毎週木曜の昼休みは、大学院のコートヤードでミーティングがあるのだけど,
今日は近くでどこかの民族の祝祭があり奏楽や歌や歓声で賑やかなことこの上ない。しかも昼飯を持参していないパートナーは空腹でその祝祭でありつけるであろうタダ飯のことばかりを気にしている。さらに、今日は30℃近い日差しの強い日で、野外でのミーティングにはまず最悪な状況が揃いも揃っていた。
自分は彼をSuperviseしているのだけれど、インフォーマルなミーティングで、しかもこれほど気が散る要素が目白押しな日はダレてしまってもまあ仕方ないかな、などという考えが何度か脳裏を過ぎった。しかし結局なんとか踏みとどまったこともあり、それは幸い有意義なミーティングになった。
ここで感じたのは、あらゆる会話というのは基本的に両者に50-50の責任があって、つまりその会話がどの方向に進むにしても、こちらには常に少なくとも50%の責任、それから、その会話の方向についてのコントロールがあるということだ。
2人でほとんど無意識に作り出す雰囲気、間主観性(Intersubjectivity)によってそれはなんとなく支配されるものだけど、その間主観性は、2人のそれぞれの主観の融合と化学反応であるから、こちらがその都度気を引き締め直して、相手の言葉に集中して、その会話にコミットしている限り、その会話は「ある程度」のレベルを保って続いていく。
それからもちろん、こちらの主観のあり方によって、間主観性も常に変化するもので、その結果相手の主観も変わっていく。その相手の新しい主観によって、さらに間主観性は変わり、それによってこちらの主観もさらに変わっていく。
だから、なんとなく後味の悪い会話や、尻切れトンボな会話、物足りなさの残る会話、フェイドアウトした会話などあったら、それは少なくとも半分はこちらの責任だと思う。
せっかく誰かと会話のであれば、たとえどんな小さなスモールトークでも、きちんと相手と向き合って、よい会話をしたいと思った。
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2010年3月19日
昨日、大学院に行って出会った言葉で、とても印象的で、今でもなんとなく考え続けているのが、この"what would you like to like?"/"What would you like to like to?" これは、幼少期に重度の慢性的なトラウマの生存者の言葉だというけれど、自分がどうしたいのか、何をしたいのか、何が好きなのか、分からない、分からなくなった、という経験は、幼少期のトラウマやアイデンティティの問題の有無に関わらず、多くの人が人生のどこかで出くわす問題ではないだろうか。自分がなんだかよく分からないのだから、何がしたいかなんて分かるわけない、そんな状況から、このひとは自分に対してこのような質問を思いついたのだ。それでは、「何を好きになりたい?」とか、「何をしたいようになりたい?」、っていうスタンス。ここから何かを本当に好きになるには、時間は掛かる。でも、この質問には、その人の自分に対する、人生に対する、それから、世界に対する、希望が現れている。それが本当に大事なことで、素晴らしいことだと思う。
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2010年3月20日
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2010年3月20日