興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

アカウンタビリティ?

2022-01-31 | 戯言(たわごと、ざれごと)

先週末の日曜日の夜の事です。

2泊ほど家族で妻の実家で過ごし、その帰り、車で自宅に到着しようとしている時、お隣に警察のバイクが停まっている事に気付きました。

ちょうど制服の警察官がお隣の玄関口に立っていて、玄関のドアが開いて家の中に入って行くのが見えました。

「何だろうね」、「大丈夫かね」などと妻と話をしながら、熟睡している息子を抱っこして暗い庭をスマートフォンの懐中電灯で照らしながら玄関の鍵を開けて家に入り、息子をベットに横たえてから、私はリビングルームの駐車場に近いガラス戸を開けて、そこから、車に残っている荷物をどんどん部屋の中に入れていきました。

全部荷物を下ろし終えて、再び玄関から家に入ろうとした時、ふと、玄関の扉の横に小包があるのを見つけました。

身に覚えがないので手に取って宛先を見ると、お隣の荷物が間違って届けられたものである事に気付きました。時々あることです。

それを持ってお隣に行きましたが、警察が来ていてお取り込み中失礼かなと思い、少し迷いましたが呼び鈴を鳴らすのはやめて、玄関の扉にそっと置いていこうと思いました。雨の日に回覧板を回す感覚です。

その荷物をお隣の玄関の扉の横にそっと置いたその瞬間、その扉がガチャっと開き、先ほどの警察官が出てきました。

私はびっくりして、とっさに、

「あ、この荷物、持ってきました」

と言いました。

なんか嫌な間(ま)です。

すると、その警察官は、鋭い視線で、

「その荷物はどこにあったのですか?」

と聞いてきました。その時、お隣の奥様も玄関から出てきました。

(何か喋れ、落ち着け、とにかく何か言え!)と、私のこころの無意識が何か必死で訴えていることに気づきました。

その瞬間私は今何が起きているのか理解しました。

「あ、もしかして、この荷物ですか?(警察官の訪問の理由は)」

とすかさず言うと、

警察官は、少し硬い表情を崩して、

「そうです、その荷物です」、と言い、お隣の奥様の表情はどこかほっとしているようでした。

「ああ、なるほど!そういうことか。これですね、この荷物、私たち2日ほど、妻の実家で過ごしていて、たった今帰ってきたら、玄関にこの荷物があったので、あて先を確かめたら〇〇さんだったので、フツーに持ってきたんですよ、多分アマ〇ンだと思うんだけど」

というと、奥様が、

「そうです!ア〇ゾンです!良かったあ!」と言い、警察官が、

「紛失していた荷物はこれですか」、奥様、「そうです、これです!ありがとうございます!」 というやり取りが始まったので、

「もう大丈夫ですか?」と聞いたら、警察官が、「はい、もう大丈夫です」というので、

お疲れ様です、とか言って私は家に戻りました。後ろから、「一応中身を確認してください」とか聞こえてきます。

 

私は家に戻り、運び入れた荷物の整理を再開していると、妻が2階から降りてきたので、事の次第について話しました。

うちもちょうどたまたま2日空けていたし、きっとお隣はしばらく待っていて、耐えられなくなって警察に電話したのだろうし、気の毒だったね、などとふたりで話しました。

誰も悪くありません。

どこか笑い話のように話していましたが、私の心の中に、この件がなんだか引っかかり続けました。

ちょっと珍しい出来事だったので、後日このブログに書こうと思いましたが、思ったように考えがまとまらずに、一週間遅れで今書いています。

私はたまたまお隣さんと良好な関係にあります。うちの子と同世代のお子様がいるので、タイミングが合うと子供同士で一緒に遊んだりしますし、私もこの奥様とよく小話をします。

我が家は引っ越してきてまだ一年半ぐらいなので、そんなに深い関係ではないけれど、私がおおよそどんな人間なのか、感覚的にご理解があると思います。

 

翌日、朝日がまぶしく入ってくる静かな畳の部屋で、息子と一緒に遊んでいたら、昨晩の出来事に関連する空想が始まりました。

たとえば私が独り身で、一人暮らしで、窃盗の前科があり、今は完全に更生して、一生懸命会社員生活をしているところで、出社の必要がなく、在宅で仕事ができて、軽度の鬱で家に引きこもりがちで、寡黙で、近所付き合いが全くなく、遠方の実家に珍しく出かけて二晩泊まって帰ってきたところで、間違った小包を玄関で発見し、良かれと思って同じことをしていたら、結構厄介なことになっていたのではないかと思いました。

警察官の対応も、奥様のリアクションも、全く異なったものだったでしょう。

その可能性について考えていたらなんだか背筋がぞっとしてきました。

 

ここでさらに、あるアメリカ社会での悲しい事件を思い出しました。

 

恐らく20年以上前の話だと思います。ある中国系の移民の家庭の小さな女の子が、保育園に通っていました。

アメリカの保育園は、場所にもよるでしょうけれど、子供たちが親から虐待などに遭っていないか定期的に確認したりします。

その保育園のクラスで、ある先生が、

「みんなのおうちで、おうちのひとのだれかが、あなたのプライベートパート(陰部など)をさわってきたりしていない? おうちのひとにプライベートパートをさわられたことがあるこはてをあげて」

というと、その中国人の移民の女の子が手を挙げました。

お父さんに触られていると言いました。移民の子で、まだ英語があまり話せませんし、先生も中国語が話せませんでした。

アメリカ社会は子供の人権をとても大事にする社会で、幼児虐待にも非常に敏感であり、こうした場合、職員は警察や児童保護機関(Child Protective Service, CPS)に通報する義務があります。CPSは常に警察や裁判所と連動しています。CPSの職員は警察と連動して動きます。

当然、警察がこの女の子の家を訪ねてきました。

警察官たちはこの家の父親が加害者であると疑っているので、英語の話せないお父さんはパニックになって抵抗して、銃殺されてしまいました。

後日分かったのは、この女の子の性器には当時吹き出物があり、このお父さんは、この女の子に軟膏を塗ってあげていたという事実でした。

 

超多文化社会のアメリカは、本当に素晴らしいところですが、決してパラダイスなどではなく、民族的少数派を含む、あらゆるマイノリティに対する差別や偏見は遍在していて、このように、全く罪のない市民が命を落とす事例が多々あります。警察官が民家を訪問して殺されることも少なくないアメリカ社会で、この警察官たちを責める気にもなりませんが、同じアジア人ということもあり、当時の私はなんともやりきれない気持ちになりました。今こうして書いていても、やはりやりきれない気持ちになります。

 

今回の私の経験した珍事から、何が学べるかな、と考えていたら、私の頭の中で、こんな風にいろいろな連想が起こりました。

 

今回私はたまたまいろいろな幸運な条件が重なっていて、不幸中の幸いというか、その場で説得力を持って相手に説明することができました。

しかし、いつもそうとは限らないでしょうし、逆に、様々な不利な条件が重なって、深刻なトラブルになる事例は世の中に溢れています。

 

「説明責任」(accountability、アカウンタビリティ)などという語彙をよく耳にする昨今ですが、いつでも誰でも雄弁に話せるわけではないですし、理路整然と話せない人がいけないのだ、という価値観や考え方もまた問題があると思います。

相手の事情を聴く、相手の心の声を聴くことが私の仕事ですが、前提とか予断とか仮定とか、完全に捨てることはできないし、そうするべきでもないですが、それでも、さらに意識して、そうしたものを傍らに除けて、相手の話に耳を傾けていかなければ、と思いました。

 


精神分析 (psychoanalysis)

2022-01-23 | プチ精神分析学/精神力動学

「精神分析って何ですか?」と、時々クライアントさんに聞かれます。私自身も、時折その答えについて自問します。いろいろな考え方がありますが、私としては、そんな時に、尊敬する精神分析家、ガントリップの以下の言葉に常に立返ります。いわば私の心理臨床の原点です。和訳は私の解釈です。


“Analysis makes no promises, but offers to the patient a reliable and understanding  relationship for as long as he wants to use it, to explore his personality problems in depth and free himself to develop a more natural and spontaneous self”—Guntrip


精神分析には何の保証もないが、(保証できる事として)クライアントがそれを望む限り、信頼できて理解のある人間関係を提供する。精神分析は、クライアントの性格的問題を一緒に深く探索していく。それは、クライアントがより自然体で自発的な自分になれるように(無意識のテーマの呪縛から)解き放つためだ。


横浜カウンセリング 2022年1月30日(日) 空き状況

2022-01-22 | 横浜出張カウンセリング
再び満席となりました。次回は2月27日(日)を予定しております。空き状況は後ほど報告させていただきます。よろしくお願い致します。

皆さん、こんにちは!

寒い日が続きますが、いかがお過ごしですか?

今月1月30日(日)の横浜カウンセリングに1枠空きが出ましたので、お知らせいたします:

1月30日(日) 11:30〜12:20

ご希望の方は、drtakakurokawa@gmail.comまでお気軽にご連絡ください。

よろしくお願い致します。

黒川



安心感と満足感が一致しない人たち

2022-01-14 | プチ精神分析学/精神力動学

とても普遍的なテーマですが、人は本質的に、自分の人生や生活の中に安心感と満足感を求めます。

安心感と満足感の両方が満たされている時、人は、幸福感を感じます。この状態が比較的安定して続いていると、その人は人生全体に対して高い幸福感を持つようになります。

余談ですが、心理学の実験において、人間の幸福度のデータを集める際に、本質的に「質的」な幸福度を数値化しなくてはならないため、便宜的に「人生の満足度」(life satisfaction)というスケールを用いるのは、興味深い事だと思います(脚注)

つまり、人生の満足度と幸福感はそれだけ深い関連性を持っているわけです。

一方、安心感が直接的にその人の幸福度と繋がっているとは限らないようです。

もちろん、ほとんどの場合、幸福感の強い人は、安心感も満足感も高い傾向にあります。

「人生に満足してるけど不幸せな人っているじゃないですか」、と思われる方もいるかもしれませんが、本当に人生に満足している人は、幸福感も強いです。

つまりは、こうした人は、少なくとも無意識的、前意識的には人生に満足していないという可能性が考えられます。例えば、諦めている事と満足している事は違いますが、人は時にこの2つを混同します。

例によって前置きがだいぶ長くなりましたが、本題に入ります。

生活に安心感はあるけれど、満足感や幸福感がない、足りない、という人々は、実際とても多いです。

例えば、高収入で、生活レベルも高く、貯蓄もできていて、人生における不安感は低いけれど、不満は強い人を想像すると、分かりやすいと思います。

結婚生活や長期的なパートナーシップにおいて、経済的に問題なく、2人とも健康で、不貞行為や深刻な問題行動が存在しない関係性で、安心感はあるのに不満や不幸せな気持ちを抱いている方はたくさんいます。

むかしの人は、こうした人たちを「わがまま」だとか、「足るを知るべき」とか言いますが、私はそうは思いません。こうした人たちの抱える問題はそのように軽くあしらうべきでない、深刻な問題だと思っています。

恋愛関係でも、こうした事例は多いです。

今の相手とのパートナーシップに安心感はあるけれど、不満があり、あまり幸せではない、という状態です。

(これにも実際のところ、様々な理由や事情があり、一概にいうことはできないのですが、私の問題として、こうして何か書こうと思っていざ文章を書きだすと、そうした様々なケースや可能性についてどんどんいろいろな考えが出てきてその都度対処しているうちにだんだん収集つなかくなってきて文章が膨れ上がっていき、書き上げる気力が失せてしまいお蔵入り、ということがあまりにも多いので、今年はあえて簡素化してでも書き上げるように努めていきたいと思っています)

こうした人に時折見受けられる傾向として、意識ではもちろん自分にとって最善な人だと思ってお付き合いをしたり、結婚を決意したりするものの、無意識的に、そのようになりにくい人を選んでしまっているということがあります。

たとえば、幼少期の家庭環境で、親からの共感不全を慢性的に経験していた人は、親がその人と親密になることができなかったため、その人は大きくなって、親密さの課題を抱えることになります。親と親密になれなかったので、誰かと親密になる、ということがどこか居心地が悪かったり、落ち着かなかったり、恐怖であったりして、無意識的に、誰かと親密になることを回避します。こうした方たち本人は、自分が親密さを恐れている、親密さを回避している、という自覚は通常ありません。無意識の葛藤です。

こうした方たちが知らず知らずのうちに選びがちなパートナーは、性格は比較的穏やかだけれど、共感性が低い人たちです。

穏やかであることと、優しいことは、実は似ていて非なるものなのですが、こうした人たちは、穏やかさと優しさを混同します。

世の中、穏やかだけれど実はすごく冷たい人、穏やかだけれど本質的に自分にしか興味のない人、穏やかだけれど自己完結していて思いやりに欠けている人は、たくさんいます。

他者と親密になることを実は恐れている人と、穏やかだけれど共感性が低い人との組み合わせのカップルです。

こうした人たちは、自分は相手と親密になりたいと意識では思っていて、なかなか親密になれないことに不満や怒りや悲しみを経験します。

しかし彼らが気づいていないのは、もし相手にもっと強い共感性があり、うまく繋がってこれる人であったら、彼らの無意識の恐怖心は活性化され、その関係性はとても居心地の悪いものになり、関係は早期に破綻してしまうかもしれません。とても皮肉な事ですが、繋がれない相手だから一緒にいられるのです。そして、彼らは無意識的にそういう人を選んでいます。関係性が安定して、持続可能なものになる相手です。安定していて持続可能だけれど、この人たちの不幸せな気持ち、満たされない気持ちは続いていきます。こうした人たちの心の成り立ちにおいては、安心感と満足感が二律背反しています。不満と安定がセットになっています。


こうしたケースでは、相手の方にとっては、この関係性はそれなりに満足感のあるものであり、何が不満なのか分かりません。

ひとつの結婚、ひとつのパートナーシップにおいて、それが、一方においては良い関係だけれど、もう一方においては良くない関係、という事例です。


それではどうしたら、この不幸せな安定から抜けさせるのでしょうか?


そのお連れ合いと別れればいいのでしょうか?


そんな簡単な話ではありません。そして、たとえお連れ合いと別れたところで、その人が自分のテーマに無自覚であれば、そのテーマは次に選んだ「全く異なるタイプの人」と、表面的には異なっても、本質的には同じように繰り返すことになります。


それよりもまずは、自分が親密さを希求しながら、実は親密さを恐れていて、親密さを避けているのだと意識化する必要があります。


というのも、人間は、幼少期に家庭環境で形成された人間関係の無意識のテーマを、大人になってからも無意識に再現し続ける性質があるからです。そして、この無意識のテーマは無意識である限り永続します。


しかし、ひとたび本人がその無意識の動機を意識化する事ができると、その流れに歯止めをかけることができるようになります。


歯止めを掛けたら、次は、その親密さに少しずつ挑戦していく事です。小さな新しい行動をその関係性の中で試みていきます。カップルの関係性は常に動的な平衡状態にあるので、ひとりが新しい行動を取ると、一時的に平衡状態は崩れます。これがとても大事な事で、今度はパートナーはあなたの新しい行動に応じて新しい行動をとってきます。それは最初は必ずしも望ましい行動とは限りません。しかし、めげずに根気よく取り組んでいく中で、親密さに対する「耐性」ができて、次第により近くて親密な距離感で新しい動的平衡状態に達します。


親密さを回避する人が、本当の本当に親密さが嫌なのかといえば、そうではありません。本当のところでは親密である方が良いのだけれど、経験した事がない不確かで未知の領域であるため、怖いのです。その不確かで未知の領域に入っていく勇気が、本当の幸せにつながります。

 

 

(脚注)心理学は、日本では「文系」に位置付けられていますが、国際的には科学であり、理系の要素も多分に含んでいます。いわゆる「科学的」な実験が盛んに行われているのですが、ここで難しいのは、人間の心の科学という、本質的に「質的」なものを、実験ではそのプロセスで、「量的」なもの、つまり数値化する必要があります。ここに心理学の実験の限界点が常に存在しているわけですが、この限界点にどう対応していくかがまた心理学の実験のポイントでもあります。



better late than never

2022-01-10 | 戯言(たわごと、ざれごと)
アメリカ人が時々口にする、私の好きな言い回しに、”better late than never”というものがあります。何もしないよりは遅れてでもしたほうが良い、何もないよりは遅れてでもあった方が良い、というところでしょうか。

彼らはまた、”sooner is better”とも言います。早ければ早いほど良い、ですね。

こんなことを書いていると自由連想法的に思い出したセンテンス、”a late marriage is better than a bad marriage,”これも共感できます。遅い結婚は悪い結婚より良い。

もうひとつ、自由連想で思い浮かんだのは、日本語の言い回し、「遅きに失する」です。これは冒頭の “better late than never”とは対照的ですね。

こうして徒然なるままに書き出していくと、これらはいずれもタイミングに関する概念であることに気づきます。

遅い事が必ずしも悪いことではない、という考え方は、迅速さや時間厳守が美徳とされるアメリカ社会の価値観に対するひとつのアンチテーゼ的なものだと思います。

やはり基本的には物事早いに越したことはないですが、そこに質が伴わなければ意味がありません。物事はある程度しっかりと熟考してから行動に移す必要があります。しかし完璧を求めすぎたり、うまくいかなかった場合や失敗を恐れたりして、決断できずに機を逸する、という事もあります。

世の中、長年お付き合いしている恋人と、結婚願望はあり、2人の間に大きな問題はないけれど、「本当にこの人で良いの?」、「本当に自分は結婚した方が良いの?」という漠然とした疑念によっていつまで経っても結婚に踏み切れないうちに相手の方が愛想を尽かしてしまう、という悲しいケースも多いです。

何かで相手のことを深く傷つけてしまって、罪悪感はあるのに、プライドなどが邪魔してうまく謝れず、うまく償えないうちに相手の気持ちが不可逆的に冷めてしまう、という事例も多いですね。

なんか新年早々暗いお話になってきましたが、今回私は何を言いたかったかというと、やはり私たちは心の中にあるものをきちんと大切な相手に伝える事、意識化して行動に移していくことが大事だということです。特に自分の中で大事なことは、どんなに遅くなっても形にしていった方が良いと思います。

遅すぎる償いは、相手の心にはもはや届かないかもしれない。遅きに失するかもしれない。それでも、その人がきちんと自分と向き合って、心から自分の非を認めて、今できる形で償いをすることは、決して無意味ではないと思うのです。

それでも遅きに失したものは、決定的なもの、根本的なものが不可逆的に損なわれた状態で、得られるもの、取り返せるものは限られています。本当に悲しくて残念な事です。

そういうわけで、やはり自分ときちんと向き合う事は大事だと思います。相手ありきの事ならば、自分と向き合うのと同時進行で相手ときちんと向き合う必要があります。相手と向き合えていない人が自分と向き合えている事はないですし、その逆もまた然りです。

一方、相手ありきではない事で、自分の中で、ずっとやりたかった事、ずっと手に入れたかった事があって、それがこれからの努力で実現可能であれば、やはり今からでも、どんなに遅くても、行動に移していったほうが良いと思います。例えば還暦を過ぎた方が進学したり新しく資格を取るお話はよく聞きますが、本当に素敵だなと思います。

アルフレッド・アドラーがかつて言っていたように、恐怖と勇気は本当に常に連動しています。恐怖心がなければ勇気を出す必要もないですし、恐怖心に負けずに勇気を出して自分が正しいと信じる事ができた時、人は成長しますし、その時の喜びは計り知れません。

リモートカウンセリング 空き状況 2022年1月11日~1月15日

2022-01-06 | オンラインカウンセリング

皆さん、こんにちは。

来週1月11日(火)~1月15日(土)のリモートカウンセリングの空き状況のお知らせです:

 

1)1/11(火)16:00~16:50

2)1/12(水)16:00~16:50

3)1/12(水)21:00~21:50

4)1/13(木)10:00~10:50

5)1/13(木)11:00~11:50

6)1/13(木)21:00~21:50

7)1/14(金)11:00~11:50

8)1/14(金)13:00~13:50

9)1/14(金)15:00~15:50

 

ご希望の方は、drtakakurokawa@gmail.comまでお気軽にご連絡ください。

宜しくお願い致します。


HAPPY NEW YEAR!!

2022-01-05 | 戯言(たわごと、ざれごと)
新年あけましておめでとうございます!

今年も宜しくお願い致します。

皆さん、いかがお過ごしですか?
何だかあっという間に年が開けましたね。

昨年も皆さんと、本当に様々な交流がありました。

今年も皆さんとの「今、ここ」、here and nowの交流を心待ちにしております。

皆さんと、嬉しい事も悲しい事も、楽しみな事も不安な事も、希望も失望も、どんな悩みも一緒にとことん話し合い取り組んで参りたいと思います。いつでもお気軽にご連絡ください。

皆さんお一人おひとりのこれから始まる1年が、充実した素敵なものでありますように。

令和4年1月吉日

臨床心理学博士
黒川隆徳