

何かのきっかけで、あることに対して強い苦手意識や抵抗感ができてしまい、それが自分にとって大切であることは分かっているけれど、ついつい避けてしまっている、ということで困っている方はたくさんいます。こうした抵抗感は、何かひとつの大きなできごとによってできる場合もあれば、知らずのうちに徐々にできていく場合もあります。この抵抗感の厄介なところは、その恐怖の対象に接近すると、ほとんど自動的に強い不安がでてくるので、その不安感という不快な感情から開放される回避行動は無意識に繰り返され、強化され、やがてはその不安が意識される前にその回避行動が取られるようになり、それがとても自然なことになり、避けている本人がその回避行為に無自覚になってしまう、というところにあると思います。
たとえば、ある人が、何らかの理由で恋人とのセックスがうまくいかず、気まずい思いをして、それ以来、セックスに苦手意識ができて、行為の可能性がでてくるごとに強い不安に襲われるようになり、その不安を軽減するいくつかの回避行為が生まれ、はじめはそれがふたりの間において良くないと認識しながら取っていたその回避行為が繰り返されるなかでとても自然なものになってしまい、いつしか、セックスの可能性が意識化される直前に回避行為がはじまり、回避が回避として認識されなくなってしまう、というようなことです。
またある人は、車の免許を取ったのはいいものの、ひとりで運転してまもなく事故に遭ってしまい、そのときの恐怖から、運転に対して強い抵抗感ができて、運転しようとするたびに事故を起こすのではという強い不安感がでてきて、ずっと時間がかかり面倒であるものの、自転車+電車という別のオプションを繰り返すようになり、このオプションを使っている限りその不安は経験されないので、運転しなければと思いつつどんどん車の運転から遠ざかり、やがてはどうして自分が車に乗らず、自転車+電車を使っているのか忘れてしまう、というようなことでもあります。
さて、こうした自動的な抵抗感、苦手意識はどのようにして取り除けるのでしょう。
皮肉なことに、その一番効果的な克服法は、その苦手なことに繰り返し取り組んでいくことです。その苦手なことに、やがてなじみが出てきて、安心感がでてくるまで、繰り返す、ということです。これにはもちろん、段階を踏むことが必要で、たとえばセックスの例であれば、パートナーに自分の苦手意識を話して、まずは性交ではなくて前戯などをふたりで「楽しむ」ことを目標にして、繰り返し繰り返し、その前戯を楽しんでいくことです。そうしているうちに、性行為になじみがでてきて、安心感がでてきて、無意識の抵抗感は徐々に解消されていきます。
車の運転に関しても、たとえば、最初は誰か親しい人に同乗してもらったりして、通勤、帰宅ラッシュなどを避けて、近所を運転することを繰り返します。これを繰り返し繰り返ししているうちに、運転に親しみがでてきて、自分の運転技術や交通に安心感がでてきて、運転に対する抵抗感が弱まっていきます。
これはつまり、何かに対して抵抗感があり、しかしそのことを避けていることで人生に悪い影響があるのであれば、そこから目を背けずに、少しずつでいいので、接近していき、接近に際して起こる不安を自然なものだと受け入れて、不安を感じながら練習していくなかで、「そのことに従事しても何も悪いことは起こらない」と経験的に理解することで、無意識の不安にあまり根拠がなかったのだと気づいていく過程です。
アメリカ英語に、"Don't throw the baby out with the bathwater" (赤子を湯水と共に捨てるなかれ)という面白い表現がある。これはドイツの諺が元になっているようだけれど、アメリカ人がしばしば使う慣用表現だ。
ずっと昔、まだ今のような文明がない時代、人々は一家全員で同じ風呂の同じ湯水を使いまわし、赤ちゃんを洗うのはたいていその仕舞い風呂であり、赤ちゃんを洗ったあとの湯水はだいぶ汚くなっている、という背景があったようだ。人々はその仕舞い風呂のすっかり汚れた湯水を当然捨てるわけだけど、この汚くなった無益な水と共に赤ちゃんまで捨ててしまわないように、という話である。
奇妙でありえない話だけれど、この諺の意味するところは、大事なもの、良いもの(赤ちゃん、Baby)を、その大事なものに付随する悪いもの、厄介なもの(汚い湯水)と一緒に捨ててしまわないように、ということだ。実際、何かよいものが、悪いもの、厄介なものと共存していてなかなか切り離せないような状況にうんざりしてきてすべてを投げ出してしまう、という人は少なくない。
例えば、ある人が、とても大事に思っている恋人の家族がどうしても好きになれなかったり、また、恋人の持っている問題(借金、その人の以前の恋人との問題、多い出張、飲酒、喫煙など)が嫌で、葛藤している人が、その葛藤に耐えられずに衝動的に別れてしまうような状況だ。また、好きな習い事に通っていた人が、そのクラスに嫌いな参加者がいてそれが嫌で習い事をやめてしまったりとか、念願の仕事についた人が、その仕事にまつわる面倒な任務にうんざりして衝動的に辞めてしまったり、好きな人が犯した間違いが許せずにその人のそれ以外の性質は今でも気に入っているのに衝動的に関係を絶ってしまったり、ミクシィなどのSNSを長年楽しんでいた人が、そのたくさんの友人のなかの一人との問題に嫌になって退会してしまったり、長時間掛けて絵を描いていて、その出来栄えが気に入っていたのに、ふいにミスをして、そのミスがどうしても嫌で絵を丸めてゴミ箱に捨ててしまったり、などなど、枚挙に暇がない。
この諺のポイントは、その言外にある「衝動性」と、分離機制(Splitting)というこころの防衛機制だと思う。分離機制とは、Black-or-white thinking(黒か白かの思考パターン)、All-or-nothing thinking(全か無かの思考パターン)とも呼ばれるもので(これについては別のブログで詳しく述べようと思っています)、世の中のほとんどの物事は、白か黒かではなく、そのグレーゾーンが存在するわけだけど、このグレーゾーン(完全に良いとも完全に悪いともいえない領域)は、そこに立ち続けるのはなかなか居心地が悪いもので、人はしばしば衝動的にそのどちらかを選んでしまう。赤ちゃんは大切だけど、その赤ちゃんが入っている湯水はとても汚い、よって赤ちゃんも汚いもの、となってしまうのは、観葉植物を育てていた人が、楽しんでいたのに、そこにたかっていた毛虫が嫌でその植物を捨ててしまったり、恋人と喧嘩したらその恋人が最低な人に見えてきたりとか、尊敬していた大学教授が何かおかしなことを言ったことで急に敬意が消失して彼が駄目教授に思えてしまう、というようなものだ。
今、あなたが何かに苦心していたり、うんざりしていたりして、その何かから逃げたくなったり、すっかり足を洗ってしまいたくなっていたら、この諺、Don't throw the baby out with the bathwater、赤子を湯水と共に捨てるなかれ、を思い出して、今一度立ち止まって考えてみると良いかもしれない。何が本当に大切で、何が実はどうでも良い、瑣末なものなのか、また、瑣末でなくても、その好ましくないものが、好ましいものと一緒くたに諦めてしまうほどに悪いものなのか、今一度検討してみるといいかもしれない。
もしかしたら、それは一時の気の迷いかもしれないし、またもしかしたら、それは本当に潮時で、そこから退くのに良いときなのかもしれない。ポイントは、その判断が、湯水を流すように衝動的なものであるかどうか、ということと、その悪いものに惑わされて、良いものまでが悪いものに見えてしまったり、またその良いものを見失ってはいないか、ということだ。真っ白な状況、真っ黒な状況は、そうそう存在しない。