興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

行動化 (Acting Out)

2014-03-25 | プチ精神分析学/精神力動学

  少し前のニュース(*)で、ピカソの名画『夢』の所有者の資産家が、長年所有していたこの作品を他人に譲ることが決まり、いよいよという時になって、うっかりよろめいてこの絵に肘鉄を入れて破いてしまい、契約が駄目になったいうものがありました。

 「よりによって、なんてドジな」、などという人が多いですが、この話、私としては非常に興味深いです。 特に、このオーナーが長年愛して已まなかった 作品で、いよいよお別れ、というそのタイミングだっただけに、精神分析学的には、明らかな行動化 (Acting Out) が推測されるわけです。

 行動化とは、人が、様々な 言語化できない 無意識の心的葛藤を、文字通り、行動(Action) によって(うっかり)表現することで、当の本人はその行動を意識的に、意図してやっている わけではありません。

 ある人との約束をうっかりすっかり忘れて すっぽかしてしまったり、何かのサービスを受けてお金を払い忘れたり、何かの予定を寝過ごしてしまったり、誰かに連絡しようとしたら連絡先の書いてあるメモをなくしたり、 会議の前夜に熱を出したり、デートしていて 間違えて昔の恋人の名前を呼んでしまったり、 行きたくない目的地に向かっている時に事故を起こしたり、パチンコに夢中になっていて子供を車の中に置き去りにしていることを忘れてしまったり、乗り気でないプロジェクトの文書を作成中誤ってデータを消去してしまったり・・・と、枚挙にいとまがありません。

本人にとっては、

「あぁ、やっちゃったぁ。どうしてかなぁ」

っていう、一見うっかりミスのように見えることが実は無意識の願望や、葛藤や、受け入れがたい想いがそうした形をとって表現されるわけです。前にも言いましたが、私たちの無意識に抑圧された思いは、その無意識の圧力釜のなかから、常にはけ口を探しています。

そこでひとは、Act 「行動」で、Out(気持ちを外に)「出す」わけです。

そして、少なくともこころのどこかで不本意であったその計画や対象は、こうした突発的な「間違い」によってサボタージュされたり破壊されたりします。意識している思いと、意識できない相反する思いが同時に存在していて、そのバランスが保てないと、こういう現象が起きます。

本当に単純なうっかりミスなのか、そこに何かしら本質的な意味があるのは、やはりその行動の起こったタイミングだとか、様々な背景的な状況などが判断材料になりますが、このオーナーのピカソの『夢』への肘鉄は・・・


このオーナーはやはり、大切な『夢』とお別れしたくなかったのでしょう。

そして、行動の結果、「夢」はその所有者のもとに留まることになりました。 でも、このオーナーさんが、『夢』は本当に大切で、どんなに大金積まれても売りたくないんだ、という気持ちをもっとはっきりと意識できていたら、彼はあるいはその大切な『夢』を傷つけずに所有し続けられたのではないかと思ったりします。

そういうわけで、自分でも不可解な、「え~なんで!?」というミスを犯した時、その根本的な心的要因について自己分析してみると、普段得られないような気付きが得られたりします。行動化は、無意識からの貴重なメッセージです。

もしあなたが最近このような、不可解なミスをして、しかしその理由が見つからずに混乱していたり、また、このようなミスをなぜか繰り返してしまい困っていましたら、私のところに来てください。こうした問題の解決には、精神分析的精神療法がもっとも効果的です。
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(オリジナル 2006年11月1日 執筆)

(*)2006年11月の時点


自分との距離~disidentification(脱同一視化)

2014-03-14 | プチ精神分析学/精神力動学

 人間誰でも、辛い経験をしていたり、困難な状況に立たされた時、鬱感情に襲われたり、強い憤りを感じたり、生きづらさを感じたりします。 その状況や経験の度合いによっては、人は時に発狂しそうになったり、消えてしまいたくなったり、耐え難い屈辱感や怒りや罪悪感などによって精神に支障をきたすこともあります。

 いずれにしても、生きていれば誰でもどうしようもない生き辛さを経験することはあります。

 しかし、なぜ人間はそのように、耐え難いほどの悪感情を経験して苦しくなるのでしょうか。

 その原因のひとつに、自分との過剰同一視 (Over-identification)というものが考えられます。過剰同一視というとあまり馴染みがないけれど、同一視という言葉は聞いたことがあるという方は多いと思います。

 同一視とは、たとえば、私たちが小説や映画などを面白いと感じている時に必ずその中の登場人物の誰かに感情移入しているもので、 この「誰かに感情移入すること」が、同一視(Identification)と呼ばれます。このときに、あなたがあまりにもその登場人物の誰かにのめりこみ過ぎて、その物語の人物と、一ミリの隙間もないほどに同一視する状況を、過剰同一視といいます。このようなときに、あなたはその登場人物の敵に対して強い怒りや不快感を感じたり、味方に対して親近感や愛着を覚えたりします。お分かりのように、これは私たちの日常生活でも自然にみられるものです。

 逆に、何らかの理由で小説や映画などのいずれの人物にも同一視できないとき、私たちはその作品をつまらなく感じます。これはドキュメンタリーの作品にありがちですが、良いドキュメンタリー映画は決まって、上手に視聴者の同一視を引き出します。

 いずれにしても、同一視とは私たちが日常の中で広く行っているもので、普段の人間関係の中に同一視という心の働きは常に存在しています。

 ところで、誰かが傷ついたり困ったりしている時に、その人の立場になって、話を聞くときに起きている「共感」という現象が起こるためには、同一視が不可欠なのですが、これが行き過ぎて、「かわいそう。なんとしても自分がこの人を助けないと」と思うのが、「同情」の心理で、これが過剰同一視となります。 このとき、あなたはその人との間に十分な距離がありません。その人の問題を、まるであたかも自分の問題のように錯覚している状態です。

 このように、私たちは常に自分の周りの他者に多かれ少なかれ同一視しているわけですが、人間、他者にする以上に強い同一視を自分自身にしていることは意外と忘れられがちです。

 人間誰しも、自己愛(ナルシズム:自分を大事に思う気持ち)を持っているけれど、この「自己愛」が傷ついた時、私たちは怒り、悲しみ、憎しみ、恥、罪悪感などといった悪感情を経験します。

 私たちが辛さを感じる時というのは、この自己愛の影響によって、自分という存在に過剰同一視してしまっている時だと考えることもできます。というのも、辛いのは、悲しいのは、苦しいのは、自分という人間が大切だからです。自分に対して怒りを感じたり自己嫌悪を感じるのも、自分という存在が自分にとって重要であるゆえに起こることです。

 例えば、自分の子供に不満を感じるのは、その子供が自分にとって大切で、「関係がある」ゆえのもので、全く面識のない赤の他人の子供にはそうした不満は通常抱かないものです。

 さて、前置きが長くなりましたが、今回のテーマである、disidentification (脱同一視化)という概念はここから一段上のものです。

 自分が大切だから、自己愛が強すぎるから、人間は極度に怒ったり悲しくなったり傷ついたり、あらゆる負の感情を経験するわけですが、そういう時、 人は、自分自身の感情や自らの置かれた状況を客観視できなくなっています。心の余裕がなくなってしまっています。

 この生きづらい状況からうまく脱出する方法は、「自分自身をその状況から少し引き剥がしてみる」ことです。これが、「自分との距離」、つまり 「脱同一視」だけれど、言ってみれば、自分と自分の取り巻く人々や状況を、もう一人の自分が上から静かに観察することでもあります(このためのテクニックとして、少し前に紹介した12個の『認知のゆがみ』について自覚することも効果的です)。

 まるであたかも、物語でも見ているかのように、自分自身を「観察」してみます。

 この「脱同一視」とよく似た現象で、精神病理の症状に、「離人症」(Depersonalization)というものがあります。これは、「自分が自分でない様に感じる」 、「自分の経験していることがまるであたかも他人のしていることのように感じる」という自我の脆弱性に起因するもので、「解離性障害」と呼ばれる精神障害のひとつです。ここで、精神病理である 「離人症」と、健全な「脱同一視」の大きな違いは、そこに「Awareness:自覚と気付き」 が存在するかどうかです。

 離人症の人は、過度のストレスを感じると、まるであたかも幽体離脱のように、自分自身から気持ちを切り離すという防衛機制が習慣化してしまった状態です。これは無意識に起こるもので、その人のコントロールを超えていて、制御できるものではありません。

 反対に、脱自己同一視というのは、自身の意思によって能動的に行われるもので(たとえば有能な心理カウンセラーなどは、これが訓練によって習慣化されています)自我の超越によって起こります。

 ところで、マザーテレサなど、自己実現(Self-actualization)した一部の人間は、 無我(Selfless)という境地に達していると言われていますが、自己愛の解消、自我のマスター、脱自己同一視の先にあるのがSelflessの境地で、「自分がない」と言われる、自我の脆弱性と、 自己実現の現れの「無我」は、一見似ているようで、大きく異なるものです。

 セルフレスの境地には、成功も失敗も、勝ちも負けもないと言われています。自己愛が解消されてしまうと、人間のこころは極限に自由自在になるといいます(「勝ち組」とか「負け組み」とかいう世間の概念も、人間の自己愛の仕業です) 。

 それは、人生の熟練者のたどり着くところであり、歳をとれば誰でもなれるものでもないけれど、そうした自己実現へのステップとしても、 脱同一視化、つまり、自分と距離を置いて、客観的に自分を観察する練習をしていくのはとても有意義なことだと思います。自己実現は別として、脱自己同一視化によって、ずっと生きやすく自由になれるのだから普段の生活のいろいろな機会に意識して練習していくのはうまく生きる秘訣のように思います。「ああ辛いなあ、苦しいな」、と感じるときに、「今、苦しんでいる自分がいる」、と自分自身を少し客観視してみることで、がんじがらめにならずに、何か新しい解決策が見えてきたりするわけです。

(オリジナル:2006年12月4日 執筆)


セクハラの心理学~勘違いしやすい男と疑り深い女~(Psychology of Sexual Harassment)

2014-03-14 | プチ進化心理学

 男性は、女性と比べると、「勘違いしやすい」とは昔からいわれていますが、これは心理学的な観点からみると、どうなのでしょう。ここでいう「勘違い」とは、ストレートの男性が、異性の友人、同僚、部下、生徒などとの交流において、ある種の曖昧な状況下での好意に対して、「この人俺に気があるのかな」と錯覚するという現象です。あなたが女性であれ、男性であれ、今までの経験を思い起こしてみて、確かにそれはあるかもしれない、と感じる方は多いのではないでしょうか。また、これとは反対に、女性の場合、同様に曖昧な状況での男性の好意を、「このひと何か下心あるのかな」と、男性に比べて感じやすい、という感覚も、言われてみるとしっくりいくものではないでしょうか。

 さて、このようにあなたが普段経験的に感じているかも知れないこれらのことは、実際に、脳の構造における男女の違いによるものであることが知られています。それでは、この男女における認知の違いはどこから来ているのでしょう。

 これは進化心理学(Evolutionary Psychology)の話ですが、人間の様々なほとんど無意識的な行動は、あらゆる他の動物たちと同じように、種族保存や、子孫繁栄に有利なように、プログラムされていると言われています。

 自分の遺伝子を次世代にいかにうまく残すか、これはあらゆる生命の原点だけれど、人間も、その長い歴史のなかで、様々な戦略をとってきました。自分の遺伝子を残すには、同性のライバルとの競争に勝たなければなりません。

 この競争において、男達の場合、一番有効な手段は、身も蓋もないお話ですが、できるだけ多くの女性と子供を作ることです。文字どり、「蒔かぬ種は生えぬ」、男は種を植えつけなければなりません。よって、男達は、その「種を植えられる可能性」には常に敏感でなくてはならなかったのです。「目の前の女が自分に気があるかも知れない」。その子孫繁栄のチャンスを逃さななかった男達がわれわれの祖先であり、男の脳はそのようにプログラムされている、ということです(脚注1)男は相手のその曖昧な気持ちを見逃さないようにしなければならなかったのです。このように男性の認知は発達したと考えられていますが、これはキッチンのスモークセンサーにもたとえられます。

 キッチンのスモークセンサーの誤作動には2種類あります。一つ目は、よくあることで、センサーが過敏であるため、火事でもないのにアラームがなるケースです。これは、うるさくて不便ではあるけれど、大して害はありません。本当にまずいのは、2つ目の問題で、実際に火の気があるのに、センサーがならない場合です。このFalse negativeがもたらすダメージは、前者のFalse positiveと比べものにならないくらいに大きいでしょう。

 つまり、男性の異性に対する認知は、台所の過敏なスモークセンサーのようになっています。勘違いしてなんらかのアクションを起こして失敗するよりも、本当に自分に気があった女性との性交渉のチャンスを逃すほうが、生物学的なダメージはずっと大きいわけです。

 さて、女性の場合、確実に自分の遺伝子を次世代に残すための戦略は、男性のものとはだいぶ異なります。

 古代に、うまく自分の遺伝子を残せた女とは、自分と自分の生んだ子供に対して誠実で貢献的な男を選んだもの達だったといわれています。昔から女にとって、妊娠、出産、その後の子育ては本当に大変なことでした。そのため、誠実なパートナーのサポートがどうしても必要だったわけです。そのなかで、女達が身につけたのは、男の下心を見抜く力でした。ただセックスしたいだけの男と子供を作ったときのダメージは計り知れません。女は、子を産んだ後も、その子を健全な大人に育てる必要があります。その子がさらに次の世代に自分の遺伝子をつなげるわけですから。そういうわけで、女の男に対する認知は、とても慎重で用心深いものなのです。

 このような理由で、男は勘違いしやすいく、女は疑い深いといわれています。女性の方は特に、「なんでこの人こんな自信過剰なの」とか、「この人なに勘違いしてんの」と思う男性が近くにいませんか。

 興味深いことに、セクハラ的な言動をとる男性の多くは、女性との温度差に気付かないで、「まさかそれがセクハラになるとは思わなかった」と驚くことが多いです。相手も自分に好意を抱いていると思って、親しみや馴れ合いのつもりでそんな行動に出てしまうのです。女性はもともとこういう人たちには警戒しているから、その温度差はますます大きくなったりします。(中には、相手が自分に好意がないのがわかっていて権力などを利用して迫ってくる人もいますが、そういうひとは本当に困ったものです)。

 「男は女の好意を勘違いして受け止めやすい」と、男性が自覚していると、このようなセクハラ言動は起き難くなるし、せっかくの良好な関係や友情がぶち壊しになったり、ギクシャクしたりする可能性もずいぶん減ることでしょう(脚注2)しかし認知というのは、ほとんど無意識のレベルで、自分にとってとても自然なものなので、それを変えていくには普段からの意識的な努力と自覚が必要です。女性のほうでも、「男にはこういう傾向がある」と分かっていると、相手が勘違いする一段階前のあたりで歯止めをかけたり、軌道修正したりして、望まない男性のアプローチの確率を軽減することもできるかもしれません。しかし、人間は、性格など含めて、本当にいろいろな人がいて、それぞれ異なった感覚をもっているので、会社などではやはり、「どういう言動が、セクハラに該当する可能性があるのか」についてみんなである程度の同意や基準点を把握しておくのも必要です(脚注3)

(オリジナルは2006年9月5日執筆)


(脚注1)進化心理学の最大の問題点のひとつに、社会的、文化的、時代的な要素があります。進化心理学は、全人類共通に見られる人間の行動について研究する学問ですが、実際のところ、我々の認知や行動に対する文化的、社会的な影響力というのは強力で、ときに遺伝子的な性向を上回るほどです。たとえば、我が国日本の現代の若い世代の男性には、とても繊細で敏感なひとがたくさんいます。「草食男子」などという言葉がありますね。この人たちに、この記事のようなプログラミングはなかったのかというと、そうではなくて、彼らが育った家庭環境や、学校、社会などの外的な影響により、進化心理学ではあまり説明ができない新しい行動をとる人たちがでてくるわけです。

(脚注2)逆に、草食男子で、すでにそうしたニュアンスがわかり、慎重すぎるというあなたは、アクションを起こしましょう。あなたが何かを感じてアクションを起こしたときに、うまくいく可能性は高いです。

(脚注3)最後に、進化心理学ではなく、臨床心理学、産業心理学観点から。実はこれが一番大切です。セクハラに関して、「相手が不快感を経験したり、嫌な思いをしたら、あなたの意図とは無関係に、その言動はセクハラに当たる」ということを自覚しておくのは、あなたの大切な人間関係、それから社会的地位を守るためにも大切です。また、あなたが、相手の意図が何であれ、「それがあなたにとって不快で、あなたが辛い思いをしたら、その行為はセクハラである」、ということを覚えておきましょう。そして、必要があれば、該当する部署に言って報告しましょう。あなたの人権は、あなたが守る必要があります。直接そうするのが難しかったら、まずは信頼できる誰かに相談してみましょう。これはあなたが男性で、加害者が女性、または男性の場合も同じことです。セクシャルハラスメントに性別はありません。


セルフ・ハンディキャッピング( 自己ハンディキャッピング、Self-handicapping)

2014-03-12 | プチ性格心理学

 期限付きの仕事や創作活動、試験勉強、論文や課題、プロジェクト、イベントの準備などに取り組んでいる人にしばしば見られる不適応に、セルフ・ハンディキャッピングという現象がある。ハンディキャップとは、ご存知のように不利な条件のことで、これは読んで字の如く、自己にハンディキャップ、不利な条件を与える、という行為だ。一種のセルフ・サボタージュともいえるものだ。
  
 具体的にこれはどういうことかというと、良かれ悪しかれはっきりとした結果のでるプロジェクトに取り組んでいる人が、意図的、或いは無意識的に、何かしら自分にとって不利になる条件を取り入れて、成功する確率を下げてしまう、ということだ。

 たとえば、大学入試の試験勉強に取り組んでいる人が、お金に困っているわけでもないのに12月に入って突然アルバイトを始めたりする。或いは、長期の旅行に行ったり、友人たちと連日遊び歩いたり、勉強はそっちのけで、問題を抱えている恋人を助けることに没頭したりする。絶対的な勉強量が不足したり、意識が別の方に向いてしまっているので、明らかに受験生にとっては好ましくない状況である。興味深いことに、こうした行為にでる人の多くは、能力はあり、きちんと努力すれば望んでいる結果を出せる人たちであるということだ。
 
 なぜ彼らはこのように自分で自分の首を絞めるようなことをするのだろう。

 矛盾するようだけれど、彼らはこのように自分を成功しにくくすること、自分を貶めるようなことによって、自分を守っているのだ。なぜなら、このように、(うまくいかない)「環境的、外的」な要因、理由を設けることで、実際に失敗したときに、自分の能力の問題ではなくて、外的、環境的な問題があったから失敗したのだと結論付けることで、自己疑念という根本的な問題と向かわずに済むからだ。「もう少し準備する時間さえあったら、うまくいっていた」、「もう少し心の余裕があったらうまくいっていた」、という素晴らしい言い訳が成立するのだ。このトリックのさらに素敵なところは、逆にこのような不利な条件下で事がうまく運んだときに、「あれだけ不利な状況だったのに、自分は成功した!」、「やっぱり自分はすごい!」、「もっと時間があったらもっと自分はできたんだ!」、と、さらに自己愛を満たす材料も同時に提供されている、ということだ。

 このように、「どちらに転んでも」、「それなり」のメリットがあるこの戦略は、常に「それなり」の報酬、つまり、自己愛の保護、或いは促進、という機能があるので、強化され、永続されがちとなる。意識しなければ、これは人格に組み込まれ、ごくごく自然にいろいろな場面で展開されることになる。

 問題なのは、こうした戦略をほとんど無意識的に常套手段としている人たちは、いつまで経っても自分ときちんと向き合うことができないし、失敗する恐怖、自分の能力が期待していたほどでないかも知れないことに直面する恐怖に直面して、その中で本当に努力することでしか手に入れられない本当の充足感、満足感、深い自己受容、潜在能力の引き出し、といったものを経験することもないことだ。
 いつまで経っても、「自分は本気になりさえすればすごいんじゃないか、でもそうでなかったらどうしよう」、という境地のまま、何か大きな飛躍を経験できずに時間を過ごしてしまう。
 失敗したり、自分の「現在の」能力を失敗によって正確に把握することで、能力は高められ、将来の成功の可能性は高められるわけだから、その「どちらでも一応大丈夫」という安全圏から抜け出さないと、本当のことは始まらない。それから、実際にやってみるとわかるけれど、今まで恐れていたようなものは、実は幻想であって、実体のないもので、現実はそれほど怖くも悪くもないのだ。本当に恐ろしいのは、努力しきれないライフスタイルを続けているうちに、好機を逃してしまう、ということだと思う。

 以上は割りと分かりやすい例だけれど、もっと見えにくいセルフ・ハンディキャッピングの例として、たとえば、恋人とのコミュニケーションにおいて、本当はもっと連絡を取らなければいけないことが分かっている状況や、もっと話し合いが必要だと認識している状況で、なぜかそうしない、そうできない、ということが考えられる。
 コミュニケーションをおろそかにすることで、恋愛関係の消失、破局の確率は高くなるのだけれど、実際に関係がうまくいかなくなったときに、自分の性格、能力、容姿など、個人的な要因ではなくて、コミュニケーションが足りなかった、という表面的な理由で自分とも相手とも向き合わずに済むということだ。それで破局が訪れたら、その人はもちろん傷つくけれども、実際に相手と向き合って駄目だったときの破局と比べたら、その傷はずっと少ないし、同時に、向き合って失敗したことで成長できる機会も逃してしまっている。そこで何とか自尊心が守られたので、そのパターンが無意識的に繰り返されていったりする。 また、見捨てられる恐怖、嫌われる恐怖を強く経験している人が、いざ嫌われたときに、「コミュニケーションが足りなかった」、という理由が存在することで、それ以上内省することもない。
 逆に、コミュニケーションが足りない中でなんとなく恋愛が続いていたら、「これだけコミュニケーションが不足しているのに自分達はうまくやっている。もっと話し合ったらもっと関係はよくなるかもしれない」、という可能性を可能性のまま温存して心の平衡を保っている、という可能性もある。

 このように、具体例は枚挙に暇がないけれど、ひとつ共通して言えるのは、セルフ・ハンディキャップを続ける限り、その人の自己愛や自尊心は適当に守られるかもしれないけれど、本当に欲しいものは永遠に手に入らない、ということだ。それは文字通り、長い目で見ると、自分を損なわせる行為である。

 (オリジナル執筆日:2011-12-23 20:59:18)

***より踏み込んだ内容をお読みになりたい方は、こちらの記事をご覧ください: https://note.com/taka_psych/n/ndcb2028c864e


セルフハンディキャッピングは、一般論としては、分かりやすく、理解しやすい概念だけれど、これが個人レベルで、どのようにあなたの人生をサボタージュしているのか本当に深いところで認識するのはなかなか大変です。というのも、人は、ひとりひとり、全く異なった家庭環境で育ち、学校における体験なども、ひとりひとり、とてもユニークなものなのです。そうした中で、ひとは多かれ少なかれ、何かしらのトラウマを経験しますが、あなたがどのようなことで、どのように傷を受け、何にコンプレックスを感じ、そうした中で、どのようになんとか自分を守ってきたのか、そうしたことは、実際はとても複雑で、また、これは無意識的に作用している部分が多いので、盲点は少なくありません。

これはあなたの人生に有害に働いていると同時に、あなたのこころの安定を保っているもので、ゆえに、ここから脱出するには、適切な理解、洞察、サポートと、この自己防衛に取って代わる、健全な新しいチョイスが必要です。もしあなたが今、この問題で自分が困っていることに気づいて、なかなか抜け出せずに困っていたら、私のところに気軽に連絡してみてください。実際に、私のオフィスに来て、何度か心理カウンセリングに参加してみるのもいいですし、これが一番いいのですが、それが億劫でしたら、メールセラピーやスカイプセラピーを試してみるのもいいと思います。

メールセラピーにおいては、もちろん秘密厳守であるため、あなたはもっと個人的なところで、どういうことに悩んでいるのか、私に伝えることができます。それについて私が丁寧に回答するやり取りが、1回のサービスで2往復まで可能です。私のブログの文章が、あなただけの個人的な自己改善マニュアルになります。どうか、ひとりで悩まないでください。私はいつでもここにいて、あなたをサポートします。メールセラピーについては、こちらの記事、http://blog.goo.ne.jp/smf405/e/d1c75907a27367f015a29f3c51336019を参考にしてください。


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アメリカで心理学者になる方法

2014-03-11 | アメリカで心理学者になる方法

 せっかく心理学を学ぶのであれば、本場アメリカで学びたい、という方は結構います。ついこの間も、日本の大学で心理学の学士号を取ったものの、もっと専門的なことは本場アメリカで直接学びたい、という学生さんにお会いしました。

 しかし、実際にどうやったら心理学者になれるのか、そういう人たちも意外とご存知でないようなので、今回は「アメリカで心理学者になる方法」について書いてみたいと思います。

 とくにここでは、臨床に携わる、臨床心理学博士になるためのプロセスについて説明します。

 まず、日本と異なり、心理学者(Psychologist)と呼ばれるには心理学の博士号保持者(Ph.D., Psy.D., Ed.D.)であることが必要で、実際、博士号のない人がアメリカでPsychologistと自称すると、法に触れます。

 日本の臨床心理士のように、修士号保持者のセラピストは、アメリカ(カリフォルニア州。州によって、修士号レベルのサイコセラピストの名称は異なります)では、Marriage and Family Therapist(MFT)、 Licensed Clinical Social Worker (LCSW)など、別の資格が与えられます。

 また、免許を取り締まっている機関も別で、Clinical Psychologistは、Board of Psychology(BOP)という機関であるのに対し、MFT, LCSWは、Board of Behavioral Science(BBS)という機関です。

 日本の臨床心理士資格認定協会の「臨床心理士」を英語にすると、Clinical Psychologistになりますが、アメリカのClinical psychologistは、博士号に基づくもので、社会的にも精神科医と同等レベルの扱いで、もちろん心理カウンセリングに保険が適用されます。

 また、Clinical psychologistが薬を処方できる州も増えています。刑事訴訟の精神鑑定などをするのも、Forensic Psychologist(法廷心理学者)という、特化した分野のClinical Psychologistの領域で(日本では精神科医が精神鑑定をします)。

 つまり、日本の臨床心理士と、アメリカのClinical Psychologistは、全く異なるものです。

 ただ、心理学者になるためには、博士号のため、4~6年掛かるのに対し、MFTやLCSWは、修士号でよいため、2〜3年で卒業できます。知識や訓練的に言えばもちろん心理学者のほうがずっと有利ではありますが、現実的に、時間や金銭面の事情から、MFT、LCSWを選ぶひとは多いです。

 それから、Clinical PsychologistもMFTもLCSWも、コミュニティーのクリニックや独立開業においては、実質していることはほとんど同じで(日本のように、心理テストを日常的にするPsychologistはあまりいません。心理テストを専門としたPsychologistはいますが、少数派です)、当然、MFTやLCSWの心理カウンセリングにも保険は適用されるので、大きな遜色はありません。

 また、博士号を持っていても、ひどいPsychologistは結構いますし、ものすごく才能のある、素晴らしいMFTやLCSWもたくさんいます。私が尊敬して已まない同僚や先輩セラピストにも、MFTやLCSWの方がたくさんいます。私が指導していたMFTやCSWの院生にも、素晴らしい人たちはたくさんいました。

 それから、心理カウンセリングは、芸術、音楽、スポーツとよく似たところがあり、良いセラピストになるにはもちろん血のにじむような努力は誰にとっても必要ですが、才能によるところもかなり多いです。

 そういうわけで、アメリカで本場の心理学と臨床経験を、と思う方は、心理カウンセラーになることが目的で、アセスメントや法廷や学校で働くことに興味がなければ、MFTやLCSWのプログラムを考慮するのも大いにありだと思います。カリフォルニア州にも、良い学校がたくさんあります。

 MFTやLCSWになるためにも、ものすごい臨床時間と訓練が要求されるもので、素晴らしい経験だと思います。私は臨床心理学者になりましたが、やはり実際に従事しているのは治療なので、自分の歩いてきた道と、その教育と訓練のレベルの高さにはとても満足はしているものの、自分と同じように問題なく働いているMFTやLCSWの人たちをみて、「あれ、MFTのプログラムでも良かったかも」などと思うことはあります。実際、私のクラスメートのなかには、Doctorと呼ばれたいから、という理由でPsychologistになるのを選んだ、という人が意外といて、不思議なものだなと思いました。

 さて、アメリカでは、日本とは異なり、心理学者は州によって発行される有効な免許(Psychologist)を保持していないと、治療に従事することはできません。

 免許をこれから取る、博士課程の学生や無免許の博士号保持者は、免許をもっている心理学者の特定の条件下の臨床監修(Clinical Supervision)のもとにのみ治療にあたることができます。免許のガイドラインは、アメリカ心理学会(American Psychological Association)(この学会の名前はAPAスタイルなどで日本でも知られていますね。また、日本臨床心理士資格認定協会も、APAの倫理規定をモデルにしています。とても良いことだと思います)に基づくもので、州によってかなり異なります。カリフォルニア州で心理学者の免許を修得するのは特に難しいといわれています。

 免許を修得するためには、まず博士課程を終了する前の段階(Pre-doctorate)に、カリフォルニア州では、1500時間の臨床経験が必要です(これも州によってまちまちです。ところで猛烈インターンであった私は、若気の至りで2500時間近く稼いでしまいました。しかしカウントされるのは1500時間が上限です。まあものすごく為になった、ということです)。APAに認可された大学院のほとんどは、インターンシップ(Internship)という形でこれを卒業条件のひとつとしています。この臨床経験は、免許を持つ心理学者の下で、特定の基準を満たす種類のものでなくてはなりません。1500時間というのは、フルタイムで働いておよそ1年、パートタイムで働いて2年です。インターンシップはコミュニティーのクリニック、病院、大学のキャンパスカウンセリングセンター、更生機関(刑務所など)と、実にさまざまです。

 これは残念な話ですが、近年は心理学者になりたい人がアメリカでも急増していて、インターンシップのための競争は、熾烈を極めています。インターンシップにありつけない院生が増えています。これは、卒業と直結するし、深刻な問題だと思います。

 さて、このようにして無事に臨床心理学の博士号を修得したらそれでおしまい、めでたしめでたし、というわけではありません。

 次はさらに、Post-doctorate (日本でいう「ポスドク」とは意味合いが異なり、これは必須です)の1500時間を稼がなければなりません。これも、博士課程在学中のインターンシップと同様、大学のキャンパスカウンセリングセンター、病院、コミュニティークリニックなど、実に様々な臨床現場のオプションがあります。免許を持ち、独立開業している心理学者のオフィスで、Psychological Assistantという名目で彼らの下で働くひとも多いです。ここでの1500時間にも、厳格な水準があります。多くの場合、こうした就労に際して、州のlicensing board(state board of psychology)という心理学者の免許を取り締まる機関への登録が必要です。

 さて、このようにして無事に1500時間のPre-doctorateの臨床時間と、1500時間のPost-doctorateの時間を無事終了すると待っているのが、Licensing Exams (資格試験)です。Licensing Examsは、2段階に分かれていて、まず最初に合格しなければならないのが、Examination for Professional Practice in Psychology (EPPP)と呼ばれる、国家試験で、これは全米共通です。これはカナダにも共通の試験です。

  この合格率は50%ほどで、試験勉強は正直なところかなり大変です。というのも、この試験は、範囲がものすごく広いからです。8分野に分かれていて、しかも、最新の臨床研究などで発見されたことがすぐに試験内容に反映されます(去年の5月に、DSMの最新版、DSM-5が出版されたことで、受験者は大きな不安を感じましたが、なにしろ20年ぶりの改定版で、DSM-IVしかしらない受験者は多いので、さすがにこれに関しては、期間限定の移行措置が取られています)。

 4時間15分の制限時間内に、225問の選択肢式の試験を受けます。この225問のうち、実際に採点されるのは175問で、残りの50問は、次の試験のための参考データとして利用されるため採点されません。どの問題が採点され、どれが採点されないのかは、受験者にはもちろんわかりません。4時間というとゆとりがあるように感じるかもしれませんが、実際に受けていると、かなりぎりぎりで驚きます(私が受けたときは、慎重にやりすぎて、最後の4分の1は泣きそうになりながら大慌てで解いた記憶があります。幸い受かりましたが)。

 ところで、EPPPは、博士号を取り、最初の1500時間の臨床時間を修了した時点で受けられます。Post Doctorateの1500時間の臨床時間の修得を待つ必要はありません。私もPost Doctorateの1500時間の臨床経験を積んでいる途中で受けました。

 さて、この試験内容はものすごく範囲が広いといいましたが、そこには大学院でも習わないような内容がかなり出るため、試験勉強のために、どうしても、教材を購入するか、試験のためのスクーリングに行く必要があります。教材はとても高いですが、スクーリングはその2倍近くします。私は経済的に余裕がなかったため、ひとりで勉強する教材を買いましたが、高くても、スクーリングのほうが人気があります。講師たちからの分かりやすいレクチャーや定期的なフィードバックがあり、また、クラスメートと励まし合いながら勉強できるので、挫折したりモチベーションを失う確率が低いからです(これも余談ですが、EPPPや、次に説明する州試験の講師やトレーナーとして生計を立てているPsychologistも少なからずいます。予備校に通って医学部に入り、医師になって、予備校のカリスマ教師になるのと似ています)。採点は、200点から800点の範囲で、500点が合格ラインです。TOEICの配点システムと似ています。

 さて、この国家試験に受かり、Post Doctorateの1500時間の臨床時間を修了(つまり合計3000時間)すると、2次試験の受験資格が得られます。

 2次試験は、州レベルのもので、カリフォルニア州では、 California Psychology Supplemental Examination (CPSE)と呼ばれます。これは、臨床心理学、心理テスト/アセスメント、治療、治療倫理、臨床心理の法律などの内容で、これは100問の選択肢によります。CPSEは、EPPPと比べて、範囲はずっと狭い代わりに、深い知識と理解を要求されるもので、紛らわしくていやらしい問題が多いです。受験日によって合格点は異なりますが、大体80%を超えないといけません。合格率は、EPPPと比べて高いです。それで、EPPPに受かったからといって油断して落ちてしまった、という人の話を結構耳にします。油断は禁物です。

 面白いことに、この試験は、合格者には点数が知らされず、不合格者のみに知らされます。しかも、コンピュータ式のため、受けたその場で結果がわかります。私のときは、合格ラインが83%でした。私の場合、移民法の事情で、決して失敗が許されない状況で、落ちたら一巻の終わり、帰国するしかない状況だったので、試験を終え、通知をプリントアウトしてくれる試験官のところに向かうときは、もう生きた心地がしませんでした。絶対に落ちるわけにはいかないもので、制限時間ぎりぎりまで何度も何度も見直したため、その部屋に残っている受験生は私が最後でした。しかも、何しろどれも正しそうな選択肢の問題や、どれも間違っていそうな問題が多いもので、自分がどのくらいできたのかはわかりません。

 そんなわけで、心臓はバクバクし、顔面蒼白、軽い吐き気すら覚えながら試験官のところにゆっくり歩いていきました。

 試験官は、ポーカーフェイスで結果を印刷して手渡してくれます。合格通知と不合格通知で表情を変えないことになっているのでしょう。

 私が受け取った通知書には、「おめでとうございます。合格です。83%を超えました」のようなことが書かれていました。

 なんだか現実感のない心境で、しかし嬉しく、私は思わずその試験官に笑いかけると、彼は厳しそうな表情を崩して、静かに笑い返してくれました。

 私は足に脱力感を感じながらその部屋を出て、ドアを閉めると、すぐに壁にもたれてしゃがみこんでしまいました。自ずと涙がこみあげてきて、誰もいない廊下で、それまで歩んできた長い長い道のりを思い出していました。しばらく立ち上がれませんでした。

 さて、これで晴れて免許取得、めでたしめでたし、というわけにはいきません。心理学者の免許は、2年ごとの更新制で、毎回、更新時までに、36単位の、特定の水準を満たしたContinuing education(クラス、ワークショップ、オンラインの授業など)を修了していなくてはならず、つまり、心理学者でいる限り、勉強は一生続くというわけです。


認知のゆがみ その13 トンネル性視野 (Tunnel vision)

2014-03-10 | プチ臨床心理学

 さて、この特集も今回で最後となりました。今回紹介するトンネル性視野も、多くのひとが、知らず知らずにうちに経験している、私たちのこころにとってとても有害な認知のゆがみです。「トンネル性視野」という名前から、それが何なのか大体想像がつく方も多いのではないでしょうか。これは、たとえばあなたが晴れの日に車や電車などに乗っていて、その乗り物がトンネルに入ったときのことを思い浮かべると分かりやすいかと思います。徒歩でもよいです。

 もう、周りは真っ暗ですね。ずっと先に光が見えることもあれば、曲線を描いているため、その光すら見えない時間が続くかもしれません。そのとき、ひとは、当たり前ですが、暗闇の中にいます。そして、トンネルの壁のために、明るくてどこまでも開けた外の世界は見えません。また、トンネルの中があまりにも暗いので、そうした世界、可能性が存在していることすら忘れてしまっているかもしれません。

 このように、トンネルビジョンとは、あなたが何らかの状況下で、落ち込んでいたりして、トンネルのように視野が狭められ、特定のネガティブなものにだけ意識が向いてしまうこころの様子を指します。

 たとえば、最近、突然仕事を失ってしまった方が、お先真っ暗で、「仕事を失った。やっとありつけた仕事だったのに。やっと安定しはじめていたのに。もう駄目だ。自分には無理なんだ。どうしたってもうやっていけない」、と思ってしまうような状態です。

 しかしこの人は、その仕事に従事している間に経験した、同僚たちとの良い人間関係、人脈、かけがえのない経験、また、その中で身に着けた、確かな知識とスキル、次の仕事の可能性など、実は確かに存在しているものが、このトンネルによって見えなくなってしまっているのです。そして、その暗闇が自分の世界のように錯覚してしまうことです。

 でも待ってください。こうしたトンネルは、実際には存在しない、あなたが頭の中で作り上げたものです。あなたは実はトンネルの中になんかいません。人生は、いろいろな可能性で溢れているし、すべての物事には、悪い面もあれば、良い面もあります。ですから、今あなたが、「ああ、お先真っ暗」、「もう何にもしたくない」、「ああ死にたい」、と思ったら、あなたがこの精神のトンネルのなかに入ってしまっていることを思い出してください。その精神のトンネルの壁をぶち壊すのは、あなたであり、それは、「私は精神のトンネルの中にいる」、と気づくことから始まります。

 なかには、長くて曲がりくねったトンネルもあります。また、その壁が分厚い場合もあります。その場合も、トンネルに風穴を開けることは可能でしょう。そこから穴を広げていって脱出します。ひとりでそれが難しいときは、信頼できるひとに相談して、その人の全く別の視野を借りることもできます。私もあなたの脱出を助けられます。もし壁があまりにも分厚くて直接壊せなくても、私はあなたと、トンネルの終わりまで一緒に歩くことだってできます。私はあなたの道を照らすとても明るい懐中電灯を持っています。いくつもあります。水も非常食も。一緒に出口を見つけましょう。その出口は必ず存在するのです。それは私の臨床的、また、個人的な経験から、確かなことです。なんだか宣伝みたいになってしまいましたね。でも本当です。いずれにしても、私はここに何かを探しにやってきてくれるあなたをいつでも応援しています。私はいつでもここにいます。あなたの健闘を、幸せを、願っています。


風邪を引くタイミング (改稿)

2014-03-08 | プチ精神分析学/精神力動学

  普段風邪を引かないように気をつけているのに、本当にたまたまその日に限って薄着をしていたり、どこか不注意であった為に風邪を引いてしまって、悔しい思いをしたという経験は、誰にでもあると思います。

「あたし馬鹿だったぁ」とか、「オレ昨日に限ってうかつだったんだよねぇ」とか、風邪を引いた人からよくそういう話を耳にします。

 しかし、少し考えてみると、不思議なことに思い至ります。

 人間、風邪を引かない時は、「何をしても」まず風邪を引きません。そういう時は、真冬に裸で外にいたって風邪を引かない。寒中水泳に行った人や、新年に滝に打たれに行った人が風邪を引いて寝込んだという話は、あまり聞きません(もちろんそういう場合もありますが)。

 そんな極端な例ではなくても、風邪を引いてしまった条件と全く同じ状況(例えば、真冬に暖房が壊れて寒い部屋にいなければならなかったり、真夏に、狂ったようにクーラーの利いた部屋に薄着でいて、寒い思いをする)を経験しても 風邪を引かない場合は多いと思います。「参ったな、これでは風邪引くかな」 と心配していたけれど、寒い思いはしたものの、風邪を引くには至らなかった、という経験のある人も多いと思います。

 つまり、「うっかり」風邪を引くためには、「うっかり」な状況に加えて、何か別の要素が関係していることが考えられます。

 一言でいうと、これはストレスです。

 ストレスと風邪についての研究は、実際かなり進んでいて、今では、ストレスが風邪を起こすことは多くの心理学者の間では通説になっていたりします(脚注1)

 しかし、ストレスと言っても、ストレスにはいろいろな段階があり、風邪を引くのは、ストレスの後期の段階である場合が多いです。
一般に人間はストレスにさらされると、一時的にその適応として、免疫機能が高まりますが、そのストレスがあまりに長引くと、やがて免疫力が落ちて身体を壊してしまいます。 身体の防衛反応は、一種の非常事態なので、長期戦には適していないのです。

 ストレスの多い環境にいると、人間は気を張って、身体もストレスに負けないように免疫機能をフル稼働するのだけれど、その、ストレスの原因となっているもの(ストレッサー)がなくなって、ほっとしてちょっと気が抜けた瞬間に風邪を引く人は非常に多いです。

 会社で忙しい日が続いていて、暇になった直後とか、重要なプロジェクトが終わって一段落した時など、人が風邪を引くタイミングは、注意深く見ていると、なんとも絶妙なタイミングであることがよくあります。

 そういうわけで、自分が風邪を引き始めたとき、 「不注意だった」という考えを超えて、最近の自分の置かれていた状況や、自分の精神状態などを内省してみると、意外な気付きや事実に思い当たったりします。

 風邪を引くこと自体はネガティブなことだけれど、風邪を引いたことから自己分析をして、「今後はこのような無茶はしないようにしよう」とか、「これからはもっと前から準備を始めてばたばたしないようにしよう」などと、後学のためになったり、行動を改善したりすることもでき、学べることは多いので、あながち悪いことだけではないのかもしれません。

 身体の不調は心の不調のバロメーターだけれど、 自分が置かれているストレスが慢性化しすぎていて、ストレスにすら気付かない人も多いです。 風邪を引いたときぐらいは、自分のことをきちんと考えてあげて、労わってあげてください。

 そういう意味で、忙しい期間が終わろうとしている時、何かの問題が解消しつつある時など、気が緩んでいる時は、とくに注意したほうがいいかも知れません。 打ち上げパーティーに行ったり、夜更かしする代わりに、マッサージに行ったり、おいしいものを食べて、早めに家に帰っていつもよりたっぷり寝たり。もちろん、ことの最中に軌道修正が可能だったら、無理のないほうに変えていくのが最善ですが。

 「病は気から」とはとてもをうまく真実を言い当てている言葉だと思います。

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脚注1)たとえばアメリカの大学生が、期末試験(Final exams)の直後に風邪をひいたり体を壊す傾向があることは臨床研究で知られています。また、ウィークディは大丈夫だけれど、週末にかけて体を壊す人も割と多いですね。

(元の文章は、2006年の10月14日に書いたものです)


言い間違えの心理: フロイト的失言(Freudian Slip) (改稿)

2014-03-08 | プチ精神分析学/精神力動学

 私がまだ小学校低学年の頃、精神科医であった父が、 時々好んでする話がありました。父は面白そうに言ったものです。

「ある人が、誰かのお葬式に行くとするよね。 それで、遺族の人と会って、『ご愁傷様です』と言うつもりが、『おめでとうございます』と言ってしまう。 なんでだろう」

 たぶん不思議そうな顔をしていた私に、満足気に彼は続けました。

「それはね、『おめでとう』と言った人の心の中に、 その人が死んでよかった、っていう気持ちがあるからなんだ。その人は、自分の気持ちに気付いてないし、『そんなこと絶対ない』と言う。本当にその人の死を悲しんでる。でもね、こころのどこかで、『必ず』、 その人には、『死んでよかった』という気持ちがあるんだよ」

もちろん、小学校低学年の私にそんな話は信じられず、「そんなわけないじゃん」というような反応をしていた気がするのですが、なんだか印象的な話だったので、覚えています(それにしても、10歳にも満たない子供にそういう話をしていた父が今思うと不思議です) 。


 それが、フロイトの、無意識の世界の話であり、父は「フロイト的失言」(Freudian slip)について話していたのだと 知ったのは、ずっと後になってからのことでした。

「フロイト的失言」とは、よくある言い間違いを言いますが、言い間違いによって私たちは思わずその本心や、無意識の願望などを表現してしまっているのです。これは、我々の「無意識」の 構造と関係しています。

 人間には、様々な欲求や願望があるわけだけれど、その多くは、実際に意識したくないことだったり、 意識することが不快であったり、自己イメージやその人の道徳感と相反するものであったり、あまりにも心にとって脅威であったり、 意識してしまう事で様々な不都合が生じたりします。たとえば大親友の恋人を心の奥底では好きだったり、命の恩人に実は強い怒りを持っていたり。

 そういう種類の 思いは、意識の隅へと抑制(Supression)されたり、無意識の世界へと、抑圧(Repression) されます。 

 意識できない事で、心の平安や心の平衡状態が保たれるからです。


 しかし、抑圧された感情や思いは、いつでも そのはけ口を捜していて、表現されることを望んでいます。

 実際、抑圧された感情があまりに強かったり、 多かったりすると、人間は精神に支障を来たしたりします。 そういうわけで、直接意識できない感情も、なんらかの 形をとって、表現されることが必要なのです(脚注1)。「妥協形成」といいます。

 いずれにしても、無意識に抑圧された思いは、 自分のこころにとって、より受け入れやすい 形をとって、間接的に、表現されます。

 フロイト的失言とはつまり、無意識的な本心だけれど、ダイレクトに口に出す訳にはいかなかったり、そこに葛藤があったので、「言い間違え」と言う形をとって 表現されるという現象です。

 これは、あなたも直感的に知っていることかもしれません。たとえば、新しい恋人同士のSexの最中に、 どちらかが、今している相手ではない、他のひとの名前を間違えて呼んでしまう事が、 この恋人達の関係においてどれだけ破壊的かに ついて考えてみると、理解しやすいかもしれません。「ごめん。ただ言い間違えただけだよ」では済まされませんね。

 なぜ、それが二人の関係にダメージを与えるか。 それは、言い間違えた相手の頭の中に、別のひとの ことがあることを、我々は直感的に知っているからです。もちろん、いい間違えた本人にすら、どうして間違えたのか、心当たりないことは良くあります。でも、 「全然想ってないのに言い間違えちゃった、なんでかな」と 言ったところで、無意識には何かあるわけです(もっと可愛い例で、小さな子供が、優しくしてくれる、ママの姉妹を、間違えて「ママ」と言ってしまうようなものもありますね。ところでこの場合は、葛藤ではなく、「優しい大人のひと」を無意識に「母親」と錯覚している可能性のほうが高いです)。

 言い間違えまでいかなくても、人は、本心と違うことや、葛藤を抱いていることを言おうとすると、口ごもって しまったり、つっかえたり、どもってしまったりするので、 その人の心の中に何かあるのはわかります。

 人間は、とても敏感な、社会的な生き物で、常に多かれ少なかれ相手に気を遣って生きています。それで、「こういったらこの人
傷つく」とか、「こういったら角が立つ」とかいった、 微妙な物事は、それが本心であっても、しばしば私たちは言及しないでいます。

 しかし、そういう風に気を遣っていても、人間不完全なもので、いつかはこうした言い間違えなどで、表現されてしまうわけです。ここで、相手の無意識へと抑圧された感情や、 意識の隅へと抑制(Supression)された想いに対して、 攻撃したり、非難しても、それはあまり意味がありません。なぜならその人は、相手に気を遣っていたために言えなかったり、感じることさえできなかったことが考えられるからです。

 そこで、必要以上に相手の本心について懐疑的にならないで、「ああ、なにか葛藤があるのかな」ぐらいの気持ちで、そういうものを可能性 として考慮に入れたうえで付き合っていくのがいいかもしれません。

 相手の言い間違えに対して全く無頓着だったり、気付かなかったりするのは、相手の無意識のメッセージかもしれない大切な情報を
逃しているわけで、問題だけれど、言い間違えに過剰反応したり、過剰に解釈や訳を加えてみるのもまた考えものです。

 それから私たちは、他者の「無意識に存在する何か」は感じたり、察したりできても、それが具体的に何なのかは、完全には分かりません。たとえば、先程の昔の恋人の名前を言い間違えて 呼ぶことにしても、その昔の相手が好きだから言い間違えたのかは、誰にも解りません。また、まだ付き合いは浅いけれど、そのかつての恋人と経験したレベルの親密さをあなたと経験していたから、その親密さと深くつながっていた昔の恋人の名前がでてきてしまった、とも考えられるわけです(脚注2)

 それと、もう一つ大事なのは、言い間違えには、「フロイト的失言」以外の可能性もあるということで、 たとえば、似たような発音の言葉(トイレとトレイ、筆と腕。コップとモップ。うさぎとうなぎ・・・)とか、同一系統の物事や概念(塩と胡椒。フォークとスプーン。紙と鉛筆。)は、脳の言語野の、隣接したところに 記憶されているから、単純な、脳の検索ミス、ということも大いに有り得ることは、様々な研究で支持されていることです。

 以上のことを踏まえたうえで、言い間違えの心理、「フロイト的失言」に ついて覚えておくと、却って人間関係がスムーズになることも少なくありません。

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脚注1) 原因不明の頭痛や、腹痛や、腰痛や、 発熱など、実際に身体的な問題として表現されたり することも多く、これはSomatizationと呼ばれる もので、抑圧された感情の身体化です。たとえば、心気症(Hypochondriasis)と呼ばれる病気は
これに関するものです。男性の、原因不明の勃起不全や、女性のオーガズムを感じられない問題なども、 こうした心理に基づくものが少なくありません。

脚注2) それから、付き合って間もない人が、その前の恋人のことがまだどこかでこころの中にあったとしても、それはとても自然なことです。あなたとの人間関係が深まることで、それは徐々に解消されていくことなので、気を楽にもって、察してあげるくらいがいいかもしれません。

(原文は2006年9月6日)


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認知のゆがみ その12 ラベリング、レッテル貼り (Labeling)

2014-03-08 | プチ臨床心理学

 「あいつは馬鹿だ」とか、「私は負け組」とか、「これだからゆとりは」とか、「俺はどうせニートだし」、とか、人はしばしば自分や他人に何か特定のネガティブで固定した概念を当てはめて、その狭い概念を通してしか考えられなくなってしまいます。これが他人に向けば、人格攻撃になるし、自分に向けば、自虐、自己卑下になります。このように、あなたが何かしらネガティブで固定したラベルを他者やあなた自身に貼り付けてしまい、その人が持っているいろいろなポジティブなものを見ることができない認知のゆがみを「ラベリング」とか、「レッテル貼り」と呼びます。これは、以前紹介した「一般化」(Overgeneralization)のさらに極端な例で、たとえば、誰かのあるひとつの行動を、その人の人格に当てはめてしまったりするものですが、そのとき人は、そのひとの置かれていた環境や、外的状況などを考慮にいれることをしません。

 たとえば誰かがどこか入りやすそうな会社の入社試験に落ちたときに、その周りのひとが、「あいつは駄目だ」、とか「あいつは馬鹿だ」とか決めつけてしまうもので、しかしその人は、試験直前に身内に不幸があって、夜も眠れず、最悪な精神状態で、試験中も頭が真っ白だった、という場合だってあるのです。あるいは、長年付き合っていた恋人との破局の直後だったかもしれないし、インフルエンザで熱もあり、体調は最悪で、全然集中できなかったのかもしれません。

 「私のいとこの彼氏は負け犬よ」、と言うひとは、その彼氏が実は持っている、いろいろな良い面を認識することができません。いとこの彼氏という人格を、「負け犬」の一言に削減してしまうようなラベリングを還元主義(Reductionism)と呼びますが、これは本来複雑な対象を、過度に簡素化してしまう思考法で、レッテル貼りをしてしまったそのときから、その対象との間に良いものは生まれません。ある教育世代の人たちをひとくくりに「ゆとり」と呼ぶのも、高校を卒業してあらゆる理由で大学に進学しなかった、あるいは中退した人を「高卒」と呼ぶのも、様々な理由で現在教育や就労や訓練に従事していない人を「ニート」と呼ぶのも、こうしたレッテル貼りの還元主義の現れです。以前書いた記事「他人化」(Othering)の心理がこれに当たります。ステレオタイプの心理です。

 レッテル貼りの最大の問題は、本来存在している外的な要素を無視したり否定したりすることで、その人を間違った方向に決めつけてしまうことです。残念ながら、これは日本人の間に非常によく見られる認知のゆがみで、実際、日本社会はこうした様々な「レッテル」で溢れています。お分かりのように、このレッテル貼りが自分自身に向いたとき、ひとは自己卑下や、低い自己評価、うつ、不安など好ましくない精神状態に陥ります。

 この間受けたTOEICの得点がいまいちだった、勉強したのに、私は馬鹿なんだ。と思ったら、ちょっと立ち止まってください。世の中に、「馬鹿」という人は存在しません。それは、勉強の仕方に問題があったのかもしれないし、勉強時間が足りなかったのかもしれないし、試験前に何か不快なことがあって、集中力がいまいちだったのかもしれませんし、他に何か理由があるかもしれません。「あなたのひとつの行動や、結果」と、「あなたの人格」は、別のものです。また、あなたが「馬鹿」であることと相反する事実は、ゆっくり探してみれば、いろいろ見つかるはずです。次にあなたが他者やあなた自身を何かネガティブな固定概念で呼び始めたら、注意してみてください。ラベリングしたその瞬間から、その認知を修正するまで、対象は固定化されてしまい、それでは何も変わらず、良いものは生まれません。


認知のゆがみ その11 「こころのフィルター」(Mental Filter)

2014-03-05 | プチ臨床心理学

 よくアメリカ人の会話にでてくる、フォークサイコロジーで、ガラスのコップに入った水の話があります。ガラスのコップに、水が半分入っているのですが、これを見て、ある人は「水はまだ半分残ってる」(Half full)と認識し、別のある人は、「もう半分しか残ってない」(Half empty)と認識します。車のガソリンもそうですね。メーターが半分になっていたとき、燃料はHalf fullなのか、Half emptyなのか。そのふたりの人は、物理的にはまったく同じものを観察しているのに、まったく別のものを投影しているわけです。これで、Half fullと見た人は楽観的で、Half emptyと見た人は、悲観的、などという心理テストですが、今回扱う認知のゆがみ、「こころのフィルター」は、この"Half empty"の最たるもので、この傾向が強いと、人は深刻な不安や、鬱感情を経験します。

 これは厳密にはSelective abstraction(選択的抽出)と呼ばれるもので、この認知のパターンにはまっているとき、人は物事の悪い面ばかりに意識がいってしまい、その良い面が、「こころのフィルター」によって除外(Filter out)されて認識できなくなっています。別の言い方をすると、ものごと全体の中から、その悪い面ばかりを「選択的に抽出」している状態です。

 たとえば、軽度のうつ病に掛かっている18歳の翠さんが、お友達の萌美さんの紹介で、康夫さんとデートすることになりました。翠さんと康夫さんは意気投合し、楽しい時間を過ごしたのですが、その日の終わりに康夫くんと別れた帰路から、翠さんは、ふたりでスターバックスに入った時に康夫さんにした質問で、ふたりが一瞬気まずくなってしまったことで頭がいっぱいになってしまい、止まりません。「ああ、私馬鹿だなあ。なんであんなこと聞いちゃったんだろう。空気読めない奴って思われただろうなあ。常識ない人って思われたかもしれない。嫌われたな。悲しいなあ。もっと康夫くんと一緒に時間過ごしたかったのに。ああ、駄目だなあ私」、と、一人反省会が止まりません。一方で、康夫くんのほうは、「すごく楽しかったなあ。翠さんは面白くてかわいいなあ。彼女ともっといろいろなところに行って、もっと知りたいなあ」、と思っています。それで翠さんは、数時間後に康夫さんから来た次のデートの提案と今日のデートのとてもポジティブな感想に、とても驚いてしまいました。

 この日、翠さんは、康夫さんと本当に楽しい時がたくさんあったのですが、「こころのフィルター」によって、それらはすべて意識から除外されてしまい、意識にあるのは、スターバックスであった一瞬の気まずさで、そのことばかり考えてしまっていたのでした。このような境地にいると、無意識に、悪いものをさらに探そうとします。「私ちょっとしゃべり過ぎたかな」、とか、「もっと相手の話をきちんと聞けばよかった」とか、「早く歩きすぎたかな」とか、「別の服着ていけばよかったかな」、とか、「あんな写真見せなければよかった」、など、探そうと思えば際限がありません。このとき翠さんは、康夫さんの、終始楽しそうな様子や、笑いが絶えなかったこと、話が合って、ほとんどの間会話が絶えなかったこと、いくつも共通の趣味があったことなどを忘れてしまっています。

 さて、この脱出方法は、やはり、まずは立ち止まって、自分が「心のフィルター」を通して物事のネガティブなものばかり見てはいないだろうか、また、同時に、ものごとの良い面を見落としまくってはいないだろうか、考えてみることです。一枚の紙を用意して、真ん中に線を引っ張って、そのものごとの良い面と悪い面を書き出していくのもいいかもしれません。まず、「すべてが悪い」ものごとというのは、そうそうありません。ものごとのポジティブな部分ばかり見て、現実的なネガティブな要素を無視するのは別の意味で大きな問題ですが(脚注1)、要はそのバランスです。ネガティブに偏ってるなあと思ったら、その潜在的なポジティブについて考えてみるのが大切です。


 

(脚注1)これを精神分析学では、Hypomanic(軽躁)といいます。これは、一般にいう双極性障害の軽躁とは異なる精神分析学の専門用語で、無意識に働いている防衛機制を指します。ある種のひとは、何かあって、鬱に陥りそうになると、「鬱に対するディフェンス」として、一種の爽快感を経験します。このとき、その人は、ものごとの良い面ばかりに目が行き、現実的な問題点を見落としがちになります。現実的な問題点を認識することで鬱になるのが怖いからです。映画『風立ちぬ』の主人公にはこの防衛機制が働いていましたが(理想化の世界)、終盤にかけて、そのディフェンスの崩壊が起きました。彼が最初に見ていた夢と、終盤で見た夢は、同じ夢の中であるのに、全く異なった世界でした。この大きな隔たりの理由もここにあります。この映画の感想については別の記事で書いてみたいと思います。