興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

トラウマケアで忘れられがちなもの

2023-11-22 | プチ臨床心理学

 ひとは、その人生において、事故や傷害事件などで大怪我をしたり、がんなどの大病をしたり、死の恐怖を経験したり、人格や人間としての尊厳が失われる、自己同一性(アイデンティティ)に断絶が起きるような極限の精神的・肉体的苦痛を経験すると、そのできごとや体験は、心的外傷(トラウマ)となる。心的外傷を受ける前と受けた後で、別人のようになってしまうひともたくさんいる。

 心的外傷には、心的外傷化(トラウマ化)した記憶が伴う。問題なのは、トラウマ化した記憶は、いわゆる「時間薬」がうまく効かないことだ。トラウマ化した記憶は、タイムレスであり、時間の感覚がなく、そのままにしておくと、いつまでも色褪せることがない。

 トラウマ化した記憶を、そのひとと深く関わっていくなかで、一緒にプロセスして、無毒化していくのは我々サイコセラピストの仕事であり、完全な無毒化ができなくても、適切に処理されて、その人のアイデンティティにうまく統合された記憶は、その人を蝕むこともなくなっていく。もちろん、思い出すことはあるし、思い出したら嫌な気持ちにはなるけれど、思い出す頻度が格段に減り、たとえ思い出したとしても、トラウマケアを行う以前のように、その記憶で一日が台無しになるようなことはなくなる。

 我々人間の自己同一性は、通常、連続体であり、この世に生れ落ちてから、今に至るまで、繋がっている。

 しかし、トラウマを経験した人は、そのトラウマ的なできごとによって、その自己同一性に断絶が起きる。数学的には、トラウマ前の直線なり曲線の関数と、トラウマ後の曲線なり直線の関数が、2つの異なった関数によって成り立っているようなものだ。トラウマ後に、断絶が起きて、その人の人生が、新しい関数によって進んでいく事になる。

 私がクライアントさん達と一緒に行っていることは、この断絶を注意深く検討して、処理して、断絶を修復する作業だ。この修復の作業には、トラウマ体験そのものを、その人の人生に再統合するプロセスが含まれる。再統合がうまくいくと、その人の人生は、断絶がなくなり、連続性を取り戻す。また、その再統合された人生は、トラウマ以前より豊かになることも多い。そのトラウマ体験ですら、うまく人生に使っていくことができるようになる人も少なくない。

 いつものように、前置きがとても長くなってしまったけれど、この「再統合」の段階において私が大事なことのひとつだと考えているのが今回の表題だ。 

 トラウマワーク、トラウマケア、という目的を前提としたサイコセラピーや心理カウンセリングは、当然だけれど、そのトラウマ的なできごとと、その人のトラウマ体験を中心にセッションを行っていく。それで、とてもつらい時期が焦点化される。これは自然な流れであるし、私としても、トラウマケアの初期段階は、こうした中核的なものについて、慎重に、丹念に、扱っていく。

 ただ、クライアントさんがトラウマから回復していく中で、もちろんケースバイケースだけれど、私が意識しているのは、その人のいわば人生最悪な体験とその悪影響に苛まれて過ごした、混とんとしたそのつらい時期に、トラウマとは直接関係していない、あるいは、まったく無関係な、その人にとって良かった体験や、良かったできごとだ。

 というのも、人間、本当につらいことがあると、その時期全体がとてもつらいものとなってしまい、その時期すべてが真っ黒になってしまいがちだ。そうなると、たとえば、その時期に聴いていた、とても素敵な音楽だったり、遣り甲斐や生き甲斐を感じていたことだったり、誰かとの良い人間関係だったり、そこでなされた会話だったり、その時に訪れた町の景色だったり、こうしたことも、忘れてしまっていたり、なかなか思い出せないことが多い。また、こうした事物がトラウマによって汚染されてしまって、自分にとって嫌なもののひとつになってしまうことも少なくない。

 こうしたときに、セラピストが自身の価値観で、そうした良きものたちをクライアントさんが受け入れるように押し付けるのは論外だけれど、サイコセラピーの強い治療関係のなかで、自然に語られるようになるかつての良い事物について丁寧に扱っていくと、クライアントさんが自発的に、こうした「失われた良いもの」を再び人生に取り入れていくことを希望することが少なからずある。その場合、悪いものに汚染された良いものから、その汚染を取り除いていく作業も一緒にしていく。

 とてもつらい時期を思い出させるような、当時好きだったことを、自分の人生に再び取り入れていくためには、トラウマケアがそれなりに進んでいる必要はあるけれど、セラピストは、クライアントさんの記憶を、解像度を上げてみていく必要があると思う。

 「トラウマ」というほどじゃないけれど、すごく嫌な記憶で今でもよく思い出す、ということがある方も少なくないと思う。ただ、そのように、忘れられずに、今でもあなたのこころを乱し続けるものは、やはりトラウマ化した記憶ではあると思う。

 トラウマは、とても個人的な体験であり、決して他の誰かの事例と比べることはできない

 ただ、すごく嫌だったけれど、思い出すことで生活に支障をきたすことはない、という場合、そのことを経験した時期の、これまであまりよく考えないようにしていたその時期にあった良いものについて思い出し、それを今の生活に可能な形で取り入れることで、その分人生がより豊かになっていく、という事例は、私自身、よくお目にかかるものだ。


最後まで対話を続けられない人

2021-03-27 | プチ臨床心理学
人々の喧嘩や言い争いについてお話を聞く機会は多いのですが、しばしば感じるのは、今回のタイトルである、「最後まで対話をする事ができない人たち」がとても多いという事です。

というのも、対人関係で何か問題があった時、それについて言語化して相手に伝えるところまでは良いのですが、本来はそこから相互理解の対話が始まるはずの「問題提起」がなぜか「最後通告」になってしまう人たちが相当数おられるのです。

「これが問題だ」「これが嫌だ」「これが嫌いだ」「これが耐えられない」「これに傷ついた」、とだけ相手に伝えてシャッターを下ろしてしまうのです。

もちろんその相手が暴力的であったり強く自己愛的で話が通じない、これまでもさんざん話し合いを続けて相互理解を試みたけれどダメだった、という背景があっての最後通告ならば良いのですが、そうではなくて、話し合いができる相手に対してこうする場合は問題です。

このように一方的にシャッターを下ろす傾向の強い人たちの特徴はいくつかありますが、よく見られるものとして、以前このブログでも紹介した、「読心」(mind reading)という認知の歪みです。

思い込みの強い人たちで、相手の表情や仕草、言動そのものに強く反応して、その意味や動機について独自に推測や解釈をして、それが正しいかどうかを相手に確認するための対話をしない人たちです。

その人の表情や言動から分かる事もあれば、それだけでは分からない事は実はたくさんあります。例えばあなたの結婚が決まって大切な人に報告した時に、その人の表情が曇った時、その人の心の中に喜び以外の何かが混じっているところまでは分かりますが、その理由についてはきちんと話をしてみないと分かりません。

こうした人たちはしばしば人間関係にトラウマのある人たちで、「読心」する事でなんとかやってきた、いわば「読心」が処世術となって強化されてきた背景があったりします。

例えば生まれ育った家庭環境で主要な養育者が悪意や意地悪心を持っていて、基本的に否定的なことばかり言われてきた、自分の気持ちや願望はあまり聞いてくれなかった、といった背景があれば、相手の言動や表情を否定的の捉える癖がつきます。

養育者の言動に首尾一貫性がなく、言動が予測不能で、突然不機嫌になって暴言や暴力振るうような環境では、相手の表情や言動に素早く反応する方が適応的ですし、こうした場合、会話が長くなる程に傷つけられる事になりやすいです。つまり、対話を続ける事のメリットをあまり経験していない人たちです。

皮肉なのは、「読心」をする人は、そうし続ける事で、いつまで経っても誰かと深く分かり合えるための「難しい会話」、「居心地の悪い会話」、「タフな会話」をする対話力が身につかず、誰かと本当の信頼関係を築いたり、本当に親密になる事ができないという事です。

もしあなたの大切な人にこうした特徴があるのでしたら、まずはこうした可能性を踏まえて、とりあえずはそっとしておいて、あまり長い時間が経過しないうちに再び歩み寄ってみると良いかもしれません。冷静になると対話に応じられる人も少なくないですし、それで誤解を解くことが出来るかもしれません。

もしあなたにこうした特徴がおありで悩まれているのでしたら、まずは、「読心」の内容について疑問を持ってみることです。

先程の例で、結婚する事を報告したら相手の表情が曇った時、その時は反射的に「この人は私の結婚を喜んでくれない、否定的だ、嫌なんだ」、と解釈して距離を置いたとしても、「本当にそれだけかな」、「本当に否定的なのかな」、「あの表情の否定以外の意味はなんだろう」、などと考えてみて、もし今までのその人との関わりがあなたにとって良いものであったなら、勇気を出してその人と対話の時間を持ってみると良いかもしれません。

その「新しい会話」があなたにとっての「新しい人間関係」となり、新しい気持ちが出てきて、トラウマの克服にもつながります。

経験すべき自然な感情

2020-11-28 | プチ臨床心理学

「ポジティブシンキング」、「前向きに生きよう」といったスタンスが奨励される現代社会で、こうした考え方自体は良いと思うのですが、何事も行き過ぎると問題が出てきます。


私がしばしば気になるのは、物事を前向きに捉えようとし過ぎるあまり、過度な合理化をして、その事物に自然に伴う感情を経験する事を避けたり、怒りや不安や恐怖などの難しい感情を伴う行動を条件反射的に避けて生きている人たちです。


それはまるで、嫌な感情を経験したら自分が致命的に傷ついて立ち直れなくなるんじゃないかというような恐怖です。


また、自己肯定感や自己評価の向上、合理的でスマートな生き方が奨励される世の中で、HSPなどの概念も独り歩きし、対人関係を伴う嫌なことは避けて良いのだという誤った解釈をする人も増えていて、それもまた気がかりです。


嫌な気持ちになる事を必要以上に避けるゆえにいつまで経っても深みのある情緒体験に対する耐性ができずに精神的に未成熟な状態が長年続いている人たちです。


人間、何かに苦手意識を持って、それを避ければ避ける程に、克服の機会が得られずに、苦手意識が増悪するという悪循環があります。


我々人間が陥り易い代表的な認知の歪みに、「感情的推論」(emotional reasoning)というものがあります。


これは文字通り、その人がある物事に対して感じる感情を元にして、その物事の良し悪しを判断する傾向です。


例えば、社交不安のある人が、パーティーに招待されたものの、出席する事を想像すると不安が出てきて、行きたい気持ちもあるものの、こんなに不安なのは出席すると何か悪いことが起きるに違いない、と結論付けて早々に欠席の返事をしてしまうのも感情的推論です。


この方の社交不安の強さにもよりますが、比較的マイルドな不安であれば、むしろ出席する事で、何らかの心的報酬があり、自己評価が向上したりしたかもしれません。


もちろん、すべての感情的推論に問題があるわけではありません。


我々がこうした認知傾向になり易いのは、進化心理学的な理由があります。


現代のような複雑な文明社会になる以前は、こうした認知のパターンが社会的サバイバルに結びついていました。


「嫌な予感」がするのは、正当な理由が伴う場合も少なくありません。


私がここで問題にしているのは、感情的推論が誤作動したり、過剰反応しているケースです。


もうひとつ気になるのは、これも近年増えてきている印象がありますが、怒りや悲しみや恐怖や嫌悪といった難しい感情を無条件に悪いものだと信じて、こうした感情が伴う可能性のあるあらゆる行動を避けて生きている人たちです。


例えば、何らかの事情で不和になってしまった大事な人と歩み寄る必要がある時に、その過程で必然的に伴うであろう不安や恐怖をとにかく体験したくなくて、中期的、長期的に見たら双方にとって良い話し合いをいつまでも避け続けるケースです。


これが夫婦間葛藤や真剣お付き合いしている恋人との関係性である場合、避け続けている時間が長いほどに破局や離婚のリスクも高まります。


なぜなら、本当に親密な関係性には多かれ少なかれ、難しい感情が伴うものであり、この深みを避ける事で、親密になれなかったり、こころに距離ができて、親密さや信頼関係が失われてしまうからです。


こじれてしまった関係の人に歩み寄るのは、その人が大事な人であるほどに怖いものです。


なかなか分かり合えないかもしれないし、やり取りの中で互いに傷付け合う事もあれば、一時的な拒絶感を味わうかもしれません。


しかしこうした人生における事象は、本質的に、”no pain, no gain”であり、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」的な側面があります。


誰だってこういう事は嫌ですし、できれば避けたいものです。


しかし、何より怖いのは、必要な対峙を避ける事で大切な人を本当に傷つけてその人間関係が駄目になる事や、勇気を出せずに好機を逸する事を繰り返す事で、自分に失望する事ではないかとも思うのです。



うつ病のパラドックス

2020-11-19 | プチ臨床心理学
大切な人がうつ病を患った時、周りの人たちはしばしば善意から、何か気晴らしになる楽しい事をするように勧めます。

ご本人も早く良くなりたいですし、これは感覚的にももっともらしいので、いろいろなアクテビティを試みます。

これでうまく好転するのはマイルドなケースであり、実際多くの方が、そうしたアクテビティを思うようにできなかったり、できても楽しめなかったりして、無力感などから更に落ち込むという悪循環があります。

これは専門家からすると、実は当然の事です。

というのも、うつ病(大うつ病性障害、Major Depressive Disorder)の診断において、その中核的な症状に、「1日を通して、ほとんどの活動における興味または喜びの著しい減退」、という症状があります(この症状がうつ病の診断に必須というわけではありません)。

病前は楽しめていたこと、興味を持っていた事に対して、興味を失い、楽しめなくなっている状態です。

つまり、興味が湧かない、楽しめないからうつ病だと言うことができます。

その症状ゆえになかなかできない事を、意志の力でどうにかしようとしてもなかなか難しいです。

それではうつ病の人にこうした助言は不適切なのかといえば、必ずしもそうとは限りません。

というのも、人の情緒と行動は密接に関係しています。気が進まないながらに参加したイベントが思いがけず良いもので気分が上がった、というような経験をした方は多いと思います。この場合、行動が先で、行動の結果として気分が好転しています。

実際、私自身、うつ病でカウンセリングにお越しになったクライアントさんには、治療関係ができてきたら、行動療法的に、こうした何か無理なくできそうなアクテビティを試したり生活に取り入れるように助言する事があります。

ただ、先述したように、うつ病の症状について説明をして、なかなかうまくできなくて当たり前で、できたらしめたもの、ぐらいの気持ちで、焦らずに気長に取り組んでいくように助言していきます。

実際、うまくできるか、楽しめるかどうかはそれほど重要ではありません。

大事なのは、その試行錯誤そのものであり、その過程を通して回復の足掛かりが出てくる事も多いです。

例えば、ちょっとしたウォーキングですが、歩く事で、抑うつ状態の人の脳内に不足している、セロトニンという情緒の安定に重要な脳内物質の分泌量が増えることはよく知られています。心理的にも、家の中にいては得られない適度な新しい刺激を得る事は、こころの喚起にもなります。

最初は義務感から仕方なく歩いていた人が、ウォーキングを日課として続ける中で、徐々に歩くことが苦でなくなり、移動距離が増えて行き、電車やバスに乗って出かけられるようになるケースもたくさんあります。

つまり、うつ病を患った人がいろいろとアクテビティを試す事は、症状について少し勉強して、できなくても自分を責めない前提のもとで取り組む場合、有益である事が多いです。

本は読めなくなっちゃったけれどYouTubeはそれなりに楽しい、というならば、しばらくは何も考えずにYouTubeを見て時間を過ごし、YouTubeを見ながらゆっくりと今後の事を考えていけば良いわけです。

同じ言葉

2020-09-12 | プチ臨床心理学
カップルの関係性の問題は、コミュニケーション不全が原因になっている事が多いですが、ここで意外と多いのが、2人が共通認識であると考えるまでもなく前提にしている事が実はそうではなかったという事です。

共通認識である事が前提であり、土台となって展開する対話の前提が異なっていたら、その後の対話が良い方向に展開していく事は望めません。

実際、カップルセラピーの初期段階で私がほぼ必ず行うのは、そのカップルの2人のクライアントのコミュニケーションの質の改善のためのエクササイズです。

2人が確実に互いの言っている事を理解しながら進めていく対話の練習です。

というのも、問題を抱えているカップルは、自分の話が相手にうまく伝わっていない事に気づかずに相互理解を試み続けて、なぜ伝わらないのか分からずにフラストレーションが溜まっていき、口論がエスカレートしがちです。

このプロセスでしばしばお話するのは、2人が対話に使っている共通言語(日本では多くの場合日本語)の語彙たちの意味合いや定義が時として一致していない可能性を意識する必要性です。

例えば、「話し合う」という日本語ですが、「話し合う」とはどういう事なのかは、実のところ、私たち一人ひとりの生まれ育った家庭環境によってだいぶ異なります。

ある家庭では、話し合うとは、親と食卓で向かい合って、互いに腹を割って、それぞれの思いの丈を、互いに納得するまで数時間でも話し続ける事かもしれません。

別のある家庭では、誰かが他のメンバーに一方的に何かを宣言する、会話のキャッチボールがあまり伴わない、1分も掛からないものが「話し合い」かもしれません。

こうした感じで、家族との「外食」、「旅行」、「一緒にスポーツをする」、「お出かけ」、「バーベキュー」、「お正月」、「喧嘩」、「仲直り」、などの事物のイメージが異なれば、「躾」、「教育」、「優しさ」、「怖い」、「仲良し」、「不仲」などの意味も家庭環境によって大きく異なったりします。

実際、カップルセラピーで、一人が「もう話し合った」、「もう済んだ話」、と言い、もう一人が「まだ全然話し合ってない」、「未解決の問題」、と主張する事もしばしばあります。

こうした場合、「何をもってして話し合いが完了したのか」、「問題が解決したとはどういう状況なのか」、2人の認識が大きくズレている事に気付いていないカップルは多いです。

ここでお勧めなのは、お二人が冷静な時、比較的仲が良い時に、例えば、「話し合い」とはどういう事なのか、二人で話し合ってみることです。

互いのゴールやイメージが明確になれば、互いに寄り添う事もしやすくなりますし、誤解やすれ違いも減っていきます。

これは一種の「メタコミュニケーション」(meta communication)と呼ばれるもので、「コミュニケーションについてコミュニケーションする事」で、ちょっともつれた人間関係の突破口になります。対話する自分たちをちょっと客観的に俯瞰して、コニュニケーションのパターンについて対話をするのです。

互いに英語で対話しているアメリカ人同士が、分かり合えない時に、 “We don’t speak the same language” と言ったりします。 “speak the same language”とは、「考えが一致している」、「気持ちが通じ合う」、という意味合いの慣用表現ですが、直訳して「同じ言語を話している」事が、「通じ合う」、という意味であるのは、多文化社会、多言語社会のアメリカらしい表現だと思います。

皆さんは、大切な人と同じ言語で話していますか?

リモートワークとテレセラピー (remote work and teletherapy)

2020-05-20 | プチ臨床心理学

みなさん、こんにちは。

いかがお過ごしですか? なかなか先の読めない大変な時ですね。

今回のパンデミックで、いわば強制的に様々な業界の多くのお仕事がリモートワークに移行しましたが、それはメンタルヘルスの業界でも言えることです。

日本に住んでいるとなかなか聞きなれない言葉ですが、例えばアメリカでは、ずっと以前から、テレセラピー(teletherapy)と呼ばれる、遠隔の心理療法や精神科治療が提供されてきました。

ビデオ通話や電話、電子メールなどによるメンタルヘルスサービスです。

精神医療、臨床心理学最先進国で、心理カウンセリングが社会に浸透していて、しかも巨大な大陸国で、個人主義社会で、引っ越しの多い国民性であるということなどが関係ありそうです。

心理カウンセラーの数が多いほどに、クライアント側にもオプションが増えるわけですが、セッションを受けたいセラピストが他州で実践していたり、もともとは同じ地域に住んでいて、セッションを重ねて強い治療関係を築いていたけれど、クライアントまたはセラピストの引っ越しにより、遠く離れてしまい、それでも治療を受け続けたい、というクライアントには、こうしたテレセラピーによって治療を続けるオプションがあります。

私としても、6年前に日本に帰国して以来、スカイプなどのビデオ通話や電話やメールによる心理療法を提供し続けてきました。

それでも大半のクライアントさんとはセラピールームによる対面セッションでしたし、まさか今回のようにすべてのクライアントさんとテレセラピーをする日が来ることなど夢にも思っていませんでした。

これまでの私のテレセラピーの実践のパターンとしては、1)もともとクライアントさんが海外在住または遠方にお住まいで、実際にオフィスに来るのが不可能であり、初めからテレセラピーを提供するパターン、2)もともとはメールセラピーでやり取りをしていて、対面のサイコセラピーを行う必要がでてきたけれど、やはりクライアントさんが遠方にお住まいで、対面が現実的でなく、代替としてテレセラピーを行うパターン、というケースがほとんどでした。

こういうわけで、今回のように、対面でセッションを重ねてきたクライアントと遠隔セッションに移行するというパターンはあまり馴染みのないもので、どんな感じになるか、いささかの不安もありました。それはクライアントさんの方でも同じだったと思います。

しかし、実際に行ってみると、思いのほかうまくいきました。

最初はテレセラピーに難色を示されていた方も、挑戦してくださり、「結構普通にできるものですね」と、安心してくださいました。

「これいいですね。普通にできますね」、「どこからでもカウンセリングができるんですね」、「移動が難しい時に便利ですね」、「いつまででもこれで良いんですけど」、「対面とは確かに違うけれど、できますね」、などなど、予想外に肯定的な意見が多く、嬉しくなってしまいます。

実際、個人的な感想ですが、テレセラピーでも、対面に準ずる効果も出せますし、大きな遜色もありません。

しかし、一方で、非常に多くの心理カウンセラーが、遠隔カウンセリングに強い苦手意識をもっていたり、敬遠しがちであり、こういう事態になっても、遠隔はしないという立場を崩さない方も大勢おられます。

私としては、こんな便利なツールはないと思っていますし、こういう状況下で駆使しない手はないと思っていますので、どうしてこうした先生たちが遠隔を避けるのか、大変興味深く観察していました。

お話を聞いていると、いくつかの共通事項が確認されます。

そのなかで代表的な意見として、1)治療構造が違い過ぎる、2)対面に比べて情報量が少ない、3)インターネットでカウンセリングという考えがそもそも馴染まない、4)インターネットで誰かと話すということ自体馴染みがなく苦手、5)緊急事態に対応できない、などが挙げられます。

いずれの意見も理解できるものですが、この中にはやはりカウンセラー側のテレセラピーに対する先入観や苦手意識、誤解や偏見が少なからず含まれています。世代的な問題など、やむを得ない事情もあります。

順を追って見ていきましょう。

まず1)ですが、確かに治療構造は大きく異なります。

治療構造を特に大事にする精神分析的・精神力動的心理療法を実践するセラピストにとっては、これはまず大きなハードルになります。

精神分析的心理療法において、クライアントとなるべく同じ曜日の同じ時間の同じ部屋で会うことや、クライアントとセラピストの境界線(Boundaries)などが特に重要で、同じひとつの部屋で実際に会って互いに所定の位置に座って対話をするという基本的なところから異なります。

ちなみに、2)も、1)と関連性の深い懸念事項です。実際の対面のセッションで得らえる情報量というのは非常に膨大です。

まず、対面セッションは、3Dであり、視覚情報としても、クライアントの全体像が見えます。

クライアントの体全体の動き、身振り手振り、細かな表情の変化、姿勢の変化、呼吸の仕方、まばたき、アイコンタクト、震えなど、様々です。服装やアクセサリーなども意味があります。

一方で、ビデオ通話で得られる視覚的情報は2Dであり、多くの場合、クライアントさんの上半身の上の部分のみです。

証明写真ぐらいの範囲の映りです。

体全体がみえず、カメラに写っていない部分が相当にあります。

ただ、視覚情報で一番重要なのはやはり表情です。

聴覚的な情報は、回線の接続が良好な限り、あまり遜色はありません。

最近のイヤホンやヘッドセットのマイクは精度が良いですし、スカイプ、LINEのビデオ通話、Zoom、Google hangouts、iPhoneのFacetimeなど、かなり小さな音も拾ってくれます。

クライアントの声のトーンやテンポなど、発言がどのようにされるか、いわゆるParaverbal(パラバーバル)な情報はある意味発言内容以上に重要ですが、これは電話以上に拾いやすいです。それでも確かに実際の対面には敵いません。

しかも、情報はこれだけではないんです。

嗅覚情報です。

一人ひとりのクライアントさんのご家庭で使っている洗剤やシャンプー、香水などの匂いなど、千差万別です。

煙草の匂いもありますね。普段結構な煙草の匂いのする人が、ほとんど煙草に匂いがしない場合なども、大きな情報です。

人によっては、普段感じない体の匂いや口臭などもあり、これも大事な情報です。それはクライアントさんの体調や精神状態を如実に物語っているからです。

当然ながら、こうした嗅覚情報は完全に失われます。

3)、4)、については、カウンセラー個人の問題なので、割愛します。

5)は、非常に重要な課題です。テレセラピーは万人に適切なものではなく、たとえば、生命に関わるような自傷または他傷の差し迫った危険のある人に対して行うものではありません。

誰にテレセラピーを安全に提供できるか、サイコセラピストは慎重に考慮する必要があります。

話が長くなってしまいましたが、5)は別として、私が重要視している議論は1)と2)であり、集約すると、「テレセラピーの、対面のセッションと比較して不足している情報は、決定的なものか」という疑問になります。

私個人としては、決定的ではないと思います。

確かに情報は対面と比べると少ないけれど、メールよりも電話よりも圧倒的に豊富な情報量であり、十分に効果の出せるサービスです。

事実、一度も実際にお会いしたことのない、テレセラピーのみのクライアントさんで、抱えていた問題や課題が大幅に改善あるいは克服され、無事に終結に辿り着いたという事例はたくさんあります。

新型コロナウイルスは深刻な問題ですが、こうしてテレセラピーを提供するサイコセラピストや心理カウンセラーが増えたことは、それだけより多くの人が心理療法に辿り着けるチャンスであり、また、人々が、自分に合ったセラピストと出会える確率が大幅に上がるということでもあるので、新型コロナウイルスが収束した後もこの流れが発展し、テレセラピーが日本でも普及することを願っています。

と、今回の記事はテレセラピーの普及のための啓蒙が目的でしたが、それでは私はテレセラピーだけでやっていきたいのかと言えば、そんなことは決してありません。

やはり、実際の対面のセッションならではの良さというものがあります。

ふたりの人間が何かのきっかけで巡り合い、約束して、それぞれが毎回、決まった場所に足を運び、会い、互いに顔を見て、ひとりの人間の課題について、2人でゆっくりと時間を掛けてとことん考え話し合っていく。

とても贅沢な時間です。

心理療法の醍醐味です。

私は皆さんとのこのプロセスが大好きです。

これは何ものにも代えがたいものです。

先述した5感情報の、嗅覚や、全体的な視覚刺激なども、きっとここに含まれます。

全人的な関わりであり、関係性です。

先ほど読んだ新聞記事で、あるスナックの経営者の女性が、遠隔のサービスを始めたというものがありました。

利用したお客さんの感想で、「楽しかった。会いたくなったけれど、また利用します」というものが印象的でした。

「実際に会いたい人」。

私にとって、すべてのクライアントさんは、実際に会いたい人たちです。

それは、クライアントさんが海外暮らしでまだ一度も実際にお会いしていない場合でも同じことです。

私はクライアントさんたちが大好きです。

会いたいのです。

それでも、治療完了まで一度も会わず、生涯会うことのない方もたくさんいます。

それはそれで、致し方ないことですし、そういうものだと思ってます。

それでもひとつ言えることは、双方に、多かれ少なかれ、「会いたい」という気持ちがあるから、その強い関係性があるから、ひとは遠隔のセッションでも良くなっていくのだということです。

 


あきらめる事と受け入れる事 その2

2020-02-17 | プチ臨床心理学
前回の続きです。

あきらめと受け入れのプロセスにおいて多かれ少なかれ必然的に伴うものは、何らかの喪失体験であり、そこには悲哀の仕事(grief work, mourning work、喪の仕事) が伴うというところで前回は終わりました。

人間の悲哀のプロセスについて語るときに避けては通れないのがアメリカの精神科医エリザベス・キューブラー=ロスの「死の受容プロセス」です。

この彼女のモデルは臨床心理学や精神医学の分野では余りにも有名なのでご存知の方も多いかもしれません。元々は人が自身の差し迫る死と向き合う時、また、大切な人の死についてのモデルでしたが、その後、死に限らず、様々な喪失体験における受容のプロセスに適用されるようになりました。

エリザベス・キューブラー=ロスの悲哀のプロセス(The Five Stage of Grief) は、1)否認(denial)、2)怒り(anger)、3)取り引き(bargaining)、4)抑鬱(depression)、そして5)受容(acceptance)の5つのステージから成り立ちます。

最近ではそこにDavid Messlerが6つ目のステージである6) 意味(meaning)を加えることでさらに有益なモデルとなりました。

詳しい説明に入る前にお話しておく必要があるのは、キューブラー=ロスの悲哀のプロセスにおいて誤解されがちな幾つかの重要なポイントです。これは以前このブログで紹介した性被害者の回復のプロセスであるレイプ・トラウマ症候群(Rape Trauma Syndrome, RTS)とも共通しています。

まず、すべての人がこの5つ全てのステージを経験するわけではありません。

例えば怒りのプロセスを経験しない人もいれば、取り引きの経験をしない人もいます。

それから、これはあくまで一般論であり、必ずしも1〜5へと順番に線形に進んでいくわけではありません。最初に来るのは怒りかもしれませんし、いきなり抑鬱かもしれません。

さらには、このプロセスには多くの場合、上りの螺旋階段のように、巡回しながら徐々に回復していくものです。

360度の円周なので、同じような景色を何度も体験します。しかし高度は徐々に増しているので、本人には堂々巡りに思えても、実のところ、確実に前進しているのです。そして徐々に景色も変わっていきます。

これも要注意ですが、治療者にもこのモデルを誤って解釈している方が少なからずおられます。

これは喪失体験をしている人の情緒体験にラベリングするものでもなければ、この通りに進まなくても良いのですが、この5つのステージやその順番に固執して、クライアントさんを「このステージに行くべきだ」と促したり、「あなたは今このステージで、次はこういうステージに行くのです」と決め付けたりします。

喪失体験は人それぞれであり、極めて個人的なプロセスです。そこには当然、善悪も優劣もありません。

もうひとつ、これもいわゆる専門家でも誤解している人がいますが、悲哀の仕事が完了するというのは、その人が故人に対して何も強い感情を感じなくなることではありません。

悲しみはいつまでも残りますし、時折その人の事を思い出して抑うつ的になる事もあります。時に怒りを感じる事もあるかもしれません。

ただ、悲哀の仕事を完了した人は、それでも先に進みます。

その喪失体験から多くの事を学び、そこに意味を見つけ、その故人との思い出を大切にしながら新しい誰かを好きになったり、新しい誰かと親密になったり、新しい事を始めたり、挑戦したり、その後の人生を展開していきます。

つまり、たまに強い感情に襲われる事や、いろいろ思い出すことが、その喪失体験を乗り越えていないというわけではないのです。

(続き)




受け入れる事とあきらめる事の違いについて

2020-02-14 | プチ臨床心理学
心理療法をしていると時々出てくる話題に、今回の表題である「受け入れる事とあきらめる事の違い」があります。

この2つの言葉は人によってはしばしば互換的に使われますし、実際この2語は密接に関わり合っているのでハッキリと切り離す事は難しいのですが、「心の回復」、「精神面の成長」といった観点において、じっくりと考えてみる事は有効です。

受け入れと諦めについて考える時にしばしば思い出すのは、私がLAにいた頃にあるアメリカ人夫婦とカップルセラピーをしていた時の事です。エクササイズで、それぞれに、「2人の夫婦関係において何が大きな問題になっている?」という質問で、その男性が、”She’s given up on me!”と言いましたが、その時の彼から伝わってくる怒りや悲しみや不安感は痛ましいものでした。

“She’s given up on me.” 

彼女は僕のことを諦めているんだ。
彼女は僕に愛想を尽かしているんだ。

これは確かにあらゆる夫婦やパートナーシップにおいて決定的な問題です。

一方で、”She accepted me.”(彼女は僕を受け入れてくれたんだ)は、上記とは正反対の印象を受けます。

彼女は僕の事を諦めているんだ。

彼女は僕の事を受け入れてくれたんだ。

興味深いものです。日本語の「受け入れると諦める」はどちらかというと重複しているところが大きいですが、英語だとなんだか正反対の響きです。

前者はカップルセラピストとしてもこのカップルの関係性の改善や修復に相当な困難や苦戦が待っている事を約束するもので、放って置いたら時間の問題でこの2人は高確率で離婚します。日本ならば家庭内別居かもしれませんが、いずれにしても関係性は破綻するでしょう。いや、既に破綻しているかもしれません。希望が見出しにくい印象です。

一方で後者には全体的な希望が感じられます。ここでは、この女性は、夫のいろいろな欠点や不完全性を認識しつつも彼を全体的に肯定して、これからも2人でやっていこう、というイメージがあります。ここまで心の整理がついているかは別として、カップルセラピストとしても2人の関係の修復において楽観的になれますし、安心してじっくりとこのカップルに関わってゆけます。

受け入れる事と諦める事の共通点は、その人が希求している何かがその人のある一定以上の努力にも関わらず手に入らない状況です。

それは家や車や楽器などの高額のモノかもしれないし、犬や猫やカワウソやハリネズミなどのペットかもしれないし、特定の学校の入学や憧れの会社の入社かもしれないし、誰かとの恋愛関係や婚姻関係かもしれませんし、その相手との間で失われた心の繋がりや絆かもしれませんし、保育士や弁護士や医師免許などの資格かもしれないし、スポーツや音楽、芸術やゲームなどの特定の分野で生計を立てていけるレベルのスキルかもしれませんし、NTTの歴代の公衆電話のミニチュアのガチャポンかもしれませんし、リアルなダンゴムシのギャチャポンかもしれませんし、枚挙に暇がありません。それほどに我々人間の営みは多様であり多岐に渡るという事でしょう。

いずれにしても、その「どうにも手に入らない何か」について、その人がどう対処するか、どのように捉えるかが大きなポイントのように思います。

とても平たく言うと、「諦める」場合はその何かに対して、依然として残念な気持ち、悔しさ、悲しみ、失意などが強く残っていて、心の整理ができておらずにその人の中では未解決な問題であるのに対し、「受け入れる」場合は、その人の中で相当に心の折り合いがついている状態と言えそうです。

また、人が何かを受け入れるためには、そのプロセスとしてまず諦める事を経験しているようにも思います。イメージとしては、諦めの向こうに受け入れがあるようです。

繰り返しますが、この2語は日本語においては互換的に使われる事がしばしばあり、「諦める」という言葉を使うけれど受け入れている人はたくさんいます。

というのも、諦めるという心的プロセスをきちんと行って完了できた人はそれを受け入れているわけで、このように考えると、受け入れるとはある意味「諦めの仕事」を完了する事かもしれません。

こうした諦めや受け入れの心的プロセスに必然的に伴うのはある種の喪失体験であり、喪失体験に多かれ少なかれ伴うのは「悲哀の仕事」(Grief work)です。

何だかすごく長くなりそうなので、とりあえずこのエントリーはここで区切りますね。次号に続きます。



無視をする人の心理について

2017-09-20 | プチ臨床心理学

皆さんこんにちは。

今回はぽきりさんから、無視をするパートナーや配偶者の心理についての質問です。

ぽきりさん、お待たせ致しました。ご質問ありがとうございます。

以下がぽきりさんからの質問内容になります。


無視をする人の心理について知りたいです。


夫は機嫌を損ねるとすぐに無視をします。
ただ、なにが気に障ったのかわからないことが多く、聞いても答えてくれません。あんまり聞くと余計にイライラした態度をとるので放っておきますが、こちらとしては原因がわからない分いろいろ考えてしまい、あれかしら?これかしら?と機嫌が悪くなる直前の会話などを思い返したりと非常に疲れます。仕事中も気になって考えてしまったり、食欲までなくなってきたりと散々です。しかも1~2週間とか余裕で無視してきます。話してくれれば私が悪ければ謝りますし、なんて子供っぽいんだろうとちょっと理解しがたいです。

私はカチンとくることがあっても深呼吸して数時間置けば怒りの感情は収まるタイプなので本当に理解できません。今回は本日で4日目突入です。

今回の無視が始まった日、私は仕事を午後休して友人とランチをしに出かけました。夫と私の職場は近くにあり、出勤・退社の時間もあまり変わらないので1台の車で一緒に通勤しています。その日も夫の帰るコールでいつもの時間にお迎えに行きましたが、午後休した私は会社の制服でなく私服だったため、それを見た夫が「会社行ってないの?」と聞いてきました。が、ランチの件は数日前に伝えてありましたので「こないだ伝えたでしょ?○○ちゃんとランチに行ったのよ」と答えると夫は「ああ」と思い出した様子で、そこから無視が始まりました。

なにがいけなかったのかもわからないし、出勤時の車では笑い話をしながら仲良くしていたので突然の無視に毎回のごとく戸惑っています。しかも4日目。夫の怒りの継続力にも驚きます。ちなみに「おはよう」とか「おやすみ」とか「いってきます」という挨拶だけは私から掛けるとボソッと小さな声で返します。それ以外は無視です。なおさら謎です。器が小さいなあとさえ思ってしまいます。

そして無視が収まるときは、破棄のない声で話しかけてきて、それに私が明るく笑顔で答えることでやっと終了します。ただ結局原因も教えてくれないのでなんだったのかは謎のままです。

いったいこれはどういう心理なのか、解説どうぞ宜しくお願い致します。


このようなタイプのパートナーに悩んでいる方とは時々お目にかかりますが、ぽきりさんのこのエピソードもその典型です(脚注1)。

まず、行動心理学的見地からすると、こうした方たちは、これまでの人生における様々な対人関係の問題において、「無視をする」という行為が「強化されてきた」人たちということが考えられます。対人関係の問題における適応手段は人それぞれであり、一番建設的なものは、防衛的にも攻撃的にもならずに、心を開いて相手の話に耳を傾けながら、オープンに自分の気持ちや考えを言語化して相手に伝えていくやり方ですが、残念ながら、これができない人は少なからずいます。切れたり、暴力的になったり、暴言を吐いたりして、力ずくの解決を図るひともいれば、ぽきりさんの旦那さんのように、貝のように押し黙ることで対応する人もいます。

それではなぜ無視をする人たちは、このようにいくつもの適応手段がある中で、無視をする、ということを(ほとんど無意識的に)選んだのでしょうか? それには、その人の生まれながらの気質(内向性、外向性など)と、幼少期からの親との関係や、家庭環境などによって形成される性格と、さらには、その性格ができた環境下でいろいろと試行錯誤する中で、その人にとって一番うまくいった適応手段が、無視であった、ということです(これは、別の家庭環境で別の気質の誰かにとっては、怒鳴る、声を荒げる、早口でまくし立てる、嫌みを言う、などが一番うまくいっていたかもしれない、というものです)。社会学習理論(social learning theory)が示唆するのは、子供は自分の身近にいる、自分よりも大きな人間(親や祖父母や教師など)の行動を観察し、模倣し、内在化し、自分のものにしていくということですが、こうした人は、子供の頃、親が機嫌が悪くなったとき、怒ったときに、罰として無視をされる、ということを何度も経験していたのかもしれません。また、家族間で、怒りの表現手段として、激しい口論や、暴力、物に当たる、などの直接的な表現ではなく、無視、無反応、受動的攻撃性といった、間接的な表現手段が好まれる家庭文化であったことも考えられます。

ちなみに、無視をするという行為は、無視をされる側の人間が動揺したり、気を掛けてくれたり、行動を改めたりするなどの反応をすることが条件としてセットになっています。これはつまり、もし無視をしても相手が無反応であったり、へっちゃらだったり、関係がそれで終わってしまったり、無視ができないように攻撃してきたりするようでは、無視をするという行為はその人間関係において機能しません。無視をするということで、怒りが効果的に表現できる人間関係においてのみ、無視という行為は強化されます。

ぽきりさん夫妻に話を戻します。旦那さんがどのような家庭環境で育ったのかはわかりませんし、もしかしたら、家庭環境ではなくて、学校など外の世界の対人関係の問題時に無視が機能していたのかもしれません。いずれにしても、ここで問題になっているのは、ぽきりさんが、旦那さんの無視という未成熟な対応に付き合ってしまっているところにあります(無視をする、という幼稚な手段に訴える彼に根本的な問題があるのはいうまでもありません)。彼には、ぽきりさんが、動揺したり、気をつかったり、元気がなくなったり、落ち込んだりと、彼のことをすごく気にしているのをはっきりと認識しています。彼はぽきりさんの注意関心が欲しいわけですが、実際にぽきりさんが歩み寄っても無視をすることを続けるのはある意味サディスティックであり、ふたりの人間関係にダメージを与えるものでもあり、なんといっても、ぽきりさんの精神衛生において有害です。

それから、これは非常に大事なことですが、特に大人の人間関係において、相手の言動に腹が立ったり、不満があったら、それをきちんと言葉にして相手に伝える義務があります(脚注2)。伝えなければ分かりません。今は憤懣やるかたなくて言葉も出ない、とにかくひとりにして欲しい、という状況であるならば、相手にそう伝えるべきです。「悪いけど今は一人にして欲しい。あとで話す」と。そのコミュニケーションを放棄して、非言語的に怒りを表現して相手にダメージを与えるのは、間違ったことです。ここでもうひとつ気になるのは、旦那さんは、無視をするのをやめた後で、どうして無視をしたのか、ぽきりさんときちんと話し合っているのかどうかということです。何か気に入らないことがあるとしばらく無視をして、気が済むと無視をやめる、という人にありがちなのは、どうして無視をしたのか、その後で相手に伝えることもしないため、無視されたほうは、どうしてなのかいつまでたってもわからない、ということです。とても自己中心的で、思いやりに欠けています。これではふたりの間に不信感こそ積もるものの、信頼感や安心感はいつまでたってもできません。無視されるほうは、無視が予測不能なので、今度いつまた無視されるか恐れながら、はれ物に触るように生活することになります。

対応策として私がお勧めしているのは、まず、1)無視が終わったらあまり日を空けずにきちんと話し合う、ということです。ここで、「どうして無視したのか」、「どんな気持ちで無視していたのか」、「何を考えていたのか」、などについて話してもらう必要もありますし、そこに正当性があれば、詫びる必要があるかもしれません。

次に、2)今度腹が立った時、機嫌を損ねたときは、その場で、何に腹を立てているのか、何が不満なのか、きちんと伝えてくれるように約束します。もしかしたら相手は、腹は立ったけれど、腹が立った理由が幼稚だったり恥ずかしいと思って、言葉にすることもできないのかもしれませんん。たとえば、ぽきりさんの今回の件は、あくまで質問のなかの限られた情報によって推測すると、旦那さんは、半休を取って楽しい時間を過ごしたぽきりさんが妬ましく思えたものの、そんなことを妬むのは恥ずかしいと思い、どう話して良いのか分からない、ということもあって、つまり、「自分が腹を立てているのはとても小さなことだ」という自覚があるゆえに、恥ずかしくて言葉にもできない、だけど腹立たしい、言葉にできないけれど腹立たしいから無視が一番好都合、という感じで無視に入るのかもしれません(無意識的に)。この場合、どんな感情であっても、相手がどう感じているのかはいつでも知りたいと思っているし、聞かせて欲しい、恥ずかしい感情なんてないんだと、伝えるのが良い場合もあります。これはつまり、相手の言語化をいつでも歓迎していることを伝える、ということです。また、何かあるたびに1~2週間も無視されるのはつらい、寂しい、悲しい、など、相手に気持ちを伝えて、無視という手段を取らないように約束します。

3)もしまた何かあったときに再び無視をするようだったら、「無視をする相手の方にも問題がある」ことを自覚して、なるべく個人的に取らないことです。無視をしている相手のことがもし気になり過ぎるのであれば、それは自尊心の問題でもあるので、自尊心を高める必要もあります。自分の言動や判断に自信があれば、「無視されている」イコール「自分が悪い」とは限らない、むしろそうでないことも多い、と思えるようになります。いずれにしても、相手は、ぽきりさんを長時間無視してもぽきりさんは自分から離れていかない、大丈夫だ、という前提があって無視をしているので、そんな風に扱われ続けるのなら、結婚生活続けていけないかもしれない、などと伝えて、無視という手段はもう通用しないのだと毅然とした態度で伝えることも大切です。

 


(脚注1)ちなみに、気に入らないことがあったり、腹立たしいことがあるときに、沈黙を保って相手を居心地悪くさせることを、アメリカでは"silent treatment"などと言いますが、これは通常は女性が男性に対してすることで、たとえば、"I gave him some silient treatment." (彼にサイレント・トリートメントしてやったわ)みたいに言います。もっとも、Silent treatmentは、このタイプの男性と比べて、その長さもせいぜい数十分から数時間と、ずっと短いです。

(脚注2)もちろんこれには例外もあります。たとえばぽきりさんが、ぐでんぐでんに酔って真夜中過ぎに帰宅し、旦那さんに罵声を浴びせて玄関で嘔吐して旦那さんに掃除をさせた翌朝に、旦那さんが口をきいてくれない、というのであれば、これはまあ無視されても仕方がないでしょう。

 

 

 




大人のいじめについて

2017-09-02 | プチ臨床心理学

今回はソラさんから、大人のいじめについてご質問をいただきました。

ソラさん、ありがとうございます。 

以下がソラさんからのご質問の引用です。

「大人のいじめなどする人に対して嫌な質問は何ですか」

 ご質問内容が大変シンプルであるため、いろいろな方面の可能性があり、回答の方向性も広範ですが、今回もコンテンツが拡散し過ぎぬよう気をつけながら考えてみます。ソラさんの質問の意図に沿った回答ができればよいのですが。

まず、「嫌な質問」とありますが、とりあえず、より広い可能性を考えてみたいと思うので、「嫌な質問」を「言動」に置き換えて考えてみたいと思います。

あらゆるいじめについて多くの場合言えるのは、加害者側は、被害者に言葉にしろ暴力にしろ、直接的であれ間接的であれ、危害を加える事で被害者から何らかの報復を受ける可能性が皆無であるか、非常に低いであろう事をほとんど無意識的に想定しています。言うなれば、加害者にとって被害者は「安全」なのです。危害を加える事に対する報復で自分自身が心的・物理的・社会的・経済的にダメージを受けることがない、という前提です。

つまりこの前提が覆されるような言動を取れば良いのです。それでもしばらくは続くかもしれませんが、加害者もその度に何かしらのカウンターアタックを食らっていては徐々にしんどくなってきます。加害者は、いじめることで、心的ストレスを解消したり軽減したりしているわけで、これは精神分析学では置き換え(displacement) という防衛機制で、加害者が本来怒りを向けるべき対象に怒りを向けることが不都合であるために怒りを向けても安全な対象に怒りをぶつけるわけです。

平たくいうと、八つ当たりの心理です。

上司から怒られたうっぷんを家に帰って妻に向けている夫は、従順な妻に何をいっても大丈夫だと思っています。しかしある日妻が、「こんな扱いにはもう耐えられない。離婚してください。実家に帰ります」と言い始めることで大慌てです。妻をいじめる事に、離婚という大きな代償の可能性が出てきたわけです。

以下も全くのフィクションですが、AKB48の指原さんが大好きな和明さんのことを、同僚の義一さんが、いい歳して、とか、心無いことを言って馬鹿にします。和明さんは、義一さんに言われるままになっていましたが、ある日、耐え切れずに、「私にどんな趣味があろうと、それは私の自由であって、あなたには関係ない。どうして会社で私の趣味というプライベートなことについて、あなたにそんな風に言われないといけないんでしょう。そんなのは言葉の暴力であって、人権侵害です!」と、フロア中に聞こえる声で言い返すと、義一さんはとても気まずくなり、以来和明さんのサッシー好きをからかうことはなくなりました。

ソラさんの最初の質問に戻ります。

「大人のいじめなどする人に対して嫌な質問は何ですか」

この質問について、簡潔に回答するのではなく、あえてこのように延々と書いたのには訳があります。

大人のいじめをする人を、かえって嫌な気分にさせる質問であれは、実はいくらでも思いつきます。

加害者に恥をかかせたり、加害者を傷つける質問です。

しかし、それはお勧めできません。加害者の破壊的な言動に対して、こちらも破壊的に返していては、憎しみが憎しみを呼び起こすだけであり、問題を解決するどころか、新たな問題を作り出すことになります。

そのような加害者の土俵の中には入ってはいけません。

そういうわけで、加害者の土俵に入らずに、加害者の問題ある言動をやめさせる方法についてお伝えさせていただきました。