊急トイレタイムに成ったのが実情でした(笑)

今回の旅でも鎌倉町青年会の建立した石碑2基と遭遇した。

1つは北条執権邸旧跡と若宮大路幕府旧跡。

ともに大正7年3月建之と成っていて、それから既に100年の

歳月が終過していてその石碑そのものが歴史的遺産に見えてくる。

碑文には旧漢字とカタカナ。大正時代から戦前にかけて

4つの団体が78箇所建てた。主に鎌倉時代の史跡、遺産、

出来事に関するもの。尚鎌倉町青年会は明治44年3月12日に

発足したという。(2017-1-23付、2017-1-28付ブログ参照)

帰路、裏道を歩いていたら偶然に旧大佛次郎茶亭を発見。

この小さな鎌倉ではこんな出会いがしょっちゅう起きる町なのだろう。

この建物は市内では稀少な関東大震災前に建てられたもの。

広い庭園内の樹木と一体となった空間は、古都鎌倉の原風景ともいえる

貴重な存在だ。又趣きある門と板塀の続く路地は、

かまくら景観百選に選定されている。この建物は一時期、

鎌倉文士であり、古都保存法の成立に寄与した

大沸次郎が茶亭として使用していた。

因みにこの表札「おさらぎ」は作家里見弴が書いた。

若宮大路沿いに鎌倉と言えば・・・鎌倉生まれ鎌倉育ちの「鳩サブレー」を

製造、販売している豊島屋(としまや)本店がある。

名前が示す通り、鳩を模した形が特徴のお菓子。

主に鎌倉鶴岡八幡宮に参詣した人の土産として有名で、

現在では神奈川県を代表する銘菓と成っている。

鳩サブレーは明治末初代店主久保田久次郎が店に来た

外国人からもらったビスケットが原点となっている。

鳩の形になったのは、久次郎が鶴岡八幡宮を崇敬しており

本宮の掲額の「八」が鳩の向き合せであることと、宮鳩が多数いる

ところから着想を得たためと言われている。

当店を出て裏手にある豊島屋が経営している「八十小路」で

又々寄ってお茶をした。少々疲れたので甘い物と思い小倉おしるこを戴いた。

(2017-1-27付ブログ参照)


杉本寺

2019-01-30 07:19:10 | 旅 ~国内

731年、天台宗の大蔵山杉本寺は鎌倉幕府が成立する500年も前に

建立された鎌倉最古の寺だ。開山は行基、開基が高明皇居。

坂東33観音霊場の第一番の由緒ある寺だ。

金沢街道から石段を上った先に仁王門が建っている。

この門は切妻造り、茅葺の八脚門。左右に金剛力士(仁王)像を

安置している。江戸時代、18世紀半ば頃の建立の門だ。

仁王門から本造へ上る正面の鎌倉石の石段はすり減っていて

通行禁止に成っている。その為、石段には苔が生え、

趣き深き美しい寺になっている。境内には夥しい数の白い奉納旗が

荘厳な雰囲気を醸し出している。

左側の新しい階段を上るとそこは本堂のある境内にたどり着く。

本堂の観音堂は萱葺きの屋根が特徴的で雰囲気のあるお堂だ。

このお堂は光明皇居の寄進によって建てられたと言われている。

本尊の十一面観音像三体は国又は市指定の重要文化財に指定され

内一体は行基の作と言われている。この観音像はお堂の中にあがって

拝観することができたが、なぜかその時は魔がさして見ることを忘れてしまった。

七地蔵尊は一番風化の激しい地蔵で杉本義宗の守り本尊と言われている。

見応えのある鐘楼脇の五輪塔群は南北朝時代戦いの軌跡らしい。

本堂からあまりにも美しかった苔の階段を一一生懸命カメラに

納めていた女性カメラマン。本来はこの階段は下から見上げるのが

正しい見方らしいが、このカメラマンの撮りたい気持ちは

よく分かる程、苔むす石段は魅力的だった。


報国寺

2019-01-29 06:42:38 | 旅 ~国内

報国寺の建立は建武元年(1334年)。臨済宗建長寺派で

山号は功臣山。鎌倉三十三観音霊場の第十番。

開基は足利家時で足利、上杉両氏の菩薩寺として栄えた。

開山は五山文学を代表する仏乗禅師の天岸慧広(えこう)で

中国より招聘された円覚寺の無学祖元に師事し、

のちに中国へ渡って修行した高僧だ。

又、報国寺は孟宗林の竹林で有名で竹の寺と言われている。

その数は約1000本、(休耕庵という塔頭の跡に孟宗竹が生え、

現在の竹の庭になった。)竹の庭の拝観料は200円で

9時から16時まで観ることができる。

竹林には散策路が巡らされ、休耕庵という茶席では抹茶を

いただくこともできる。この竹の庭は、ミシュラン・グリーンガイドで

鎌倉で2ヶ所しかない三ツ星(わざわざ旅行する価値がある)の

評価を得ている。実際に行ってみてその素晴らしさを実感した。

 

 

では竹林の中で撮った素人写真を見て下さい。

鎌倉を愛した作家川端康成は昭和10年、36歳の時に

報国寺の近くに転居し、よく報国寺を散歩していたようだ。

そして、この山あいのしじまの音なき音を「山の音」と表現していた。

石塔の奥に見えるやぐら(洞穴)には、足利家時(室町幕府開祖

足利尊氏の祖父)、足利義久(4代鎌倉公方、持家の嫡男、

10歳でこの地で自刃)の墓がある。

 

ところで、寺には山号という名称があるが、その歴史は中国から

その制度が伝来したと言われている。中国では隋、唐の時代に

仏教が普及し、同名の寺院が各地に建てられるようになった。

その区別が難儀した為、その寺院の所在する地域の名称を

付けて区別するようになった。人里離れた山中の何れかに

建立した場合はその山の名称を付与するようになった。

日本では所在地と関係のない仏教用語を山号として付けている場合もある。

 


浄妙寺

2019-01-27 06:52:28 | 旅 ~国内

市の中心部から横浜市の金沢に抜ける金沢街道沿いにある

浄妙寺は鎌倉五山第五位の由緒ある臨済宗建長寺派の禅寺だ。

建立は文治4年(1188年)、山号は稲荷山で鎌倉33観音の

第9番に成っている。現在でも付近一帯の地名は妙という字は

変わったが「浄明寺」という。

浄妙寺境内の案内図。浄妙寺は源頼朝の伊豆挙兵以来の重臣、

足利義兼が、退耕行勇を開山として建立した。

行勇は源頼朝や政子が帰依した高僧だ。

室町時代には境内に23の塔頭を持つ大寺院であったが

現在は総門、本堂、客殿、庫裡が残っているのみである。

本堂の奥にある鎌足稲荷神社は鎌倉の地名の由来になったとされている。

浄妙寺という寺名は足利貞氏の法名をとって付けられたと言われている。

この本堂は江戸時代中期の建物だが、仏壇周辺などには

室町時代の材が用いられている。

天正年間(1573~1591年)に建立された喜泉庵は平成3年に復元された。

ここでは枯山水の庭園を見ながら茶室で茶菓を楽しむことができる。

ご覧の様にお抹茶と干菓子で600円だ。

本堂の裏には鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の三男、

室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟、足利直義公の墓がある。

作務衣を着た女性が落ち葉を掃いている姿を見ていると

時の流れがゆっくりゆっくり流れていて、いかにもお正月ののどかな風景だと感じた。


鎌倉文学館

2019-01-26 07:22:22 | 旅 ~国内

http://www.kamakurabungaku.com

江ノ電「由比ヶ浜」駅から徒歩7分、静かな高級住宅街の奥、

山裾の麓にある鎌倉文学館は旧前田侯爵別邸の跡を利用して

昭和60年10月31日に開館した。この時期は「作家と歩く鎌倉

その3 ―北鎌倉・大船方面」の収蔵品展が行なわれていた。

入館受付から、文学館までは自然が多く残されたゆるやかな坂道を

ゆったりと登っていく。途中にはこの様なトンネルもくぐっていく。

昔の侯爵家の財力のすごさを体で感じながら。

個人の庭園としては広大な敷地だ。一番奥にはバラ園があり

シーズンになるとさらに美しい庭園となるそうだ。

そしてはるか向こうにはキラキラと輝やいた海が見える。

この瀟洒な洋館は1890年頃に侯爵前田利嗣の

鎌倉別邸として建てられたが、1910年火災によって焼失。

昭和11年に竹中工務店施工によって洋風に全面改築された。

戦後一時期はデンマーク公使や佐藤栄作元総理の別荘として使われた。

3階建てであるが、3階は非公開となっている。

鎌倉市長谷にある鎌倉ゆかりの文学、特に鎌倉文士をテーマにした

鎌倉市立の資料館がこの文学館。明治以降特に昭和に入り、

鎌倉には多くの作家・詩人・歌人・俳人・評論家たちが集い

居を構えてきた。鎌倉文士の精神は現代にも引き継がれ

新しい世代の文学者たちもここに集まっている。

そういえば鎌倉文士に浦和画家という言葉があったっけ!

浦和にもいつかこの様な施設が出来ると更に素晴らしい街に成るのだが。

館内には直筆原稿、手紙、愛用品などを収集保存し、展示している。

この文学館設計の検討には、作家里見弴、今日出海、

小林秀雄、永井龍男、清水基吉など錚々たる文化人が係わった。

又、三島由紀夫は執筆のために別邸を取材し、小説「春の雪」に

この様に描きました。「青葉に包まれた迂路を登りつくしたところ

別荘の大きな石組の門が現れる。(中略)先代が建てた

茅葺きの家は数年前に焼亡し、現侯爵は直ちにそのあとへ

和洋折衷の、十二の客室のある邸を建て、テラスから南へひらく

庭全体を西洋風の庭園に改めた。」この文学館は

静かな環境、貴重な建物の中でゆっくりとした時間が過ごせる。

そして広大な庭園と美しいバラ園は当館の大きな魅力の1つになっている。

鎌倉の地図には鎌倉にゆかりのある文学者、作家の地図が

張り出されていた。この1人1人を見るとキラ星のごとくでそのすごさに

圧倒されてしまった。300人以上いる文士の中でも特筆すべき

人々を列記してみた。川端康成、夏目漱石、芥川龍之介、

与謝野晶子、大佛次郎、小津安二郎、久米正雄、小林秀雄、

久保田万太郎、里見弴、島崎藤村、高見順、立原正秋、

永井龍男、中原中也、萩原朔太郎、三島由紀夫、

吉屋信子等々。全くビックリの文化人達だ。


曹洞宗大本山 総持寺

2019-01-23 06:39:26 | 旅 ~国内

今年の初詣は総持寺に行くことに決めた。当寺は鶴見駅から

線路沿いを歩いて数分。昔から電車からよく見え、

一度はお参りに来なくてはと思っていた大寺院だ。

正月三が日の三日になると参拝客がずっと少なくなって

厳粛な空気が参道に戻ってくる。年のスタートにあたり

ひんやりした空気がキュッと身を引き締めさせてくれる。

宗洞宗大本山の総持寺は横浜市鶴見区にあり、明治44年に

石川県門前町から移転してきた。敷地は約50万㎡(約15万1,500坪)あり、

敷地内には鶴見大学などの学校施設もある。

参道を行くと最初に出てくるのが「三松関」。この門は総持寺の総門で、

建築様式は高麗門で禅院の総門としては特異であるそうだ。

続いて見えてくるのが大きな「三門」。昭和44年落成で

鉄筋コンクリート造り。日本一の大きさを誇っている。

金剛力士(仁王)像は元横綱北の湖15歳の姿をモデルにしているという。

平成2年に竣工した「三松門」。切妻造り鉄筋コンクリ―ト造、

広さ9,400㎡(2,848坪)、4F、B2Fの建物で、修道場、

各種セレモニー会場となっている。宿泊施設もある。

拝観、墓地、法要参拝等の総受付施設の「香積台」。

中には大きなおしゃもじとすりごまがある。

日本最大といわれる木彫りの大黒尊天が祀られている。

金鶏門の所にはご覧の様に長い百間廊下がつながっており、

総持寺が大伽羅藍であることが分かる。

本尊釈迦如来が安置されている仏殿。この仏殿をはじめ

主要建物の多くは20世紀前半(大正時代~昭和前期)の

本格的木造建築で平成17年にこの仏殿をはじめ

16件の建造物が登録有形文化財に登録された。

そもそも総持寺の創建は奈良時代まで遡り、開基は行基、

 山号は諸嶽山、寺紋は五七桐紋だ。

1615年(元和元年)徳川幕府より法度が出され永平寺と並んで大本山となった。

仏殿の入口に居た若き僧侶。総持寺には全国曹洞宗のお寺の

子息が修行僧として来ているが、この僧侶はまだ僧に成って

日が浅いのではないか。所作を見ているとそう見えてしまう。

道元、瑩山紹瑾などの歴代の祖師を祀る大祖堂。

このお堂は太平洋戦争後に建立された鉄筋コンクリート造の建物で

本尊を祀っている仏殿より大きい。中にお参りした時に

紫の法衣を着た高僧(ひょっとして管主かも?)が説教をしていた。

お正月なのでご利益があると思い、一生懸命聞いたが

マイクを通しても声が小さくよく聞こえなかったのは残念であった。

大祖堂の前にはペットの待機場があり、唐草模様の服を着た

柴犬がじっとおとなしく繋がれていた。なんとも微笑ましい風景に見えた。

 

仏殿の横をちょっといくとほとんど参拝客が居ない

「放光堂」というお堂がある。ここに正しいお焼香の仕方が書かれていた。

私も正しいやり方は今迄知らなかったので

読者の皆様にも参考に成ればとアップしてみます。

① 合掌一礼致します。

② 左手合掌のまま右手の親指、人差し指、中指の三本で御香をつまみます。

③ つまんだお香を額の前まで持ち上げ

左手を添えて念じ、お焼香します。

④ 二回目は右手の三本指でつまみ、念じずそのまま御焼香します。

⑤ 焼香が終わりましたら合掌一礼します。

境内の奥には広大な墓地があり、あの石原裕次郎さんの

お墓もありました。裕ちゃんのお墓は一番端の方で

分かりにくく、思わず人に聞いてしまいましたが、

その人も裕ちゃんのお墓にお参りに来たとか。

お互いにここら辺だと思いますがと話をした前がそうで

一瞬導かれた様な不思議な気持ちに成りました。

同じような方々があと数組お参りに来て亡くなった後も

人の心の中に裕ちゃんは住み続けていると感じました。

石原裕次郎の墓へ行く途中に巨大で変わった形の

墓石があったので見たら「神刀流開祖天下無敵日比野雷風居土墓」と

書かれていた。他にも総持寺の墓地には芦田均元首相、

アサノ財閥の創始者、浅野総一郎。清浦奎吾元首相、

築地本願寺などを設計した建築家の伊藤忠太、

作曲家の黛敏郎などが眠っている。

境内の中では神奈川県赤十字血液センターが献血運動をやっていた。

各血液型の献血目標が書かれていたが、その横に日本人の

血液型の割合が出ていた。それによるとA型が約40%

O型が約30%、B型が約20%、AB型が約10%。

自分の認識と違っていたのでアップしてみました。

最後にいかにもお正月らしい鏡餅の写真を1枚。

今年も皆様にとって良い年になりますように。


下関港

2018-12-28 06:25:34 | 旅 ~国内

関門橋は山口県下関市と北九州市門司区の間の関門海峡を

繋ぐ道路橋で昭和48年(1973年)11月14日に開通した。

開通時点では日本及び東洋最長の橋であった。全長は1068M、

路面幅26M、海面上141M(主塔)、最大支間幅712Mの吊り橋だ。

関門海峡は大型船舶も航行する重要船路であることから

桁下から海面まで61Mの高さを確保している。

昭和48年には土木学会田中賞(作品部門)を受賞している。

関門海峡には周辺約1.6Mの小さな島だが、有名な巌流島(船島)がある。

宮本武蔵と佐々木小次郎がこの島で決闘したのは

慶長17年(1612年)4月13日のことであった。

現在は海沿いの散歩道なども整備され、誰でも気軽に訪れることができる。

ここに行くには唐戸発と門司発で直行便線路があり、所要時間10分で行ける。

みもすそ川公園前に広がる海は関門海峡の一番狭まったところで

「早鞆の瀬戸」と言われ、潮の流れが速く、

潮流の変化が激しい海の難所。壇之浦古戦場を一望出来るこの場所は

「今ぞ知る 身もすそ川の 御ながれ 波の下にもみやこありとは」

(長門平家物語)という二位の辞世の歌から地名が生じたと

言われている。ここにあるのは義経・知盛の像だ。

この公園には幕末の攘夷戦で外国戦に砲撃した砲台跡もある。

武士の時代は明治4年(1871年)の廃藩置県までの約700年間続いたが

その終わりを招いた明治維新は、同じこの海峡で

勃発した馬関戦争を引き金に始まった。

ここでは100円で発射音と煙の演出が楽しめる。

下関市の対岸の門司の街。詳細は2014-1-20付ブログ、

門司、下関、雲仙の旅を是非参照してください。

カモンワーフと唐戸市場の間にある聖フランシスコ・ザビエルの

下関上陸記念碑。ザビエルは1550年、この地に上陸、

大内氏に布教が認められ、1586年に下関に教会堂が

建てられ布教活動の拠点となった。

下関はもちろん、北九州の食のプロも通う卸売市場「唐戸市場」。

小売も行なっており、一般の人も新鮮な食材を安く手に入れることができる。

残念ながら行った時間が午後2時を過ぎていたので

市場特有の賑わいは既に無かった。

こちらは唐戸市場の近くにある「カモンワーフ。」

レストランや関門の海産物、お土産品など多彩なショップが並ぶ

シーサイドモールだ。ボードウォークから関門海峡が一望できる。

下関の名物といったら「ふく」。ふくバーガーは是非一度賞味あれと薦められた。

領事館の建物としては、現存する最古の旧英国領事館。

明治39年に、建てられ平成26年7月にリニューアルオープンした。

この建物は国指定重要文化財になっている。

北九州空港は福岡県北九州市小倉南区と京都郡苅田町に

誇る人工島に位置する空港(海上空港)で平成18年に開港した。

運用時間は24時間でスターフライヤーが本空港を

ハブ空港(本拠地)と位置付けている。

2017年度の年間利用客数は前年度比17.2%増の164万4049人。

周辺には山口宇部空港、大分空港、福岡空港があり、

利用客の獲得競争が起きている。

空港内に大きく張り出されていた「ギラヴァンツ北九州」の横断幕。

当チームは福岡県北九州市をホームタウンとし

J3に所属している。創設は意外に古く昭和22年。

クラブカラーはイエロー。今年のテーマは「喝!克!勝!」だ。


日清講和記念館と春帆楼Ⅱ

2018-12-27 06:56:42 | 旅 ~国内

http://www.shimohaku.jp/

(2014-1-20付ブログ ~その番外編29~を参照してください)

日清講和記念館は、明治28年(1895年)春に当地で

行なわれた日清講和会議と、下関条約と呼ばれる講和条約の

歴史的意義を後世に伝えるため、昭和12年(1937年)6月

講和会議の舞台となった料亭春帆楼の隣接地に開館した。

講和会議が行なわれた旧春帆楼は昭和20年(1945年)の

空襲によって焼失したが、鉄筋コンクリート造記念館は戦災を免れた。

平成23年(2011年)1月26日には組物や懸魚など

細部に伝統的な意匠を用いた外観が造形の規模となっているものとして

評価され、国の登録有形文化財に登録された。

又平成27年(2015年)4月1日に、下関市立歴史博物館の分館となった。

高台の記念館。春帆楼からは関門海峡が見渡すことができる。

そして、海峡の向こうには九州、門司が目の前に見ることができる。

館内の中央には講和会議の部屋を再現し、当時の様子を紹介している。

床の間に向かって左側奥から伊藤博文全権弁理大臣

(内閣総理大臣)、陸奥宗光全権弁理大臣(外務大臣)、

伊東巳代治内閣書記官長、右側奥から清国李鴻章全権大使

李経芳全権大臣、馬建忠頭等参賛官が座っていた。

ここで使用された椅子はイギリスのバルーンバックチェアの

フレームに黒漆金蒔絵が施され、皇室や国賓のために

用意された最も格の高いものとの事。

浜離宮、鹿鳴館にも備えられていた。

当記念館はコンパクトな建物だが、講和会議で実際に用いられた

調度品、両国全権の伊藤博文や李鴻章の遺墨などが展示してあり

歴史が凝縮して収められている。尚、当館は入場無料。

ここで日清講和会議について詳しく記してみましょう。

明治27年(1894年)夏、朝鮮半島の権益をめぐって対立していた

日本と清国の間で日清戦争が勃発した。

戦況は日本軍の圧倒的優勢に進み、同年11月頃から

清国は講和を模索し始めた。明治28年(1895年)3月19日に

清国の講和使節団を乗せた汽船が関門海峡に停泊。

翌日から下関の料亭春帆楼で日清講和会議が開催された。

清国側は、まず休戦条約を結ぶことを提案。これに対して

日本側は、休戦によって交渉が長期化することを避けるため

過酷な条件を付きつけて提案を事実上拒否。

ところが24日に李鴻章が狙撃されたため事態が急変した。

清国への同情などを理由とした欧米強烈の干渉や、

対日批判などを恐れた日本側が譲歩して、30日に休戦条約が締結された。

講和条約は下関条約とも呼ばれ、清国は日本に朝鮮の

独立承認・領土(遼東半島・台湾・澎湖諸島等)の割譲・

賠償金2億両の支払い等を約束した。尚、遼東半島は直後の

ロシア・ドイツ・フランスの三国干渉によって清国に返還されることになった。

入館したら、たまたま中国からのグループに出会った。その真剣な

表情に近寄りがたい空気があったので、聞いてみたら

中国本土からの大学の研究者の一行らしい。

確かに日中の歴史の中で日清講和、下関条約は重要な出来事。

偏見のない真実を学んで国内で伝えてほしいものだ。

日清講和会議の会場となった旧春帆楼。明治時代初期、

医師の藤野玄洋が開業した月波楼医院を、のちに妻のミチが

改装して料亭兼旅館としたもの。

記念館の隣には赤間神宮があり、ここから入れる。

赤間神宮は源平壇の浦合戦に敗れ、わずか8歳で

関門海峡に入水させた平清盛の孫である安徳天皇を祀っている。

明治28年3月24日、第3回の会議を終えた李鴻章は、宿舎である

引接寺への帰途、小山豊太郎という青年に狙撃された。

負傷した李鴻章には、明治天皇や下関に派遣された陸軍軍医総監

佐藤進による治療のかいもあり、まもなく李鴻章は快復し

4月10日に会議に復帰した。事件後、李鴻章は大通りを避けて

山沿いの小径を往復した。この写真の小径はのちに

「李鴻章道」と呼ばれるようになった。

日清講和記念館の隣りにある史蹟である割烹旅館ふく料理、

ブライダルの下関春帆楼本店(TEL 083-223-7181)。

明治21年にふく料理の公許第1号を取った由緒ある店だ。

今年はご当地の信用金庫の出迎えが無いナーと思っていたら

春帆楼で一挙に熱烈歓迎の歓待を受けた。

西中国信用金庫、萩山口信用金庫、東山口信用金庫に

プラス下関市役所の幹部の方の歓迎エールだ。

地元信用金庫を代表して西中国信用金庫の理事長の

歓迎ご挨拶までいただいた。又、下関市は巌流島のある地で有名で

マスコットキャラクターの「しものせき武蔵くん」と「がんりゅう小次郎くん」の

ウェルカムパフォーマンスまで受けた。

 

それでは昼食の春帆楼ふくコースを写真でご紹介いたします。

ランチとしてはなんと贅沢な食事だろう!

そしてさらに贅沢に昼からふくのひれ酒。熱燗にふくの

あぶり焼きひれが入ると強い香りと独特のコクが出る。

フタを取って火をつけるとボワァーと炎が燃える。

これが会場の風景だ。

屋外には「ふく」のおかげで春帆楼が100周年を迎えることが

できた感謝の心をこめて平成元年9月29日にふくの碑が建立されていた。


元乃隅神社と角島大橋

2018-12-26 06:37:58 | 旅 ~国内

世界が注目する絶景スポットにある元乃隅神社。アメリカのニュース

専門放送局CNNで「日本で最も美しい場所31選」に選ばれ

一躍脚光を浴びている。

長門市観光協会の紹介によると、1955年(昭和35年)に地元の

綱元であった岡村斉の枕元に白狐が現れ

「吾をこの地に鎮祭せよ」というお告げがあったことを元に

太鼓谷稲成神社(津和野町)から分霊されて建立されたという。

全国の稲荷神社を祀る神社が「稲荷神社」と記すのに対し

「稲成神社」の字を充てているのはこのためである。

1987年(昭和62年)から10年かけて奉納された123基の

朱色の鳥居が100M以上にわたって並ぶ景色は圧巻だ。

尚、2019年1月から社名を元乃隅稲成神社からただの

元乃隅神社に改名することが予定されている。

これも神のお告げだそうだ。神社本庁によれば神社の改名は基本的には無いという。

但し、ここの神社は個人の所有のため改名が可能とか。

裏参道出口付近にある大鳥居の中央上部(高さ4M)に

設置された「日本一入れずらい」とも言われる賽銭箱は、

見事賽銭を投げ入れることが出来れば願いが叶うと言われている。

何度トライしてもとうとう一回も入れることができなかった。

 

神社から日本海側に見下ろした先には断崖下の海蝕洞に荒波が

打ち付ける度に海水が中の空気と一緒に吹き上がる現象が見られる

「龍宮の潮吹」がある。この日は比較的海が静かだったので

一回だけしか潮吹が見られなかった。

一番下の鳥居が始まる所から先端にかけて、一種独特の

不毛な砂漠の様な場所があり、印象的であった。

海土ヶ瀬公園は角島の入口に位置し、角島大島を一望できる

絶好のビュウポイントだ。角島大橋は平成5年9月に着工し

平成12年11月に開通した無料で渡れる一般道路としては

日本屈指の長さ(1780M)だ。総工費は149億円。

北長門海岸国定公園内に位置することから、橋脚の高さを押え

周囲の景観に配慮した構造となっている。また架橋ルートの選定にあたっても

自然景観保護の観点から島を迂回する現在のルートが採用された。

このような取り組みが評価され平成15年(2003年)には

「土木学会デザイン賞」を受賞している。

完成後はその景観から山口県の新たな観光名所となっている。

又テレビCM、特に自動車の2015年旅行サイト

「トリップアドバイザー」の「口コミで選ぶ日本の橋ランキング」で1位に選出された。

CM(レクサス、GS450n、三菱ギャランフォスティス、スズキ・スイフトなど)の

ロケ地として多く採用されている。

角島大橋周辺の海は貝殻が砕け散った残骸が海底に堆積した

白い砂で、その上海水が澄み切っているため、太陽光の加減で

エメラルドグリーンから紺碧色まで微妙に色合いが変化していく。

道の駅、北浦街道豊北。ここは開駅して6周年、

トリップアドバイザーの旅好きの口コミで選ぶ道の駅ランキング2018で

なぜか全国1位になっている。ここのキャッチコピーは「海と夕日に出会う丘」

展望台からは遠くに角島大橋の全容が見える。

眼下には和久漁港があり、下関市豊北町をはじめ、北浦エリアで

水揚げされたばかりの豊富で新鮮な魚介、採れたての果物や野菜など

四季折々の海の幸、山の幸が楽しめる。


萩の明倫学舎と萩の街Ⅱ

2018-12-22 06:52:29 | 旅 ~国内

是非2017-2-20付~2017-2-22付ブログ(城下町萩を歩く

~その1~から~その3~)を参照してみて下さい。

明倫館は長州藩校で日本三大学府(水戸の弘道館、岡山の閑谷学校)の

一つと言われている。1718年(享保3年)、萩藩五代藩主

毛利吉元が萩城三の丸に創建したものだ。

この門は正門として建てられた南門。

その後敷地内に明倫小学校が建設され、昭和4年(1929年)に

国の史跡に指定された。明倫小学校の木造校舎は

平成26年(2014年)まで使用された。萩明倫学舎は

本館と2号館から成り2号館は有料となっている。

2017年(平成29年)3月に敷地一帯が明治維新150周年記念事業として

設置された萩市の観光拠点施設「萩明倫学舎」となった。

藩校跡に建つ日本最大の木造校舎が

まさに萩の新たな観光起点に生まれ変わった。

この中庭庭園の設計テーマは「つなぐ」。

庭の骨格を成す石材、石造品の多くは、かつて長府藩の陣屋として

幕末時に居城された「勝山御殿」(現下関市)にあったものだ。

これに吉田松陰誕生地(萩市椿東)付近の山裾から選び出した崖石、

飛石などを合わせて用いている。

萩物語。伝えたい物語がここにある。当学舎では無料で

館内ガイドをお願いすることが出来る。所要時間は40分~1時間。

ガイドさんは皆、萩に対する愛情がいっぱいの人達だ。

学舎は幕末、維新期の歴史、科学技術史の貴重な実物資料展示の

幕末ミュージアムと日本の産業革命の夜明けは

萩から始まったとする明治日本の産業革命遺産を紹介する

世界遺産ビジターセンターに分かれている。

「西の雅常盤の女将劇場」でも紹介したが明治の工業化政策を

索引した長州ファイブの詳しいコーナーがあった。

彼らは「生きた器械」になって帰国するとの決意を抱き

ジャーディン・マイセン商会の仲介で横浜港から

4ヶ月以上かけて現地に渡った。彼らはロンドン大学の

聴講生と成って分析化学を中心とする自然科学系の授業や実験に参加し

又、工業国の実状を見聞した。伊藤博文、井上馨が

自然化学系の勉強をしたとは知らなかったナー。

世界遺産ビジターセンターには吉田松陰が開いた

松下村塾の再現コーナーもある。意外に知られていないが

吉田松陰は我が国の工学教育に果たした役割は大きく

映像やパネルアニメーションなどを使って工学教育の先駆者

吉田松陰を分かり易く楽しく紹介している。

学舎の窓からは、槍・剣道場として藩士の練武のほか、

他国からの修業者との試合場でもあった有備館が見える。

坂本竜馬もここで試合をしたと言われている。

他に敷地内には水練池、聖賢堂などの遺構が残っている。

幕末ニュージアムでは、従来史実で語られてきた在来技術から

近代技術への発展の歩みを実物資料(器物、大砲、鉄砲、軍装など)

で紹介している。・・・・おがわ是苦集=小川コレクション。

明倫学舎の隣に新校舎を建設した萩市立明倫小学校の校舎。

意匠も旧校舎に馴染む様なデザインにしているような気がする。

阿武川デルタの北西端に突き出た標高143Mの指月山(しづきやま)。

天然の要塞と呼ばれるこの山には萩城の詰丸が

築かれ城内と海を監視していた。山頂まで登山道があり、

徒歩20~30分ほどで登れる。城内林は温暖帯照葉樹林として

国の天然記念物に指定されている。

萩城は慶長9年(1604年)に毛利輝元が指月山麓に築したことから

別名指月城と呼ばれ、山麓の平城と三朝の山城とを合わせた

平山城で、本丸、二の丸、三の丸、詰丸からなっている。

本丸には五層の天守閣があったが、

明治7年に建物は全て解体され、現在は石垣と堀の一部が昔の姿にとどめ

ここ一帯は国の史跡に指定されている。

又城址は春、500本のソメイヨシノが咲き誇る桜の名所となっている。

高杉晋作誕生地の近くにある「晋作広場」に平成22年10月建立された

「高杉晋作立志像」。晋作20歳をイメージして創られたと言われている。

周りの雰囲気も古風で明治の日本に迷い込んでしまった様な感覚になる。

伊藤博文は高杉の一の子分で、伊藤曰く「動けば雷電の如く

発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢えて正視するもの莫し。

これ我が東行高杉君に非ずや」と。

高杉晋作は幕末最高の変人とも言われている。

萩の夏みかんは明治9年に小藩高政(おばたたかまさ)によって

生活の術を失った士族たちを救うために、広く栽培された。

園地は主に空き地となった武家屋敷でした。その結果

武家屋敷の敷地割がほぼ江戸時代のまま保たれ、

城下町絵図を手に現在の萩の町を歩くことができ

観光面において、「夏みかんと土塀」は萩の代表的シンボルとなっている。

萩の街では到る所に萩焼のお店がある。こちらは武家屋敷の

路地の空き地の中でテントを張って萩焼陶器の販売をやっていた。

窯元直の店のようでおそらく安く売っているのだろう。

さすがさいしんいきがい大学、松下村塾の部屋に上がり

松陰神社宮司さんの講和を聞く機会を得た。

松下村塾に上がるだけでも特別なのにそこで宮司さんの話を聞けるとはスミダマン感激!!