興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

存在と関係性

2006-10-22 | プチ精神分析学/精神力動学

人間誰でも、自分という人間の「存在」について
考えるものだと思う。この「存在」について、
いつも考えている人もいれば、滅多に考えない人も
いるけれど、多かれ少なかれ、私たちは自分の存在に
ついて考える。

古今東西、数知れない哲学者達によって、「存在」は
議論され続けてきた。しかし、「存在」の定義や捉え方は
様々で、決して満場一致の見解はありえない。それだけ
本質的に深遠で難解で、個人的なものなのだろう。

今回取り上げる「存在」も、そうした無数にある
「存在」という概念の中の一つに過ぎないけれど、
臨床心理学、とりわけ、こころの健康について考える
とき、それは大きな意味を持ち始めると思う。

デカルトが、「われ思う ゆえに我あり」と言ったのは
余りにも有名だけれど、現代人、特に日本人の間で近年
特に多く見られる「自分探しの旅」は、こうした「自分」
という「個」に重点を置いた存在を前提にしている場合が
多いように思う。

残念ながら、多くの場合、こうした「自分探しの旅」は
どこまで行っても終わりがない。ぐるぐるぐるぐるぐる
堂々巡りが続き、それなりに「任意」の結論をだして
満足して旅を終える人もいれば、「自分探しの旅こそが
人生の目的だ」と、生涯かけて自分探しの旅を続ける
人もいる。

いずれにしても、「自分の存在」について、何かしら
ポジティブな認識を持っていればそこに問題はないの
だけれど、問題は、自分という存在について考えすぎて
精神に支障を来たして来る人が少なくないことだと思う。

このように、「自分の存在」について考えてどつぼに
はまっていく人の意識は、常に「自分」に向いている。
「自分」の世界に入り、自分とは何かという終わりのない
モノローグが自分の中で展開され、そこには何の外的
フィードバックの介入もない。外的刺激のない、内向的な
内省は、自己批判的になりがちで、歯止めも利きにくく
なる。

ここで問題なのが、そもそもの「自分の存在」における
捉え方である。この場合において、「存在」とは孤立した
「個」に限定されているけれど、実際のところ、人間の
存在とは、他者との関係性によって形成され、定義される。

これはつまり、「他者という存在があるゆえの、
自分という存在」という考え方で、人間は元来対象希求的な
生き物で、他者との関係性を築くことに動機付けられて
生きている、という対象関係論(Object Relations)とも
通じる考え方だ。

精神分析の歴史の始まりに、フロイトは、「人間は本質的に
性的な欲求によって動かされている」と、セックスに
重点を置いた、サイコ・セクシュアルな理論を展開したが、
時代の推移とともに、「むしろ人間は、他者との関係性を
持つことに動かされて生きている」という、対象関係論や、
自己心理学の方が精神分析論の主流になり、今日に
至っている。

対象関係論においては、人間がセックスをすることも、
「それが本能だから」とするのではなく、「他者との
繋がりの一つの形態」として捉えるわけで、セックスは
人間にとって重要であるけれど、何より大切な訳ではない。

このように、人間の「存在」とは、現代の精神分析論的に
みると、「他者との関係」の中で形成されるものだ。

実際、人は他者との関係に夢中になっている時に、
「自分とは何か」などと考えないものである。なぜなら、
考えるまでもなく、その関係性のなかに自分は含まれて
存在しているからだ。関係性の中に存在が含まれている
時に、人間は幸福や喜びなど、良性の感情を体験する。
このときに、その人間の目は、「外的世界」に向けられて
いて、自分を取り巻く環境と繋がっている。

このときに、関係する相手が変われば、関係性も
変わるわけで、「存在」の形も定義も変わってくる。
そうした様々な関係性の集積が、つまるところ、
「自分の存在」なのだろう。

この意味における「人間関係」に、何らかの理由で
問題が生じたとき、つまり、関係性が脅かされたとき、
その中に含まれる「自分という存在」も脅威にさらされ
人は「自分とは何か」について考え始めるのかも知れない。

人は、自分の存在が危うく移ろい始めたときに、
「存在」について深く追求し始めるのかも知れない。