興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

他者の気持ちはコントロールできない

2009-08-22 | プチ臨床心理学
 我々人間は日常の様々な人間関係において、いろいろな情緒体験をする。それが愉快で幸福なものであることもあれば、甚だ不愉快なものであったり、ストレスや緊張感、苛立ちや、怒りの経験であったりもする。

 今回は、とくに後者の場合についていささかの考察を加えてみようと思うけど、そうした対人関係におけるネガティブな情緒体験には、すべてとは言わないまでも、そこには往々にして、そのひとの、相手の気持ちや考えや感情をコントロールしたいという思いが関係している。ひとことで「相手の気持ちをコントロール」といっても、そこにはいろいろな状況がある。

 たとえば、母親が、彼女の価値感や、社会的な基準において好ましくないと思う行動をしている子供を何とか変えようとしているけれど、子供は反抗するばかりでなかなかうまくいかない。また、ある男性が、交際している女性に、彼がよいと思っているものを熱心に勧めているのだが思うような反応が得られない。また、ある人が、友人から、「こういう風に見られたい」という思いが強くていろいろと自分の話ばかりしたり、ある事象において自分と価値観の違う友人の考え方を自分のようにしたくていろいろ議論してみたりなど、状況を挙げていくと枚挙に暇がない。

 このような上記の例は、どちらかというと分かりやすいものだけれど、もっと深刻な例としては、たとえば重度の鬱で引きこもっていたり、自殺念慮のある家族や配偶者、恋人や親しい友人を何とか助けようとして、いろいろと働きかけるうちに、どんどん人間関係が難しくなっていくということもあるだろう。

 このように、一見いろいろと異なった状況にみえるいろいろな対人状況だけれど、ひとつ共通していると思われるのは、その心的葛藤や困難を経験している人間の、対象となる他者に対する過剰な同一視と、それによる対人距離の欠損だろう。つまり、あまりの同化で対象との距離がなくなりすぎているため、相手のこころが自分のこころの延長のような幻想を知らず知らずのうちに抱いているので、それが自分の思うように変わらないものだから、ストレスや苛立ちや怒りとなり、非生産的な言動には拍車がかかり、そのような投影を受ける対象の人間は、相手のそうした思いが直感的に伝わるので、さらに防衛的になり、悪循環は続いていく。

 これらの問題において、「どうしたって相手は他人であり、他人のこころはもともとコントロールできないものだ」という前提を持った上で、もっと距離を持って付き合っていくことが考えられる。もちろん、人間は互いに影響しあう生き物であり、「相手がこのようになればいいのに」と思うのも当然のことである。さらに、そうした気持ちは多くの場合、善意に基づいていて、実際に、相手としてもそのように変わりたいと望んでいたりすることも少なくない(たとえば先ほどの例で、鬱の友人の自殺念慮を軽減させたいという思いは、友人本人だってもちろんそのように思っているものだろう)。ただ、問題なのは、ひとはそれぞれが主体性を持っていて、それぞれのアイデンティティに基づいて生きているので、それが脅かされるほどに短い対人距離や強い投影を受けては、そこにどんな善意があっても、こころの防衛機制が働くので、人間関係は難しくなるばかりだ。

 だから、「人間関係はそういう風になり勝ちなのだ」と分かっていれば、過剰同一視も未然とまではいかなくても軽減できるし、「なんとしても相手をかえなければ」という気持ちもやわらいできて、ストレスや強い感情も収まってくる。それは、この前の「理想」の記事とも通じるもので、「相手を~のように変えなければ」というのは理想、つまり幻想であるのにたいし、「相手が~のようになったらいいなあ。そうなるように、相手のこころの領域に踏み込むことなく、自分にできることをしたり言っていこう」という希望をもって付き合っていくのは、ずっと健全な人間関係であり、逆説的に、そうしたスペースやこころの余裕があるぶんだけ、相手も却って変わりやすくなる。

 筆者は以前、「このブログを読む読者に『すごい心理学者だ!』って思われたい!!!!!!」という気持ちがあり稚拙な文章をがりがり書いて投稿していたような気がするけど、いつしかそういう気持ちがなくなってしまってから、こうしてたまに思いついて記事を書いてみるのがより楽しくなった気がする。自分の主張を誰かに聞いてもらったり、文章を誰かに読んでもらうことはできても、その人が自分についてどう思うかは、どうにもならないのだ。また、どうにもならないからこそ、人間関係は楽しいのだと思う。

理想

2009-08-15 | プチ臨床心理学
 人間、理想があるから成長や発展があるのだ、という考え方は
一般的だと思うけれど、一方で、理想があるゆえに、
がっかりしたり、怒りを感じたり、悲しみを経験する、ということは
意外と知られていないかもしれない。

 理想とは、ひとつの幻想ともいえる。
幻想とは、そのひとの精神世界や自己愛の賜物であり、
そこには「本当の意味」で、他者は含まれていない。
たとえば、ある夫が「理想の家庭」を思い描いたときに、
そこにもちろん妻や子供は存在するわけだけれど、
その「理想の家庭」のなかの妻や子が、いったいどれだけ
「現実」の妻や子の人格や価値観を反映しているだろうか、
それから、その「理想」を妻や子がまったく同じように
よいものと思っているだろうか、それを共有しているだろうか、
などと考えていくと、その理想の中の「他者」ですら、
そのひとが頭のなかでこしらえたものに過ぎないことが分かる。

 「理想の職場」、「理想の結婚相手」、「理想の家庭」、
「理想の友人」、「理想の社会」、「理想の上司」
それから「理想の恋愛の終わり方」、「理想の転職の仕方」、
「理想の借金の返し方」、「理想の口論の仕方」、
「理想の車の買い方」(書いていて段々わけが分からなくなってきた)
など、「理想の~」というのはその人が理想を持つ限り、
いくらでも存在する。(ところでこの記事は私の理想からはほど遠い)
上の例でも、たとえば、「理想の上司」がいるとして、
その上司との関係性のなかには、多かれ少なかれ、共同幻想が存在し、
無意識に目をそむけている、見たくないような欠点や問題点はあるだろう。
その「目をそむけている」ものがどんどん前面に出てきて、
遂に目をそむけきれなくなったとき、その共同幻想は崩れ、
ひとは失望や、怒りや、苛立ちや、悲しみを経験することになる。

 ところで、いうまでもないけれど、理想と希望とは二つの異なるものだ。
希望とは、もっと現実的で、幻想が少ない分、無理もなく、
そのようにならなかったときの精神的ダメージも少ない。
 たとえば、恋人と誕生日のデートをするひとが、
その日の「理想」をがちがちに固めて頭の中で夢想して切望していたら、
ちょっとしたずれや思いがけないできごとにがっかりするかもしれないけれど、
「こんな感じになったらいいな」ぐらいの「希望」であれば、
そこからちょっとやそっと現実がずれたところで、
もっと柔軟に構えて、その「ずれ」を楽しめるかもしれない。

 このように考えると、「理想などはじめから持たないほうがよい」、
という師の言葉にうなずけるところは多い。
理想があるから、その結果に点数をつけてみたり、自己批判的になったり、
たとえば「今回のプレゼンは90点」とかいって、
十分によくできたのに、フィードバックもよかったのに、
その「10点」ゆえに、フルに自分を認めてあげられなかったり
するひとも多い。

 理想をいえば、理想など持たずに、しかし現実的で柔軟な希望を持って、
そのときそのときの現実をきちんと経験して受け入れていくことだと思う。