興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

自主性と選択意識

2010-07-12 | プチ臨床心理学
 机の上を整理していたら、ポストイットに書かれた古いメモがでてきた。そこには、

---Autonomy---

There are actually a number of choices/decision-making processes in our daily life, but one tends to overlook, suppress, deny, or just automatically go through things without engaging in couscious decision making.

 と、書かれていた。以前、教育分析を受けた直後に忘れないようにと書き留めておいたものだ。
 
 つまり、我々の日常生活は、選択や、決定事項で溢れているのだけれど、それをひとは往々にして、見過ごしたり、抑制したり、意識的な判断をすることなく自動的にそれらを通り過ぎてしまったりしている、ということだけれど、実際、我々の日常生活は、その起きているあいだ中のすべてが選択決定の繰り返しだと言っても過言ではない。

 たとえば、今この記事を読んでいる方は、「これを読む」ということを選んでいる。それから、今この瞬間に私が書いている文章のタイトルには気付いたけれど読むことがなかった、というひとは、「これを読まない」ことを実は選んでいるのだ。
 それから、これを読んでいるときに、なんとなくトイレにいきたい、とか、なんとなくのどが渇いた、おなかがすいた、などを感じているひとは、今この瞬間、読むことを選んでいると同時に、トイレにいかないこと、水分を補給しないこと、食べないこと、を選んでいることでもある。インターネットを今やめないことを選んでいたり。

 つまり、ひとつのことに従事していることは、何か別の事柄に従事していないことを選んでいるわけで、何かをしなかったのは、「しなかった」ことを選んだわけなのだ。ひとは普段、何かしなかったとき、「選択しなかった」と暗黙に思い勝ちだけれど、なんとなくしなかったことでも、そこをよくよく見つめてみると、しかなったことに必ず理由がある。つまり選んでいるわけだ。

 約束の時間に遅れてくる人、期限を守らない人は、一般に、無責任なひとだと見做されるが、それが何故かといえば、遅れてくる人は、その前にいた場所をもっと早く出てくることを選ばなかった、つまり、前にいた場所にぎりぎりまでいることを選んだことで、期限を守らないひとは、約束のものが期限までに仕上がるようにそれに時間を掛けることを選ばなかった、つまり、それ以外のいろいろなことに時間を掛けることのほうを選んだ、優先した、ということでもあることを、その周りの人間はなんとなく分かっているからだ。

 もちろん、例外的に何かに遅れたり間に合わなかった、ということもあるし、避けがたい、予期しがたい突発事故だって起き得るし、そういう例外はあまり問題ではない。

 問題は、常習的に約束の時間を守らない人だ。なぜこういう人が人から信頼を得られないかといえば、それはつまり、彼らがその人間関係よりも他のことを優先している、選んでいる、という可能性があるからだ。

 「信頼があるから遅れても平気」というひともいる。
 でもこういうひとは、他者の気持ちに鈍感だったり、自己中心的であることが多い。それで本当に、相手も大丈夫なのか、満足しているのか、今ひとつ考えてみるといいかもしれない。それで本当にお互い満足ならば、相手のほうも、時間に遅れてくることを大目に見る、その人が時間を守る、ということを信用しない、ということを選んでいるわけだから、それならばあまり問題はないが、そういう例は意外と少ない。

 「ドタキャン」の多い人にも、同じことがいえる。その土壇場で、「やっぱりできない、やっぱり無理」、と、その約束や予定を遂行しないことを、実は選んでいる。もちろんそこには様々な理由があり、とくにそれがパターンになっているひとには、心理的、性格的な問題がある場合が多い。

 ここで問題なのは、ドタキャンを頻発することで、そのひとは多かれ少なかれ、その相手との人間関係に問題を起こしている、ということで、そうした自分に罪悪感を感じたり、そこでさらに自信をなくしたり、自分を責めたりして、キャンセルせざるを得なかった精神状態をさらに悪化させたりする人も少なくないということだ。それはとても悲しくて残念なことだと思う。そのひとにとっても、その約束は大切だったり、楽しみだったりして、ぎりぎりまで実行したいと思っていたのだ。それがやっぱりだめだった、ということで、そこにいろいろなネガティブな感情が伴うのは不思議ではない。(こういう感情を経験することなくドタキャンを繰り返すひとはそれこそ本当に問題である)

 ただ、そのひとにしてみても、ドタキャンに至るそのときまで、実に様々な取捨択一をしてきているのだ。先に述べたように、それは多くの場合、自動的に、無意識に、或いはなんとなく。つまり、そのキャンセルまでには、実はさまざまなプロセスが存在しているのだ。
 
 ドタキャンをなるべくしないようにする秘訣はここにあるわけで、普段なんとなく見ていない、見えていない、その「実は存在している」たくさんの小さな取捨択一のプロセスを自覚して意識化していくことだ。 
 意識化は、今、この瞬間からできる。実は目の前にある、その選択肢に、それから、明日あるだろう選択肢、3日後、1週間後に予想できる選択肢に意識を向けていくことで、無理なくその予定や約束を果たせるように自分を調整していくこともずっと容易になるし、この意識化を習慣付けることで、ちょっと難しいかも、という直感もはっきりしたものになってくるし、それは予定日よりずっと前に自覚することができるので、余裕を持ってキャンセルすることもできる。
 どうせキャンセルするにしても、直前でするよりも、時間を持ってしたほうが、相手にとってもありがたい。それから、「普段から自分は選んでいる」、という感覚がはっきりしてくると、自分の気持ちやコンディションや置かれている状況にも敏感になってくるので、相手もきちんと理解でき、納得できる形で、どうしてキャンセルしなければならないのか、ということも伝えられるようになる。
 そこに新しい信頼や共感も生まれてくる。

 いささか話が横道に逸れてしまったけれど、これも選んでやったことだ。この文章を書いていて、「ドタキャン」の例が思い浮かんで書いているうちに、だんだん最初に書こうとしていた主旨と違うことを書き始めている自分に気付いたが、その連想に任せて書いていったほうが面白そうなので、思いつくままにここまで書いてみた。

 それで結局今回の記事で何がいいたかったかというと、1)我々の日々の生活は無数の選択決定の塊でできているのだけれど、それに気付かずに生活していることが多い、2)でもそこにどんどん自覚していくことで、つまり、何かを意識的に選んだときはもとより、何かをしなかったときでも、それを「しなかったことを選んだ」、と自覚していくことを繰り返していくことで、3)「自分は自分の人生の主役で、その時々において、選んで生きているんだ」、という、「コントロールできているという感覚」が生まれ、4)主体性がでてきて、自分の人生により積極的に責任が持てるようになる、ということだ。

 選ぶには、自分の本当の気持ちに敏感でないといけないので、今、この瞬間、自分はどのように感じているのかという自分の本当の気持ちや感情にも敏感になれて、この繰り返して、主体性がより確かなものになっていくのだ。