興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

権威闘争 その1 (power struggle #1)

2014-06-25 | カップル・夫婦・恋愛心理学

 恋愛関係、婚姻関係のカップルの別れには、大きく分けて、2種類あると言われています。

 まず、一つ目のパターンですが、これは、特に仲が悪いわけでもなく、決定的な喧嘩などがあったわけでもなく、付き合ってはみたものの、なんとなくそれ以上関係が深まることもなく、どちらかともなく別れを切り出したり、或いは「自然消滅」的なフェイドアウトによって、その関係が終わってしまうものです。こうした別れにおいて、あなたはトラウマになるような痛みは経験しません。もちろんそこには一過性の悲しみ、怒り、腑に落ちなさなどはありますが。

 もう一つのパターンが、今回テーマになっている「権威闘争」(Power struggle、パワーストラグル)の伴う場合で、この場合、前者と比べて明らかにあなたはその相手とのこころの繋がりは深いです。趣味を共有していたり、価値観や哲学や社会的関心などが共通であったり、知的レベルが同様であったり、セックスのケミストリーが抜群であったり、そこにはいろいろな理由があるでしょう。

 そして、そのようにふたりで共有しているたくさんのものがあって、互いに深いつながりを感じているにも関わらず、どうしても相容れないものがあり、そのために起きるどうしても繰り返される喧嘩や口論、そうした頻繁に起きる争いのときの傷つけあうことの痛みに遂に耐え切れずに、大きな未練はあるものの、どうしようもなく別れを選ぶ、というケースです。このような別れは、どちらが別れを切り出したにしても、それぞれにとってものすごい痛みを伴うもので、その別れはしばしばその人にとってトラウマティックなものとなります。

 それで、どちらのパターンの相手が、あなたの人生において深い関係のあった人であったか、運命の相手の可能性があったかと言えば、それはもちろん後者です。彼らの争いは非常に苦痛なものですが、そこには深い繋がりもあるので、多くの場合、このケースのカップルは、なんとかならないものかと一生懸命奮闘します。カップルセラピーにやってくるカップルの多くが、このパターンであると聞いても、あなたはあまり驚かないでしょう。

 前者の場合、争いもあまりないけれど、繋がりも強くない分、別れにおける葛藤も迷いも少なく、カップルセラピーの出番はそれほど多くありません(脚注1)。一方、後者の人たちは、そのこころの繋がりが深く、互いに特別な存在であることが直感的、経験的にわかっているので、どうせ別れるのであれば、その前に最後の手段としてカップルセラピーを試したい。カップルセラピーをせずに別れてしまってはきっと後悔する、そういう思いから、カップルセラピーの門を叩きます。

 カップルセラピーのなかでも、特にImago Relational Therapy は、こうした人たちにおいて、非常に有効であることが知られています (イマゴ セラピー。Imago (イマゴ)とは、ラテン語でImageを意味します)。Imago Relational Therapyにおいて、彼らの権威闘争は、「権威闘争期」というカップルの関係性における中期のステージであり、この互いに傷つけあう権威闘争期をうまく乗り越えて、さらに深く繋がり、分かり合え、互いに高め合える、真の人生のパートナーとしての最終ステージ、Conscious partnership stage (深い意識と自覚のあるパートナーシップ)にたどり着きます。Conscious partnership stage においても、自然な口喧嘩はときに起こりますが、権威闘争期のような、互いを傷つける種類のものではなく、相互理解やサポートに繋がるものです。次回はこの権威闘争とは具体的に何か、また、Imago Relational Therapyとはどのようなものかについて、お話しようと思います。

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(脚注1)とはいっても、「自分たちはこのまま付き合いを続けるべきなのだろうか」、「このまま別れるべきなのかいまいちわからない」、というカップル、また、どちらか一方は一緒にいたいけれど、もう一方は別れたい、という例も少なくありません。こうしたケースにおいてもカップルセラピーは有効です。彼らはカップルセラピーを通して、自分自身と相手における理解を深め、混乱を解消し、クリアーなマインドで、冷静な判断ができるようになります。これで関係が深まるカップルもいれば、別れを選ぶカップルもいます。しかし、もやもやした、いまいち判然としないなかで、衝動的に別れてしまうよりも、こうしたプロセスを通してきちんと理解して別れるほうが、お互いにとって良いことはいうまでもありません。この理解があるのとないのとで、次にあなたがどのような人と付き合ってどのような関係を築くのかに大きな影響があるからです。


 


反動形成 (Reaction formation)

2014-06-11 | プチ精神分析学/精神力動学

 世の中にあふれる自己啓発本など見ていますと、「とにかくポジティブ思考」的なものがとても多いです。「ネガティブなことは考えないようにして、とにかくいいことをしましょう」的な発想です。私はこういうスタンスには常々懐疑的で、実際これを宗教のように実行している人たちで、「本当に」幸せなひとにはお目にかかったことがありません。

 そういう私も、基本的に、ポジティブに考えてポジティブな姿勢でポジティブな行動を選んでポジティブに生きていくことはとても大切なことだと思っています。

 私が問題にしているのは、こうした勢いが強すぎて、本来自分が感じている気持ちから目を背けたり、軽くあしらったり、無視したり、抑圧して無意識へと葬り去ってしまう有り様です。そして残念ながら、日本社会には、文化的にもこういう姿勢を奨励する空気が昔からあります。日本人のメンタリティにとても馴染みのあるもので、実行に移しやすく、そういう自助本が出るたびに大衆が飛びつくのもごく自然なことだと思います。しかし、自然だから、馴染みがあるから良い、というわけではありません。冒頭の「とにかくポジティブ思考」的な考えは、意識を狭めて自分にとって都合の悪いものをうまく回避して生きていくこととなんら変わりがないからです。縮小された自己により、縮小された世界を生きて、本当に面白いでしょうか。そういうものは映画館に行ったりドラマを見たり小説を読んだりして疑似体験すればいいのでしょうか。

 さて、だいぶ前置きが長くなりましたが、今回紹介する私たち人間の無意識の防衛機制、「反動形成」(Reaction formation)は、こうしたことと深く関係しているもので、日本人に、この防衛機制を主な適応手段として使っている人が多いのは、上記のようなことを踏まえて考えると、偶然ではないことがお分かりになると思います。

 反動形成とは、あなたにとって受け入れがたい考え、気持ち、衝動などが無意識に抑圧され、その抑圧を保つために、意識や行動としては、それらの真逆のものにすり替えられてしまう無意識の防衛機制です。

 たとえば、ある夫婦で、夫は妻に強い憎しみがあったのですが、彼にとって、自分が「良い人間」であることが非常に大切なことであり、また、どうしてもその結婚を続けていく必要があったため、その強い憎しみを意識することがあまりにも受け入れがたく不都合でした。最初はその憎しみの感情が、意識の片隅にあったのですが、それは彼にとってはとんでもないことで、見ないように見ないように、またそうした負の感情を殺すように、彼は妻に対して一際優しく接するようにしていきました。そのうちに彼の妻に対する憎悪は「無事」無意識へと抑圧され、彼はその抑圧の蓋を維持するために、妻にものすごく親切で優しくあり続けます。周囲の人から見ると、彼は「ものすごい愛妻家」です。

 大いに結構じゃないですか。何がいけないんですか?と思う方も多いことでしょう。そうですね。これでお二人がいつまでも幸せにやっていけるようでしたら、これはこれで大いにありだと思います。

 しかし残念ながら、このように抑圧している本当の感情というのは、生きていますので、常に表現方法を探しています。それはこころにとって、相当にストレスの掛かる状態です。よって、フロイト的失言や行動化のようにして、不意に表現されてしまい、二人の間に不自然でぎくしゃくしたものを与えるかもしれません。そういうとき、妻は普段の夫からは考えられないような発言、行動にショックを受けますし、「この人本当はどう思っているんだろう」、という疑念がでてきたりします。

 また、もしそうした「ミス」や「間違い」などによって、その無意識の憎しみが表現されることすらままならないと、彼は体調を崩したり、病気になったりします。慢性的な頭痛、腹痛、下痢、睡眠障害、鬱、不安、パニック、性機能障害など、表現される方法はさまざまですが、このようにして、やがて問題がでてきます。たとえば、これも良くある話ですが、こういう状況で、夫は妻とセックスをしていて、どういうわけか、いつまでたっても射精に到達できなかったり、射精までの時間が極端に長くなったりします。あるいはうまく勃起が維持できないかもしれません。なぜなら、この夫は、意識ではオーガズムに達して妻に精子をと思っているものの、無意識では、妻に精子を与えることにものすごい葛藤があり、あげたくないので、それが遅い射精、射精不能、性交不能といった形で「表現」されているのです。女性の「不感症」についても、こういう無意識の葛藤が関係していることがよくあります。性的快感を夫と共有したいと意識では思っているものの、相手が自分が感じることで喜ぶことを知っていて、そうありたいと思っているものの、そうした相手が欲しているものを与えることが、無意識では大きな葛藤になっているので、結果、「感じたくても感じられない」という形で表現されているのです。

 このほかにもいろいろな例があります。自分の子供に対して、どこか否定的なものがあるけれど、それを意識することがどうしてもその人のなかの「良い母親像」のイメージにそぐわず、受け入れがたいため、その気持ちから意識を逸らして、その結果、必要以上に世話をしたりします。

 本当はのんびりとやりたい気持ちのある人が、そういう気持ちを受け入れられず、反対に休暇もままならないほどにバリバリ働いて、のんびりしている人たちを「怠け者」とみて彼らに否定的な感情を抱くような例もこれです。ところでこの人の彼らに対する「否定的な感情」は、投影という防衛機制であり、少し前に紹介した、Disowned selfの表れです。本来は自分が持っている「のんびりしたい」という気持ちが受け入れらないので自分から切り離し、それを相手に投影し、相手のなかに見ることで精神の安定を図るものです。この人は、このようにして無意識の気持ちがでてこないようにしています。

 このように、反動形成という現象は、いろいろな場面で見られるもので、短期的には、ものごとがスムーズに円滑に進むために都合のよいものですが、これが長期化すると、様々な問題がでてくるのです。

 解決策としては、やはり、普段から、自分の気持ちに素直でいることです。前にも触れましたが、私たちの感情に、もともと良いも悪いもありません。その感情が良いか悪いかは、私たちが任意に決めているのです。怒りや悲しみ、失望、そうした感情も、それ自体、悪いものではありません。良いものでもありません。それはとても自然な感情であり、まずはあなた本人に受け入れてもらうべき感情なのです。大事なのはどうしてそういう風に感じるのか、よく自分と向かい合って、理解することです。きちんと理解でいたら、それは脅威ではなく、受け入れられます。

 上記の例では、たとえば、性生活に問題のでていた夫の例でいえば、彼は妻に対して実は憎しみがあることなど露ほどにも思わずに、「性障害」を治したくて心理療法にやってくるのですが、このプロセスで、ずっと抑圧していた妻に対する憎しみを感じることが脅威ではなくなってきて、きちんと感じられるようになり、どうしてそう感じたのか理解が深まり、受け入れられるようになっていきます。自分の受け入れがたかった感情を受け入れられるようになるのは、自己受容であり、自分が受け入れられると、配偶者をより本当の意味で受け入れられるようになります。彼は、妻に対してときに悪感情を抱くのも自然なことなのだと理解し、それも妻を傷つけずにうまく直接表現することができるようになり、その結果、今までの無意識の葛藤が解消し、妻と再びセックスを楽しめるようになりました。

 また、子供に対して時に「悪感情」を感じても良いのだと受け入れられるようになったお母さんは、子供と適切な距離を保てるようになりました。このお母さんは、かつては「母親は常に100%子供を愛さないといけない。決してネガティブな感情は抱いてはいけない。ネガティブな感情を抱いたら愛せなくなってしまう」という恐怖があったのですが、実際に自分の気持ちと向き合えるようになって、それが思い込みであることにも気づいたのです。

  あなたの今の行動に何かとくに不自然なものがあれば、この反動形成の可能性について一度考えてみると何かよい発見があるかもしれません。

 


カセクシス、充当 (Cathexis)

2014-06-06 | プチ精神分析学/精神力動学

 カセクシス、などというと皆さんにはあまり馴染みのない言葉かもしれませんが、これは私たちの日常に溢れている現象であり、この概念について理解があると、あなたやあなたの周りの人のこころの変化について、理解が深まることと思います。この概念をしらなければ、知らず知らずのうちに起きている面白いの現象です。

 カセクシス。いい響きです。

 さて、それでカセクシスとは何でしょう。

 これは、精神力動学、精神分析学の概念で、あなたのこころの精神的エネルギーが、特定の対象に注がれることを指します。

 かつてフロイトは、この概念を用いて、こころの経済論的見地において、この精神的エネルギーの消費の様子について説明しました。私たちのこころのなかの精神的エネルギーの資源は限られていて、あなたが誰かや何かに夢中になっているときに、無意識的に、あなたの精神的エネルギーがその対象に注がれるわけです。

 たとえば、和樹さんが奈緒子さんに恋をします(以下のお話はフィクションです、念のため)。

 和樹さんのその恋は猛烈で、奈緒子さん一直線です。やがて和樹さんのその好意は奈緒子さんに受け入れられ、和樹さんはその恋のハネムーン期で、さらに奈緒子さんに没頭していきます。このとき、和樹さんはもう奈緒子さん一筋で、彼の周りの他の誰にも意識が向きません。今まで好きだった携帯ゲームもしなくなりました。テレビドラマの視聴もやめました。やめるつもりもなく、それらの活動はなくなっていきました。

 これは猛烈なカセクシスですが、やがて和樹さんと奈緒子さんの恋はハネムーン期を過ぎて、権威闘争期(Power struggle period)に入りました。奈緒子さんへの理想化も弱まり、次第に今までは見えていなかった奈緒子さんの欠点が目につくようになります。奈緒子さんとしても、和樹さんについて、同様のことが起こり、その結果、ふたりの間には争いが増えるようになってきました。

 ある日、和樹さんは出席した友人の結婚式の二次会で出会った聡美さんと意気投合し、携帯電話の番号を交換し、Lineなどでやりとりをしていくなかで、聡美さんへの興味を深めていきます。和樹さんは、こうしたことを、奈緒子さんに隠れて慎重にしていたのですが、奈緒子さんに対する興味の薄れはどうしようもなく、間もなく浮気はばれ、二人は破局を迎えました。

 さて、大変困った話ですが、この一連のできごとで、和樹さんの精神的エネルギーには何が起こっていたのでしょうか。

 和樹さんは、奈緒子さんに向いていた精神的エネルギーが、やがて聡美さんに向くようになります。このとき、カセクシスとは真逆の作用、Decathexis(ディカセクシス)が起こっています。

 ディカセクシスとは、その人がそれまで注いでいたエネルギーを、その対象から今度は吸い取ることです。イメージするならば、今まで和樹さんは注射器で奈緒子さんにエネルギーを注入していたのですが、今度は今まで注いでいたそのエネルギーを、同じ注射器を使って吸い取っていたわけです。無意識のお話です。

 なぜそのようなことをする必要があるのでしょう。

 それは、和樹さんの精神的エネルギーの総量は一定であり、彼の関心が聡美さんに向かうためには、それなりのエネルギーが必要であり、それが足りていなかったので、奈緒子さんに注いでいたものを吸い取って自分のなかに取り戻して、それを聡美さんに注ぎ始めたわけです。

 ところで、最初に和樹さんが、奈緒子さんに恋心を抱くにつれて携帯ゲームをしなくなったのは、ここにも実はディカセクシスの作用が働いていて、携帯ゲームに注いでいた精神的エネルギーが和樹さんによって吸い戻されていたわけです。

 なんだかろくでもない例を上げてしまいましたが、浮気がばれる一因に、このカセクシスとディカセクシスの作用があるのは間違いなさそうです。あなたのパートナーは、あなたの注意や関心が減っていくことにはあなた以上に敏感です。

 またこれは、どうしてふたりの相手と同時に付き合うことが、たとえ3人の合意であっても望まくないことであるかの理由のひとつでもあるように思います。というのも、お分かりのように、人間の精神的エネルギーには個人差はあるものの、その個人ごとに上限があり、ふたりだけの関係であったら、そのひとりのパートナーにあなたは全精力を注いで愛することができるのですが、ふたりいると、そのエネルギーを二分割しなければならなくなるからです。その結果、あなたはひとりひとりをフルに愛することができませんし、また、あなたのふたりのパートナーは、その半分のエネルギーしか受け取ることがありません。それは相手にとって、フェアではありません。相手は、あなたのベストな愛に値する存在だからです。それから、いうまでもありませんが、ふたりの相手に「均等」にエネルギーを「二分割」するのは不可能ではないとしても、極めで難しいことです。そういう意味でも、相手にとって、フェアではありません。

 ところで、これも興味深いことですが、自己愛の強い人は、本来他者に向かうべき精神的エネルギーが自分に向ってしまっていることで、これは、外部の対象に対するディカセクシスによるものです。ディカセクシスによって、他人に興味がなく、自分にばかり興味がでてしまうのです。自分の話を延々とし、身だしなみに常に囚われて、スマートフォンでセルフィーばかりして、LineやFacebookなどで自分の話がスルーされたり期待していたことと違う反応をされると激昂するような人たちです。

 最後になりますが、カセクシス、ディカセクシスは、恋愛関係に限ったことではありません。それ以外のあなたの精神活動にも見られます。たとえば、あなたが仲良くしている個人やグループが変わっていくときや、今の会社に情熱が持てなくなって、転職を考えているとき、それから、ある趣味に対する興味がなくなり、別の趣味に興味が湧いていく過程などにもこの現象がみられます。

 


置き換え (Displacement)

2014-06-04 | プチ精神分析学/精神力動学

 私たちは普段から、こころの平安を保つために、無意識に、いろいろな防衛機制を用いているというについてはここで何度か触れていますが、今回はまた、その防衛機制のひとつ、置き換え(Displacement)について考えてみたいと思います。

 置き換えとは、もともとフロイトによって提唱された基本的な自我の防衛機制のひとつです(ここでいう自我とは、一般に使われている意味とは異なる、精神力動学、精神分析学の専門用語で、認知、思考、感情、行動などの私たちのこころのいろいろな機能を統制したり、統合したりする部分のことです。自我についてはまた別の機会に詳しく説明します)。

 さて、置き換えとは、もともとある対象に向けられていた精神的エネルギー、興味などが、何らかの理由で、直接その対象に精神的エネルギーを向け続けることがそのこころにとって脅威だったり不都合であったりするため、自我にとってそれよりも受け入れやすい他の対象に向けられる、つまり、「置き換えられる」現象です。

 この一番わかりやすい例が、八つ当たりの心理です。

 ある男性が、会社で上司に酷く責められたとします。そのとき彼は上司に対して怒りを経験していたのですが、その怒りを直接上司に表現することができずに、悶々としていました。怒りは収まらないけれど、その怒りの対象の上司に直接怒りを向けることができません。そこで、彼はイライラしながら一日を過ごすのですが、帰宅すると、たまたま急用で夕飯の支度ができていなかった妻に怒りをぶつけてしまった、というようなものです。

 この人は、上司という対象に向けられなかった負の精神的エネルギーのはけ口を、怒っても安全である妻に向けてしまったわけです。もしこの男性に洞察力があれば、彼の怒りがその状況から度を越えていたとすぐに気づくのですが、洞察力のない人は、会社であった不快なことはすっかり忘れていて、自分はただ単に目の前の妻に怒りを感じているのだ、と思っています。

 ところで、この負の置き換えによる行動化は、連鎖することがあります。上のように、夫に当たられた妻が、今度は宿題をやらない子供に怒りをぶつけるかもしれませんし、そのようにして不条理な怒りを受けた子供は、翌日学校にいって、自分よりもおとなしいクラスメイトをいじめるかもしれません。

 このようにして、負のエネルギーは連鎖していく可能性があります。これはとても悲しい話だと思います。犠牲者が加害者となり、さらなる犠牲者を生み出していきます。これは実際、世の中にはびこる暴力の理由にもなっているものです。

 こうした負の連鎖を減らすには、どうしたらいいのでしょうか。

 まずは、あなたから始められます。もしあなたが誰かに八つ当たりしたことに気づいたら、良く反省して、その人に謝りましょう。そして、当たってしまった理由である、直接の対象との間に起きたことについて、よく内省しましょう。

 もしあなたが誰かに八つ当たりされて嫌な気持ちになったら、その嫌な気持ちをきちんと認識しましょう。それは怒りかもしれませんし、悲しみかもしれません。いずれにしても、それはあなたが感じて当然の、とても自然な感情です。その感情を抑制したり、そこから目を背けるところから、問題がはじまります。

 ですから、まず、自分の感情を、それが何であれ、きちんと認識する習慣をつけていきます。そのようにしてあなたの気持ちがきちんと認識できたら、今度は、その気持ちを上手にもともとの対象に表現する工夫をします。もし話せばわかる人でしたら、以前紹介した、I-statement(「あなた」ではなく、「私」を主語にした発言です。たとえば、「あなたに八つ当たりされたからすごく気分悪い」ではなくて、「わたしはすごく悲しいの、あなたが私にそのように当たることが」、という感じです)を使って表現します。

 もしそれがどうしてもできないような相手でしたら、そのあなたに八つ当たりしたひとは、とても哀れなひとです。自分の気持ちと向き合うこともできなければ、相手と向き合うこともできない、弱い者いじめしかできない、臆病でかわいそうな人です。あなたは天災にあったようなものなので、その人の言動を、個人的に取らないように心掛けましょう。また、親しい人にあなたの本当の気持ちを話して聞いてもらいましょう。このようにして、あなたは誰かに当たることなく、他者からの置き換えの行動化を処理できます。あなたの賢明な選択により、あるいは連鎖していたかもしれない負のエネルギーは、あなたによって処理されました。

 ただ、もしその相手が置き換えを常套的な防衛機制として使っているようなひとであれば、その人との関係について考え始めるのも必要かもしれません。誰も他人に当たってはいけないし、誰も他人にそのような扱いを受けてはならないからです。それは人間の尊厳の問題でもあると思います。