興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

確証バイアス(Confirmation Bias)

2006-07-22 | プチ認知心理学

人は何を見ているかといえば、見たいものを見ていて、
何を聞いているかというと、聞きたいことを聞いている、
ということは前にも書いたけれど、これは別の言い方をすると、
人は見たくないものは見ているようで見ていないし、
聞きたくないことは聞かない、とも言える。

もちろん無意識の話だ。

今日の話題の、確証バイアスもまた、この原理に基づく
人間の基本的認知の歪みのひとつだ。確証バイアスとは
つまり、人は一度何かを信じると
(信じ始めると、または、信じると決めると)、
それを確証する情報ばかりに注意が行き、
その反証となる情報を軽視する傾向にあるということだ。

たとえば、ある人が、

「ギャルはモラルがなく、マナーが悪い」

と思い込んでいて、その人は一日のうちに10人の
ギャルを見たり、会ったりしたとする。その時に、
実際は3人のモラルのないマナーの悪いギャルと、
7人のそうではないギャルを見ているのに、3人の
モラルのないギャルにばかり気を取られていて、
7人の、マナーのよいギャルのことをほとんど覚えて
いなかったりする。

これは、自分の信念を確証しようとする無意識の
バイアスから来ている。

また、ある人が、

「オヤジの息はくさい」

という偏見を持っていたとする。それで、ある日、
20人の中年男性と会って、そのうち実際に息が
臭かったのはたった5人だったのに、その5人が
10人にも15人にも感じられ、「やっぱり臭い」となる。

もっと個人レベルで、ある男性が、その人の恋人が
「絶対浮気している」と思い始めたとする。
実際には彼女はシロなのに、実際にはなんでもない
しぐさや言動を浮気の証拠として感じ始める。
もちろん、その思い込みを覆すような情報は彼の意識から
自動的にシャットダウンされるようになる。

これもよくあることだけれど、学校の先生が、
ある生徒を、「この子は悪い子!」と思ったとする。
するとどうだろう、その子がどんなにいい事をしても、
そんなものは全然目に入ってこない。その子が「悪い子」
であるのを立証する情報ばかりどんどん取り入れようとする。

無意識的に。

人間の認知は問題だらけだ。この確証バイアスは、
ほかにもいろいろなところで見られる。

「黒人は悪い」とか、「太っている人は怠慢でだらしない」
とか、「中東系は麻薬の売人だ」とか、「精神障害者は危険だ」
とか、「おばさんはずうずうしい」とか・・・

偏見やステレオタイプは、抱いていると、確証バイアスで
どんどん強化されていくし、どんどん広がっていく。

でも、僕たち人間は日常生活の中で、実に多くの
「確証バイアス」をほとんど無意識的に使っている。
人が誰に対しても公平でいるというのは本当に難しい。
あなたの嫌いなある人、あなたの苦手なあの人。
「嫌なやつ」「嫌味なやつ」「自分のことしか考えてない人」
「冷たい人」「退屈な人」「困った人」・・・

もしかしたら、僕たちの知らない、全然違った一面が
あるかも知れない。

「人間は確証バイアスを持っている」と自覚していると、
思わぬ発見があったりして、目からうろこなことがあるかも知れない。


Fundamental Attribution Error (基本的な帰属の誤り)

2006-07-17 | プチ認知心理学

私たち人間の認知には、様々な歪みがある。

人間は、大体において、普段何を見ているのか
というと、「見たいものを見ている」と言われている。
つまり、外の世界の様々な事象は、人間の元来持っている
様々な認知の歪みを通して認識される。

たとえば、先日カラオケに行ったときに、あなたは
いまいち満足いくように歌えなかったとする。
それはどうしてだろうか。

「調子が悪かったから」「気分が悪かったから」
「風邪引いてたから」「疲れてたから」
「気になることがあってどうも集中できなかった」
「緊張してた」
「あまり歌ったことのない曲だった」・・・

と、いうような理由に思い至るかも知れない。

では、あなたの友人の歌がいまいちだったとする。
どうしてだろう。

「下手だから」
「うーん、きっと彼女あまり歌が得意じゃないのかも」
「彼、音痴なのかも」

これは極端な例だけれど、もともと人間には、
「基本的な帰属の誤り」(Fundamantal Attribution Error )
という、認知の歪みを持っていて、基本的に、他人の行動の
結果の原因について、その人の能力や性格による要因を
重視しすぎて、その結果の背景にあった「外的要因」を
見過ごしがちだという。

一方で、自分の帰属については、外的要因のほうを重視し、
内的要因を見過ごしやすい。

たとえば、同僚が仕事で失敗すると、周りの人間は、
その人の能力や性格や、怠慢のせいだと思いがちで、
その人の置かれていた状況などの外的要因に意外と
気付かない。

もしかしたらその人は、風邪を引いて調子が悪かったの
かも知れないし、恋人とトラブルがあったのかもしれないし、
家族に問題があって仕事に集中できなかっただけかもしれない。

一方で、もし自分が仕事に失敗したら、人は、外的要因に
その失敗の帰属を見出しやすい。

これは、自分の成功と、他人の成功についても同じこと
が言える。自分の成功は、自分の努力と実力のおかげ。
他人の成功は、その人がラッキーだったから。

それでは一体なぜ人間の認知はこんなふうに出来ている
のだろうか。そのひとつには、やはり、自己評価や自尊心を
守る防衛のメカニズムが考えられる。自分が失敗したとき、
「これは状況が悪かった。悪運だった。自分のせいじゃない」
と信じることで、ひとは大きな鬱状態に陥ることを
防ぐことが出来る。

逆に、成功の理由を(運ではなくて)自分の能力と努力に
帰属させることで、ひとは自信がつくし、自己愛も満たされる。
要するに、いずれの場合も、メンタルヘルスにとって大切な
認知の歪みなのだ。

それは、もしこの真逆のFundamantal Attribution Errorが
僕たちの認知を支配していたら一体どうなるか考えれば用意に
納得できる。もし、自分の成功はたまたま運が良かっただけで、
自分の失敗は、全部自分のせいだという認知の歪みを持って
いたら、ひとはどうなるか。

実は、これは意外とよくあることだ。実際に、鬱状態の人の
認知はこのパターンになっていることが多い。

Fundamantal Attribution Errorが反転してしまった状態だ。
それで、ひとは自分を責める。自分を非難する。

「自分なんて最低だ。自分なんて何の取り得もない。
物事はすべて自分のコントロール外にある。それに
引き換え何で周りの人間はこう、自信と才能にあふれて
いるのだろう」。

さらに悪いことに、周りの人間は、本来ひとが持っている
「基本的な帰属の誤り」により、落ち込んでいる人間の
内因的なものを責める。

この状態は本当に辛い。認知の歪みにより、自分を
過小評価してしまっている。しかも、こういう状態に陥って
しまっているとき、人は自分の認知の歪みに気付かない。
家族や友人からそれを指摘され、励まされたって、
そう認識するのは難しい。

「みんな気休めを言ってくれてるだけだ」と感じる。
この認知の歪みが、ひとを鬱にしている。本当は本人が
思っているほど、本人に責任はないのだ。

さて、これらの事から学べることはなんだろうか。
いろいろあると思う。まず、この人間の認知の問題の存在を
自覚することで、人はもっと謙虚になれると思うし、
他人に対して、もっと共感的になれるかも知れない。

「あの人の失敗はあの人の努力不足に見えるけど、
実は自分の知らないところでいろいろあるのかも
しれない」

とか考えたりして。

逆に、自分が自信喪失に陥っているときに、このことが
少しでも頭にあったら、「もしかしたら、自分は必要以上に
自分を責めてるかも知れない。実際よりずっとまわりの人が
大きく見えてるだけかもしれない。実は自分はそんなだめな
わけじゃないし、みんな大して変わらないかもしれない」
と、こういう風に思えるかも知れない。

さらに、もしあなたの周りの人があなたを非難したり責めたり
してきたとき、

「他人から見ると、自分の状況って見えにくいんだよな。
自分の性格ばかり目立つように人間の認知は出来てるからなあ」

と思うことで、もちろん責められて傷つくけれど、もっと多角的に、
客観的に その状況を見ることが可能になるかも知れない。



Victim-Blaming (被害者を責める周りの人々)

2006-07-14 | プチコミュニティー心理学

周りで誰かが何かで傷ついているときに、
そばにいる人間がついついしがちなことのひとつに、
Victim-Blaming (被害者を責めること)というものがある。
心を痛めている人を前にして、「何とか励まさないと」とか、
「なんとかアドバイスしなきゃ」とか思って、ついついさらに
追い討ちをかけるようなことを言ってしまう傾向で、
これは誰でも両者の立場において多かれ少なかれ経験のある
ことだと思う。

Victim-Blamingとは、具体的にはどんなことかと言うと、
たとえば、性暴力の被害者の友達が、本人に向かって、
またはその人のいないところで、

「なんでそんな時間にそんなところにいったのよ?」 
「そんな格好してるからだよ」 「不注意だったんだよ」、
「これから気をつけなよ」

などと、被害者を知らず知らずのうちに責めてしまうのは
良くある話だ。いかなる理由があっても、性暴力は
絶対にあってはならないことであって、被害者に非はないのに、
ついつい人はそうしがちだ。

だれかがいじめられたり、差別されたりするのを、
その人の個人的な問題のせいだと非難するのもそれである。
問題は差別意識や偏見そのものの方なのに。

問題なのは、私たちは被害者を責めようとして
そうしているのではないということだ。被害者を救おうとして、
助けようとして、慰めようとして、実のところ被害者を責めている。
いじめられっ子に、

「そんな格好してるからいけないんだよ。もっと他の格好しようよ」

と言ったり、

「暗いからいじめられるんだよ。もっと明るくなろうよ」

と言ったり。

でも言われた本人からしてみたら、自分のライフスタイルや
性格や、存在そのものを否定されているようで、余計に罪の意識を
抱いたり、自己嫌悪に陥ったり、自信を喪失したり、自責の念に
さいなまれたりして、そこには良いことなんて何もない。

人は傷ついたときに、別にアドバイスが欲しいわけではない。
ただ、親身になって、話を聞いてほしいだけかも知れない。

大切なのは、共感である。カール・ロジャースの、来談者中心療法の
根本にあるのは、「人は、共感してもらうこと自体によって癒される」
という考えだけれど、「本当の意味」で話を聴いてもらっていると
感じたとき、人は癒しを経験することは、広く知られている。

周りで誰かが泣いてるとき、傷ついているとき。
その人の気持ちを、こころの痛みを、経験している葛藤や感情を、
まず親身に聴いてあげることが、その人の回復を助ける第一歩だと思う。

でも、「本当の意味で人の話を聴く」というのは、なかなか難しいことだ。
アドバイスするほうがずっと楽だからだ。なぜなら、人は物事に答えや論理を
見出したい動物で、そうしないことには不安や居心地の悪さが伴うからだ。

でも、VICTIM-BLAMINGを避ける努力をすること、相手の気持ちを
理解しようとすること、即座の断定や判断を避けることは、より深く
相手の話を聴くことに繋がり、そうした姿勢の人間が回りにいることは、
こころを痛めている人にとって、なによりのサポートであり、
こころの回復への確実なきっかけとなるものだと思う。


Theory of Mindful Space~こころの境界線1

2006-07-13 | プチ臨床心理学

以前Domestic Violence(家庭内暴力、DV)のリサーチを
している時に、Burlaeという、恐らくフェミニストの
心理学者の論文で、"Theory of Mindful Space"というものを
たまたま見つけました。

自分が当時リサーチしていた内容とは直接は関係して
いなかったので使わなかったのだれど、タイトルと、
Abstract(要約)に、なぜかとても引かれるものが
あったので、とりあえず入手して、寝かせておきました。

ずっと頭の片隅にあったのだけれど、最近夏休みに入り、
いろいろ書類を整理していたらこれが出てきたので、
ついに読みました。

アメリカのDVにおける研究の殆んどは、女性が、男性の
パートナーから受ける、精神的、肉体的、また、性的な
虐待におけるもので、実際のアンケートやリポート等からの
Dataによるものが主なので、この、とても哲学的で抽象的な
論文は、なんだか異彩を放っています。

とても含蓄があって、面白い内容だと思うので、
ちょっと紹介してみます。


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この論文は、基本的に、フェミニストのPerspectiveを
取っています。また、BurlaeのこのTheoryは、DVの、
Prevention(防止)に重点を置いているのが特徴的です。

この理論によると、あらゆる暴力とは、自然に起こりうる
もので、自然界のバランスが崩れた状態としています。
つまり、暴力とは、私たち一人一人が持っているスペースに
対する、外部からの侵入、または侵略、もしくは、Captivity
(とらわれの状態)であると見ることが出来ます。

このスペースには、3種類あり、1)Bodily Space 
2)Personal Space 3)Cognitive Spaceがそれです。

1は、文字通り、その個人がもつ、肉体そのもののレベルの
スペースです。レイプなどの、性暴力で、女性の体の中に
直接外部からInvadeしてくるものがこれにあたります。

ナイフで刺されたときなどもこれです。もっと微妙な
レベルでは、ある人が、望んでいない誰かから、
腕を捕まれたり、肩を叩かれたり、抱きつかれたり、
と言うのもあります。そのような行為も、この理論に
よると、暴力に該当します。

2は、パーソナルスペースの侵入です。日本は満員電車や
多くの会社の状況などで、常にパーソナルスペース侵されて
いる、ある意味とても特殊な社会です。

3は、言葉の暴力(意図的なものと意図的でないものと
あります)や、性差別的なプレッシャーなど、認知や、
気持ちのレベルでの侵入です。

どこかに軟禁されたり、また、経済的な理由などに
つけ込まれて、他へ行きたくてもいけない状態も、
これらに含まれます。

著者は、女性が、これらのマインドフル・スペースが
誰かから何らかの形によって侵される前兆をいち早く
キャッチして、Limit Setting(限界設定)をすることで、
危害を事前に防いだり、最小限にとどめることが可能だと
しています。

この、前兆とは、なんか変だな、いつもと違うな、
というような、小さな変化だったりします。

Mindful Spaceの理論は、従来のDVの定義をより包括的に
することにより、暴力が暴力としての形をとる前の段階から
将来の可能性としてのDVを予期し、防止します。

ある男性から食事に誘われ、「なにか嫌だなあ」とか、
「なんとなく気が進まないなあ」というFeelingなども
実は、マインドフル・スペースが侵されていることの
サインなのです。

この、内面から来る、違和感というものを尊重して、
断ったり、NOといったり、限界設定をすることが暴力から
身を守る第一歩だと著者は言っています。

私が面白いと思ったのは、この著者が、暴力を
スペースの侵害としてとらえていろところです。
確かに、暴力は、あらゆる意味で、スペースが
侵害された状態と解釈できます。

Boundariesというコンセプトもそうだけれど、
人間は共同生活のなかで、お互いの境界線というものを
尊重することって本当に大切だと思います。

境界線とは、ただ単に物理的なスペースだけでなく、
こころのスペースも意味します。

最近、日本では、子が親を殺すという事件が相次いでいます。
私が気になるのは、加害者の人々が、口をそろえて、
「自分には家に居場所がなかった」と言っているところです。
彼らのいう「居場所」とは、決して、単なる誰も入って
こない、快適な部屋を意味しているのではないでしょう。

「居場所」とは、その人がそこにいていいのだという、
暗黙の、Acceptance(認めること)だと思います。
お互いの人権や境界線の守られた、生きていて安心の出来る、
物理的な空間を越えた「場所」です。

最近の日本では、そういう「安心できる場所」がない、
という人々が増えていっているように思えて仕方がないの
です。

誰かが誰かの境界線を飛び越えたときに、争いは生じます。
親や、環境から、常に境界線を侵されて育った人たちが
深刻なこころの問題を持つことになるのもある意味では
このためでしょう。