興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

感情をきちんと表現して処理すること

2024-07-17 | プチ精神分析学/精神力動学
 PTSDなどのストレス障害やうつ病などを含む、多くの精神疾患は、ある種の未解決な感情と関係している。もちろんそれが全てというわけではないけれど、未解決の感情が我々人間の心身に与える負の影響はとても大きい。

 精神疾患までには至らなくても、未解決な感情により起きている心の問題や、その心の問題に派生する行動面の問題や身体症状も多い。

 精神力動的な心理カウンセリングがどうしてあらゆる心の問題に対して効果的であるかというと、その理由の一つに、例えば認知行動療法が「認知レベル」で対応するのに対して、心のより深いレベルの「情緒、情動、感情」に重きを置いている点があると思う。

 興味深い事に、認知行動療法の進化型で、近年話題の「スキーマ療法」は、まさに精神分析学や精神力動学的な要素、つまり情緒面への焦点化や、治療関係そのものを使った部分的育て直しを、従来の認知行動療法に統合していて、実際、スキーマ療法の創始者も、そのように公言している。従来の認知行動療法では全く歯の立たなかった人格障害や複雑性PTSDなどにも効果が見られるのはその為だろうと思う。

 前置きが長くなったけれど、人は、多くの場合、自分自身の未解決な感情について無意識である事が多い。

 無意識ではなくても、そこから意識的に距離を置いて、手付かずのままの場合が多い。それが心的に脅威であったり、どのように扱えば良いのか分からないからだ。

 そういうわけで、サイコセラピーが始まると、遅かれ早かれクライアントさんと私が一緒にするのは、その人の心の中に、どのような未解決な感情が存在するのか探索して特定していく事だ。

 特定した感情は、時間を掛けて、丁寧に注意深く、その安全で信頼感のある治療関係の中で語られ、表現される事を通して適切に処理されて、受け入れられ、解決していく。

 こうした感情は、センシティブなもので、正しい環境で正しく処理される必要がある。

 自分で受け入れる事ができない感情を受け入れられるようになるためには、まずはその感情を信頼できる他者に受け入れてもらう必要がある。このプロセスは、健全な親子関係と関連性が深いものだ。表現して、他者に受け入れてもらえた感情は、もはやその人にとって脅威ではない。

 こうした感情の共有は親密なもので、こうした繰り返されるプロセスを通して、人は自分自身との繋がりを、また、他者との繋がりを取り戻し、癒されて、回復し、成長していく。

積み重ねていくということ

2024-06-15 | プチ精神分析学/精神力動学
 中期・長期的精神力動的心理療法の特徴のひとつに、クライアントの「部分的育て直し」(partial re-parenting)というものがあります。

 部分的育て直しをする事で、その人の未解決の発達性/複雑性トラウマが癒やされたり、愛着理論でいうところの「内的作業モデル」(Internal Working Model, IWM)が変容し、人格そのものの改善がみられるようになります。

 この「部分的育て直し」に於いて、最も重要であるのが、クライアントとセラピストの治療関係であり、力動的心理療法の中核的なプロセスは、治療関係の展開と深まりにあります。

 効果的な治療的人間関係の構築は、いつもスムーズにできるわけではなく、そのクライアントさんの抱える心の傷が大きければ大きいほど、難易度は上がっていきます。

 そして、あらゆる人間関係がそうであるように、治療関係にも多かれ少なかれ、浮き沈みがあり、濃淡があります。

 これがとても大事なところです。なぜなら、人には、ある種の人間関係や対人交流場面を通してしか分かり得ないその人のパーソナリティの特徴や、幼少期の親との愛着のテーマや、トラウマや、その人の情緒的なニーズというものが多々あるからです。経験的知識、体験的理解です。

 皮肉なことに、こうしたものは、治療関係の一時的な悪化によって分かる場合が多いです。たとえば、その人の抱える愛着トラウマのテーマは、治療関係の中で、必然的の起こるからです。

 ここで重要なのは、セラピストが、その時のクライアントの愛着トラウマの活性化に早期に気づいて、関わり方を調整していくことです。クライアントの親がその人を傷つけたやり方ではない、より共感的で健全なやり方で対応していく事です。

 時折起きるこうした新しいやり取りを通してできていく治療関係を、専門的には、「新しい関係」(new relationship)と呼びます。そしてこの新しい関係を続けていく中で、修正的情緒体験(corrective emotional experience)が繰り返され、クライアントの内面世界が変わっていきます。

合理化と回避性 (rationalization and avoidance)

2023-08-27 | プチ精神分析学/精神力動学

 カップルセラピーでも、個人のサイコセラピーでも、夫婦関係や長期的なパートナーシップに問題を抱えている方たちの中に、表題の「合理化と回避性」の傾向が見受けられることがよくあります。

 合理化とは、その人のこころの平衡状態を保つために、しばしば無意識的に行われる、いわゆるつじつま合わせです。民間心理学でいうところの「酸っぱい葡萄症候群」です。

 たとえば、サザンオールスターズの茅ケ崎ライブのチケットの抽選に外れた人が、「そもそもあのライブはそんなに行きたくなかったんだよ」といって、本当はとても残念で悲しい気持ちから距離を置くような心性です。

 恋人に思いがけず別れを切り出されて破局した人が、「あんなダメンズと別れられてラッキーだよ。別れたかったけどなかなかこっちから切り出せなかったんだよ」と言って、潜在的な喪失感を否定するような機制です。

 これは誰でも多かれ少なかれ生活の中で用いているこころの防衛機制であり、気持ちを切り替えて前に進めたり、抑うつ的にならずに済んだり、物事をポジティブに捉えられたりと、有益な点も大いにあります。

 認知行動療法などで用いられる「リフレーミング」(できごとや体験に対する意味や解釈の作り替え)なども、この合理化を利用しています。

 世の中に溢れる自己啓発本で進められている手法にも、「合理化」という語彙は用いなくても、この機制に働きかけているものは多いです。

 問題は、その人が、合理化の機制を濫用する性格であったり、きちんと自分の本当の気持ちに向き合わなくてはならないタイミングで合理化を使ってしまう場合です。

 合理化をよく用いる人には、対人関係や、自分自身の気持ちに対して、回避傾向の強い傾向があります。

 それはたとえば、対人関係における不和や争い、気まずい雰囲気になることを恐れて、そうならないように自分の気持ちをごまかして、本当は良くないのに、本当は大丈夫ではないのに、大丈夫な振りをしてやり過ごすような傾向です。

 たとえば、恋人が性風俗に通っていることが、本当はすごく嫌な人が、「私と付き合っていてそういうところに行かれるのはすごく嫌だから、行くのをやめてほしい」と言えずに、「お金払っているし、こころは全く入っていないって言ってるし、大丈夫」と自分に言い聞かせてその恋人と付き合いを続けているケースです。

 確かにその恋愛関係は続いていくかもしれませんが、この方はとても傷ついていますし、強いストレスを感じていますし、そのようなことを続けていくうちに、自己評価や自己肯定感はどんどん低くなっていきます。

 お分かりのように、この方は、間違ったタイミングで合理化を使っています。

 この方が、傷ついた自己肯定感や自己評価、尊厳を改善するためにしなくてはならないことは、自分の気持ちに正直になり、その正直な気持ちを相手に伝えることです。それでもし相手が伝えた気持ちに向き合ってくれないのならば、そのような人とはお別れをすることです。

 これは、相手のあらゆる問題行動について言えることかもしれません。ちなみに、共依存の人間関係に陥っている人たちの間には、否認(denial)と合理化がよく見受けられます。

 問題行動と言えば、アルコール依存をはじめとする、あらゆる依存症は、否認と合理化の病いと言われています。

 たとえば、明らかにお酒を飲み過ぎている人が、「周りもみんな結構飲んでいるし、会社には何とか行けてるから問題ない」と言って、依存症を否定するようなケースはとても多いです。

 合理化は、一時的であったり、どうにもならない状況に置かれている中で何とか士気を保つためだったりと、必要で且つ適切な場合もあります。

 大切なのは、常に自分の本当に気持ちに気づいていることと、合理化をしている自分に対してある程度の意識があることかもしれません。

 冒頭の、失恋した女性が、自分の喪失感や悲しみをきちんと自覚していて、仲の良い友達にたくさん話を聞いてもらった後で、「あんな人とは別れられてラッキーだったんだよ。これでもっといい人と付き合えるよ」と言って前を向くのは、むしろこの人のこころの健全さの表れかもしれません。

 


自己肯定感?

2023-05-22 | プチ精神分析学/精神力動学
 自己肯定感や自己評価の高低は、確かにその人の幸福度や人生に対する満足度、精神状態の安定度などに大きく影響します。

 それでは、こうした要素がどのように幸福度や人生における満足度に影響するのかといえば、自己肯定感や自己評価の高低が、その人の生活の中で体験を「どう解釈するか」、「どう受け止めるか」に大きく関与しているからではないかと思います。

 例えば、自己肯定感の高い人が、小さな成功体験をした時、その体験をとても肯定的に解釈しますし、何か小さな失敗をした時も、その心的ダメージが最小限になるような解釈の仕方をします。

 一方で、自己肯定感の低い人が小さな成功体験をすると、往々にして、その成功を成功として捉えなかったり(例: こんな事は誰にでも。たまたま運が良かっただけ。)、体験そのものを心に留めなかったりします。しかし何か小さな失敗をすると、それをとても否定的に受け止めたり、悪運など外的要素を看過して、個人的に捉えて自分を責めたりします。

 ところで今回私がこの記事を書こうと思ったのは、「ですから自己肯定感を高める事が大切です」と言いたかったわけでは実はなく、自己肯定感や自己評価の低さがその人にもたらす恵みもたくさんあるかもしれないと提案したかったからです。

 自己肯定感が高いと幸福度や人生に対する満足度が高い傾向にあるのは間違いありません。それは多くの心理学的研究が示すものですし、皆さんも直感的・感覚的にお分かりになる事だと思います。
 
 ただ、先ほど挙げた「小さな失敗」体験ですが、それをあまり引きずらない方がメンタルには優しいですが、そのようにして速やかに通り過ぎてしまう事でその人が見逃している事もありますし、できなかった体験もあります。

 例えば、ある種の自己肯定感の低い人は、「小さな失敗」を味わい尽くしますし(本人は多くの場合「味わっている」意識はありませんが)、哲学者や心理学者などの社会学者はそこから人生や人間の心の成り立ちに対する理解を深めるかもしれませんし、ミュージシャンや作家はそこから詩や物語を書き始めますし、お笑い芸人はそこからネタを見出します。ものづくりの人はそこから創意工夫を生み出すかもしれませんし、ある高校生はそこから他者に対する共感性を高めるかもしれません。

 小さな失敗があって、運などの外的要素がほとんどのケースは、「今回は運が悪かった」とやり過ごすのが確かに健全であり正しいかもしれませんが、あえてそこにも個人的な要素を見つけて深く感じる事を自然にできてしまうのは、ある種の才能ですらあるかもしれません。

 少なくともそこにはユーモアや想像力、創造力、謙虚さの作用が存在します。

 そして、矛盾するようだけれど、低い自己肯定感から何かを見出している自分に自覚のある人は、それが多かれ少なかれその人の自己肯定感の向上に繋がりますし、自己肯定感の低さに対して肯定的であったり、自己肯定感が低いながら豊かで幸せな人生を送っていたりします。

『音楽室は秘密基地』

2023-04-17 | プチ精神分析学/精神力動学

 SHISHAMOさんの『音楽室は秘密基地』という曲は、『みんなのうた』にもなっている曲なので、ご存じの方も多いかと思いますが、私がこの曲について私が知ったのごく最近でした。

 (ご存じのない方で、この記事をこれからお読みになってくださる方、その前にぜひYouTubeなどで聴いてみてください。ネタバレ、というのとも違いますが、この記事では、この曲の歌詞についていろいろとお話します)

 3月の中旬の朝、息子を幼稚園に車で送り届けた後、車内のFM横浜で掛かったのをたまたま聴いて知りました。

 ご存じない方のために、この曲は、ある転校生の女の子が、馴染みのない街や馴染みのない学校に戸惑っていたところ、音楽の先生と出会い・・・という物語の曲です。恐らくこれは、卒業のシーズンであり、入学が差し迫るシーズン、ちょうどタイムリーな曲だったから掛けられたのだと思います。

 運転中でそんなに集中して聴いていたわけでもないのに、なぜかとても心に残ったので、帰宅後にYouTubeで聴き返してみたら、なんだかすごく泣けてきて、その後も、何度聴いてもなぜか泣いてしまう曲です(随分たくさん聴いたのでさすがに最近はそうでもなくなりましたが)。

 自分が特異的にこの曲に反応しているとも思えずに、いろいろ調べてみたら、「大人も泣ける」という声が多くて、ああやっぱりね、と思いました。

 この曲を聴いていて私が連想するのは、愛着理論で有名な、「安全基地」や、精神分析学の「良い対象の内在化」です。実際この曲は、「安全基地」と「内在化」について、とても分かりやすく教えてくれていると思います。

 「安全基地」とは、我々人間だれもが必要としている、こころの拠りどころとなる存在です。

 この曲で、主人公の女の子は、知らない街の知らない学校の教室に馴染めずに、そんな自分に自己嫌悪に陥っていたところ出会ったのは、女性の音楽の先生と、彼女の奏でるピアノでした。

 「初めまして ピアノ好きなの?」と笑って話し掛けてきてくれた先生によって、彼女の孤独感は消え、学校が楽しい場所になっていきます。

 そういえば、ZONEの名曲『secret base~君がくれたもの~』も「秘密基地」であり、この曲の主人公の子も、転校してしまう相手の子との関係性が安全基地となっていました。

 どちらも「秘密基地」なのは、偶然ではなく、我々の安全基地となる対象は多くの場合、とても個人的で親密なものであり、どこか秘密基地を連想するものでもあります。

 もうひとつ、先ほど「良い対象の内在化」と言いましたが、良い対象の内在化とは、我々のこころの成り立ちに関わるもので、分かりやすく言うと、その人にとって良い対象(音楽の先生)との繰り返されるやり取りの中で、その対象が、徐々にこころの中に取り込まれていき、たとえその対象が生活からいなくなったとしても、その人のこころの中で生き続け、その人を励まし続けてくれるということです。

(もちろん、この逆で「悪い対象の内在化」もあります。たとえば、「良い親」の内在化された声が、その人をその後の人生で励まし続けてくれることもあれば、「悪い親」の内在化された声が、離れていても、たとえ親御さんが亡くなられても、呪縛のようにその人を苦しめ続けることもあります)

 先生は転勤でどこか遠くの学校に行ってしまったけれど、この女の子の中では生き続けていて、大人になってからも心の中で生き続け、元気づけてくれます(余談だけれど、この歌の最後で、彼女はまた先生と再会することになりますが、これはこの曲を書き下ろした宮崎朝子さんの優しさや慈悲深さの表れだと思います)。

 ところで、私がサイコセラピストとして常に心掛けていることは、クライアントさんにとっての安全基地となることです。

 実際、精神力動的心理療法は、「部分的育て直し」と言われていて、そのセラピーの進行や展開を通して、セラピストや治療関係が、クライアントの中に内在化されたり、その人がそれ以前の人生において内在化してしまった悪いものを良いものに変えていくプロセスであり、それゆえに、中期・長期的な力動的心理療法は、クライアントの既存の愛着タイプや内面世界、人格変容まで起こせるのです。

 セラピストや良い治療関係がこころの中に内在化されると、セラピストが近くにいなくても、その人が困難に直面した時に、「先生だったらこう言うだろうな」と自分で考えて、問題解決ができるようになっていきます。いわば、「自分自身が自分の良い親になること、良いセラピストになること」です。

 サイコセラピーはとても効果的で意味のあるものではありますが、多くの場合、遅かれ早かれ卒業のある「臨時の安全基地」ですし、私の狙いは、クライアントさんが、私を足掛かりにしながら、生活の中で、より長期的、永続的な安全基地を見つけて強化していくことです。安全基地というものが存在しなかった人生を歩んできた人が、カウンセリングを通して、人生に安全基地を作っていくプロセスも、力動的心理療法の醍醐味だと思っています。

 そうは言ってもやはり理想であるのは、皆さんや、皆さんの大切な人が、日常の中に安全基地を持っていることであり、また、皆さんが、誰かにとっての安全基地であることだと思います。

 持っている安全基地をより安全でしっかりしたものに強化していく事や、大切な人にとって、自らがより安全でしっかりした安全基地であるように意識して努めていくことは、それが親子関係であれ、きょうだい関係であれ、夫婦関係やパートナーシップであれ、友好関係であれ、仕事の関係性であれ、人が豊かな気持ちでいきいきと生きていくうえで、とても大切なことだと思います。これこそが愛着理論のかなめだと思いますが、SHISHAMOさんの『音楽室は秘密基地』は、こうした人間の営みの豊かさに気づかせてくれる名曲だと思うのです。

 


自己愛と自己愛性パーソナリティ障害 #3

2022-11-16 | プチ精神分析学/精神力動学

(前回の続き)

世の中、NPDの人からどうやって離れるか、絶縁するか、距離を置くか、という指南書は無数に存在します。

しかし、NPDを抱える当事者のための、改善や克服について、また、NPDを持つ人とどうやって共に生きていくかについて書かれた本はあまり多くありません。大抵は、「その人NPDで治らないから離れましょう」的なメッセージです。

確かにある種のNPDの人たちからモラハラに遭っていたり、暴言や暴力に晒されて生きている人たちは、彼らから離れたりうまく距離を置く必要があります。

しかし同時に気がかりなのは、世の多くの「専門家」の方たちが、NPDを悪魔化(demonize)して、自分たちとは異質の人間であるとして、切り捨てていることです。

NPDを含む「人格障害」(パーソナリティ障害、personality disorder)は元々精神分析学の概念であり、日本を含む多くの国の精神医療で使われているアメリカ精神医学会が出版している精神疾患の診断基準DSM(現在はDSM-5、第5版)でも第2版ぐらいまでは精神分析学のカラーが顕著です。第4版の頃には学派などの「偏り」のないニュートラルな内容になりました。

そういうわけで、DSMの診断基準(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, Fifth edition, DSM-5)ではNPDはどのように定義づけられているのか見てみましょう。以下がその診断基準です。

ちなみに、DSMの「操作的診断基準」の診断は、簡単に見えますが、正しく診断するためには、深い専門的知識や臨床経験、トレーニングが必要ですので、見た目ほど簡単にできるものではありません。ここでは割愛していますが、年齢だったり、除外事項であったり、実際にはいろいろな精査が必要です。

さて、DSM-5によるNPDの診断基準は以下のようになっています:


「1)(自我の)誇大性,2)賞賛の要求,および3)共感の欠如の持続的なパターン」とあります。

大事なことですので、少しかみ砕いて説明します。

まず、「誇大性」ですが、これは、自分は特別な人間だとか、自分は何でもできるとか、自分の容姿が特別に優れているとか、インフレ気味の自己肯定感があり、文字通り、自我が誇大化している状態です。

2)の賞賛の欲求は、1)とも関連が深いですが、文字通り、他者から賞賛されたり注目されたり羨まれたりすることに対する尋常でない欲求です。過度の承認欲求と言ってもよいでしょう。

3)ですが、これもNPDの大きな特徴です。ここでいう共感とは、一般語として使われている、「共鳴」とか「同一視」とかとは異なるので注意が必要です。

ここでいう共感は、「相手の立場に立って感じたり考えたり想像したりする能力」のことです。「俺、共感力半端ない」とか言っていて、共感性が実は非常に低いNPDの方は結構多いです。

例えばこういう人がサッカーの試合を見ていて選手に同化し過ぎて苦しくなってしまったりするのですが、それは自分自身をその選手に「投影」して「同一視」して「共鳴」しているに過ぎず、実際にその選手の気持ちや立場が正確に理解できてはいなかったりします。

映画や小説などが大好きで、「感動しやすい」けれど共感性は低い、という方は多いですが、こういう人は、よく泣いたりして、本人も周りの人も、共感力強めな人、と思いがちです。

つまり、ここでいう共感とは、どれだけ自分の立ち位置や視点から出られるか、自分という中心から脱して他者の立場に立てるか、という話であり、自我が誇大化していて他者からの賞賛されることや社会的な成功にばかり意識がいっている人が、他者の立場に立って感じたり考えたりすることができないことは、自然な流れです。

これは文字通り「自己中心性」(ego-centricity, self-centered)の表れであり、自分が中心に地球が回っていると錯覚している人であり、自己愛が強ければ強いほど、自己中心性も強くなり、自分の中心からでることが困難になるため、これらと共感性の強さは反比例の関係にあります。

人間には、幼児期に抱き、多かれ少なかれほとんどの人が克服する、精神発達上自然な流れである「一次性自己愛」(primary narcissism)と、家庭環境や養育者との親子関係などにおける深い傷つきなどで、自己肯定感が持てず、低い自己評価に苦しむ子が、こうした脆弱性を覆い隠すために、防衛的に作り上げた、「二次性自己愛」(secondary narcissism)、防衛的自己愛(defensive narcissism)があります。

自己愛性パーソナリティ障害の人の自己愛は、後者の二次性自己愛です。ちなみに、自閉症スペクトラム症(ASD)の人たちが抱える自己中心性や共感性の問題は、一時性自己愛が非定型発達のためうまく克服できていない状態です。

(ここで誤解のないように強調しておきたいのは、ASDの人たちが一次性自己愛の克服に問題があった、ということで、「定型発達」の人たちに比べて劣っている、ということでは決してないということです。この世の80パーセントの人間の能力の総量というものは、たいして変わりません。つまり、何かが人と比べて弱いというのは、多くの場合、別の何かは人と比べて強い、ということです。実際、高機能自閉症を持っていて、あらゆる分野の第一線で活躍している人たちはたくさんいます)

つまり、自己愛性パーソナリティ障害の人たちは、一次性自己愛は通常克服しているけれど、新たに強い自己愛を作る必要があった人達です。その証拠に、NPDの人たちは、例えば自分の目的を満たすためには、一時的に、表層的に、「共感性」を使うことができます。

ASDの人たちは単純に自分の立ち位置から出ることが難しいために相手の立場に立つことが難しいのです。この二者は治療現場でも誤診が多いですが、多くの場合、ASDの人たちにはNPDの人たちのような自己誇大性、尊大さや傲慢さ、攻撃性、悪意などがありません。

NPDの人たちは、「自分のニーズの方が相手のニーズよりも大事である」という心性により、いわば、相手の立場に立ちたくない、立とうとしない、つまり、共感性を使わない、使いたくない、という状態ですが、一方で、ASDの人たちは、単純に、自分の立ち位置から出て自分や相手を観察する「脱中心化」がうまくできないために共感することが難しいという事情があります。

そのため、一見するとこの二者はとても似ていたりしますが、問題の出どころは大きく異なります。私のところにも、他所で誤った診察を受けた方がたくさんいらっしゃいます。とはいっても、ASDとNPDの両方も持っている人も時々いるので、一概にこれらの二分法が成り立つわけでもありません。

もうひとつ付け加えると、NPDの人と、ASDの人とでは、改善のプロセスが異なります。NPDの人たちの改善は、その自己愛の強さや性質を改善していくことで、相手の立場に立つ共感性をより抵抗なく使えるようになっていくことや、共感性を強化していくことです。

一方で、ASDの方の場合、共感能力そのものに問題を抱えているので、異なった戦略をとる必要があります。

たとえばAという状況で対人関係の問題が生じて反省すると、彼らはAという全く同じ過ちを繰り返すことはなくなっていきますが、A´(ダッシュ)、A´´(2ダッシュ)という微妙に異なるバリエーションは、健常者にとっては「同じ問題」ですが、彼らにとっては同じではなくて、「別の問題」としてみなされるので、自己愛性パーソナリティの人たちのように「応用」ができません。

それで、治療戦略としては、とにかくどんどん彼らの対人関係の対処策の引き出しを増やしていく、というやり方です。引き出しがたくさんあればあるほど、対人関係はスムーズになっていきます。彼らの多くは素直で協力的な人たちなので、「治療同盟」ができると、どんどん引き出しを増やしていけます。

このように言うと、NPDの人たちの方が伸びしろがあり治療がしやすそうだ、と思われるかもしれませんが、一切はそうでもありません。NPDの人たちの他責性や、自分が正しいと思う心性はとても強いので、「間違っていない自分が変わること」にはそもそも強い抵抗感があるので、その抵抗感を緩和していく作業にもかなりの時間と根気が必要です。

一方で、高機能自閉症の人たちは、防衛的自己愛の問題は抱えていないことに加えて、学習能力自体は高い方が多いですし、記憶力も優れている方が多いので、引き出しは無限に増やしていけたりします。

本当に大変なケースは、NPDとASDが併発している人たちです。

さて、こうした3つのパターンは,以下のような症状として現れます。以下のうちの5つ以上が認められることによって、NPDの診断が付きます:

 

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自己愛と自己愛性パーソナリティ障害 #2

2022-11-16 | プチ精神分析学/精神力動学

(前回の続き)

自己愛性パーソナリティ関連のコンテンツは、SNSやブログ、ネット記事や書籍などでも扱われることが多いですが、それはそれだけNPDが多くの人々の人間関係の中で問題になっていることの表れだと思います。

例えば、かつては「熱血漢」とか「とても厳しい人」とか「難しい人」とか「怖い人」とか「思いやりのない人」とか「自分大好きな人」とか「自己中心的で自分のことしか考えていない人」などと片付けられていた人たちですが、社会の意識が高まった事で、例えば部活動の体罰やあおり運転という名の傷害事件、モラハラ、パワハラ、アカハラ、カスハラなどのあらゆるハラスメント、また、こうした「ハラ」の人たちが激昂した成り行きによる事件など、NPDの傾向の強い人達は以前よりもずっと多く新聞の三面記事でよく見かけるようになりました。最近はある高校の女生徒が部活の先生から顔を殴られて顎が外れたまま放置されていた痛ましい事件などが新鮮です。池袋で起きた、高齢者による暴走事件も、これに該当すると思われます。

もっとも、こうした人目を引くような事件に発展する人たちよりも、そうでないNPDの人たちのほうが遥かにたくさんいるのも事実であり、これから話しますが、NPDにも様々な深刻度があり、これは程度問題であるので、診断が付くほどではないけれどグレーゾーンで「困った人」は、実はどの社会にもどのコミュニティにも一定数遍在します。このグレーゾーンに該当する人はとても多く、それが相手の自己愛の問題であると気付かずにその対人関係にストレスを感じて悩み続けている方は多いです。

たとえば、自分の利益や都合のために、相手によって態度を変える人(例えば部下には厳しく上司には媚びを売っている人、店員さんに対しては態度の悪い人、など)、「わが子のためなら」と、社会や周りの人達に無自覚に犠牲を強いる人たちも、自己愛に問題のある人たちです。

「わが子のために」という大義名分を掲げて周りに犠牲を強いている人たちは要注意です。なぜなら「わが子」はその人の自己愛の延長(narcissistic extension)であり、自分と同一視したわが子への投資は--少なくとも進化心理学的、精神分析学的、生物学的には--本質的には自己投資であるからです。それ自体は至極当然のことであり、何の問題もありません。あらゆる他の生物がそうであるように、人間にしてもそれはあるべき姿です。

問題なのは、そうした親御さんのわが子への同一視が強すぎる、過剰同一視(over-identification)のケースです。自分がわが子に投資するのは、自分の自己愛の作用であり、本質的には自己中心的なことであると自覚がある方は健全です。そうした自己愛や自己中心性に気づかないで、「子供のために自分を犠牲にする」、「自己犠牲」の自分に酔ってしまっている人たちは、他人の子供を含めた、周りの人間を犠牲にしてでもわが子の利益を追求します。他人の子より自分の子の方が大切であるのは当たり前です。それでも世の中の多くの人、つまり健全な自己愛の人たちは、よその子や周りの人への配慮を怠ることはありません。わが子が第一で良いんです。そうすべきです。他者に対する配慮や思いやりや一般常識を保ちながら。それができていない例はたくさんありますが、たとえば、レストランなどで自分の子供が駆け回ったり大声を出しているのを放置して、他のお客さんにその子が注意されたら、「うちの家庭の教育方針に口を出さないでください」などと逆上する人たちの自己愛は深刻です。こうした人たちの病的な自己愛は、残念ながら、自分の子供に対しても無自覚のうちに出てしまっていて、子供を傷つけているのですが、こうした人たちはそれにも気づきません。こうして自己愛の問題は世代間伝達されていく傾向にあります。

このように、診断は付かないかもしれないけれど自己愛の強い人たちは世の中に遍在します。

しかし同時に私が気がかりなのは、NPDなど特定の精神疾患の概念が独り歩きを始め、人々がこうした「診断名」を不正確で乱暴に使い、誰かを切り捨てることです。

まず、「人格障害は治らない」というのは、多くの人が信じている誤解です。

確かにあらゆる人格というのは長年かけてできたものであり、本人の相当な根気と努力がなくては治りません。

しかしこれは逆に言うと、本人の相当な根気と努力によって改善しますし、治る方もたくさんいます。実際にかつてNPDの診断基準を満たしていた多くの方の改善に伴走し、こうした方たちのNPD克服を目撃してきた私が言うのだから、間違いはないと思います。

人格障害は大幅に改善しますし、治る方もたくさんいます。

とは言っても、NPDの方たちが自発的に心理カウンセリングを受けにお越しになることはなかなかありません。なぜならNPDをもつ人たちは、常に自分だ正しいと思っていますし、自分が正しい、という立ち位置に固定されているので、対人関係の問題が生じると、自分は悪くないので、相対的に、相手が悪いことになります。通常病識は希薄であり、問題意識がありません。悪いのは自分ではなく他者なのだから、どうして自分がカウンセリングへいかないといけないのか、という考え方です。

こうしたわけで、大抵は、配偶者から最後通告を受けたとか、配偶者が子供を連れて出ていったとか、この問題を治さないと職場を追われるとか、「好ましくない外的要因」によっていらっしゃいます。

そして、せっかくカウンセリングに来ても、長続きしない方は残念ながらたくさんいます。

なぜなら、彼らの強い自己愛や肥大化した自己肯定感は、彼らの本質的な脆弱性や打たれ弱さを保護して覆い隠すものなのであり、その本質に触れられることを彼らはとても恐れているからです。

本当はとても傷つきやすく、被害的で、恥などの感情を感じやすいです。

それは多くの場合、彼らにとっても無意識であり、無自覚なことです。

彼らは自分が恥を感じていることすら気づかないかもしれません。

代わりに彼らはその状況にはそぐわないような怒りを表出します。専門的には自己愛憤怒(narcissistic rage)と呼ばれるもので、怒りという「第二感情」を爆発させることで、本来の感情である恥や悲しみ、恐怖などから意識をそらし、それらの感情を覆い隠します。いわゆる彼らの逆鱗であり、地雷ポイントです。

彼らは自分の劣等コンプレックスや脆弱性を意識しないように非常に用心深いですし、とにかく意識したくないものなので、カウンセリングで、こちらが直面化などのテクニックを避けて、共感的に接していても、そうした内的な脅威は感じやすく、それは彼らにとって極めて不安で不快で耐え難いものなので、いろいろとやめる理由をつけて合理化して勝手に来なくなってしまう人も少なくありません。とにもかくにもプライドが高いのです。

彼らが自分たちの本質と向き合わない限りNPDの大きな改善は望めないですし、遅かれ早あれ彼らは自分と向き合わなくてはなりません。

しかし本質的に傷つきやすく、侮辱や羞恥心を非常に感じやすい彼らがこれらの気持ちを感じないように、また、これらの気持ちに対して少しずつ耐性を作りながら進めていくカウンセリングはある種の名人芸であり、一般的な精神疾患とは別次元の、格段に高い臨床スキルが要求されます。

ただ、こうしたセラピストという「他者」の首尾一貫性や共感性は本来彼らが主要な養育者から受ける必要があったことであり、それが経験できず、本当はずっと求めていたことなので、一度強い治療関係が構築されると、それが中断になることはなかなかありません。

(続く。全文をお読みになりたい方は、こちらから)


自己愛と自己愛性パーソナリティ障害 #1

2022-11-16 | プチ精神分析学/精神力動学

【この記事をお読みになる前に】

この記事の目的は、自己愛性パーソナリティや自閉症スペクトラム症といった診断をすることではありません。精神疾患の診断は、精神医療の専門家が、ご本人にお会いして時間を掛けて慎重に行っていくものです。

この記事の目的は、ご本人またはそのご家族やパートナー、お仕事などで深い関わりのある方たちが、当事者意識をもって、こうした精神疾患について理解を深めることで、差別や偏見を超えて、どうにかお互い幸せに共存していくか、それが非現実的であれば、どのように、互いに傷つけあうことなく距離を置くか、離れていくか、読者の皆さんと共に考えていくことにあります。

あらゆる精神疾患がそうですが、そこにはひとつの正しい対処法など存在しません。何が正しいかは、状況によって変化しますし、柔軟性をもって臨機応変に対応していくことが大切です。そこで大事なのが、相手がどのような性質を持っていて、どのようなこころの成り立ち方をしていて、どのように外界を解釈しているのかについて理解を深めていくことです。

他者がある状況をどのように解釈して行動に出ているのか理解できますと、我々はその行動を我々の尺度や価値観を使って限定的に解釈する、という、負の連鎖を防ぐことができます。

これは、一種のメタ認知力、メタコミュニケーション能力ですが、メタ認知力に問題を抱えたNPDやASDといった課題を抱えた人達に巻き込まれ過ぎずに適度な距離をもって関わっていくための、高度なメタ認知力、メタコミュニケーション能力の獲得への挑戦でもあります。

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自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害、Narcissistic Personality Disorder、本記事では以後NPDと表記します)と聞くと、皆さん、どのような人物像を思い浮かべるでしょうか? この語彙は、ひどく否定的な響きがありますね。

そもそも自己愛(narcissism)とは何でしょうか? 

それは平たくいうと「自分を大事に思う心性」であり、これは人間誰しも持っています。持っていない人間はいません。

それはたとえ自暴自棄になっている人でも、自分を傷つけている人でもそうです。

「セルフ・ネグレクト」に陥っている人にも自己愛はあります。

自虐的になっている人も、自分を酷く扱うように自己愛が作用しています。

自分の顔が嫌いで整形をしたいと思っている人も、その人にそう思わせているのは自己愛の作用です。

子供のためにすべてを犠牲にしている、「自己犠牲的な親」の心性や言動にも、強い自己愛が関与しています。これは後ほど詳しく述べます。

このように、自画自賛に酔いしれる人も、自意識に苛まれて生活に支障をきたしている人も、自己愛の課題を抱えています。

自己愛とは、もともと精神分析学の概念であり、自己愛について最初に系統立てて理論を展開したのは精神分析学の創始者であるフロイトです。

とはいっても、ここに精神分析学の有名な言葉があります。

「フロイトは、精神分析学の世界において最初に言葉を発した人間であるけれど、最後に発言する人ではない」、というものです。

実際、自己愛に対する考え方は精神分析学の中でも時代と共に変容していくもので、殊に自己心理学(self psychology)のコフートによる「健全な自己愛」(healthy narcissism)の提唱以降、その流れは大きく変わりました。

かつてフロイトは、自己愛とは未熟な人格の表れであり、人間は自己愛を完全に克服して対象愛に変えなくてはならない、と主張していたようで、現在でも、フロイトの理論に直接的に流れを汲む自我心理学派(ego psychology) の分析家達は、そのように信じています。

フロイトは天才であり、超人であったので、その境地に達することができたのかもしれませんが、それはとてつもなく厳しくて非現実的な目標です。

ただ、たとえ人が完全にその境地にたどり着くことはないとしても、自己愛から対象愛へ、という流れは、人格の成熟の過程であることは確かですし、ひとりの人間が生涯を通して目指し続ける理念としては大いに意味のあることだと思います。

仏教の悟りや無我の境地、キリスト教のセルフレスネスも、こうした自己愛の超越の表れであり、実際にそこに到達できる人は、全人口のごくわずかですが、存在するかもしれません。「極めて健全な自己愛」は、無我の境地やセルフレスの近似なのかもしれません。イコールではないとしても、限りない近似です。宮沢賢治さんの『銀河鉄道の夜』にも、こうしたテーマがあるように思います。

話がまた少し逸れましたので元に戻してまとめますと、自己心理学以降、現在に至るまでの精神分析学界の新しい流れでは、人が人として幸せに生きていくためには、程よい自己愛、つまり健全な自己愛は必要であり、自己愛を全て対象愛に変容させるなどそもそも不可能であり、目標にすべきことでもない、という立場です。自己愛そのものは、かつて考えられていたように未熟で幼稚な心性でもなければ、みっともないものでもありません。

健全な自己愛を認めた立場の精神分析学のひとつの目標は、自己愛の超越ではなくて、不健全な自己愛から健全な自己愛へ、未熟な共依存から成熟した相互依存の対人関係への変容です。

自己愛とは、人間が生きていくために必要なものであり、問題は自己愛そのものではなくて、その度合いや質的なところにあります。

 

(次回へ続く。全文をお読みになりたい方はこちらから)


性格は変えられるのか

2022-10-12 | プチ精神分析学/精神力動学

「性格は変わらない」とか、「性格は生まれつき」とか、「性格だからしょうがない」と言う人をよく見かけます。


後ほど話しますが、これはいずれも不正確なものです。しかし最近は社会的な影響力を持ち、フォロワーの人生相談に携わっているYouTuberの人たちまでこのように言っていたりするので、いささか気掛かりになります。


ただ、これらの主張はデタラメではなく、少なくとも半分は正しいのです。


こうした方達が何気なく使っている「性格」という語彙は、正確には「気質」(temperament)と呼ばれる、それこそ生まれつきの性質で、「性格」のベースになるもので、確かにこれは変わりにくいものです。


例えば、外向性と内向性、冒険好きと用心深さ、といった気質は、「三つ子の魂百まで」的に変わりにくいものです。


この気質の部分は変わらないですし、そもそも変える努力をするべきでもないと思います。それよりも、自分の気質とは折り合いをつけて受け入れていくのが良いでしょう。


現代の文化的、社会的には、なんだか外向的な人の方が望ましく優れているというような風潮がありますが、実際のところ、内向的で自己実現をしたり幸せな人生を送っている人はたくさんいますし、外向的で不適応を起こしたり社会的・経済的に深刻な問題を抱えている人もたくさんいます。もちろんその逆もまた然りです。


性格とは、この「気質」が親子関係や生育環境によってどのように展開していくかによって作られていきます。つまり性格とは、遺伝と環境の複雑な相互作用によって形成されます。


性格の中にも比較的変えやすいものと変えにくいものがあり、気質的な部分は変えにくいですが、生育環境や人間関係の影響が大きい部分は変えていけます。例えばその人の自己評価や自己肯定感などは変動しやすい要素だといわれています。


とは言っても、人の性格はとても長い時間を掛けて遺伝的要素と環境的要素が化学反応の如く相互作用を起こしてできていくもので、多くの自己啓発本やYouTuberの提案が付け焼き刃的で効果が限定的であるのはそのためです。


長年掛けて作られたものを変えていくにはそれなりのまとまった時間と根気と努力が必要で、例えばサディスティックで悪意のある人は、その病的に強く歪んだ自己愛の調整や攻撃性の改善などが要求されるわけですが、病識の低さやモチベーションやコミットメントの問題で、その然るべき時間と根気と努力が持てないゆえに変われないのです。


実際、病識があり、どうしても変わりたい、治したい、成長したいと望む人は、そこへの時間と根気と努力を惜しまず、長年掛けて人格障害すら克服するのです。私自身そうした事例はたくさん見てきました。


もうひとつ問題なのは、気質と、環境的に作られた性格の部分がマッチしていない人たちです。


例えば、実は外向的な気質なのに、生育環境の影響で猜疑心が強かったり攻撃性が強くてうまく人と付き合えない人は、たくさんの社交が必要なのにそれが得られず、満たされません。


逆に、生育歴の影響で、自分は外向的だと思い込んでいて、本当は内向性が強いのにその人にとって過度の社交を続けるライフスタイルを送っている人は、実はすごいストレスを感じていたり、慢性的な疲労感を感じていて、やはり幸福ではありません。


興味深いのは、コロナ禍によって、リモートワークなど、家の中にいる時間が半強制的に長くなったことで、自分を再発見する方が多かった事です。私の知人は、とても社交的な人で、本人も自分は外向性の強い人間だと思っていたら、コロナ禍の巣篭もり生活が予想外に快適で、いつになくハッピーで、まさか自分が求めていたのはこれだったのかと驚かれていました。


性格を変える努力も大事ですが、一方で、性格を変える事に労力を注ぐ代わりに、自身の本来の気質を見極めて、受け入れて、それに合わせてライフスタイルを調整する事で、心の調和が取れて、自己肯定感が上がったり、不安が軽減したり、気分が晴れたりして、結果として性格が大きく改善する事例もあります。


いずれにしても、「性格だから」と結論付ける前に取り組める事はたくさんあります。性格は本人の努力と根気次第で変えていけるのです。




泣いている人に寄り添うという事

2022-04-18 | プチ精神分析学/精神力動学
育児困難を抱えている方達とお会いする事は多いのですが、よくあるテーマとして、自分の子供が泣いた時の対応が分からなかったり、間違った対応をしてしまっている、というものがあります。

でもこれは小さな子供がいる親たちに限った問題ではなく、世の中、誰か大切な人が泣いている時にうまく対応できない、とにかくしんどい、という方はとてもたくさんいます。

また、誰かが泣いている状況にもよります。
泣いている理由に自分が直接関係ない場合は対応可能だけれど、自分が関わっている場合は無理、という人もいますし、自分が関わっていても基本対応できるけれど、その内容によっては厳しい、という方もいます。

例えば、普段は優しい夫で、妻が職場の問題で泣いていたらとことん寄り添えるけれど、自らの不貞行為で妻が泣いていたら対応できないという感じですが、これは夫の罪悪感という分かりやすい理由があり、本題からは外れます。

今回私が話題にしたいのは、相手が子供でも大人でも、自分の大切な誰かが泣いている時にうまく寄り添えない人たちです。

例えば、子供が泣き出したら強い苛立ちや怒りを感じたり、そうした耐え難い感情で、子供を強制的に泣き止ませようとしたり。

苛立ちや怒りは感じないけど、焦りや焦燥感から、「大丈夫、痛くないよ」とか、「悲しくないよね」とか、「お兄さんだから大丈夫だね、うん、強い強い!」、「強い子は泣かないよ」、「大丈夫、大丈夫!」などと、その子の気持ちを逸らしてやり過ごそうとする人たちです。

こうした方達の「良い意図」は分かりますが、手段はどうであれ、結果として、子供という自分とは異なった人格をもつ一人の人間の気持ちを無視してしまっている事になります。

泣いている理由をしっかり聞かないでいきなり励ましから入る人もそうです。

それではこういう人たちが冷たくて共感性の低い人たちなのかと言えば、そういうわけではありません。むしろ感受性や共感性は基本的には強い人たちも多いです。

人には、何かがうまくできないのには必ず理由があります。

その理由は様々ですが、多くの場合、その人の幼少期の親子関係や家庭環境に関係しています。

特にその人が大人になって自分の子供を持った時の親子関係には、その人自身が子供だった時の親子関係の関係性が顕著に現れます。人は多くの場合5歳以前の記憶は曖昧ですが、そうした思い出せない記憶は、手順記憶や身体記憶といって、無意識的であり、体に刻まれているものです。

それではこうした育児困難を抱える人たち治らないのか、ひたすら堪えるしかないのかといえば、もちろん違います。

克服法はいくつかあると思いますが、私がこうした悩みを抱える方達と取り組む克服法の過程は、概して以下のような流れがあります。

まずはじっくりとその人の生育歴や半生について聞いて、共感的に、寄り添いながら聴いていくことです。これは単なる情報収集のプロセスではなく、実はこの寄り添い方そのものが、彼らの克服に深く関係しています。なぜならこのプロセスそのものが修正的情緒体験(corrective emotional experience)となり、こうした方たちの心に内在化された対人関係のテンプレートの更新につながるからです。

多くの場合、こうした方たちが子供の頃、泣いた時に、親がうまく対応できなかったという事実があります。

もちろん時代性もありますし、親にもまた幼少期があり、そうできなかった理由があるわけで、このブログでも何度も強調していますが、カウンセリングは親の悪口でも犯人探しでもありません。

親を責めるわけでもなく、「親にも事情があった。親は親なりにベストを尽くして育ててくれた。でも悲しいかな、親にも大事な事ができなかった理由があって、仕方がないけれど、それによって今の自分がこういう問題を抱えている。親を責めるわけではなく、親が自分にできなかった事によって、今の自分に何が足りなくて、それをどうやって身につけていくか」、つまり、「今あなたがその問題を抱えているのはあなたのせいじゃない。それでも、いずれにしても、あなたには、あなた自身のために、また、あなたの大切な人のために、それを克服していく責任があるのだ」という、いわば、成長責任、回復責任があるわけです。

話が逸れましたが、時代性やこうした方達の親御さんの個人的な事情によって、「泣いている子供にとことん寄り添う」、「その子の気持ちを大切にして、その子が自然に泣き止むまで、共感的に一緒にいてあげる」事ができなかった、という事実を認めて理解することです。

あらゆる事がそうですが、「泣くのはダメ」という価値観にも、多くの場合、「世代間伝達」というものが存在します。つまり、あなたもあなたの親もその親も親もその影響を受けてきた、ということです。

そしてこのブログを読んでくださっている方は、そうした負の世代間連鎖を自分の代で断ち切って、新しい流れを作っていこうという勇気を持っている方だと思います。それが自分の子供であれ、他者や次世代の人たち全体であれ。

さて、話を元に戻しますが、現在育児困難を抱えている方たちが子供だった時に泣いた時に、多くの場合、親が、「泣くのはおかしい!泣かないでちゃんと話しなさい!」と怒ったり、「泣いていたら分からないよ。泣き止んだら来てね」、と放置したり、「お兄さん(お姉さん)だから泣かないよ」、と言ったり、いずれにしても、親が、「泣く事」の意味や、寄り添うことの重要性を理解していなかったり、誤解していたという事実があります。

人は、自分がしてもらえた事は自然に他者にもできますが、してもらえなかった事をするのは容易ではありません。だからこそ、私はこうした方たちに、時間をかけてとことん寄り添います。カウンセリングの治療関係の中で、たくさん新しい経験をすると、その人の中に新しい流れができて、子供たちに、パートナーに、それから自分自身に、新しい事ができるようになっていきます。別に私でなくても、カウンセラーでなくても、あなたの周りにそれができる人がいるかもしれませんし、あなたが誰かにとってそういう立場の人かもしれません。それはとても素敵な事です。

いずれにしても、こうしたプロセスの中で、自分の幼少期には何が足りなかったのか。自分は何が欲しかったのか。そして、どうしたらそれらを自分の子供やパートナーや自分自身に与えてあげられるのか。そうした、新しい体験に基づく、経験的理解が、認知レベルを超えて、身体記憶、手順記憶を更新する事で、人は本質的に成長します。