興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

これ何に見える?

2006-12-10 | プチ認知心理学
この写真の折り紙は、何に見えますか?







































これは、今日 老人ホームでもらってきたもの
なのだけれど、多くの日本人にとって、この
作品が何であるかは比較的すぐに分かるのでは
ないかと思います。

大体、1~2秒見つめれば、なんだか
分かるのではないでしょうか。








さて、老人ホームの後で、いろいろな国の人が
集まる場所に行く機会があったので、ちょっとした
実験をしてみました。簡単です。これを見せて、
「これ何だ?」って聞くのです。




面白い結果が観察されました。アメリカ人と、
中国人と、韓国人と、ロシア人と、コロンビア人は、
見てすぐに、

「サンタクロース!!」

と言いました。「一目瞭然だよ」と。

ところが、グアテマラ人と、イタリア人は、
じっと見つめて、熟考した後で、

「分からない、何これ」

と言いました。この二人はアメリカへ移住して
間もないのだけれど、グアテマラではそれほど
サンタクロースはメジャーではなく、この
イタリア人の住む地域もまた、サンタクロースは
それほどもてはやされるものでもないという
ことでした。

反対に、アメリカ、中国、韓国、ロシア、
コロンビア (日本など)では、サンタクロースは
この季節になると、至る所で見られるようになります。

つまり、前者の国々の人々は、長年に渡って
サンタクロースが身近な環境で生きてきたので
「赤い服を着て 赤い帽子をかぶっていて、
 白いひげを生やしているサンタクロースの
 イメージ」が内在化されているのに対し、
後者の国の人たちは、サンタクロースに
晒される機会が前者に比べて少なかったので
それほど強いイメージがないのだと考えられます。


この折り紙は、よくできているけれど、
絵や写真のようにはっきりとしている訳では
ないので、これを「サンタクロース」と
認識するまでに、私たちの「認知」は
無意識的、瞬間的に、さまざまな経路を使って
結論を導きます。過去の記憶だとか、関連付け
だとか、さまざまな検索、照合が行われます。

このように、私たちは外的刺激に対して
何らかの判断や反応や知覚をする時に、
過去の経験や、知識や、価値観など、
さまざまな内的条件を使っています。

この、背景的規定要因や、背景関係のシステム
などの内的条件を総合して、心理学(特に認知心理学)
では「枠組み」(Frame of reference)と呼びます。

端的に言うと、人間、生まれ育った環境も違えば
性格も、知識や経験の種類や量や質も違うので、
全く同じ外的刺激に対して、しばしば
全く異なった反応をするということです。

このような、「物事を考えたり感じたりする上での
背景的要素」が「枠組み」なわけで、文化的、
社会的な要素はこの「枠組み」に大いに関係しています。

私たちはしばしば、自分ととても感じ方が似ていたり、
すごく話の合う人に出会ったり、逆に、いつまで経っても
どうも話がかみ合わない人と出くわしたりするけれど、
この「合う、合わない」も、この「枠組み」が大いに
関与しています。

人間、似たもの同士が集まるのは、互いの枠組みに
おいて、共有している範囲が広いため大した労力
(説明や話し合いや議論など)なしに
分かり合えるからだと捉えることもできるでしょう。

しかしながら、人間、人生において、一緒にいて楽な
人間とばかり付き合うわけにもいかず、驚くほど
興味、関心、価値観、考え方などが異なり、話も
全然かみ合わない人と付き合っていかないといけない
場合もままあるでしょう。むしろ、その方が多いかも
知れません。

こういう時、平行線を辿り続ける人もいれば、
違いに興味を持ち、相手をより深く理解しようと
試みる人もいます。この知識欲や好奇心の違いは
その人の人生を大きく左右するものだと思うの
だけれど、より楽しくて豊かな人生を送るのは、
後者ではないかと思います。

では、後者の人が具体的に何をしているのかと言えば、
相手の興味ある分野や物事について、いろいろと
勉強したり経験したりしてみることだけれど、例えば、
自分の好きになった人や、付き合い始めた人の好きな
音楽や映画や文学作品に触れてみたり、その人の趣味や
スポーツなどを自分もはじめてみて、共通の話題を
増やしてみたり、その人をより深く理解することに
積極的になった経験がある人は多いのではないかと
思います。

言うまでもないことだけれど、このようにして
人間はいくらでも自分の「枠組み」を広げていけるし、
また、その枠組みの質も知識や経験などと共に
変わっていくわけで、他者や、他文化、違いなど、
自分の知らない世界に対するオープンな好奇心は
本当に大切なものだと思います。

人間関係で面白い違いを経験することもあれば、
違いゆえのすれ違いや理解の困難などを経験する
こともあるけれど、そういう時に、自分と他者との
「枠組みの違い」について考えてみると、
問題点が明確になったり、解決の糸口が見つかったり
するもので、「そもそもの前提が違うのかも知れない」
と思い至ると、それ以降の不必要な衝突やすれ違いも
減っていくかもしれません。


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注意:自分は、グアテマラとイタリアの文化背景を
知らないし(枠外)、この日記のお二人の国内での
地域性なども考えられるので、サンタクロースが
一般的にこれらの国でマイナーかどうかは
分かりません。同様に、例えば、日記の中国人の方は、
「最近になって中国もクリスマスで賑わうように
 なった」と言っているように、前者の国々でも
国内の地域性などあるので、一般的にこれらの国の
人たちの誰もがサンタクロースを知っているものでも
ないかも知れません。

諸外国におけるサンタクロース文化における「枠組み」
が自分には基本的に足りないようです。ところで、
サンタクロースが赤い服を着ているのは、元を辿ると、
アメリカのコカコーラの企業戦略によるものらしいですね。


否認 (Denial)

2006-12-09 | プチ精神分析学/精神力動学

Thanksgivingが終わった辺りから、
南カリフォルニアは急に寒くなったのだけれど

「LAは年中薄着で大丈夫な最適の気候」

という思い込みから、冬になっても
鳥肌を立たせながら半袖で居続ける
カリフォルニアンは毎年至る所にいる。

ある人が、

「今日はカリフォルニアンの
 現実否定が随所で見られた」

と、この現象を指して言ったけれど、これは
的を射た発言で、このように、人間は日常生活の
至るところで無意識に「否認」を行っている。

ご存知の方もおられるかと思うけれど、
「否認」(Denial)とは、心の防衛機制の一つで、
外的世界の現実を拒絶して不愉快な経験を
認めないことにより精神衛生を保とうとする
心の働きである。

例えば、自分が太ったことを認めたくない為に
サイズの小さすぎる服を着続けたり、気に入りの
靴が履き古されてぼろぼろになっているけれど
その消耗を認めずに履き続けたり、遊びに
行きたいが為に、風邪引いて体調が悪いという
事実を否定して無理して外出したり、自分の
年齢には若すぎる服を、加齢を否定して着続けたり
視力が悪くなっているのを否定して度のあわない
眼鏡を使い続けたり、明らかに買い替え時期の
コンピューターを使い続けたり・・・と、枚挙に
暇がないけれど、このように否認とはとても
日常的に使われている防衛機制だ。

しかし、この「否認」という防衛機制は、
上記の例のように、「健康」な人にも見られる
軽度なものもあれば、明確な現実の否定など、
現実検討能力の問題を示す、重篤な精神障害を
表すものもあり、そのレベルは様々である。

ところで、否認は、人間関係の中にもしばしば
見られるものだ。例えば、親が、自分に対する
子供の悪感情だとか、心の問題を否認して
直視することを回避したり、カップルが、
その関係にとって脅威となる事柄を否認したり、
仕事などで、自分の能力が明らかに不足している
のに、それを認めずに固執し続ける人や、
明らかなリストラ候補で、左遷など、会社から
明らかな嫌がらせを受けていることを否認して
その会社に残り続けたり、とにかく人は、
「認めたくないものは認めない」「聞きたくない
ことは聞こえない」「見たくないものは見ない」
「知りたくないことは知らない」という性質を持っている。

しかし、いくら否定したところで、現実は
現実として存在しているので、その否認の内容に
よっては、その人の生活には様々な支障が来される
ようになったりする。

例えば、これは比較的健康な例だけれど、
冒頭のカリフォルニア人は寒さを否定して
薄着し続けることで、身体を壊す。

否認し続けて見ようとしなかった人間関係の溝も、
現実には存在するもので、否定し続けていると
そのうちに溝は取り返しのつかないくらいに
大きくなり、その関係性は破綻するかもしれない。

このように、「否認」という防衛機制では
どうにもならない現実に晒されたとき、例えば
風邪を引いたカリフォルニア人は、しぶしぶと
「きちんと着込まねばならない寒いLA」という
現実を認めて自己調整を図るだろう。

人間関係の問題においても、早いうちに、その
問題の存在を認めて態度を改めたりできる人は
その関係が破綻するずっと前の段階で軌道修正を
図ることができる。

経験的に気付いている方も多いと思うけれど、
この「否認」という防衛機制の強さや頻度には
人によってかなりの個人差があり、他人からの言葉や
フィードバックなどに対して防衛的な人は、常習的な
防衛機制として否認を使うことが多いけれど、
周りに対してオープンで柔軟で、変化に対して抵抗の
少ない人は、あまり「否認」を使わないし、
使ったとしても、その機制はすぐに解けてしまうので
大した問題には発展しない。

いずれにしても、否認とは私たち人間が普段から
自然に使っている心の防衛機制なので、例えば、
生活の中で、何かがうまくいかなくなった時や、
問題に直面したときに、自分や、周りの人間が、
何らかの現実を否定したり、曲解したりしては
いないだろうかと、内省してみると、解決の意図が
見えてくるかもしれないし、より現実的で、
建設的な対処法も見つかりやすくなるものだと思う。

それから、自分の「否認」という防衛機制に敏感で、
正直でストレートな人は、周りの人間の発言や
こころの動きにも敏感なので、風通しのよい
人間関係が展開されやすいものだと思う。


アメリカの仔犬は甘えない?

2006-12-02 | プチ臨床心理学
先日、教育分析の待合室で土井の
「甘えの構想」を読んでいてると
そこには面白いエピソードが出てきた。


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土井が、「甘えは日本文化固有のものだ」と
いう洞察を彼の中で暖めていた時に、
当時の彼の師にその考えを投げかけると、
師は怪訝そうに、

「でも君、子犬だって甘えるよ」

と言ったという。

しかし土井は、師にすら分からないくらい
「甘え」は日本文化に浸透しているのだと
思い、甘え日本文化固有説について
さらなる確信を得たという。


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カウンセリングルームのドアが開き、
出てきた師を見た瞬間、自分は彼に

「先生、『仔犬が甘える』って
 英語でどのように表現しますか」

という疑問を投げかけてみた。彼の
答えは分かっていたけれど、なんとなく
聞いてみたかったのだ。

日系人の彼は、予想通りのことを言った。

「う~ん。なんていうだろうねぇ。
 『なんてかわいいパピーなの』とか。
 英語ではやっぱり(甘える)とは
 言わないだろうね」

「やっぱりね。面白いですよね。
 今、土井の『甘えの構造』読んでたんです。
 でも、不思議じゃないですか。仔犬が
 人間にじゃれ付いてるのを見て、日本人は
 すぐに『あ~甘えてる』と言うけれど
 アメリカ人は、絶対言いませんよね。
 そんな表現がない。

 『かわいい』とか、『フレンドリーだね』
 とか、『この子あなたのことが好きなんだね』
 とかいろいろな表現があるけれど、あの
 現象を見て、甘えているって思わない。

 でもそれは、アメリカの仔犬が甘えないわけでも
 ないし、アメリカ人と日本人で、全く同じ
 現象をみて、全く異なった解釈をしている
 訳ですよね。それとも、アメリカ人にも、
 『仔犬が甘えてる』という感覚はあるけれど
 それに該当する言語がないだけですか」

「いや、言語がないということは、やっぱり
 そういう概念がないということだろうね。 
 アメリカ人と日本人は、同じものをみている
 けれど、二つの異なった現実を見ている」

「どちらの現実も本当なんですよね?
 面白いですよね。二人は全く同じものに
 違う現実を見ているけれど、かわいい
 仔犬が人になついているという現象を
 共有してその場を楽しむことはできる」


普段私たち日本人が何気なく使っている「甘え」
と言う言葉が、日本文化独特であり、土井の
研究以来、「Amae」という国際語ができて、
世界中の文化人類学者や心理学者や言語学者などに
よって研究され続けているというのは、考えれば
考えるほど不思議なことだと思う。

「甘え」という概念を、日本人はしばしば、
「未成熟」とか、「自立できていない」とか
「幼稚」と言った、何かしらネガティブな
ものとして捉える傾向にあるけれど、
実際のところ、甘えは日本人と日本社会に
とって必要不可欠なのもので、甘えゆえに
社会が円滑に動いているのもまた事実である。

「甘え」が人間関係や、社会の場で問題になって
くるのは、その人が甘えることができなかったり、
甘えることが苦手だったり、甘える相手を
間違えたりと、そこに何かしら精神病理が
絡んできたときである。甘えがその環境で
うまくいっているとき、その日本人は健康だし、
甘えの欲求が全く満たされないと、その人の
精神には支障が出始めてきたりする。

こういうことを言うと、「オレは甘えてない」
と言う日本人が必ず出てくるけど、甘えとは
例えばこういうことだ。

晩秋の冷え込んだ夜に、それほど親しくない
知人宅に呼ばれて訪ねたときに、

「何か温かいものいただけませんか」

と言うことなしに、以心伝心や暗黙の了解で、

「あぁ、寒かったでしょう。今温かいお茶を
 お淹れしますね」

と言って、冷え切った体が温まるものを出して
もらうのを暗に期待するのが甘えである。
さらに、着く頃合を見計らって、既に温かいものを
用意してくれていたりすると、我々は、相手に
気持ちを察してもらった気がして嬉しくなる。
気が利くなあと思ったりして、その人の心遣いに
嬉しくなる。

逆に、何も出てこなかったりすると、個人差は
あるにしても、我々日本人は、少し寂しかったり
残念に思ったりするのではないだろうか。

でも、アメリカ人は、アメリカ人宅へ行ったら、
欲しいものは欲しいと自分から言うことに
なっている。欲しいと言わないのは、欲しくないから
だという「暗黙の了解」があるのではないかと
思うくらい、直接の言語によるコミュニケーションが
大前提になっている。もちろん、愛情の細やかな
アメリカ人は、ゲストに対して自ら尋ねてきたり
するけれど、ここで、日本流に「遠慮」などすると、
相手には、「いらないんだ」と伝わる場合が多い。

「甘え」という現象には、必ず少なくとも二人の
人間が存在する。甘えを送信する側と、甘えを
受信する側だ。そして、甘えを受信する側が
満たされるのと同時に、供給する側も、自分の
行為が相手に受け入れられた、喜ばれたと言う風に
こころが満たされる。このように、甘えとはそこに
「送受信」が成立して初めて成立する。

逆に言うと、例えば、送信された甘えを、受信側が
ウェルカムに思わなかったら、それは「お節介」に
なってしまうし、受信側の甘えの必要性を、送信側が
拒んだり、気付かなかったりすると、受信側は
拒絶などを感じ、傷ついたり寂しくなったりする。

このような甘えの送受信は、会社をはじめとする、
大人の世界のありとあらゆる日本社会に存在する
わけで、日本人は、生涯を通して甘えを経験すると
言われている。実際、日本人の精神世界やその心性は
「甘え」の概念なしには語りえないし、日本人の
精神分析には、その人の甘えニーズの理解が必要だと思う。




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「甘え」について書きたいことはたくさんあるので
これからまたしばしば書いていくかもしれません。
ご意見、ご感想など、お気軽にお聞かせください。

中間的な関係

2006-12-01 | プチ臨床心理学

以前にも書いたけれど、対人恐怖症というのは
日本文化固有の病気で、日本国外では、
中国と韓国を除くと臨床例は非常にまれである。
Taijin-kyofusho(TKS)と、そのままの名前で
国際語になっているのも、それが日本文化独自の
ものであることを如実に表していると思う。

(ところで、対人恐怖症の一種であることが
 多い引きこもりが、Hikikomoriとそのまま
 国際語になっているのも、Hikikomoriがいかに
 日本独特の文化によるものかがうかがえる
 ことだと思う)

少し古い文献や、知識の不足した精神科医などの
研究では、対人恐怖症が、Anthrophobia(人間恐怖)
と誤訳されていたりするけれど、対人恐怖症の人が
実際に恐れているのは、人間そのものではなく、
「人間関係」や「場」であるので、対人恐怖は
Anthrophobiaとは異なるものだろう。

ところで、対人恐怖は、非常に広範な概念で、
その幅は実に、精神科受診の必要に至らないほどに
軽症で社会に普通に見られる例から、妄想などを
伴う、分裂病圏のものにまで至る。

しかし、今回扱う「中間的な関係」というのは、
こうした広範な精神病理の中でも、軽症といわれている
神経症圏の対人恐怖症のケースだ。

対人恐怖症の人は、人間関係に大きな不安や恐怖を
感じるというけれど、すべての人間関係が不安
なのではなく、多くの場合彼らが苦痛を感じるのは、
「中間的な人間関係」であるといわれている。

つまり、彼らは、家族とか、恋人とか、配偶者とか
親しい友人といった、特に親しい人との関係や、
その逆に、全くの赤の他人との関係には特別な
不安は感じないし、感じたとしても、それほど
大きなものではない。

それではどんな関係が不安を喚起させるのかと
いうと、職場の同僚や上司や部下、学校のクラスメート
などの、「それほど親しくもないけれど、それほど
知らない関係でもない」という、微妙な距離がある
人間関係だという。

日本文化は、暗黙の了解とか、以心伝心と言った
非言語的なコミュニケーションが文化的に美徳と
されていて、その傾向は今日にも残っていて、
日本文化圏に生きるものは、多かれ少なかれ、
周りの人間の非言語的なメッセージや、その場の
雰囲気などを、ほとんど無意識のうちに読みながら
生活している。そうした環境の中で、日本人は
「周りの目」を常に気にしているわけで、
その「不確かさ」が特に問題になってくるのが
この「中間的な関係」だという。

(どんなにマイペースと言われている日本人でも
 例えばアメリカ人と比べると、その傾向は
 必ずといっていいほどある。周りの目に対して
 完全に無頓着な人は、日本社会ではうまく
 機能できないとも、よく言われている)

気の知れた関係では、不確かさは少ないし、
例えば電車で乗り合わせた全くの赤の他人との
間には、人間関係を築いたり維持したりする
必要もなく、雰囲気などが読めなくても特に
問題にはならない。

そういうわけで、中間的な、微妙に親しくも
親しくなくもない人たちとの関係に難しさを
感じるのが軽症の対人恐怖だといわれている
けれど、なぜ捉われてしまうのかというと、
その不確かさの中で、完璧に振舞おうとする
「完ぺき主義」が影響しているという。

対人恐怖の人は、自分の粗相だとか、社会的
不器用さとか、視線の仕方とか、赤面とか、
自分のそうしたもので相手を気まずくさせたり
することを恐れている敏感で繊細な人たち
だけれど、完ぺき主義を捨て、「別にいつも
うまく振舞えないてもいいんだ」と知り
不安の場でとりあえずやれるように日常生活を
続けていくのが何より治療的だとする森田正馬の
森田療法は、とても理にかなっていると思う。