興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学者黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

『それでも僕は夢を見る』~放棄された自己(Disowned self)とその再統合

2014-05-27 | プチ精神分析学/精神力動学

 最近気になっていた絵本『それでも僕は夢を見る』を 読んでみました。水野敬也さんと鉄拳さんの作品です。

 この作品は少し前に新聞を読んでいたときに見た広告で知り、なんとなく心を惹かれるものがあったのですが、それを忘れたころに、今度は電車のなかでこの本の広告を見かけ、なんだかとても読みたくなり、到着した駅の本屋で購入しました。とても良い本だと思います。

 私はこのように、この『夢』の本のことが気になり、しかし日々の忙しさでそのことを忘れていたわけですが、電車のなかで再び思い出されることで、それは以前よりもはっきりと自分のニーズとして認識され、購入するいう行動に至ったわけです。今回私が書こうとしている精神分析学の概念、『放棄された自己』は、こうした日常の小さなところにも見られれば、この本『それでも僕は夢を見る』のように、その人の人生でとても大きな現象であったりします。

 さて、放棄された自己(Disowned self)とは何かといいますと、自分がもともと持っていた性格や性質、夢や願望などの一部を、その環境における影響により、ほとんど無意識的に、「自分のものでない」と、自己から切り離して、無意識に葬り去ってしまうことです。ネタバレになると良くないので、この本の広告に出ていた範囲の内容に留めて話しますが(ネタバレを含む解釈は本文の後の「脚注1」にあります。この本を読んでから読まれることをお勧めします)『それでも僕は夢を見る』において、主人公の男性は、叶わない夢を抱き続けることに限界を感じて、夢と決別します。この物語において、「夢」は「僕」の自己の一部なのですが、それは危うくて自我親和性の低い夢なので、別人格のように経験されています。それでも長い間それを認識して生きてきたのですが、何しろ挫折続きの人生で、いつまで経ってもその夢はかなわないため、意識し続けることがあまりにも苦痛になり、「僕」は、「夢」を自己から切り離して、夢の存在を否定して生きることになります。

 Disownとは、「自分のものではない」と言ったり、「自分との関係を否認する」という意味で、つまり主人公はあるとき、自分の夢を「自分のものではない」として、自分との関係を否認してしまったわけです。

 このようなことは、私たちの人生でいろいろな形で起こっていることです。たとえば、もともとな明るくて外交的であった小さな子供が、仕事などで常に忙しくてその子のことに気を掛ける余裕のない親のもとで育ったら、無口で引っ込み思案な大人になってしまったりします。また、好奇心旺盛であった子供が、その子のいろいろの素朴な質問を無視したり、軽くあしらったりしてばかりの親のもとで育ったら、無関心な大人になってしまったりします。

 これはどうしてでしょうか。

 それは、その子がもともと持ってる性質を持ち続けることが、その子が置かれた環境のなかで生きていくことが、苦痛すぎるからです。たとえば、前者の子は、人好きであったので、両親と頻繁な交流を希求し、彼らに近づくわけですが、親はとても忙しくしていて、その子が近づいてくるのを鬱陶しがったり、ひとりで遊ぶように言ったり、また、構ってはくれるものの、余裕がなく、別のことを考えているのがその子にビンビン伝わってくるようだと、その子は「人好きである」という自分の性質を持ち続けるのことが大変になります。なぜなら、その性質を持ち続ける限り、その欲求が満たされないため、寂しさ、悲しみという辛い感情が伴うからです。そのようにして、その子は徐々に、人と繋がりたい、交流したい、という自己をその人格から切り離して意識しないようになります。このようにして、人格から切り離されて、無意識に抑圧された自己を、「放棄された自己」といいます。

 好奇心旺盛な子についても同じことが言えますね。その子の純粋な好奇心を無視したり適当にあしらう親の元では、その好奇心という欲求は満たされず、不満、怒り、悲しみという辛い感情が伴います。この子のサバイバルにおいて、好奇心はないほうが都合がよいのです(脚注2)。

 これは別に幼少期に限って起きることではありません。大人になってからも起きます。『それでも僕は夢を見る』のように。たとえば、夫との親密さをとても大切に思っていて、希求する女性がいて、その夫が仕事などに忙殺されていて、いつも疲れていて、その女性の欲求を拒んだり、適当にあしらったりしていると、彼女は徐々に、こうした満たされない自分の欲求を「自分のものではないもの」として、自分から切り離して忘れてしまうようになります。なぜなら、その夫と結婚生活を続けるためには、そうした欲求を認識し続けるのは苦痛すぎるからです。

 このようにして、人はその環境の中で、いつの間にか、自分の気持ちや必要を無意識に押しやって、忘れて生きています。これはもちろん、その人にとって良くないことです。なぜなら、そのようにその人本来の性質がその人から切り離されることによって、その人は、自己として完全体ではなく、また、自分のニーズを無視して生きているため、慢性的な鬱気分、不安、良く分からない苛立ち、不機嫌、体調不良(Somatization)などの症状に悩まされます。また、こうした症状がなく、その代わりに、いろいろなことを深く考えたり、感じたりすることのできない、表面的で軽薄な印象の人になってしまったりします。なぜなら、その人が潜在的に持っている本来の奥行きの可能性を、その人は否定して生きているからです。深く感じることが、そのひとにとって、心地悪いものなのです。

 このようにして、本人が長年に渡って忘れていたニーズ、願望、気持ちというのは、精神分析的精神療法をしていると、良くでてきます。こうしたものは、「失った」(Lost)ものではなく、あなたの心の中のどこか手の届かないところに仕舞われている(Misplaced)状態なので、良いコンディションが整うと、自ずと出てきたりします。

 そして、そうしたものの存在を再認識して、その人は驚きます。そういうときの私の仕事は、その人が、そのようにして再認識した元来の必要や願望を、その人の自己が再統合することを促進することです。たとえば、その再統合の過程を妨害するものを取り除いたり、その人の自我を強くして、再統合に耐えられるようにしたり、また、その人が、その必要を、今の生活の中で、今回こそ、どのようにして満たしていくか、ふたりで考えて、取り組んでいきます。そのために足りないことがあれば、セラピーのなかで、その技術などを練習して身につけたりもします。当然ながら、このようにして「切り離された自己」を自分のものとして再認識して、その必要を今度は手放さずにしっかりと掴んで、その自分本来のニーズに向き合い、満たしていく努力を始める人は、自己として完全体に戻るので、いままでになく生き生きとしてきますし、上記のような心身の問題も次第に軽減していきます(本文終了)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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脚注1) 『それでも僕は夢を見る』の主人公は、そのようにして、夢を自己から切り離して生きてきましたが、その死ぬ間際になって、そのDisowned selfを再認識するようになります。それは彼の無意識からの声です。無意識に押しやられていたものは、失ったものではなくて、自分のこころのなかのどこか手の届かないところに行ってしまっていたものです。彼は幸い、その死ぬ間際で、その「夢」という自分の性質を、自分のものであると再び認識し、夢と和解し、受け入れて、自分の中に再統合することができました。その結果、彼は満たされた気持ちでその人生を終えました。

(脚注2) ところで、こういう人たちに、幼少期の記憶について尋ねると、ほとんど記憶がないとか、どういうわけか、あまり覚えていないんですよ、という答えがしばしば却ってきます。これは不思議なことではありません。このように幼少期いろいろな自然な気持ちを感じないように感じないようにと生きてきた人たちは、いろいろなことに感動したり、何かに強い愛着を持ったりという機会が持てなかったので、とくに印象的なことが生じにくく、記憶もあいまいになりがちです。ここで大事なのは、これは彼らのせいではない、ということです。選択肢のない、小さな子供であったとき、なんとかその環境でやっていくために、そうしなくてはならなかったのです。

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『BORDER』と なでしこJAPAN(ネタバレあり)

2014-05-23 | 戯言(たわごと、ざれごと)

 普段私はテレビをあまり見ないのですが、昨夜は女子アジアカップのなでしこJapanと中国の準決勝の中継を見ていました。一度見始めたら目が離せない内容の試合で、他にやりたいことがあったのですが、あまりに面白かったので、「これは最後までみよう」と決めました。正しい判断でした。それは「死闘」とも言えそうなすごい試合で、見ごたえたっぷりでした。

 ただ、私は昔から、弱い立場、不利な状況にいる人たちを応援する癖があり、もちろん基本的にはなでしこJapanを応援していたものの、延長戦で双方が体力の限界、というところで、ふたりメンバーが足りない中国のほうについつい同一視している自分がいました。とくに、中国のゴールキーパーの健闘ぶりは素晴らしく、しかしそのゴールキーパーも体力の限界、さらに、中国は二人足りないということで、その最後の最後という段階で追いやられ、なんだか多勢に無勢という感じで、このとき私は、どちらのチームというよりも、この中国のゴールキーパーを応援していました。それで、岩清水さんのヘディングで勝負がついたとき、私は非常にアンビバレントな気持ちでした。「なでしこ勝った。よかった。でもあんなヘディング、あそこまで疲れていて絶対取れるわけないじゃん」という妙な葛藤です。

 そんな感じでなんだか呆然と、試合後の様子や選手のインタビューなどを見ていると、いつの間にかドラマが始まりました。日本に帰国して思いましたが、今の日本の民放の番組から番組へのつなぎって非常に巧妙ですね。うっかりしているとチャンネルを回したりテレビを消すタイミングを逃します。境界線がありません。ほとんどBorderlessです。そうです、ほとんどBorderlessに始まったドラマはその名も『BORDER』でした。寒いですか。まあ、とにかく、このようにして呆然としている私の目の前で、刑事ものが始まったわけです。

 私はテレビそのものをあまり見ないぐらいなので、ドラマを見る機会というのはほとんど皆無です。でもこの夜は、なでしこJapanの勝利と中国のゴールキーパーの痛みというアンビバレンスの最中にいたので、「よし、たまには日本のドラマでも見てみよう。刑事ものだ。絶妙なタイミングじゃないか。この勧善懲悪、正義は勝つの、黒か白かがはっきりしているに違いない刑事ものを見て気分を切り替えよう」と、テレビの前に居座ることを、どこか消極的に決意したのでした。ただ、その『BORDER』というドラマの第7話は、『敗北』という不吉なタイトルがついていて、「これは今の俺にとって正しい番組なのかな」と、一瞬嫌な予感が脳裏を過りました。

 なかなか面白いストーリー展開で(脚注1)、また、主人公をはじめとするキャスト達の演技もよく、入り込みやすいものでした。プロットも、正義感の強い主人公の刑事が、どんどん窮地に追い込まれていくもので、また、犯人のひき逃げ犯がとにかく嫌らしく、その犯人を助ける「掃除屋」の悪党ぶりも徹底していて(つまりこのお二人の演技も良かったわけですね)、「これはアメリカの刑事モノ『Monk』のようなものかな。主人公がとことんまで追い込まれて、最後の最後で大どんでん返し、好きなパターンだ。こういうのが見たかった」、と思いながら見ておりましたが、途中から、「あれ・・・ここまで追い込まれてたら収集つかなくないか?」、と冒頭のタイトルで感じた嫌な予感が強くなっていき、それは的中しました。

 それでもエンディングは、なんとなく将来に希望の可能性を残すもので、暗澹たる気持ちにはならなかったものの、サッカーの試合から感じていたもやもやを晴らしてくれるような内容では到底なく、「これは一話完結なのかな。続きがあるのかな」、などと気になりだし、仕舞にはGoogleで検索までしている自分がいました。ところで、この『BORDER』第7話は、なでしこJapan効果で、実際にいつにない高視聴率だったようですね。その事実を知り、その夜、私と同じような方が結構たくさんいたのかもしれないと、なんだかほっとしたのでした。どうやら第8話は7話とはあまり関係なさそうですが、面白いドラマだったので、来週、この第8話を見たい気もするし、どうしようか今から考えています。

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(脚注1) 主人公が死者と会話できる能力がまたいいですね。これは、イニャリトゥの映画『Biutiful』の主人公と同じ能力ですね。刑事ものの主人公の刑事が死者である被害者と対話できるというのは、刑事と検死医が合体したようで心強いですね。でも、死者と対話できる故にでてくるこころの葛藤や、状況の複雑化など、良くできていて面白いと思いました。自分にははっきりとわかっている真実が、他者にどうしても伝えられないというのは、ものすごい苦痛を伴うものです。そういう、特殊能力を持つがゆえの主人公の孤独などが、良く表現されていて、良い作品だと思います。少なくとも第7話は。

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精神療法における「良い人間関係」のパラドックス

2014-05-21 | プチ精神分析学/精神力動学

 心理療法には、様々なスタイルがあり、その多様な流派による治療の中で、何が一番効果的であるのかを究明するという試みは、臨床研究において、何十年も前から行われていて、今でも続いています。しかし依然として、はっきりとした結果は出てきません(鬱など特定の急性精神疾患の期間限定の治療において、認知行動療法などが特に効果的である、というデータはありますが、全体的な効果については結論が出ていません)。

 「心理療法」そのものが、流派は何であれ、心理療法を受けない場合と比べて、その人の心の問題の改善に効果があるという結論はあります。しかしそれでは全体として、どの治療法が一番いいのか、というと、まだ決定的な結論は出ていない、ということです。

 つまり、心理療法において、具体的に、どういう技術や治療的介入、どういった治療上の要素が特に効果的であるのかは、それぞれの研究の結果がまちまちであるのですが、ひとつだけ、こうした多くの研究の間で、首尾一貫して効果的であることが明らかになっている例外的な要素があります。

 それは、クライアントと治療者との人間関係の質です。

 その治療関係の良し悪しが、その治療の効果と強い相関関係にある、ということが、多くの研究でわかっています(脚注1)

 そして私は常々この「良い治療関係のパラドックス」を面白く思っています。

 まず、この治療関係における「良い人間関係(Good relationship)」とは何かといいますと、そこにはいろいろな要素があります。

 まず、クライアントが、安心して、くつろいで、自分の思っていることを何でも治療者に話せる関係性です。クライアントとしては、精神療法に行くのが楽しみだったりします。少なくとも、治療に行くのが苦痛であったり、その治療者と話したくない、会いたくない、というような状況ではありません。そして、治療者としては、そのクライアントのことを深く理解していて、その人をありのままに、無条件に受け入れていているようでなくてはなりません。また、治療者の方でも、必要なこと、思ったことなどを、きちんとクライアントに伝えられる、良いコミュニケーションのある人間関係です。こういうとき、治療者の方も、そのクライアントと会うのが楽しみであったりします。

 そこには、人間ひとり対ひとりの、相互のリスペクトがあり、互いに取り繕ったり偽るようなことはなく、互いに本当(Authentic)でなくてはなりません。

 ここまで読んで、「そんな人間関係が存在するのか?」、と思う方もおられるでしょうし、メンタルヘルスの治療に従事していて、「そんな関係はどうしたって築けない患者はたくさんいる」、と仰る治療者の方も多いでしょう。しかし私は、今までの自らの臨床経験から、それは可能であると断言できます。

 ただ、これはもちろん、程度問題(カテゴリーではない)であり、また、会ったその瞬間から良い人間関係、などというものではありません。

 まず良い人間関係には、相互理解が必要だからです。ただ、初めから良好な関係で治療が始まり、それがさらに良くなっていくケースもあれば、誰かに言われたからとか、治療に行かないと大変なことになるなどと、外的な圧力により嫌々治療にやってきたりして、出だしはまずい感じであったものの、回を重ねるごとに少しずつ良くなっていく、という場合もあります。

 そして、あらゆる人間関係でもそうであるように、その治療関係には、多かれ少なかれ、浮き沈みもあります。良好であった人間関係が、何らかの理由で悪化したとき、その問題にきちんと向き合って、その治療関係を修復するのも治療者の役目ですし、また、その治療関係に何らかの不穏なものがでてきたときに、いち早くそれに気づいて、それについて効果的に対応するのも、治療者の役目です。

 こういうわけで、良い人間関係が治療効果と強く結びついていることは確かですが、その都度その都度、治療が効果的でないと、その人間関係は良くなくなるわけで、これは同時に、「効果的であること」が、「良い人間関係」と直結しているのです。

 そこで治療者は、「どうしたらこのクライアントとよい人間関係が築けるか」、「どうしたら改善するか」、「どうしたら維持できるか」、常に考えてそのクライアントと交流する必要があります。

 これは、別の言い方をすると、どんなに強力な技術があろうと、クライアントとの良い治療関係なくしては、それこそ何をやっても効果はありませんし、また、よい人間関係があれば、その良い人間関係が維持したり、深まっている限り、極端な話、治療者は倫理的であれば何をしても良いわけです。しかし、実際に何をするかは非常に繊細な問題で、本当によく考えなくてはなりません。というのも、「何がその人にとって一番良いか」は、その瞬間ごとに異なるわけで、治療者としては、その時に最善なものを選ばなくてはなりません。見当外れなことをしていては、治療関係は悪化します。

 このように書いていると、治療者はほとんど不可能なことをしているように思われるかもしれませんが、そんなことはありません。

 なぜなら、治療者も失敗するからです。

 もちろん、治療者の能力が高ければ高いほど、失敗の頻度も少なくなるし、また、致命的な失敗をする可能性も低くなりますが、それでもどんな治療者でも失敗します。そして、この失敗は、ある程度の長さの治療関係のなかでは、どうにも避けようのないものです。

 というのも、ある程度の長さの精神療法において、失敗は起こるようにできているからです。これは専門的には、共感の失敗(Empathic failure)と呼ばれるもので、実はこれは、治療関係を含めた、すべての本当に良い人間関係において起こらなければならないことだからです(これについてのより詳しい話は、自己心理学や、間主観性についての記事で後ほど触れてみたいと思います)。

 ここにもうひとつ、精神療法におけるパラドックスが存在します。

 「どうせ失敗が遅かれ早かれ起こるのなら、失敗してもいいや」とか、「治療者の失敗が患者にとって必要だ」、などという姿勢の治療者は、クライアントと良い人間関係を築くことなど望むべくもないことで、つまり治療者は、「共感の失敗」をしないように常に全力を尽くしてクライアントと向き合いながら、本当にやむを得ず失敗する、ということです。

 前者の治療者の失敗は、治療関係を破壊する、クライアントにとって、トラウマティックな失敗であるのに対し(こういうことが起きたとき、クライアント・患者さんは、傷ついたり、治療者に嫌気がさして、治療に戻ってこなくなります)後者の治療者の失敗は、修復可能な失敗であり、つまり、クライアントにとって決定的にトラウマティックでない失敗である場合が多いです。

 治療者も人間ですので、どうしても、いつも100%クライアントの気持ちやニーズが理解できるわけではなく、また、良い治療関係において、クライアントのほうでも理想化という防衛機制が働いているため、こうしたなかで、クライアントの高い期待と、治療者の言動に、ブレがでることは、どうしてもあるのです。

 そこで、クライアントは、「この人は完璧ではないけれど、いつも私のことを本当に考えてくれていて、いつも良い意図がある」という風に、治療者の「不完全性」と、「良い存在」の両方を、心から理解することになります。これを可能にするのは、基盤になった良い人間関係であり、こういう治療者のような存在を、ウィニコットは、"Good enough mother"と呼びました(脚注2)。

 このときにクライアントは、今まで理想化していた治療者の欠点や不完全性を感じてそこにある種の失望や悲しみを経験するわけですが、それでも首尾一貫して自分にとって良い存在であり続ける治療者を、ひとりの人間として、その「適度な」失望感と共に受け入れていくなかで、より健全で成熟した自己を構築していきます(このプロセスを、自己心理学のコーハットはTransmuting internalization[変容性内在化]と呼びました)。

 日本の諺、「雨降って地固まる」にも通じるものがありますが、こうした、治療関係の間に必然的に起きたEmpathic failure、共感の失敗を、クライアントと治療者が一緒に向かい合って取り組んで、ともに乗り越えることで、さらに強い絆と信頼関係ができていきます。

 ここまで読んでお分かりのように、クライアントと治療者が「良い人間関係」を築き、維持したり、深めたりするというプロセスのなかで、ふたりの間には本当にいろいろなやり取りがあり、また、そこには治療者の相当な臨床能力や知識や経験が要求されるもので、どうやら、良い人間関係が精神療法の良い結果をもたらすということは、同時に、クライアントと良い人間関係を築き、維持し、深めていけるのは有能な治療者で、有能な治療者は効果的な治療ができる、という説明も成り立ちそうです。

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脚注1)これは相関関係であり、因果関係ではないので、ここには当然、「治療関係の質」と、「治療の結果」を結び付ける、第三の変数となるいろいろな要素が存在しているわけですが、いずれにしても、「良い治療関係」が、「治療による良い結果」の指標になっていることは確かで、これは、心理療法の世界にいると、経験的にもとてもしっくりいくもので、実際、クライアントと治療者の良い人間関係が治療効果、良い結果に結びついているのは明らかだと思います。

(脚注2)この"Good enough mother"にはいくつかの邦訳語があり、「程よい母親」という訳語をしばしば目にします。良い訳ではあると思いますが、私としては、「(完璧ではなくて)十分に良い母親」という感覚です。「十分に良い母親」とはあまり締まりのない響きで、何か他に良い言い回しがないかなと思っています。いずれにしても、Good enough motherは、完璧ではないけど(完璧な母親など存在しません)健全な心の子供が育つのに大切な良い性質を、十分に満たしている母親、と言えそうです。



 

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個人的な意味 (personal meaning)

2014-05-04 | プチ精神分析学/精神力動学

 私たちは、生きているなかで、様々な経験をしていますが、そうしたなかで、特別に嬉しいこと、幸せを感じることもあれば、特別に傷つくこと、落ち込むこともあります。こうした特別に強い感情を経験するできごとについて、ひとはなんとなく、「その経験をした人は誰でも自分と同じように感じるだろう」とほとんど無意識のうちに思いがちですが、同じような経験をしたところで、そこに伴う感情というのは、実のところ、ひとそれぞれ相当に異なっていたりします。

 これは、あなたの今までの人生経験を少し立ち止まって振り返ってみると、意外と容易に理解できることだと思います。あなたが何かにものすごく感動したり、喜んだりしたことが、別の誰かにとってはどうてもよかったりすることもあれば、その逆のこともあるでしょう。

 たとえば、あなたがK大学に受かって大喜びしているときに、あなたの友人のAさんは、T大に落ちたことを引きずっていて、しかも、K大に受かることは確信していたため、何の感情も見せなかった、というような場合です。このとき、当然、あなたにとっての「K大に合格した」意味と、Aさんにとっての「K大に合格した」意味は、まったく異なったものであることがお分かりでしょう。同じ学部で、同じ現役合格であったのに、です。

 これは、あなたが何かにものすごく落ち込んだり、鬱になってしまったりしたときの、その引き金となったできごとについてもしばしばみられることです。

 世の中にはもちろん、だれが経験して鬱になるようなどうしようもなくひどい出来事というのものは存在します。それとは逆に、たとえばあなたの周りで誰かがうつになって、理由を教えてもらっても、「どうしてそれで鬱になったのか」、しっくりこない、という場合もあると思います。また、あなたを鬱にしたできごとについて誰かに話したけれど、理解してもらえなかった、ということもあるかもしれません。

 こういうときに起きているのは、そのできごとへの特別な意味づけです。これはもちろんほとんど無意識的にやっていることですが、その過程で、経験したできごとが、あなたの過去の嫌な経験、辛い記憶、劣等感、恐怖心などと連結させてしまっているのです。これは、その過去の経験が未解決であり、トラウマティックであればあるほど、強い破壊力を持ってあなたを陥れます。

 しかし、このようにして落ち込んでいるときに、その情緒体験は、あなたにとってとても自然でもっともらしいので、それがあなた特有の人生経験による、あなた特有の連結による、あなた特有の意味をもつものであることは、なかなか気づきません。それで、その無意識の連想、意味づけに気づかずに、どんどん落ち込んでいきます。過去の未解決の傷と、そのときの気持ちが、今回起きたできごとによって、同じように再体験されてしまっているのです。

 こういうときに、今一度立ち止まって、「どうして自分はこんなに落ち込んでいるんだろう」、「どうして自分はこんなに傷ついているのだろう」、と問いかけてみることが大切です。このような問いに、まず思い浮かぶのは、「そんなの決まっている。○○という経験をしたからだ」、という、「引き金」となったできごとが、「根本的な原因」であるような考えですが、ここで終わらずに、「なぜ○○という経験が、あなたをそこまで落ち込ませたのか」、考えてみる必要があります。

 すると間もなく、今回のできごとに関係する、あなたの過去の経験が思い出されるので、その過去の経験と、今回のできごとが、本当に同じことであるのか、懐疑的に検討してみることが大切です。実は似ていて非なるふたつのできごとであることが、見えてくるかもしれません。もし見えてきたら、これらの連結を切り離して、今回のことは今回のこととして捉えることで、それでも嫌な感情は残るかもしれませんが、その強度はずっと軽減することでしょう。

 もし過去のできごとを思い出せたものの、今回のこととの違いがどうしても見いだせない、という場合にはどうしたらよいでしょう。

 それはそれでいいのです。少なくとも、あなたには過去に未解決な問題があり、解決されていないので、あなたに付きまとい、何かあったときに、息を吹き返してきてあなたを襲う、ということがわかりました。

 つまりこれは、あなたがどうしても解決しなければならない問題です。向き合わない限り、あなたがどこへ行こうと、何をしようと、どこまででもあなたについてきます。あなたがその問題ときちんと向かい合い、立ち向かうまで。そのようにして問題を解決したら、それは破壊力を失うので、次にあなたが似たような経験をしたところで、あなたがそれに打ちのめされるようなことはなくなるでしょう。

 もし、その問題が複雑過ぎて、ひとりではとても解決できないというのであれば、私のところにご連絡ください。そんなあなたを私はどこまでも応援します。他所ではなかなか経験できない、臨床心理学本場アメリカ仕込みの、現代の精神力動学精神療法で、あなたのこころの問題を深く理解し、一緒に解決しましょう。


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