興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学者黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

苦手意識の克服法

2013-10-08 | プチ認知行動心理学

 何かのきっかけで、あることに対して強い苦手意識や抵抗感ができてしまい、それが自分にとって大切であることは分かっているけれど、ついつい避けてしまっている、ということで困っている方はたくさんいます。こうした抵抗感は、何かひとつの大きなできごとによってできる場合もあれば、知らずのうちに徐々にできていく場合もあります。この抵抗感の厄介なところは、その恐怖の対象に接近すると、ほとんど自動的に強い不安がでてくるので、その不安感という不快な感情から開放される回避行動は無意識に繰り返され、強化され、やがてはその不安が意識される前にその回避行動が取られるようになり、それがとても自然なことになり、避けている本人がその回避行為に無自覚になってしまう、というところにあると思います。

 たとえば、ある人が、何らかの理由で恋人とのセックスがうまくいかず、気まずい思いをして、それ以来、セックスに苦手意識ができて、行為の可能性がでてくるごとに強い不安に襲われるようになり、その不安を軽減するいくつかの回避行為が生まれ、はじめはそれがふたりの間において良くないと認識しながら取っていたその回避行為が繰り返されるなかでとても自然なものになってしまい、いつしか、セックスの可能性が意識化される直前に回避行為がはじまり、回避が回避として認識されなくなってしまう、というようなことです。

 またある人は、車の免許を取ったのはいいものの、ひとりで運転してまもなく事故に遭ってしまい、そのときの恐怖から、運転に対して強い抵抗感ができて、運転しようとするたびに事故を起こすのではという強い不安感がでてきて、ずっと時間がかかり面倒であるものの、自転車+電車という別のオプションを繰り返すようになり、このオプションを使っている限りその不安は経験されないので、運転しなければと思いつつどんどん車の運転から遠ざかり、やがてはどうして自分が車に乗らず、自転車+電車を使っているのか忘れてしまう、というようなことでもあります。

 さて、こうした自動的な抵抗感、苦手意識はどのようにして取り除けるのでしょう。

 皮肉なことに、その一番効果的な克服法は、その苦手なことに繰り返し取り組んでいくことです。その苦手なことに、やがてなじみが出てきて、安心感がでてくるまで、繰り返す、ということです。これにはもちろん、段階を踏むことが必要で、たとえばセックスの例であれば、パートナーに自分の苦手意識を話して、まずは性交ではなくて前戯などをふたりで「楽しむ」ことを目標にして、繰り返し繰り返し、その前戯を楽しんでいくことです。そうしているうちに、性行為になじみがでてきて、安心感がでてきて、無意識の抵抗感は徐々に解消されていきます。

 車の運転に関しても、たとえば、最初は誰か親しい人に同乗してもらったりして、通勤、帰宅ラッシュなどを避けて、近所を運転することを繰り返します。これを繰り返し繰り返ししているうちに、運転に親しみがでてきて、自分の運転技術や交通に安心感がでてきて、運転に対する抵抗感が弱まっていきます。

 これはつまり、何かに対して抵抗感があり、しかしそのことを避けていることで人生に悪い影響があるのであれば、そこから目を背けずに、少しずつでいいので、接近していき、接近に際して起こる不安を自然なものだと受け入れて、不安を感じながら練習していくなかで、「そのことに従事しても何も悪いことは起こらない」と経験的に理解することで、無意識の不安にあまり根拠がなかったのだと気づいていく過程です。

コメント (4)

Don't throw the baby out with the bathwater (赤子を湯水と共に捨てるなかれ)

2013-05-08 | プチ認知行動心理学

 アメリカ英語に、"Don't throw the baby out with the bathwater" (赤子を湯水と共に捨てるなかれ)という面白い表現がある。これはドイツの諺が元になっているようだけれど、アメリカ人がしばしば使う慣用表現だ。

 ずっと昔、まだ今のような文明がない時代、人々は一家全員で同じ風呂の同じ湯水を使いまわし、赤ちゃんを洗うのはたいていその仕舞い風呂であり、赤ちゃんを洗ったあとの湯水はだいぶ汚くなっている、という背景があったようだ。人々はその仕舞い風呂のすっかり汚れた湯水を当然捨てるわけだけど、この汚くなった無益な水と共に赤ちゃんまで捨ててしまわないように、という話である。

 奇妙でありえない話だけれど、この諺の意味するところは、大事なもの、良いもの(赤ちゃん、Baby)を、その大事なものに付随する悪いもの、厄介なもの(汚い湯水)と一緒に捨ててしまわないように、ということだ。実際、何かよいものが、悪いもの、厄介なものと共存していてなかなか切り離せないような状況にうんざりしてきてすべてを投げ出してしまう、という人は少なくない。

 例えば、ある人が、とても大事に思っている恋人の家族がどうしても好きになれなかったり、また、恋人の持っている問題(借金、その人の以前の恋人との問題、多い出張、飲酒、喫煙など)が嫌で、葛藤している人が、その葛藤に耐えられずに衝動的に別れてしまうような状況だ。また、好きな習い事に通っていた人が、そのクラスに嫌いな参加者がいてそれが嫌で習い事をやめてしまったりとか、念願の仕事についた人が、その仕事にまつわる面倒な任務にうんざりして衝動的に辞めてしまったり、好きな人が犯した間違いが許せずにその人のそれ以外の性質は今でも気に入っているのに衝動的に関係を絶ってしまったり、ミクシィなどのSNSを長年楽しんでいた人が、そのたくさんの友人のなかの一人との問題に嫌になって退会してしまったり、長時間掛けて絵を描いていて、その出来栄えが気に入っていたのに、ふいにミスをして、そのミスがどうしても嫌で絵を丸めてゴミ箱に捨ててしまったり、などなど、枚挙に暇がない。

 この諺のポイントは、その言外にある「衝動性」と、分離機制(Splitting)というこころの防衛機制だと思う。分離機制とは、Black-or-white thinking(黒か白かの思考パターン)、All-or-nothing thinking(全か無かの思考パターン)とも呼ばれるもので(これについては別のブログで詳しく述べようと思っています)、世の中のほとんどの物事は、白か黒かではなく、そのグレーゾーンが存在するわけだけど、このグレーゾーン(完全に良いとも完全に悪いともいえない領域)は、そこに立ち続けるのはなかなか居心地が悪いもので、人はしばしば衝動的にそのどちらかを選んでしまう。赤ちゃんは大切だけど、その赤ちゃんが入っている湯水はとても汚い、よって赤ちゃんも汚いもの、となってしまうのは、観葉植物を育てていた人が、楽しんでいたのに、そこにたかっていた毛虫が嫌でその植物を捨ててしまったり、恋人と喧嘩したらその恋人が最低な人に見えてきたりとか、尊敬していた大学教授が何かおかしなことを言ったことで急に敬意が消失して彼が駄目教授に思えてしまう、というようなものだ。

 今、あなたが何かに苦心していたり、うんざりしていたりして、その何かから逃げたくなったり、すっかり足を洗ってしまいたくなっていたら、この諺、Don't throw the baby out with the bathwater、赤子を湯水と共に捨てるなかれ、を思い出して、今一度立ち止まって考えてみると良いかもしれない。何が本当に大切で、何が実はどうでも良い、瑣末なものなのか、また、瑣末でなくても、その好ましくないものが、好ましいものと一緒くたに諦めてしまうほどに悪いものなのか、今一度検討してみるといいかもしれない。

 もしかしたら、それは一時の気の迷いかもしれないし、またもしかしたら、それは本当に潮時で、そこから退くのに良いときなのかもしれない。ポイントは、その判断が、湯水を流すように衝動的なものであるかどうか、ということと、その悪いものに惑わされて、良いものまでが悪いものに見えてしまったり、またその良いものを見失ってはいないか、ということだ。真っ白な状況、真っ黒な状況は、そうそう存在しない。

コメント (8)

鬱と不安の根本的相違点と共通点

2012-04-07 | プチ認知行動心理学
 鬱病(Majir Depression, Major Depressive Disorder)といろいろな不安障害(Anxiety Disorders)は、わが国を含む多くの社会において最も疾患率の高い精神障害ですが、疾患、障害、といった臨床レベルの問題に限らず、鬱気分、鬱状態、憂鬱、どんよりした気分、という鬱症状、また、何かが心配でしようがない、何か不安で大切なことに集中できない、なかなか眠れない、などの不安症状は、誰でも多かれ少なかれ経験のあるものだと思います。今回は、この広義においての鬱、不安について触れてみようと思います。

 まず、多くの人が経験から想像に難しくないように、鬱と不安という心理は同時に経験されることが多く、決して二律背反するのもではありません。
 たとえば、何かが心配で心配でしかたがない、という状態が何日も続いたら、その不安は精神状態に当然悪影響を及ぼすし、その不安によって仕事や勉強や大事な社会交流などにうまく集中できなくて、失敗したりそれが満足いかない出来になったりしたら、がっかりしたり、自分を責めたりして、落ち込んでしまったりするもので、ここでは明らかな「不安→鬱→さらなる不安→社会生活の質の低下→さらなる鬱・・・」という悪循環が考えられます。
 これは、強い社会不安障害(Social Anxiety Disorder)を抱えた人が、その不安ゆえに希求する人間関係が築けなかったりして自信喪失したり孤独感に苛まれて鬱になる、という実際しばしば見られるケースからもお分かりになると思います。

 逆に、重度の鬱病を経験している人が、その鬱のため外出もままならずに、会社を欠席して、仕事が蓄積していくのをどうにもできずにいたり、近くにクビになる可能性などでてくると、当然不安は生じてくるでしょう。
 また、誰かとの会う大事な約束があって、でも鬱のため、その人と楽しい会話が保てないかもしれない、相手に迷惑を掛けてしまうのではないか、こんな精神状態で何話したらいいか分からない、などと考えていると社会不安が経験され、その社会不安がさらにその人を憂鬱にしたりします。

 さらに興味深いことには、SSRI(Selective Serotonin Reuptake Inhibitors、選択的セロトニン再取り込み阻害薬)などの薬が、鬱にも不安にも効果的、つまり、同じ薬が抗不安剤にもなれば、抗鬱剤にもなる、という事実で、脳科学的にも鬱と不安の密接な関係性がお分かりになると思います。

 さて、いつものようにだいぶ前置きが長くなりましたが、このようにしばしばワンセットになって起こる二つの精神状態には、根本的な違いがあります。

 それは、この二つの問題の、時制、時間的な特徴です。これは平たくいうと、鬱は、「過去にこころがとらわれてしまっている状態」であるのに対し、不安は、「未来に心がとらわれてしまっている状態」であるということです。たとえば、失恋における鬱と不安ですが、2週間前に失恋を経験して、今鬱状態にある人は、実際に起きた失恋という「過去」にとらわれています。逆に、破局寸前にいて、その破局を望んでいない人は、これから近くに起こるかもしれない破局、つまり悪い「未来」を想像して捉われている状態です。思わぬ失業の後で鬱を経験する人は少なくないし、失業寸前にいる人は、失業という未来の可能性に強い不安を経験します。

 しかしこれも一概には言えないもので、たとえば明日のデートがものすごく不安な人がいて、なぜそれが不安かといえば、過去に似たような状況でものすごく辛い経験をしたからであり、その過去の辛い経験を思い出して憂鬱になっていて、しかも同じことが明日起こるのではないかと、その経験を明日に投影して不安を経験している、というようなケースもあります。
 いずれにしても、あえて単純化すると、不安は未来、鬱は過去、という時制の違いがあるわけです。

 最後に、その精神世界の共通点ですが、鬱の人は過去に没頭してしまっていて、不安の人は未来に没頭してしまっているわけで、その時制がどこであれ、彼らは現在の「今ここで、Here and now」の大切な瞬間をおろそかにしてしまっている、ということです。
 物理的に、体は「今」にいながら、頭の中はどこか他へいる状態です。
 皮肉なことに、こうした「今この瞬間をきちんと経験できない」状態がさらに鬱、あるいは不安を悪化させます。
 大切な人との時間に、何か別件で不安を経験していて会話に集中できなくて、良い時を過ごせなかった、うまく繋がれなかった、もしかしたらそれが相手に伝わって口論になってしまった、とか、昨日した大きな過失のことで頭がいっぱいで鬱々していてうまく仕事に集中できなかった、時間を無駄に過ごしてしまった、ああ、憂鬱。といった悪循環です。

 逆に、今自分が不安で未来にとらわれがちである、あるいは鬱で過去にとらわれがちである、と良く自覚して、100%とはいかず、70%でも80%でもなんとかうまく、「今ここで」のこの瞬間に居続けることができたら、そのときに一緒にいるひとと70%でもつながれるし(50%でも良いでしょう)、60%でも仕事はできるし、その「現在」を生きているという自分が、逆説的に、過去の鬱や未来の不安を軽減させます。
 誰かと一緒にいて、70%繋がれて70%よい時間を過ごせたら、(完全にこころここにあらずで)それが30%で気まずい時間を過ごしてそのダメージを修復しなければと新しいストレス源ができて不安が悪化するよりずっといいでしょう。また、それなりのよい時間が持てると、鬱の大敵である孤独感も軽減するわけで、それは当然鬱症状の改善につながります。
 それから、今ここで小さな成功を経験することで、過去の失敗に折り合いがついたり、こころの整理がついたり、あるいは、支持的な環境にいるのだと経験して不安が和らいで、不安していたことが起こらずに、思い込みから解放されて、長期的な不安の減少に繋がったりします。

 以上のことから、快適な精神状態でない自分を発見したときに、なんとか今していることに気持ちを神経を集中すること、今この瞬間をきちんと経験することがいかに大事であるかがお分かりになると思います。
 認知行動療法という精神療法のテクニックで、Schedulig worries(不安のスケジュール)というものがあり(詳しくは別の機会に紹介します)、これは、一日のある特定の時間をあらかじめ決めて、その時間に思いっきり不安を経験する、そのことを考えて時間を過ごす、その代わり、それ以外の時間にその不安を持ち込まない、というものですが、このテクニックのゴールは、不安が一日全体を支配してしまうのを防ぐ、また、長期的には、その不安そのものがあまり根拠のないものであったと自覚する、というもので、このテクニックが効果的なのも、いかに私達が今をきちんと生きることが良い精神状態に繋がっていくかの現れであるといえるでしょう。
コメント (4)

クライシス (危機、Crisis) #2

2012-01-20 | プチ認知行動心理学
 さて、クライシスには、大きく分けて、5つの構成要素があるといわれています。それは、Golan (1978) によると、1) Hazardous event (危険なできごと、危ういできごと)、2)Vulnerable state (打たれ弱くなった、ダメージを受けやすい境地)、3)Precipitating factor (引き金となる、最後の一撃的要素)、4)Active crisis state (クライシスの真っ只中)、5)Reintegration (心の再統合、或いは心的均衡の復元)の順になります。

 まず1ですが、これは何か具体的なStressor(ストレスを起こすもの)で、その人の心の均衡を崩すものです。これが一連のクライシスの始まりとなります。
 2は、その人の精神的、認知的、行動的、肉体的な、Hazardous eventに対する反応を指すもので、その人はこのとき、今までうまくいっていた適応法がうまく作用せずに不安と緊張感を高めるようになります。どうしよう、なんとかしなければ、でもうまく対応できない、という境地です。
 3は、最後の一撃になるできごとで、その人を、「打たれ弱い境地)から、心の不均衡、クライシスの真っ只中へと陥れます。さて、4ですが、ひとはこのとき、最大限の緊張状態にいます。この緊張状態はさらに3つの段階に分けられ、A)まず、心身の強い動揺(それはたとえば、食欲の問題、睡眠障害、不安、鬱、頭痛、腹痛など身体的苦痛など)を経験し、B)クライシスになったできごとに対する没頭、思い煩い、を経て、やがて、C)徐々に心身の均衡状態に戻りはじめます。
 最後に5ですが、この時点で、そのひとは、新しい適応能力、対応法を身につけ、一連のクライシスを客観的に見つめ、再評価できるようになり、そこに意味を見出せるようになったりします。

 これではやや抽象的なので、具体例を出して見ます。以下はすべてフィクションです。

 八重さん(30)は、東京都在住の既婚女性で、看護士として小さなクリニックで働いていて、夫有さん(35)との間に10歳の子供(悟くん)がいます。しかし彼女と有さんの夫婦関係は数年前から悪化する一方で、夫婦喧嘩が絶えません。あるときから、悟君が学校で問題を起こすようになり、成績も落ち、病院に連れて行ったところ、学習障害の診断を受けます。それから徐々に、悟君の教育方針についても喧嘩が絶えなくなり、ある日有さんから離婚を申し立てられました。悟君は基本的に八重さんが育てる代わりに、有さんも悟君の教育費や医療費など負担する、ということで話がまとまり、八重さんは離婚のショックを抱えながらもなんとかシングルマザーとしての生活をはじめました。しかしある日、仕事で大きな失敗を犯し、解雇されてしまいました。それは本当に大きな衝撃で、彼女は鬱状態に陥ってしまいました。幸い彼女には支持的な両親がいて、彼らは八重さんと悟君のことが心配になり、経済的なことを含めて、全面的なサポートをしてくれました。八重さんはすっかり自信を失っていましたが、両親や友人のサポートのなかで、少しずつ落ち着きと心の平安を取り戻し、まもなく再就職を果たしました。

 さて、この八重さんの例に、上記の5つの要素を当てはめてみましょう。まず、八重さんの有さんとの夫婦仲の問題、頻繁な夫婦喧嘩は、ある意味で、1.Hazardous event,危ういできごとに当たりますが、さらに、悟君の学校での問題、さらには学習障害の診断、というより具体的なHazardous event、危険なできごとが起こります。
 その結果、八重さんは普段(何事もないとき)よりもずっと打たれ弱くなっています。大きなストレスを経験しています(2.Vulnerable state)。そこに追い討ちを掛けるように、有さんからの離婚の申し立て(もうひとつのHazardou event)が起こります。人によっては、これ自体が最後の一撃、3.Precipitating factorとなったりしますが、よほど精神力が強かったのでしょうか、八重さんはなんとか持ちこたえてシングルマザーとしての生活を始めます。想像が難しくないと思いますが、八重さんはこの時点で相当に打たれ弱くなっています。2)のVolnerable stateです。
 さて、そこにある日突然解雇というできごと(3のPrecipitating factor)が起き、八重さんは4のActive crisis state(クライシスの真っ只中)に突入します。幸い八重さんには支持的な両親がいて、そのなかで少し時間的、精神的なゆとりが持て、八重さんは少しずつこころの均衡を取り戻していった(5.Reintegration)、ということです。

 八重さんの例からも分かるように、クライシスとは、徐々に進行していく場合が多く、そのストレスは少しずつ蓄積し、やがてそのストレスは限界に達し、そこで起きたとどめの一撃で、ひとは真のクライシスに突入します。しかし状況によっては、八重さんの例ほどに分かりやすいものではなく、もっと微妙でいて、慢性的なActive crisis state、という場合もあります。周りのことがあまり見えずに、自分自身のことで精一杯で、辛い精神状態が続いている、という状態です。

 このクライシス理論から学べることはたくさんあるように思います。
 まず、この記事で紹介した、クライシスの性質、段階、流れなどにたいする知識や認識を深めることで、自分が今立っているところがどういうところなのか、自覚が高まると思います。それによって、歯止めも利くし、流れを変えやすくなります。
 それから、「今、自分は難しいことを経験しているのだ」と認識すること自体でずっと気が楽になったりします。普段のようにできなくて当たり前、と思えたら、そんな自分にいつもよりも時間的、物理的な余裕を与えやすくなります。また、実際クライシスに陥ったときでも、より客観的に自分自身、状況を見つめやすくなるし、今までのやり方が通じないのだから、新しいことを学ぶ良い機会、成長のチャンス、と、問題を捉えなおすこともできるでしょう。
 さらに、自分の家族やパートナー、親しい友人が、何か新しい経験や、大変な経験をしているときに、その人がどこに経っているのか、おおよその見当もつくので、そのひとが本当に必要なサポートをうまく提供しやすくもなるでしょう。

 何人かのアメリカ人が得意気に話してくれた、中国語のCrisis「危機」の語源の話があります(この語源はアメリカで広く知られていて、このエピソードを好むアメリカ人が多いのです)。我々日本人が見ても分かるように、「危機」とは、「危険」(Danger,Hazard)と、「機会」(Chance, Opportunity)が組み合わさってできた語で、つまり、クライシスとは、ピンチが同時にチャンスでもあり、それをどのように捉えてどのように対応していくかで、大きなプラスへと繋がっていく可能性もある、ということです。
コメント

すべては受け止め方の問題?

2010-11-07 | プチ認知行動心理学
 私たちは普段往々にして、日常生活で起きた何らかの出来事が、良くも悪くも直接に私たちの精神状態に影響を与えると信じています。それが当たり前すぎて、そんなことを考えたこともない、という方も多いのではないかと思います。

 具体的な例をあげると、たとえば、最近人間関係が少し微妙なひとにちょっと大事な件で電話して留守番電話にメッセージを残したら一向に折り返しの電話が来なかったりしたとき、私たちは何らかの感情を経験するでしょう。急いでいるときに乗っていた電車が緊急停車してしばらく動かなくなったり、夜疲れて家に帰ってコンピュータを付けたらインターネットがダウンしていたり、お風呂に入ろうとしたら熱いお湯がでなかったり、就寝後に友人の思わぬ電話で起こされたり。

 或いは、最近好意を抱いている人から休日に思わぬ電話が掛かってきたり、最近人間関係が微妙になっているひとから予想外に親切にされたり、銀行の残高をチェックしたら認識していたものよりもたくさん残っていたり、美容院に行ったらイメージ以上に気に入った髪形にしてもらったりという経験をしたら、やはり我々は何かしらの感情を経験することでしょう。

 例が長くなったけれど、このようにひとりの人間の日常生活において、実に様々なことが起こります。それで冒頭に戻りますが、私たちの多くは往々にして、そうした出来事が「直接」に、私達の気分や感情に影響を与えると信じています。

 しかし実際は違います。

 私たちの人生に起こる様々なできごとは、私達の気分や感情には「直結」はしていません。

 そのプロセスは普段自動的で非常に速いものなので、まるであたかもそうであるように錯覚しがちですが、実際に我々の感情を決定しているのは、私たち自身なのです。
 より正確にいうと、私たちの、そのできごとに対する解釈、受け止め方です。つまり、1)何らかのできごと→2)解釈→3)感情、気分の変化、という3段階が存在します。
 
 たとえば最初の例で、最近微妙な関係のひとに少し大事な用件で電話をして出ないから留守電を残したら一向に応答がない、というものですが、関係が微妙なひとに大事な用件で電話する時点で、我々は何かしらの感情、たとえば、不安など、経験しています。そこで電話にでないし留守電にも一向に応答がないとなると、私達はいろいろな想像や憶測をしたりします。
 もちろん相手と、それから私たちの性格などから、経験する感情も異なるわけで、ある人は「やっぱり避けられてるのかな」とか、「やっぱりよくない関係」とか、「もう一度電話してみようか、どうしよう」とか、不安を経験するでしょうし、またある人は、「逃げてんじゃねえ、ふざけんな」、「どんなに関係が微妙でも礼儀ってものがあるでしょう。おかしくない?」とか、怒りやフラストレーションを経験するかもしれません。

 そうです、まず、性格によって、受け止め方も違うし、まず大体において、この時点ではまだ「なぜ向こうが折り返しの電話をしてこないのか」正確なことな何も分かっていません。
 相手は携帯電話を家に忘れてバケーションに行ってしまったのかもしれないし、携帯電話をなくしてしまったのかもしれないし、あるいは何らかの理由で応答の意思はあるもののその準備をしていたり、向こうも不安や葛藤を経験していてなかなか電話できなかったりしているのかもしれません。もしかしたら、憶測がそのまま当たっているかもしれません。

 つまり憶測に基づいてひとは感情を経験するわけだけれど、前述したように、人それぞれの性格で反応も違うし、共感的な人、人からの評価に敏感な人、過去に大きな拒絶などの経験をしている人、自己評価の低い人、相手に気を遣うひとの経験する感情は、人間関係をあまり重視していない人、自己評価の高いひと、過去に大きな拒絶などの経験がないひと、個人主義な人、自己愛的な人、などの反応とはかなり異なると思います。

 このように、ひとそれぞれ、性格も違えば人生経験も異なるので、解釈のしかたも異なるのですが、ご覧のように、ひとはそのできごとの「解釈」や「捉え方」によって自分の気分に影響を及ぼしているわけで、つまり、単純化していうと、「ひとはその本人の許可なくして惨めな気分にはならない」し、「ひとはその本人の許可なくして幸せな気分にはならない」ということができ、この見地に基づいていえば、我々の感情経験は、少なくとも「ある程度」は、我々のとらえ方次第、つまり我々が自分で決めている、コントロール可能、ということがいえます。

 たとえば多くの人がポジティブな感情を経験するであろう、「最近微妙な関係にある人から思わぬ親切を受けた」という例においても、ひとによっては、「何か裏があるんじゃないか」と勘ぐって不安になったり、「何をいまさら、うざいなあ」と苛立ったりするかもしれません。つまりそのひとの捉え方で、ひとは同じ経験で喜びを感じることもあれば、不安や苛立ちを感じることもあるのです。
 
 この事実が頭にあると、何か、とくに好ましくない出来事が起きたときに、最初はもちろん反射的にネガティブな感情を経験するわけですが、「なぜ自分はこのできごとでネガティブな気分になっているのか」、と、少し立ち止まって自問してみると、「どのように自分がそのできごとを解釈しているのか、捉えているのか」ということが明確になってきて、その解釈に短絡した決め付け、過去の経験に基づく信念など、「現実とはあまり関係ないかもしれない」曲解が見つかることも多いです。

 少なくとも、自分が今この瞬間、ある程度憶測によって感情を経験しているのだ、ということは分かるので、その解釈の修正も可能になってきます。

 とくにその感情が「極端にネガティブ」なものであった場合は、現実とは異なる曲解が起こっている可能性が高いです。
 もちろん、一般的にネガティブなできごと、というのは誰にとってもそれなりにネガティブな感情を伴うものです。でもその出来事が「極端」に、「急激」に、あなたを鬱にしたり、不安にしたり、怒りを及ぼしたりしたときに、「それが本当に出来事に釣り合った感情」なのか、とよく見つめてみるとその物事から距離がとれて、極端な感情からの脱出もしやすくなりますし、たとえその感情が出来事と釣り合ったものである、という結論に至ったときでも、その自分の感情を自分自身できちんと受け止めてあげやすくなるので、やはり気分は楽になることが多いです。

 最後に、一般的にポジティブであろうと思われる経験をしたときに、何故か自分はネガティブな感情を抱いている、と思い立ったときに、「なぜか」について、つまりその捉え方、解釈について立ち止まって考えてみると、思わぬ発見があったりして、自己理解も深まるし、解釈を修正して、素直にその「ポジティブなできごと」を「ポジティブ」に経験できるかもしれません。

コメント (4)