興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学者黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

精神分析 (psychoanalysis)

2022-01-23 | プチ精神分析学/精神力動学

「精神分析って何ですか?」と、時々クライアントさんに聞かれます。私自身も、時折その答えについて自問します。いろいろな考え方がありますが、私としては、そんな時に、尊敬する精神分析家、ガントリップの以下の言葉に常に立返ります。いわば私の心理臨床の原点です。和訳は私の解釈です。


“Analysis makes no promises, but offers to the patient a reliable and understanding  relationship for as long as he wants to use it, to explore his personality problems in depth and free himself to develop a more natural and spontaneous self”—Guntrip


精神分析には何の保証もないが、(保証できる事として)クライアントがそれを望む限り、信頼できて理解のある人間関係を提供する。精神分析は、クライアントの性格的問題を一緒に深く探索していく。それは、クライアントがより自然体で自発的な自分になれるように(無意識のテーマの呪縛から)解き放つためだ。

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安心感と満足感が一致しない人たち

2022-01-14 | プチ精神分析学/精神力動学

とても普遍的なテーマですが、人は本質的に、自分の人生や生活の中に安心感と満足感を求めます。

安心感と満足感の両方が満たされている時、人は、幸福感を感じます。この状態が比較的安定して続いていると、その人は人生全体に対して高い幸福感を持つようになります。

余談ですが、心理学の実験において、人間の幸福度のデータを集める際に、本質的に「質的」な幸福度を数値化しなくてはならないため、便宜的に「人生の満足度」(life satisfaction)というスケールを用いるのは、興味深い事だと思います(脚注)

つまり、人生の満足度と幸福感はそれだけ深い関連性を持っているわけです。

一方、安心感が直接的にその人の幸福度と繋がっているとは限らないようです。

もちろん、ほとんどの場合、幸福感の強い人は、安心感も満足感も高い傾向にあります。

「人生に満足してるけど不幸せな人っているじゃないですか」、と思われる方もいるかもしれませんが、本当に人生に満足している人は、幸福感も強いです。

つまりは、こうした人は、少なくとも無意識的、前意識的には人生に満足していないという可能性が考えられます。例えば、諦めている事と満足している事は違いますが、人は時にこの2つを混同します。

例によって前置きがだいぶ長くなりましたが、本題に入ります。

生活に安心感はあるけれど、満足感や幸福感がない、足りない、という人々は、実際とても多いです。

例えば、高収入で、生活レベルも高く、貯蓄もできていて、人生における不安感は低いけれど、不満は強い人を想像すると、分かりやすいと思います。

結婚生活や長期的なパートナーシップにおいて、経済的に問題なく、2人とも健康で、不貞行為や深刻な問題行動が存在しない関係性で、安心感はあるのに不満や不幸せな気持ちを抱いている方はたくさんいます。

むかしの人は、こうした人たちを「わがまま」だとか、「足るを知るべき」とか言いますが、私はそうは思いません。こうした人たちの抱える問題はそのように軽くあしらうべきでない、深刻な問題だと思っています。

恋愛関係でも、こうした事例は多いです。

今の相手とのパートナーシップに安心感はあるけれど、不満があり、あまり幸せではない、という状態です。

(これにも実際のところ、様々な理由や事情があり、一概にいうことはできないのですが、私の問題として、こうして何か書こうと思っていざ文章を書きだすと、そうした様々なケースや可能性についてどんどんいろいろな考えが出てきてその都度対処しているうちにだんだん収集つなかくなってきて文章が膨れ上がっていき、書き上げる気力が失せてしまいお蔵入り、ということがあまりにも多いので、今年はあえて簡素化してでも書き上げるように努めていきたいと思っています)

こうした人に時折見受けられる傾向として、意識ではもちろん自分にとって最善な人だと思ってお付き合いをしたり、結婚を決意したりするものの、無意識的に、そのようになりにくい人を選んでしまっているということがあります。

たとえば、幼少期の家庭環境で、親からの共感不全を慢性的に経験していた人は、親がその人と親密になることができなかったため、その人は大きくなって、親密さの課題を抱えることになります。親と親密になれなかったので、誰かと親密になる、ということがどこか居心地が悪かったり、落ち着かなかったり、恐怖であったりして、無意識的に、誰かと親密になることを回避します。こうした方たち本人は、自分が親密さを恐れている、親密さを回避している、という自覚は通常ありません。無意識の葛藤です。

こうした方たちが知らず知らずのうちに選びがちなパートナーは、性格は比較的穏やかだけれど、共感性が低い人たちです。

穏やかであることと、優しいことは、実は似ていて非なるものなのですが、こうした人たちは、穏やかさと優しさを混同します。

世の中、穏やかだけれど実はすごく冷たい人、穏やかだけれど本質的に自分にしか興味のない人、穏やかだけれど自己完結していて思いやりに欠けている人は、たくさんいます。

他者と親密になることを実は恐れている人と、穏やかだけれど共感性が低い人との組み合わせのカップルです。

こうした人たちは、自分は相手と親密になりたいと意識では思っていて、なかなか親密になれないことに不満や怒りや悲しみを経験します。

しかし彼らが気づいていないのは、もし相手にもっと強い共感性があり、うまく繋がってこれる人であったら、彼らの無意識の恐怖心は活性化され、その関係性はとても居心地の悪いものになり、関係は早期に破綻してしまうかもしれません。とても皮肉な事ですが、繋がれない相手だから一緒にいられるのです。そして、彼らは無意識的にそういう人を選んでいます。関係性が安定して、持続可能なものになる相手です。安定していて持続可能だけれど、この人たちの不幸せな気持ち、満たされない気持ちは続いていきます。こうした人たちの心の成り立ちにおいては、安心感と満足感が二律背反しています。不満と安定がセットになっています。


こうしたケースでは、相手の方にとっては、この関係性はそれなりに満足感のあるものであり、何が不満なのか分かりません。

ひとつの結婚、ひとつのパートナーシップにおいて、それが、一方においては良い関係だけれど、もう一方においては良くない関係、という事例です。


それではどうしたら、この不幸せな安定から抜けさせるのでしょうか?


そのお連れ合いと別れればいいのでしょうか?


そんな簡単な話ではありません。そして、たとえお連れ合いと別れたところで、その人が自分のテーマに無自覚であれば、そのテーマは次に選んだ「全く異なるタイプの人」と、表面的には異なっても、本質的には同じように繰り返すことになります。


それよりもまずは、自分が親密さを希求しながら、実は親密さを恐れていて、親密さを避けているのだと意識化する必要があります。


というのも、人間は、幼少期に家庭環境で形成された人間関係の無意識のテーマを、大人になってからも無意識に再現し続ける性質があるからです。そして、この無意識のテーマは無意識である限り永続します。


しかし、ひとたび本人がその無意識の動機を意識化する事ができると、その流れに歯止めをかけることができるようになります。


歯止めを掛けたら、次は、その親密さに少しずつ挑戦していく事です。小さな新しい行動をその関係性の中で試みていきます。カップルの関係性は常に動的な平衡状態にあるので、ひとりが新しい行動を取ると、一時的に平衡状態は崩れます。これがとても大事な事で、今度はパートナーはあなたの新しい行動に応じて新しい行動をとってきます。それは最初は必ずしも望ましい行動とは限りません。しかし、めげずに根気よく取り組んでいく中で、親密さに対する「耐性」ができて、次第により近くて親密な距離感で新しい動的平衡状態に達します。


親密さを回避する人が、本当の本当に親密さが嫌なのかといえば、そうではありません。本当のところでは親密である方が良いのだけれど、経験した事がない不確かで未知の領域であるため、怖いのです。その不確かで未知の領域に入っていく勇気が、本当の幸せにつながります。

 

 

(脚注)心理学は、日本では「文系」に位置付けられていますが、国際的には科学であり、理系の要素も多分に含んでいます。いわゆる「科学的」な実験が盛んに行われているのですが、ここで難しいのは、人間の心の科学という、本質的に「質的」なものを、実験ではそのプロセスで、「量的」なもの、つまり数値化する必要があります。ここに心理学の実験の限界点が常に存在しているわけですが、この限界点にどう対応していくかがまた心理学の実験のポイントでもあります。


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自己肯定感

2021-07-31 | プチ精神分析学/精神力動学

近年、「自己肯定感」について様々な書籍やネット記事があるのを目にします。YouTuberの方々も自己肯定感について熱心に語っておられますね。


一方で、こうしたコンテンツを片っ端から見たり読んだりして試したけれど自己肯定感は一向に上がらない、と私のところにいらっしゃるクライアントさんもたくさんいます。


私はこうしたコンテンツに直接触れる事は少なく、殆どが、クライアントさん情報なのですが、印象として多いのは、”to do list”的に、「これこれこういう事を日常生活に取り入れていきましょう、試していきましょう」という内容です。


確かに、生活の中に「新しい良いもの」を入れていくのは、何らかの効果をもたらすためには必要ですし、私もこの戦略はよく使いますが、意外と見かけないし聞こえてこないのは、「既存の悪いもの」を生活から取り除いていく作業の勧めです。


どんなに良い新しい習慣を生活に取り入れても、それを相殺するような悪い既存の習慣があれば、なかなか前進は難しいです。


例えば、「毎日最低3回身近な人に親切にする」という新しい習慣を取り入れても、その人が日頃自己嫌悪に陥りがちな「身近な人につらく当たる」という悪い行動を改めなくては、なかなか自己肯定感は改善しません。


もちろん新しい良いものを取り入れないよりかは遥かに良いですし、親切にする事を意識して生活する事で、自分の行動を客観視しやすくなりますし、つらく当たりにくくなる、という可能性は考えられます。


しかしこれでは「進歩や成長の効率」は良くありません。暴飲暴食をしながら質の高いサプリメントを飲むようです。


とは言っても、「新しい良い事」を生活に取り入れる方が、通常、「長年続いている悪い事」を生活から取り除くよりは取り組みやすいです。


というのも、「悪いこと」がその人の人生の中で継続されているのは、しばしばそこには深い意味や理由があり、それは多くの場合現時点では無意識だからです。


このように考えると、その「新しい良い事」が「長年続けている悪い事」の正反対の事だったりと、両者の関連性が深いほどに、その良い事を頑張って続けるほどに、悪い事の生活に占める割合は低くなっていくかもしれませんし、その深刻度や度合いも軽減していくかもしれません。実際、例えば、自傷行為に苦しむ人が、セルフケアの新しい習慣を生活に取り入れて継続していく中で、自傷が次第に減っていき、やがて自分を傷つけなくなった、という事例も少なくありません。


いずれにしても、自己肯定感を効率よく上げていくためには、新しい良い事を生活に取り入れると同時に、続いている悪いものを取り除く事が重要です。


それがすぐに取り組めないものであるならば、少なくとも、それが何なのか、何があなたを自己嫌悪へと貶めているのか、意識化して自覚していく事が大切です。


どのような「新しい良い事」を取り入れるのか決める時に、直接的でも間接的でも、上記の例のように、その自己嫌悪や自己否定の原因と関連性の深いものを選ぶと良いでしょう。

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自然体って?

2021-05-01 | プチ精神分析学/精神力動学

近年よく「自然体」の自分とか自分らしさという語彙を見聞きします。


自己啓発系の本やSNSなどでもこの語彙はキーワードのひとつとなっています。


それでは「自然体」ってなんでしょう?


それが大事な事、そうあれたら良い事は、多くの方が感覚的には理解できるものだと思います。


書かれている事、言っている事はよく分かると。


そして同時に、あまりも多くの人が、それでも自然体になれずに苦しんでいます。


この分野は熱心なライフコーチや心理カウンセラーが相当数おられ、とても具体的なノウハウを語られている方は少なくないですし、読者やフォロワーは、その通りに行動してみますが、実際にはなかなか「自然体」になれません。


ちなみにこれは、自己評価とか自己肯定感とか自尊心の高め方というトピックにもそのまま当てはまります。


「その類いの本は片っ端から読みましたけど、変わらないですねー」。


という声をとてもよく聞きます。


毎回ですが、またちょっと話が横道に逸れましたね。「自然体」のお話でした。


自然体の自分でいられない、という人が多い一方、自分が自然体でいると思い込んでいる、自然体を他の何かと取り違えている人も相当数います。


例えば、「これが俺のやり方だ」、「これが私なんだからしょうがない」、などと言って、異様に不親切であったり、協調性が著しく欠けていたり、偏屈で意地悪な人がいます。極端に露悪的だったり無駄に毒舌だったりする人もいます。


「自然体」と「自己中心的に振る舞う」事を履き違えてしまっている人たちです。それが格好いいと思っていたり、それがあるべき姿だと思い込んでいたり。自分の悪い部分、まずい部分を全面に出すのが自然体だと思っている人たちです。


しかしこうした人たちがこのようになるまでにはそれ相当の事情がありとても長い経歴があるので、それ以前の事は忘れている事が多く、本人も周りもその人が初めからそういう人だと思いがちです。


これはPTSD、特に複雑性PTSD、発達性PTSDと呼ばれる、深刻な問題のある家庭環境で繰り返される有害な親子関係の中でできる精神疾患に罹っている人たちにも言える事です。


とても長い間PTSDに罹ったまま生きていると、自分はもともとこうだったのだと思いがちですですし、周りの人も、特にその人がPTSDに罹った後で出会った人達は、その人がもともとそうだった、性格的なものだと思ってしまう事が多いです。


しかし実際には、その人がPTSDに掛かる前の状態というものが存在します。


複雑性PTSDほど深刻ではなくても、たとえば小学校低学年ぐらいまではすごく元気な子だったのに、中学年、高学年ぐらいから元気がなくなってそのまま大きくなっていった人たちは少なくありません。


このように、本人も周りも「性格だから」と思っている状態が実はそうではない、というケースは多々存在します。その前の自分が昔過ぎて思い出せず、現在の状態を元にして「自分らしさ」、「自然体」を追求するわけですが、その前提である土台に問題があるため、変化は表層的になりがちで、なかなか根本的かつ大きな変化は望めません。


長い事サイコセラピーを行っているなかで、こうした人たちが部分的に元気だった昔の自分を取り戻すケースは少なくないですし、PTSDに関しては、その治癒や寛解によって別人のようにイキイキとしてきます。すっかり忘れていた、トラウマ的出来事以前の自分を思い出します。


このように見ていくと、本当の意味での自然体の感覚や境地にたどり着くのは実はそんなに簡単な事ではなく、ある程度腰を据えて本格的に自分と向き合う必要がある事が分かります。


必ずしもサイコセラピーが答えではありません。しかしいずれにしても、自然体になるためには、自分がかつて自然体だった頃を思い出す必要がありますし、そこから自分の人生に何が起きて、どんな影響を受けて、自分が変わっていったのか、よく調べて理解を深めていく必要があります。それは数年前かもしれないし、あなたが子供の頃だったかもしれません。





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健全な自己中心性 (optimal egocentricity)

2021-04-26 | プチ精神分析学/精神力動学
自己愛性人格障害などを伴った、自己中心的で共感性を欠いた親の元で育った人の多くは、その親子関係の傷から、自己中心性というものを強く嫌悪すりようになります。

親を反面教師として、意識的、無意識的に、その真逆のスタンスで生きていくようになります。

自分の事はいつも二の次、三の次で、周りの人たちの気持ちやニーズを優先して生きているので、人望が厚く、人々からの信頼や尊敬を集めます。

しかしこの傾向が強すぎると、その人は生きづらさに苦しむようになります。

仕事や経済面、体調管理などは意外としっかりできている方が多いですが、これも真のセルフケアではなく、自分のコンディションが整っていないと周りに迷惑を掛けるとか、周りの人のニーズにうまく応えられなくなるので、それを避けるためです。

必要最小限のセルフケアです。

皮肉な事に、こうした人たちは、良い友だちや理解者も多い一方、自分の親のように自己愛の強い人たちにいいように利用されたり、不当な扱いを受けがちです。

相手が彼らと同じくgiving person(与える人)である限り、その人間関係はgive and takeで満たされたとても良いものになっていきますが、問題は、この人たちが、taking person(取る人)と関わり合いになった時です。

Taking personは人に与えません。他者からひたすら取るばかりです。ケチで貪欲で人間関係が搾取的です。

基本的に誰からも信頼されて、それなりにうまくいっていた人たちの人生がうまく回らなくなるのはこうした搾取される関わりが存在する時で、こうした人たちが心理カウンセリングにやってくるタイミングでもあります。

積み重ねるセッションにおける対話の中で、こうした人たちは、自分が極度に自己中心性というものを憎悪している事に気付きます。

それゆえに、自分は自己犠牲的な人生を送っていて、自分のニーズが慢性的に満たされていない事に気づきます。

こうした対話の中で私がしばしば提案するのは、適度な自己中心性、健全な自己中心性です。

人間が自分らしくいきいきと生きていくために必要な、程よい自己中心性です。

自己中心性という語彙に拒絶反応をされる事があるので、セルフケア、自分を大事にする事、などの別の語彙についても話し合ったりします。

相手の気持ちを尊重しながら自分を打ち出していいんだ、相手のニーズと同じように自分のニーズも大事にしていいんだ、時に自分のニーズを他者のニーズに優先してもいいのだと、心の中に落とし込みながら、行動療法的にこうした新しい考えをセッションとセッションの間の日常生活で試していきます。

最初は落ち着かなかったり、あんばいがわからずに、カウンセラーと一緒に試行錯誤しながらその「健全な自己中心性」を試していく中で、その人の自己感はより確かなものになります。

彼らがある意味一番恐れているのは、自分が自分の親のようになる事ですが、もともと利他的な人たちなので、努力して自己中心的になろうとしても親のようにはならないという安心感も出てきて、対人関係は、自分のニーズが相手に伝わる分、さらに良いものになっていきます。

なによりも、その人の自分自身との関係性が改善していきます。
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実存的孤独と普遍性 (existential aloneness vs. universality)

2021-04-18 | プチ精神分析学/精神力動学
人間は一人ひとりがユニークであり、唯一無二であり、誰一人として全く同じ人生を歩んでいる人はいません。

生まれ育った過程環境も違えば、今日まで歩いてきた道のりも違うので、性格も世界観も価値観も多かれ少なかれみんな異なり、そこから出てくる情緒体験も異なります。

こういう意味で、我々人間は一人ひとりが「実存的孤独」(existential aloneness)という宿命を持っています。

一方、我々人間の情緒体験や人生経験というのは、より広い意味では共有されていて、今あなたが抱えている悩みや苦しみは、古今東西、決して新しいものではなく、必ずこの世のどこかに同じような悩み、苦しみを抱えている人はいます。それは本質的に普遍的なものです。

さらには、先述の実存的孤独という宿命は、全ての人間が抱えているもので、そういう意味で我々は皆繋がっていて、想いを共有していて、ひとりではありません。

つまり我々は実存的孤独と普遍性という二極の間を生きている存在です。

人生のその時々によって、私たちはそのどちらの感覚をより強く感じています。

たとえば、何か起きた時、ものすごくショックを受けたり、落ち込んだり、強い不安感や恐怖心や罪悪感や自己嫌悪に陥っている時、実存的孤独にどっぷり浸かっているかもしれません。

自分が周りの他の人達とは本質的に異なるのではないか、劣っているのではないか、おかしいのではないか、ひとりだ、孤独だ、寂しい、消えたい。

こんな気持ちになっている時、その人は強く実存孤独を感じています。

興味深い事に、こうした心境にいた人が立ち直る時、その人は少しずつ人生の普遍性を感じるようになっています。人や社会や世界との繋がりを取り戻している時です。

このように書くと、実存的孤独よりも普遍性の方が望ましくて優れた境地のように思えるかもしれませんが、そういうわけではありません。

優劣や正誤の問題ではなく、どちらの境地も必要です。

例えば、あなたの大切な人が何かでとても悩んだり落ち込んだりしている時、「あなたはひとりではないよ」、「みんな一緒だよ」、などと言ってもなかなか伝わりませんし、逆にどの人はあなたに対して心を閉ざしてしまうかもしれません。

「あなたには私の気持ちは分からない」、と言うかもしれませんし、孤独感が増してしまうかもしれません。

誰かに寄り添ったり励ましたりする時、私たちは両方の極について意識している必要があります。

逆に、あなたが今まさにとても落ち込んでいて孤独感に苛まれているとしたら、この「普遍性」のテーマに意識を向けてみるとちょっとだけ気持ちが楽になるかもしれません。

こんなことを書いている私も、今夜はちょっと落ち込む事がありました。そして、これを書いているうちに、随分と気持ちが回復しました。これを読んでくださっているあなたに感謝です。
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Geographic cure (地理的治癒)

2021-04-10 | プチ精神分析学/精神力動学

ときどきアメリカ人の日常会話で出てくる面白い表現に、geographic cure (地理的治癒)というものがあります。

興味深い事に、この言葉を使う人はそもそも「地理的治癒」の存在を信じていない人であり、この語彙には通常いささかの皮肉が込められています。

さて、geographic cure(地理的治癒)とは何でしょう?

これは、読んで字の如く、地理的要素に癒しを求める方法で、つまりは、ひとつの町で人生がうまくいかなくなった時に、別の町に引っ越して、一からやり直そうという試みです。

なかなか大陸的な発想で、超大国アメリカ人らしい人生戦略です。実際アメリカ人は引越しが多いことでも有名ですね。

それではなぜこの述語が否定的に使われるのでしょう?

それは、多くの人が、「場所を変えたからといって本質的な問題解決にはならない」事をわかっているからでしょう。

もちろん、地理的治癒が根本的な問題解決に繋がるケースや、その状況下において唯一の現実的な解決策である場合もあります。

例えば、学校で集団による悪質ないじめがあり、学校がきちんと対応してくれないという状況で、転校したら転校先ですごくうまくいった、というケースや、今までに部下を何人も休職に追い込んでいる、いわゆるクラッシャーと呼ばれる病的にサディスティックな上司に標的にされている職場で、適切な異動先のない人が、転職してすごくうまくいっているケースなど、成功例はたくさんあります。

問題なのは、地理的治癒を常套手段として内省する事なく繰り返す場合です。

「地理的」とは文字通り居住地を変える事に限らず、ある状態をリセットしてバージョンは異なるものの本質的には同じ事を繰り返す戦略です。 

例えば、ひとつの恋愛から次の恋愛へ、ひとつの結婚から次の結婚へと、離婚と再婚を繰り返す人がいます。

こういう人は、関係がうまくいかないのは相手や状況など外的要因のせいであり、次の相手こそは正しい相手だと思い込んで、同じ過ちを繰り返し続けます。

一見これまでとは全く異なった相手。

一見全く異なった職場。

一見全く異なった街。

それなのに。最初は新しい気持ちで新鮮でうまくいっていたものの、時間が経って気づいたら同じような問題に遭遇し、同じような気持ちになっています。

なぜなら、こうした人がうまく認識できていない未解決な個人的問題は、土地を変えようと相手を変えようと、どこまでもその人に付いてくるからです。

その問題を認識してきちんと向き合って解決するまで。

 

 

 

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ドラマ『知ってるワイフ』〜投影と放棄した自己

2021-02-22 | プチ精神分析学/精神力動学

(若干のネタバレあり)


ひょんな事から『知ってるワイフ』というドラマを見るようになり、精神分析学的にもカップルセラピスト的にも面白くて毎週楽しみにしています。


これはおそらく私を含めた多くの人にとって、多かれ少なかれ身につまされる内容だと思います。


設定は超現実的(非現実的)なのですが、同時に超現実的(極めて現実的)で、よく作り込まれた人間関係のリアリティがすごいです。役者さん達の演技も素晴らしいですね。


元春という他責性の強い男性が妻との関係性にうんざりして過去に戻って別の人と結婚してしまうわけですが、最初は「夢が叶った」ような新婚生活も、彼の自己中心性や妻に対する共感性の低さ、思いやりのなさでどんどん悪化していきます。


一度目の結婚から何も学んでいない彼は、呆れるほどに前回と同じ問題で現世の妻との関係性を壊していきます。無自覚に、無意識的に。


ここで面白いのは、元春が次に選んだ妻沙也佳は元春に負けず劣らず自己愛的で自己中心的な人で、元春が前妻を傷つけたのと全く同じ形で元春を傷つけてきます。因果応報的に。


そして元春と沙也佳は大喧嘩をしますが、その時に元春が沙也佳を非難する内容が圧巻で、これはほとんど元春の自己紹介、自分自身の問題を沙也佳の中に見ています。


これは非常に分かりやすい「投影」という私達人間の心の機制の表れで、元春は彼自身の受け入れ難い性質を自分から切り離して相手に投げ入れて映し出しています。


自分の中の好ましくない性質、見たくない、受け入れられない性質と向き合って内省して、折り合いをつけて自分のものとして受け入れていく事で人は変われるし成長できますが、それにはそれなりの人格的成熟が必要です。


なぜならそのプロセスにはそれ相当の精神的苦痛が伴うからです。


自己愛の強い未熟な人たちにはそれが耐え難く、それは自分の問題だと自覚して自責を経験する代わりに、これは自分じゃなくて相手の問題だと錯覚して他責に走ります。


その方がずっと楽だからです。


トランプが、2020年の大統領選で、敗戦を恐れるあまり、郵便局を弱体化させたり、州知事達に圧力を掛けたり、ありとあらゆる不正をしながら、「民主党によるかつてない不正選挙が行われている」と主張したのもこの好例です。


ちなみにこの放棄した部分の自分自身を専門的にはdisowned self(放棄した自己)と呼びます。沙也佳は元春にとって、自分自身の受け入れ難い部分を肩代わりしてくれる「放棄した自己」なのです。


同時に、沙也佳にとっても、元春は放棄した自己です。2人はある意味そっくりです。


互いに罵り合い非難し合うカップルは、往々にして、相手の中に放棄した自己を見ています。


人間の人格的成熟は、自分の問題を自覚して向き合って折り合いをつけていく過程によって起こりますが、未熟な人格の人達は他責を繰り返すので、その過程の機会をいつまで経っても経験できないという悪循環は、皮肉なものです。


ただ、このドラマは元春の成長の物語でもあり、彼は分かりは遅いものの、少しずつ自分の問題や過ちに気づいて反省し、内省力をつけて、行動修正をしていきます。


元春はどうしようもない人ですが、不思議と憎めないキャラクターです。それはきっと、私を含めて多くの視聴者が、元春の中に、それぞれの「放棄した自己」を見ているからかもしれません。


とても興味深いのは、「このドラマを夫婦で見ていて、毎回見終わった後に夫が妙に優しくなる」とか、「夫に優しくなれる」という声がネットで見受けられる事です。すごく嫌ですけど、私にも元春のようなところはあるし、毎回「うわあ、何やっちゃってんの?」と見ていて居た堪れない気持ちになります。それでいて目が離せない。登場人物全員を応援したい気持ちになります。今後の展開が楽しみです。



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変動する自己愛2

2021-02-21 | プチ精神分析学/精神力動学

大変お待たせ致しました。本当に時間が経つのが早いですね。

前回は、コフートの提唱した健全な自己愛、つまり、人間が生活の営みの中で幸せに生きていくために必要であり適切なレベルでの自分を大事に思う気持ち、自分に重きを置く心性についてお話したところで終わりました。

このように、現代の精神分析学では「健全な自己愛」が人間の営みに必要なものであると認識されていますが、それでは「健全な自己愛」とはどのようなものでしょう?

自己愛の程度や質については具体的な描写が分かりやすいので以下に2つのケースを出して考えてみたいと思います。

ケース1: ある3歳児の父親である営業職の男性がいます。この方は元々お洒落な方でしたが、子供が生まれてから同じく会社員の妻との家事育児の共同作業で忙殺され、なかなか自分の時間が作れない日々が続いています。子供が生まれてから、それまで住んでいたマンションが手狭になり、戸建てを購入し、車もワゴン車に変えました。そんな感じで経済的にもあまり余裕がありません。しかし仕事柄お客様など人と会う機会が多く、最低限の身だしなみを保つ必要もあり、美容院に行きたいとは思うのですが、その度に、「美容院にいく時間があったらその時間を子供と過ごしてあげたい。妻にも時間を作ってあげられるはずだ」、「美容院に行くお金で子供に何か買ってあげたい」、「そのお金を家族みんなで使いたい」、などの考えが頭をもたげてきます。今までは月一ぐらいで行っていた美容院も気づいたら3ヶ月ほど行けずにいて、「ワイルドヘア」の限界に達した4か月目でさすがに限界が来て美容院へ行きました。

ケース2: ある3歳児の父親である営業職の男性がいます。現在同じ部署の後輩と不倫関係にあります。彼は容姿に自信があり、また、モテたいので身だしなみは常に「完璧」に保っています。しかし表向きは、「職業上必要な自己投資」です。美容院は月一で行き、毎日3時間ジムで鍛えています。毎朝のジョギングも欠かせません。食事は高タンパクのものを同じく正社員の妻に作ってもらっています。子供はかわいいけどお世話は煩わしいので妻に任せています。自分の方が稼いでいて家にお金を入れているので「役割分担」と割り切っています。寝室は別です。8時間は熟睡しないと仕事に支障が出るので。出産後何故か妻の機嫌が悪く面白くないのでなるべく外にいます。「俺がこんなに頑張って働いているのに感謝が足りない」と愛人に愚痴る日々です。妻は時短勤務で時間があるはずなのに、何が不満なのか理解できません。自分の時間が欲しいとか言いますが、甘えとしか思えません。

さて、同じように3歳児の父親で職種が同様でも、この2人の様子はかなり異なったものですね。

前者の方は、いわゆる「健全な自己愛」の持ち主であるのに対し、後者の方は、自己愛性パーソナリティ障害(自己愛性人格障害、Narcissistic Personality Disorder, NPD)という、自己愛が病的に強い方です。有名なところでは、ドナルド・トランプがそうであると専門家の間では一定のコンセンサスがあります。ちなみに彼は「悪性自己愛」(malignant narcissism)という病理を持ち、自己愛性パーソナリティ障害でもかなり重篤な部類の人であると言われています。

自己愛性パーソナリティ障害とは、誇大性、共感の欠如、過度な賞賛欲求などの広範な様式です。

自己愛が強すぎるあまり、自分が重要であるという誇大な感覚を持ち、自己中心性が顕著で、共感性を欠き、選民意識など、自分が特別な存在であるという感覚があり、特権意識があり、ゆえに対人関係で相手を不当に利用する(搾取的でケチで貪欲)、尊大で傲慢な態度や行動といった特徴がみられます。

今回の話題は「健全な自己愛」の話であり、自己愛性人格障害についての細術は別の機会に譲りたいと思いますが、健全な自己愛と病的な自己愛の違いについては感覚的にご理解いただけたかと思います。

ちなみに前者のケースですが、後者のとの対比を分かりやすくするために、意図的にやや低めの自己愛に設定して書きました。いささかセルフケアの点で気になる点があります。例えば、美容院の予約ですが、「必ず埋め合わせをするから」と妻に約束して、もう少し割り切って、2ヶ月ぐらいで行っていても良かったかもしれません。

さて、ようやく本題に入ります。

ここまで、自己愛の質やレベルには大きな個人差があることについてお話しました。

ここで興味深いのは、ひとりの人間における自己愛の質やレベルには上限があるのもの、その範囲内において、その人の置かれた状況や精神状態によって、自己愛の質やレベルは変動するということです。

基本的に、人は精神的に追い詰められていて余裕がない時に、自己愛は強くなります。

その結果として、防衛的で、保身に走りがちになります。

普段はそうでない人でも、その時は精神的に不安定なので、自分の正当性を主張するために声を荒げたり、相手を攻撃してしまうかもしれません。

精神的に退行していて、いわばその人の「ワースト」な状態です。

こういう時に夫婦やカップルが破壊的な喧嘩をします。

ドラマ『知ってるワイフ』の広瀬アリスさんが恐妻になってしまったのは、彼女の基本的な自己愛が強かったからではなく、身勝手で自己中心的で共感性が低く思いやりのない夫によって徹底的に傷つけられて追い込まれてしまったからだと、その後の展開から分かります。彼女はむしろ、優しくて共感的で思いやりがあって、人望も厚く、セルフケアもできていて、「健全な自己愛」の持ち主です。

さて、ちょっと話が脱線しましたが、カップルが喧嘩する時のよくある皮肉は、この二人が喧嘩するタイミングは、二人が分かりあえる可能性が一番低い時であり、互いに傷つけあう可能性が一番高い時であるということです。

カップルは往々にして、最も議論を避けるべきタイミングで議論をします。

間違ったタイミングで行われた議論は間違った方向にヒートアップしていきます。

ふたりは同じページの上にいませんし、互いに理解してもらえない感が募っていき、声は大きくなり、言葉は過激になっていきます。そして絶対に言うべきでないことを思わず口走ってしまったりします。

とても悲しいことに、こうした破壊的な喧嘩が慢性化して別れてしまうカップルは本当に多いです。

さて、やっと今回本当に書きたいことが書けます。

カップルが喧嘩をすること自体は悪いことではありません。

ただ、喧嘩には、大きく分けて2種類の喧嘩があります。

互いに大きく傷つけあうことなく、相互理解が深まる、建設的な喧嘩と、人間関係に大きなダメージを与える、破壊的な喧嘩です。

今回問題にしている、避けるべき喧嘩は、当然後者です。

それではどうすれば、破壊的な喧嘩を避けられるのでしょう?

破壊的な喧嘩が始まってしまうことは、不可避な場合があります。

この場合、大事なのは、やり取りが破壊的になってきたことに、互いになるべく早く気付けることです。

そのためには、やはり自分自身のこころの状態をある程度客観的に見られる必要があります。

ここでは、自分の自己愛が強くなってきていることを自覚することです。

自己愛が強くなっているサインとしては、強い怒りを感じている、理解されていないと感じている、誤解されていると感じている、心外な気持ちである、自分の立場を強く主張したい、防衛的になっている、羞恥心を感じる、侮辱された気持ち、悲しい、怖い、寂しい、軽んじられた気持ち、敬意が欠けていると感じる、といった思想や感情、感覚です。

ここに挙げた要素が多ければ多いほど、あなたの中で、自己愛が強くなっています。

これは相手の自己愛についても同じことです。

こうした要素を相手に感じたら、それはやはり、相手の精神状態が悪く、自己愛が強くなっていることの表れです。

あるいはあなたが自分自身の自己愛を相手に投影しているのかもしれません。

いずれにしても、こうしたサインを自覚したら、とりあえずお互いに距離を取って頭を冷やしましょう。

大事な話だけれど、今は話し合うタイミングとしては良くないから、お互いにもう少し冷静になったら話そう、と伝えて、セルフケアをしたり、気分転換をしましょう。

お互いにある程度冷静になれるまでこの話は保留ですが、あまり先延ばしにしないで別のタイミングで話し合いましょう。

互いに愛し合っていて、大事に思っている者同士が、間違ったタイミングで話し合い続けて関係性を不可逆的にこじらせて別れてしまうのは本当に悲しくて残念なことですから。

 

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変動する自己愛

2021-01-15 | プチ精神分析学/精神力動学

今回は、皆さんからよく質問をいただく「自己愛」をテーマに書いてみたいと思います。

そもそも、自己愛とは何でしょう?

和田秀樹さんがある著書で、「自分を大事に思う気持ち」と表現されていました。

これは端的で的を射ていてしかもわかりやすい定義なので気に入っていてしばらくこの説明を使わせていただいておりましたが、ひとつややこしいのは、この「自分を大事に思う気持ち」を必ずしも本人が意識しているとも限らず、むしろ無意識的な場合も多いということです。

つまり、自己愛が「自分を大事に思う気持ち」であることは正しいけれど、それを本人が意識できているとは限らず、たとえば「セルフ・ネグレクト」を自認している人の中にも確かに自己愛はあるのですが、当人にはこの定義ではピンとこないかもしれません。

そこで私なりにより包括的なものを考えてみました。現時点で一番気に入っている定義は、「自分に重きを置く心性」です。

今回の記事で扱う自己愛は、この「自分に重きを置く心性」という意味で進めていきたいと思います。

精神分析学における自己愛の歴史は長く、自己愛について最初に理論を展開したフロイトは主張していました。「自己愛とは未熟な愛であり、克服すべきものであり、対象愛へと移行していかなくてはならない」と。

精神分析学で自己愛とは、精神的エネルギー(リビドー)が、自己に向いている状態を指します。一方、対象愛とは、文字通り、対象、つまり他者に精神的エネルギーが向いている状態です。

自己に精神的エネルギーが向いている状態が強すぎると、人は自己中心的になりますし、自己中心性が強いほどに、他者の立場に立って感じたり考えたりする「共感性」が低くなっていきます。自分のことばかりになってしまいます。

自分のことばかり、というと、多くの人々が「自己愛」と聞いてすぐに思いつく、自分大好きで自己陶酔型で自己顕示欲の強いイケイケな人達ですね。確かにこういう人たちの自己愛が強いのは間違いないですし、一番分かりやすい形の強い自己愛です。

ただ、先ほど例で出した自称セルフネグレクトの人や、悲観的で被害的で自己肯定感が低い人が、自己愛が低いのかというと、そういうわけでもありません。こうした人たちはまた、自分のことでいっぱいいっぱいだったり、自己憐憫の境地であったりして、精神的エネルギーは自己に向いています。

フロイトに流れを汲む、伝統的な精神分析学の心理療法家たちは、現代でも、自己愛とは克服すべき未熟な心性だという前提で臨床に取り組んでおられます。

ただ、ヘインツ・コフートが打ち出した「自己心理学」という新しい流れの中で、コフートが「健全な自己愛」(healthy narcissism)という概念を提唱して以来、精神分析学のなかでの「自己愛」の扱いも変わっていきました。

もっとも、先述した伝統的な精神分析学の人たちは今でも自己愛に対して否定的ですし、「健全な自己愛」などはオクシモロンだと言います。

コフートの提唱した健全な自己愛とは、人間が生活の営みの中で幸せに生きていくために必要であり適切なレベルでの自分を大事に思う気持ちであり、自分に重きを置く心性です。

(続く)

 

 

 

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