興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

感情の幅(Range of emotions)

2008-01-26 | プチ臨床心理学

人間の感情の浮き沈みには、かなり大きな個人差がある。

 社会的に受け入れられないほどに気持ちが大きくなる人も
いれば、外に出られなくなるほどに気分が落ち込む人もいる。

 また、人間の感情というものは、天気のようなもので、
誰でも上がり下がりがあるけれど、その感情の浮き沈みの
サイクルがやたらと早く、一日のうちで何度も気分が変わる人も
いれば、基本的に安定していて、変化が緩やかな人もいる。
人々が日常生活の中で、「あの人安定している」とか、
「あの人は不安定」というのはこの事を指している。
これは、主に幼少期の家庭環境に起因する、
それぞれの精神発達や人格の成熟度などと関係しているけれど、
それは本稿の範疇外なので割愛する。

 ところで、一人の人間の感情の幅や変動の傾向というのは、
大体において、その人の親のものとほぼ一致している。
もちろん違いはあるけれど、基本的に同程度のものだ。
父親と母親のどちらの感情傾向に似るかも遺伝や環境による。
たとえば、極端な性格の親を持った人は、感情の幅も広く
不安定になることが多く、バランスの取れた、安定した人の子は、
やはり安定していることが多い。

 外交的な親の子はやはり外交的になりやすいし、
内向的な親の子は、やはり内向的になりやすい。
精神を活性化するために個人が求める刺激の種類や度合いも、
やはり親と子で似ている場合が多い。

 それではなぜ親と子の感情の幅が似ているのかといえば、
子供の感情の幅は、その感情に対する親の耐性と密接に
繋がっているからだ。たとえば、乳幼児が身体的・感情的な
不快感を経験してぐずっていたり、取り乱し始めたときに、
その感情に対する親の耐性によって、その子供が「いつ」
親からケアや介入を受けるかは、
その親の感情の幅の傾向によることが多い。
ある親は、その子が泣きだす前に何かしらの対応を
するかもしれないし、ある親は、ある程度その子が
泣いていてもゆっくり対応するかもしれないし、
またある親は、その子が極端に取り乱しても
何の介入もしないかも知れない。

 逆に、子供が上機嫌で、おおはしゃぎしている時に、
ある親は、あまり激しいことに耐性がなく、かなり早いところで
介入するかも知れないし、ある親は、賑やかなのが好きで、
たとえば人や物に危害がない限り介入しないかもしれないし、
ある親は、子供が極端にはしゃいでいてそれが社会的に
不適切でも、その不適切さに気付かないで介入もしないかもしれない。

 このようにして、親は、子供の感情の浮き沈みに対して、
自分の感情の変動の幅を基にして介入をする。
(もちろん無意識の話だけれど)
それで、それぞれの人間は、大きくなるにつれて、
それぞれの感情の幅(上限と下限)を身につけていくわけだが、
なんらかの理由で、躁と鬱の幅がものすごく広い人もいれば、
上限が低く、下限がやたらと深い人もいる。
人々が、「私今日すごい鬱なの」とか「俺すっげーブルーなんだけど」
とか言ったところで、この主観的な「鬱」の意味するものが、
それぞれの人間のもともとの感情の幅によって全く別次元のものを
意味していたりするもの、このためである。


依存(Dependency)

2008-01-25 | プチ精神分析学/精神力動学

  依存にはさまざまな形態があり、それはまたさまざまな人間関係の精神力動の中に存在するわけだが、今日はその中でも特に看過されがちであるものに焦点を当てていささかの考察を加えたい。

 本題に入る前に、割とあからさまで、傍からもよく見え、また当事者同士にも自覚が容易である種類の依存について考えてみたい。たとえば依存性人格障害の人が、強い分離不安や無力感を慢性的に感じていて親しい人間にしがみつくようであったり、しきりにいろいろな人間にアドバイスを求めることなくして何も決定できないような状況は、火を見るより明らかな依存である。それは本人としても強い不安感として自覚されるし、助ける側の人間としてもある種の負担として認識されることが多いであろう。

 さて、ここで見落とされがちであるのが、「助ける側」の潜在的に持っている依存である。この立場の人間は、往々にして、「Helper」という己の役割とその関係性に依存している。誰かを「助ける」ことに依存しているのである。しかしこのHelperは一見するととてもしっかりしていたり、安定しているように見えたりするのでその病理は分かりにくい。

 もしこのHelperの人間が、はっきりと己の意見や気持ちや願望や必要を認識していて、その自己の立場を常に踏まえたうえでHelperとして立っているのであれば、これは依存ではない。

 問題は、こうした自己のNeedsについて認識できていない場合である。それが典型的に具現化されているのが、共依存(Co-dependency)の人間関係である。共依存において、やはり分かりやすい依存は頼る側の人間に見られるが、ここで重要なのは、支える側の人間が、相手を支えること、必要とされるということに依存していることだ。

 もちろんあらゆる人間関係、とくに甘え文化の日本社会において、完全に独立した人間関係など稀であるけれど、共依存の関係とは、互いに成長することができない、互いが互いの成長を阻害している関係だ。たとえばアルコール依存症で無職の旦那と、彼を支える働き者の妻がいる。世間はこの妻の健気さや献身ぶりに感銘を受けたりするものだが、まずこの環境下において旦那の成長はまず望めないし、妻も旦那に傾倒することで自分自身の問題と向き合わずに済んだり、自分自身の本当のNeedsを認識できなかったりするので成長できない。

 前置きがだいぶ長くなったけれど、つまり、助ける側にいることの多い人間において、何が依存で何が依存でない人間関係であるかは、その人が誰かと交流するときに、どれだけ自分の立場をきちんと認識できていて、自分の意見や気持ちを抑制することなく意識していて、相手に合わせたり、相手のNeedsに応えようとしたり、相手に好かれようちしたりすることではなく、自分をきちんと表現して、その関係性を本当に楽しめているか、ということになってくる。たとえば誰かと約束してどこかに出かけるとき、「相手がそれを望んでいるから」という理由と、「自分が行きたいから」という二つの気持ちがあるけれど、たとえばその理由が100%前者だけだったり、8割がた前者だけだったりしたら、それは「相手のNeedsに応える」ということへの依存である。

 しかしこれが、50/50だったり、40/60だったりすると、その関係性のAuthenticityの度合いはずっと高くなってくる。理想としては100%自分がそうしたいから、という状況だけれど、相互依存(Inter-dependency.共依存ではない)の文化圏においては、たとえば30/70とか20/80とかの割合で十分にAuthenticかもしれない。もちろん状況によってはどうしても相手が望んでいるから、という理由の方が高くなることもあるわけで、やはりここで大切なのは、その人が常に自分の意見や立場を認識した上で、何かから回避するためではなく、その関係性にいることだろう。