誰かに何かをどうしても伝えたいとき、どうしてもわかってほしい時、私たちが陥りがちなのは、その相手と戦ってしまうことです。
戦ってしまって、相手を傷つけてしまったり、相手から深く傷つけられてしまったり。
そんなつもりはなかったけど成り行きでそうなってしまった、というケースはありますけど、始めからそのつもりの人はそんなにいないと思います。
始めはただ単に、どうしても伝えたいこと、わかってほしいことがあった、というところだと思います。
伝えたい、わかってほしい、という気持ちが強すぎるとき、私たちはこうした悲しい結果に陥りがちです。
何としても伝えたい、と切に思っている時、人はいわゆる戦闘モードに入っています。
そして、人間関係って鏡のようなものなので、こういう時、相手の方も戦闘モードに入っています。
鶏が先か、卵か先かは分かりませんし、これはきっとそんなに重要なことじゃない。
どちらから始まったにせよ、お互いが戦闘モードに入っている状況が良くないです。これではそもそもの始めから勝算は低いです。
こういう時、その相手と話し合いを始める前に、少し冷静になる必要があります。頭を冷やす必要があります。
言いたい、伝えたい、という強い衝動を何とか抑制するんです。その思いは相手に伝える必要がありますが、その態勢じゃありません。
こういうとき、「どうやったら自分の気持ちが相手に伝わるか」ばかり考えがちですが、一度この思考パターンから脱却する必要があります。
完全な脱却は現実的じゃないかもしれないですが、少なくとも部分的に脱却はできるかもしれません。
「どうやったら確実に伝わるか」という視点はとりあえず傍らにおいて、「どうしたら相手のこころと自分のこころが繋がれるのか」について考えます。
自分が伝えたいのと恐らく同じくらいの熱量で相手もそう感じている可能性が少なくないので、まずは相手を安心させ落ち着かせる必要があります。
相手が安心して落ち着いてくれたら、こちらの言い分を聞いてくれる可能性もぐんと上がります。
まずは相手の方に先に話してもらって、その後であなたの気持ちを伝えるというやり方です。
こうすると、「相手はこう思っているのだろう」という前提や決めつけが意外と多かったことにも気づくかもしれません。
この前提や決めつけが、分かりあえる可能性を低くしているので、こうしてことを取り除ければ、お互いが責めることなくそれぞれの気持ちを伝えあうことがしやすくなります。
戦闘モードから銭湯モードへのシフトです。いや、これが言いたくてこの記事を書いたわけではありません。
でも、相手と心地の良い銭湯の湯船に一緒に浸かっているように繋がれたら良いですね。
ときどきアメリカ人の日常会話で出てくる面白い表現に、geographic cure (地理的治癒)というものがあります。
興味深い事に、この言葉を使う人はそもそも「地理的治癒」の存在を信じていない人であり、この語彙には通常いささかの皮肉が込められています。
さて、geographic cure(地理的治癒)とは何でしょう?
これは、読んで字の如く、地理的要素に癒しを求める方法で、つまりは、ひとつの町で人生がうまくいかなくなった時に、別の町に引っ越して、一からやり直そうという試みです。
なかなか大陸的な発想で、超大国アメリカ人らしい人生戦略です。実際アメリカ人は引越しが多いことでも有名ですね。
それではなぜこの述語が否定的に使われるのでしょう?
それは、多くの人が、「場所を変えたからといって本質的な問題解決にはならない」事をわかっているからでしょう。
もちろん、地理的治癒が根本的な問題解決に繋がるケースや、その状況下において唯一の現実的な解決策である場合もあります。
例えば、学校で集団による悪質ないじめがあり、学校がきちんと対応してくれないという状況で、転校したら転校先ですごくうまくいった、というケースや、今までに部下を何人も休職に追い込んでいる、いわゆるクラッシャーと呼ばれる病的にサディスティックな上司に標的にされている職場で、適切な異動先のない人が、転職してすごくうまくいっているケースなど、成功例はたくさんあります。
問題なのは、地理的治癒を常套手段として内省する事なく繰り返す場合です。
「地理的」とは文字通り居住地を変える事に限らず、ある状態をリセットしてバージョンは異なるものの本質的には同じ事を繰り返す戦略です。
例えば、ひとつの恋愛から次の恋愛へ、ひとつの結婚から次の結婚へと、離婚と再婚を繰り返す人がいます。
こういう人は、関係がうまくいかないのは相手や状況など外的要因のせいであり、次の相手こそは正しい相手だと思い込んで、同じ過ちを繰り返し続けます。
一見これまでとは全く異なった相手。
一見全く異なった職場。
一見全く異なった街。
それなのに。最初は新しい気持ちで新鮮でうまくいっていたものの、時間が経って気づいたら同じような問題に遭遇し、同じような気持ちになっています。
なぜなら、こうした人がうまく認識できていない未解決な個人的問題は、土地を変えようと相手を変えようと、どこまでもその人に付いてくるからです。
その問題を認識してきちんと向き合って解決するまで。