興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

気の利く人、気の利かない人

2013-01-20 | プチ精神分析学/精神力動学
祐さんから、新しい質問を頂きました。「気の利かない男性」についてです。とても興味深い内容で、せっかくですので、いくつかのレベルにわけて掘り下げて考察してみたいと思います。以下がその質問文の引用です。
 
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はじめまして。
つい最近このサイトを発見し、興味深く拝見しました。

よく女性の友人と話すことが、独身の男性は気が効かないというものです。

既婚男性は奥様に教育されているのか、女性の喜ぶツボを心得ているよねという話をしていました。

ところが私の男性を見る目が肥えてきたのか、既婚者でも気の効かない人はいるし、若くてもよく気がつく人もいます。

以前の私の上司は誰もいないのに電話をとらなかったりするなまけものでした。

「え~、ちょっとこの荷物運んでくれてもいいでしょ。」と心の中でつぶやきながらこの人奥さんとうまくいってないのかしらと思うような人がいます。

女性にも気の効かない人はいますが、そういうことって奥さんや彼女の教育ではなく、家庭環境などで培われた本人の能力の問題なのでしょうか。

今いる会社のある男性は気が効かないばかりか、仕事でもミスばっかり。建築関係の会社なので、ほんのちょっとのミスが命取りになるのですが、どうしてこんな人が一級建築士の試験に受かったのか不思議でなりません。

愚痴っぽくなってしまって申し訳ありません。
よろしくお願いいたします。

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 まずはじめに、あくまで一般論として、「独身男性は、既婚男性に比べて、気の利かないひとが多い」かどうかについて考えてみたいと思います。このことについての実際の実験などの研究は私の知る限りありませんが、一般常識的な推測で、それから、異性間での結婚についてですが、「結婚という共同生活を経験している男性は、ひとりだけで生活している独身者と比べて、そこに自分とはまったく違う生活環境で育った性格も世界観も異なる他者とうまくやっていく過程で、それまでは気付かなかったいろいろなことを必然的に学ぶようになり、また、その生活から、女性が何を求めているのか知るようになり、その結果、独身時代よりも気が利くようになる」、という推論はすぐに思いつきました。これは実際私の観察する限り、あくまで概して、ですが、YESであると思います。しかし、この差がどれだけ大きいかは疑問です。圧倒的な違いではないし、そうでないケースも相当にあります。

 たとえば、亭主関白で超ワンマンな男性が、控えめで消極的で気配りの細かい女性と結婚したら、彼がこの結婚で「気が利く」ようになる可能性は低いですし、また、もともと気の利いていた男性が、非常に独立心が強く、相手に何かをしてもらうことに強い抵抗を示す女性と結婚したら、彼は彼女とうまく生きるために、今まで気を利かせてしていたいろいろなことをしないようにしていきます。「しないこと」が、この女性とスムーズにやっていくことに繋がるからです。このような結婚生活を何年も続けているうちに、彼はしないことが自然になり、独身時代と比べて「気の利かない」男性になるかもしれません。

 それから、結婚はしていないものの、事実婚など、長期的、半永久的な同棲をしている男性は、この論理でいえば、新婚の男性よりも、独身でありながら、ずっと気が利く可能性は高いです。また、先ほど、「異性間での結婚」と書きましたのは、たとえばGayのカップルは、日本では「結婚」はできないものの、その共同生活で、ものすごく気が利くようになる人が多いです(彼らのなかにはもともと女性のような気遣いをする人が多いですが)。

 さらに、これもよく知られていることですが、年下のきょうだいがいたり、異性のきょうだいがいる人は、一人っ子のひとよりも、気が利くことが多いといわれています。きょうだいという、血は繋がっているものの自分とは異なる人格をもった他者とうまくやっていくなかで、いろいろなバランス感覚、気配りを学ぶからです。

 ところで、電話をとらないあなたの上司は、気が利かない、というよりも、性格の問題かもしれません。ひょっとしたら気付いているものの、部下のあなたが電話に出ることが当然、または、出るべきだと思っているため、出ないのかもしれません。あなたがいなくて、ひとりだったら出ているかもしれませんし、もしそこに彼の上司でもいたら、彼はさっさと受話器を取っているかもしれません。あまり感心できない態度ですが。。。

「女性にも気の効かない人はいますが、そういうことって奥さんや彼女の教育ではなく、家庭環境などで培われた本人の能力の問題なのでしょうか」、という質問に対する回答ですが、「奥さんや彼女の教育」と、「家庭環境などで培われる」ものに、はっきりした境界線、違いはなく、どちらの状況下においても、本人が身につけたものは能力であり、それは、これまでの説明でお分かりだと思います。

 さて、ここから一段レベルの高い話をします。

 人間は、無意識的に、自分の関心のあるものにどんどん注意が向き、同時に興味のないものには注意が向かないことがよく知られています。これは認知心理学の実験などでも明らかなことです。つまり、あながた他者を観察するときに、ほとんど無意識的に、「気が利く、利かない」、という基準を基にしているため、そこに神経が集中し、いままで気にならなかったことまで気になるようになっている、という印象があります。

 また、人間は、以前私が『確証バイアス』の記事でも書いたように、自分が見たいものを見、見たくないものは見ない、つまり、自分の考えにつじつまがあう情報に注意がいき、つじつまが合わない情報は無意識に排除される、ということです。たとえば、あなたのまわりの「気の利かない」ひとが、いつも気が利かないのではなく、何か気の利くこともしているのだけれど、確証バイアスによって、その情報が抜け落ちている、という可能性があります。

 もうひとつ、これも実は大事なポイントですが、「何をもってして、気が利く」のか、「気が利く」とはどういうことなのか、自問してみると新しい発見があるかも知れません。というのも、これらは人それぞれで全然違った基準があったりするもので、その人の価値観に左右されるところが多く、ある人にとっては「気の利く」行為が、別の誰かにとってはどうでもよかったり、全然気にならない場合もあるからです。もちろん、誰がどう見ても気の利かない人はいますが、「ちょっと気が利かないなあ」、と思った人が、実は別の視野でみると案外気が利いていたりすることはよくあります。このように考えていくと、何かが気になったとき、相手に注意を向けるよりも自分のこころを観察することで、何が自分にとって大事なのか、対人関係でどのような欲求が自分にあるかなど、いろいろな発見があって面白いです。

 最後にまとめますが、気が利く人、気が利かない男性の違いは、1)配偶者、長期的なパートナーの有無、2)家庭環境の違い、3)1と2の相互作用、4)本人の性格、5)1、2、4の相互作用、そして、6)あなた自身の認知によるものと、その人の言動との相互作用、という少なくとも6つの観点において考えられると言えそうです。

 


大切な人との会話が続かなくて困っている人へ

2013-01-15 | プチ臨床心理学

 「沈黙は金、雄弁は銀」、などと、もの静かであることが美徳とされていた時代がありました。しかし現在は、欧米文化の影響などで社会が変わり、また、個人個人の違いが大きくなり、黙っていても「以心伝心」で互いに分かり合えるようなことはあまり期待できず、「沈黙は禁」、ある意味、黙っていると誤解が生じたり、どんどん状況が悪くなるような時代、言語による直接的な表現、コミュニケーションが不可欠な時代になっているように思われます。2010年のわが国日本の離婚率は36%といわれていますが、これは日本社会の大きな変容、人々の、結婚や親密な人間関係における価値観の大きな変化の表れであるように思います。さらに、時代や価値観が変わりつつあるけれど、その変化に個々の人々がついていけず、適切なコミュニケーションの方法が分からないまま、はじめは小さな行き違いであったのが、その積み重ねで、気付いたら大切な人との間にどうしようもなく大きなこころの溝ができていた、という経験をした、している、という方も多いと思います。

 タイトルはあえて「大切な人」としました。というのも、これは親子間、夫婦間、恋人同士、親しい友人同士など、様々な、大切な人間関係について考えてみたいと思ったからです。こうした人間関係において、「話すことがない」、「共通の話題がない、なくなった」、「相手が何を考えているのか分からない」、「沈黙が苦痛」、「話を続けるのが大変」、「間が持たない」、などという悩みはよく聞くもので、誰もが経験したことのあることではないかと思います。

 さて、こうした厄介な状況を打破するのは、努力こそ必要であるもの、実はあなたが想像している程には難しくはなく、決して不可能ではない、ということがいえます。

 努力、と言いました。会話をするのに努力が必要であるということを知らなかったり、忘れていたり、また、話すのに努力するのは間違ったことだと思っている方がいますが、それは違います。会話には、努力が必要です。具体的に、努力とは何かと言うと、1)相手の話すことに興味を持つ、2)相手の話に注意を向けてよく聞く、3)会話を始めること、その会話を続けることは、「あなたの責任」、「あなた次第」であり、その責任を相手に委ねてはいけない、ということの自覚です。よく、相手が話し出すのを待っている方がいますが、それでは相手が話し出さなかったら一向に会話は起こらず、2人の間に交流が起こりません。また、相手のほうも、あなたが話し出すのを待っているかもしれません。そこであなたから話しはじめることで、相手も助かるし、あなたも不確かなものを待つ、という状況から脱出できます。そして何より大事なのは、会話が始まることで、少なくとも(会話がないことに対して)そこには相互理解や良い交流の可能性が発生する、ということです。「蒔かぬ種は生えぬ」、といいますが、会話をはじめること、つまり、種を蒔く事なくして、良い交流は望めません。

 さて、会話を始めましょう、といいましたが、別にあなたが話し続ける必要はありません。むしろ、あなたが一方的に話していては、そこにはよい交流は生じません。会話にはキャッチボールが必要です。ここで大変便利なのが、「開かれた質問」(Open-ended questions)と呼ばれる形の質問で、これは、Yes, Noでは答えられない、しかし、質問された人がその人の気分次第で自由に回答の長さ、深さなどを決められる種類の質問です。たとえば、「週末はどうだった?」、「学校はどうだった?」、「今日はどんな一日だった?」などのHow, Whatなどの質問です。これに対応する「閉ざされた質問」(Closed ended questions)は、「週末は良かった?」、「学校は楽しかった?」、「今日は良い一日だった?」などで、「よかったよ」、「楽しかったよ」、「うん」、「ううん」、などの一言で終わってしまいます。

 「開かれた質問だって、一言で終わっちゃうじゃん、『週末はどうだった』には『楽しかったよ』、『学校はどうだった』には、『普通』、『いつもどうり』とかで終わっちゃうじゃん」、という指摘がありますが、そうですね、これだけでは足りなかったりしますね(これでうまく話を引き出せる場合もあるのですよ)。どうしましょう。これは、先に述べた1)相手の話すことに興味を持つ、2)相手の話に注意を向けてよく聞く、に当たります。会話が続かないと言うあなたに逆にお聞きしますが、あなたは「本当に相手の会話に興味があります」か?「興味をもって聞いています」か?会話には努力が必要だと言いましたが、これには、「相手の会話に興味を持つ」、ということも含まれます。続けていくうちにそれがあなたの新しい能力となるので、やがてあまり努力しなくても興味がもてるようになりますが、そうなるまで意識的な努力が必要です。興味を持っているつもりで、「会話が途切れたらどうしよう」、「どういう風に返そうかな」、「なんていったら良いんだろう」、「良い返答が思いつかない」、などという自意識が生じて、話している相手よりも、自分のほうに注意が向いてしまっているひとは、少なくありません。そして、そういう空気は相手に伝わり、「あんまりきちんと聞いてないな」と思った話者は会話へのモティベーションを失います。だから、相手の話に本当に興味を持って、耳を傾けることが大事なのです。

 そういうわけで、相手に話に興味を持つわけですが、すると、「週末はどうだった」、に、「楽しかったよ」、という返答が帰ってきたときに、「何したの」、と自然に聞けるし、「映画館に行ったよ」、には、「何見たの」、「グーニーズ」、「へー、『グーニーズ』みたんだ。あれってどういう話なの」(もしあなたがその映画をまだ見ていなくて、見る予定がなかった場合。もし見る予定がある場合は→)「へー、『グーニーズ』みたんだ。まだ見てないんだけど、どこがよかった?(どこが見所だった?)」などと 「開かれた質問」が連鎖していき、話は徐々に深まっていきます。あなたのお子様に、「学校はどうだった」、と聞いて、「いつもと変わんないよ」、と言われたら、「そう、いつもと変わらなかったんだ、いつも通りにどうだった?楽しかった?」、「楽しくない、つまらなかった」、「つまらなかったか。何が一番つまらなかった?」、「体育」、「体育。どういうことしたの?」、「バスケ」、「バスケしたのね。どうしてつまらなかったの」、「補欠で試合に出してもらえなかったんだ。見てるだけだった」、「そう、出してもらえなかったのね。それは残念だったわね。つまらなかったの、よく分かるわ」などと話が続くことでしょう(ここで会話が終わったとしても、これは意味のある良い会話です。あなたのお子様が学校生活をどのように経験していて、どんな気持ちで生きているのか、何をしているのか、理解できました)。ここで、質問をするときに大事なのは、そこにあなたが本当に興味を持っていて、相手のことを知りたい、という気持ちがあることです。なんとなく無目的に質問していると、それは当然相手に伝わります。逆に、あなたが本当に興味を持って聞いていると、それも当然相手に伝わります。それからもうひとつ大事なのは、相手に「詮索されている」、「侵入的」、と思われないようにすることです。質問は矢継ぎ早ではなく、程よい間隔があると良いです。

 さて、以上の3点、1)相手の話に興味をもつ、2)相手の話に注意を向けてよく聞く、3)会話をあなたの方から始める、また、その会話に責任をもつ、ということを踏まえて、しかし気軽に、大切な人との会話を試みてください。大切なのは、種を蒔くことです。最初はうまくいかないかも知れませんが、それでも、トライすることで生じる問題はあまりありません。トライしないことで生じる問題は、計り知れません。そして、トライしているあなたの真剣さそのものが、あなたと大切な人との人間関係に良い変化をもたらすことも多いです。あまり気にせずに、楽しむつもりで、とにかくトライしてみましょう。相手もあなたと同じようなことで悩んでいるかもしれません。


レイプ トラウマ 症候群 (rape trauma syndrome)

2013-01-01 | プチ臨床心理学

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ご注意】この記事は、表題の概念を説明するという性質もあり、「レイプ」という語彙が頻繁に出てきます。また、性被害の心理について詳しい説明が含まれます。不必要な描写などは避けておりますが、この記事を読んでいて、当事者の方は、トラウマが活性化される可能性はあります。トラウマの鎮静化や、性暴力が個人にもたらす問題について皆さんの理解を促進することがこの記事の目的ではありますが、心配な方は、信頼できる誰かと一緒に読んだり、カウンセリングや精神科受診の前に読んだりと、ある程度の安全性を確保した状態でお読みになることをお勧めします。(2023年1月加筆、編集)

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 PTSD(心的外傷後ストレス障害、 Post Traumatic Stress Disorder)という言葉を聞いたことのある方は多いと思いますが、 レイプ外傷症候群(Rape Trauma Syndrome、RTS)という言葉に馴染みのある方はまだ少ないのではないかと思います。

 RTSという概念は、PTSDという概念の限界点、疑問点から研究されてきたもので、一般に、フェミニスト達によって支持されているストレス障害です(脚注1) 。

 それでは何故PTSDでは十分でなかったかというと、レイプなどの性犯罪の被害者達の経験する心的なプロセスは、自然災害や交通事故などの生存者の体験するトラウマのプロセスとはいろいろな点において本質的に異なるからです。

 例えば、車の事故の生存者と違い、レイプの被害者は自分自身の身体そのものが惨事の中心になっています。車などの、物質ではなくて、自分自身の身体です。

 性暴力は「魂の殺人」と呼ばれるように、自身の肉体という一番個人的でセンシティブで大切なものに対する著しい暴力と破壊であり、個人の尊厳を踏みにじるものです。

 性的なものというのは、私たち人間にとってある意味一番個人的でセンシティブで大切で弱い部分です。そこにつけ込む人間というのは本当に卑劣であり、残酷なものです。

 人間、自分の身体というものは、「自分とは誰か」 、「自分とは何か」という、セルフ・コンセプト(自己概念)、つまりアイデンティティにおいて非常に大切な役割を占めています。

 以前、癌の生存者についての記事でも触れましたが、そのような、アイデンティティの一部である身体に極めて有害な影響があった時、 人はアイデンティティの危機を体験します(脚注2)。

 昨日の自分と今日の自分、一年前の自分と今の自分、今の自分と明日の自分、今の自分と一年後の自分と、私たちは通常、「自分」という感覚において、ほとんど空気のように自然に、連続性(Continuity)を持っています。しかし、レイプという突然で全く想定外の大きな暴力によって、その大切な体が侵入され、この連続性に深刻な断絶が起きるのです。

 ちなみに、本記事でいうレイプとは、「同意のない性交」に限ったことではありません。これはフェミニスト心理学では一定のコンセンサスがありますが、性交に限らず、望まないキスを含め、ありとあらゆる性暴力がレイプです。これは私個人の意見ですが、そこには痴漢や盗撮も含まれると思います。たとえば学校で同性の同級生の子から「悪ふざけ」でトイレを盗撮された子が、以来一時的に周りの生徒全てが敵に思えてしまったりして学校に行けなくなったという事例は、紛れもない性暴力ですし、こうした子たちが経験するトラウマの性質はRTSそのものであったりするからです。

 RTSにおいて、その犯行の「客観的な深刻度」はあまり関係ありませんし、これは他の事例と比較してはいけない問題です。

 というもの、RTSは、本質的に、主観的で個人的な問題であり、ひとつとして全く同じ事例など存在しないからです

 ですから、「もっとひどいことにもなり得た」とか、「もっとひどい経験をした人だっている」という考えは的外れであるだけでなく、その人の回復において有害である場合が多いです。大切な誰かに対する声掛けにしても、自分自身に対する声掛けにしても、そのお気持ちは良くわかるのですが、こうした声掛けには注意が必要です。精神的苦痛の強度や深刻度は、究極なところ、他者が100%理解するのは不可能であり、究極のところ、本人にしか分からないものです。

 性犯罪の被害者が、鬱や、強い不安、解離性障害、性障害、摂食障害や、自殺念慮(本当に悲しいことに、実際に死んでしまう人も少なからずいます)といった深刻な精神状態に陥りやすいことの一つには、こうした急性のアイデンティティ・クライシス、自己同一性の危機が関係しています。

 RTSは大きく分けて、

1)Acute Crisis Phase
2)Outward Adjustment
3)Integration
4)"Trigger reaction of crisis"

という、最初の3段階+4つ目の段階に分けられます。順を追って説明していきますね。

 ちなみに、これらのステージには個人差があります。また、その性暴力の状況や種類などによっても異なります。

 それから、新しいステージから以前のステージに戻ったり、 一つのステージを飛ばし次のステージへ入ったりと、実際にはこれらは相互に関係し繋がっています。

 つまり、便宜上4段階に分けられておりますが、実際のところ、はっきりと分かれた4つのステージではありませんし、そこには連続性があります。

 いずれにしても、多くの場合、被害者のひとたちは、このステージを順番に経験していきます。

 まず、被害にあった人々の多くがその惨事の直後に体験するステージ(フェイズ、局面)が 1の「急性クライシス」(Acute Crisis)と呼ばれるものです。 この時期の症状は主に、被害者の心身の機能に基づくものです。

 被害者は、事件の直後から、急性で強烈な様々な心的苦痛を体験します。一日中泣き続けたり、パニックや解離を経験したり、気が狂いそうになったり、不眠の日が続いたり、小さな音に過敏になったり、 どうしようもない無力感や虚無感に襲われたり人生に希望が持てなくなったり、仕事や日常に集中できなくなったり、全ての異性に対して懐疑的、防衛的になったり、感情が麻痺したりと、実に様々な精神的困難を経験します。強い希死念慮などによる自殺の危険性もあります。

(もしこの記事をお読みになっているあなたが今まさにこの希死念慮に苛まれていたら、どうか意識してください。本当に耐えがたい精神的苦痛ですが、この強度の苦痛は一過性のものであり、決してずっと続くものではありません。もし一人でいると何かしてしまいそうでしたら、ご家族や信頼できる人に助けを求めたり、ホットライン(いろいろあります。例えば性犯罪・性暴力被害者のためのワンストップ支援センター | 内閣府男女共同参画局)に電話してください。)

 その結果、今までの世の中に対する世界観が大きく揺らいだり、アイデンティティの危機に陥ったり、自分という存在そのものが危険に さらされる人も決して少なくありません。

 考えても見てください。昨日までは安全だった場所がもはや安全ではなくなったり、昨日まで信頼していた人にそのように裏切られてまったく信頼できなくなったり、昨日まで何事もなかった平穏な時間が危険な時間と感じられるようになったりと、本当にいろいろなことがそれまでと全く異なったものになってしまうのです。

 しかし、これが何日かすると(人によってはこの段階を数週間、また数ヶ月経験したりします)、彼らは第2ステージの「表面的な調整」(Outward Adjustment)という局面に入ります。1の「急性クライシス」からは少し落ち着いて、表面上は、日常生活に戻れるようになってきた段階です。

 この時、家族や友人など、周りの人々は、すごく安心したりするのだけれど、 ここで大事なのは、これはあくまで「表面上」調整されているだけであって、その本人の内的世界はその前の局面とあまり変わっていないということです。人によっては自殺の危険も水面化で続いていたりするので注意が必要です。

 「一見落ち着いて見える」「一見よくなったようだ」 というのが周りの人間の受ける印象です。日常生活になんとか戻れるまでに一応精神は落ち着きを取り戻しているわけで、「急性クライシス」よりは進展しているわけですが、周りのひとは、彼らがそれでも内面は本当に大変なのだと理解することがとても大切です。

 また、人によっては、「急性クライシス」をきちんと体験できなくて、感情が麻痺してしまって、この局面を飛び越えて直接「表面的な適応・調整」の段階に入る人がいます。その性暴力を、「それほどのことではない」と、知性化、合理化、解離、否認などの無意識の防衛機制の働きで、そのときにきちんと痛みを経験できなかったことによるもので、こうした人々は、ある日突然、「急性クライシス」に戻ったりもします。性暴力は、本当に破壊的な暴力です。その暴力に対して、相当な反応がない、というのはまた深刻なことで、注意が必要なのです。

 さて、「表面的な調整」を経て、被害者の人々はやがて、第3ステージの「統合」(Integration )という局面に入ります。

 この局面がRTSの最終ステージで、ここでは様々な生産的なことが行われます。異性に対して懐疑的になっていた人々が再び異性を信じられるようになったり、疑惑に満ちていた世界が、危険は存在するけれど、信じられる人もたくさんいる、というふうに調整して認識されるようになったり、物事に対する新しい対応の仕方を学んだりします。弁護士を雇って民事・刑事訴訟の手続きを始める方もいます。

 この局面で、人々は、アイデンティティの統合を経験します。性暴力という惨事が、自分の人生のなかで起きたできごととして、その人生に統合され、事件以降断絶があった自己概念に、再び連続性ができていきます。

 レイプという、酷いことが人生に起きて、当事者はIdentityの危機に直面します。もちろん、このような暴力は決して起こってはならないことなのだけれど、人間は、あらゆる種類の特別な経験が、自分のIdentityの一部になるもので、「Rapeを経験した」ということもその人にとって、「自分が誰であるか」という、自己概念の一部になるわけです。この事実を否認してしまったり、上記の段階を経験できなかったりすると、きちんと先に進むことができないわけです。つまり、この時期、サバイバーは「Rapeの経験」を受け入れ、自分の中のIdentityの 一部として統合します。Identityが更新されるわけです。

 その結果、は今までになかったような人生の新しい意義や展望を見出したり、自分と同じ体験をして苦しんでいる人たちを助けようと、性犯罪の被害者を支援するボランティアや活動に参加したりします。また、今までは理解できなかったような種類の他者の痛みを深く理解できるようになったりします。

 これまでは、「Rapeの被害者」という、圧倒的な体験によって、Identityが脅かされていたのだけれど、こうした段階を経て、「Rapeという体験」は、自分という存在の、自分の人生の、一部分に過ぎないのだ、自分は生き残ったし、これからも人生は続いていくと、受け入れられるようになったとき、統合は起こります。これは、癒しの局面です。

 少し前に、「最初の3段階+4つ目の段階に分けられる」といいましたが、その4番目、「トラウマを喚起させる物事」(Trigger reaction of crisis)というものは、サバイバーのその後の人生の中のいろいろなところで起きるのだけれど、それによって、しばらくの間、以前の局面(第1、2段階)に戻されたりしながら、やがて、そうした物事にもあまり影響されないくらいに統合(3)は進んでいきます。

 レイプ外傷症候群で中核をなす定義は、

"a Normal response to an abnormal amount of stress,"

つまり、

「異常な量のストレスに対する、正常な反応」

です。

 RTSは、脅威的で「異常な量のストレス」(abnormal amount of stress)をした人なら誰でも体験する、「普通の反応」(Normal response)なわけです。そしてRTSは治るものです。

 性犯罪の被害者に対する理解はまだまだ少ない世の中だけれど、少しでも多くの人が、被害者の人たちの苦しみに共感的に、理解を持って接することができたら彼らの体験する心の2次災害、3次災害も減ることでしょう。

 この記事を読んで、今現在自分にRTSが該当すると感じた方、どうか、ひとりで悩まないでください。RTSは、適切な心理療法などにより、必ず克服できるものです。時間は掛かりますし、トラウマと向き合うことに、苦痛は伴います。マジックはありません。しかしそれは、あなたがトラウマから解放されるための、意味のある苦痛です。そして、あなたはひとりではありません。サイコセラピーを通して、安全な環境と、信頼できる治療関係のなかで、セラピストと一緒に向き合っていくものです。

 トラウマは、考えまいと、回避する限り消えることはありませんが、きちんと向き合って、能動的にプロセスすることで、その悪い効力を失います。私もこれまでに性暴力のトラウマに苦しむ人たちがトラウマを克服して元気になっていくのを何度も見てきました。あなたが信頼できる心理カウンセラー(サイコセラピスト)や精神科医を見つけて、一刻も早く回復へ向かうことを祈っています。

 


(脚注1)これはフェミニストの心理学者たちによって提唱された概念だけれど、男性の性暴力の被害者の方にも当てはまる理論です。しかし、性暴力の被害者の人たちの経験に対する社会の理解は、被害者の性別が男性となると、本当に乏しいです。まず、男性に被害者がいる、ということ自体考えてもみないような人はたくさんいます。また、男性ということで、「男なんだから」と、ぞんざいに扱われたり、取り合ってもらえなかったり、偏見を受けたりして、苦しんでいるのに、そうした差別や偏見や理解のなさから、声に出せないで苦しんでいる人たちは本当にたくさんいます。そして、多くの男性の性暴力の被害者は、自分より力のある男性によるもので、だれにも言えなかったり、知られない体験であるため、そのトラウマが全く未解決でずっと生き続けているひとは多いです。ステージ2のまま、ずっと生きている状態です。ときにそれは何十年と続きます。恋愛ができなかったり、大切なひとと、性的に親密になれなかったり、その人たちの人生を深刻に狂わせてしまう大きな問題です。こうした中で、被害者の人たちが、自分の声を見つけていくことは、本当に大切です。

(脚注2)これはたとえば、種類は違うものの、女性の乳がんの生存者で、乳房を切断しなければならなかった人にも経験される、自己概念の連続性の断絶です。女性にとって、本当に大切な乳房が、手術によって切断されるとき、そこには(手術という必然性はあるものの)他者による、体に対する大きな侵入があるわけです。乳房を持っていたときの自己イメージと、失った後での自己イメージの間に一時的な断絶が起きるのですが、これを、彼女たちは、ある人は美容整形を用いたり、ある人は、そのまま受け入れたりして、少しずつ、その乳がんになって治った、という一連のできごとを、統合させ、自己イメージの断絶を修復し、アイデンティティの復興をします。

(2006年10月29日にオリジナル執筆。2023年1月編集)

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