私達人間は、集団社会(家族から学校から職場に至るすべての集団、夫婦やカップルなどの二人関係を含む)において、その個人は言動によって互いに影響を与え合っていて、つまり私達は、本質的に、相互依存関係(Inder-dependent relationship)であるといえます。この相互依存関係において、自分に利益をもたらす行為が同時に他者に利益をもたらす場合もあれば、逆に他者に損害を及ぼす状況もあります。
例えばあなたがあるお友達の家に行ったらその人のコンピュータのインターネットが繋がらず、たまたまあなたがその直し方を知っていたために直してあげた。これは、あなたの行動がその友人の利益になるわけだけれど、実はあなたもインターネットが使いたかったわけで、それがあなたの利益にもなった、というのが前者の例です。
逆に、たとえば飲用水のペットボトルをある人たちが買い占めることによって、それ以外の人たちがそのペットボトルにありつけない状況が後者の例にあたります。
専門的には、前者の例を「協力的状況」、後者の例を「競争的状況」などと呼ばれますが、興味深いことに、この世の中には、二人関係、集団関係において、上に挙げたどちらの状況も当てはまらない、という状況がしばしば存在します。そういう状況を、ゲーム理論においては"Non-zero-sum game"(「非ゼロ和ゲーム」)と呼ばれ、(逆にZero-sum gameとは、これは、あなたの利益が即他者の損失となるゲームで、つまり、どちらかの利益ともう一方の損失の和が0になるゲームです)、協力することも競争することも考えられる状況です。
毎度のこと、前置きがだいぶ長くなりましたが、この非ゼロ和ゲームの代表的なものに、「囚人のジレンマ」(prisoner's dilemma)というものがあります。これは協調、競争の研究において最も研究されてきたゲームのひとつなので、以下のようになります。
これは基本的に、二人関係においての協調、競争を観察するゲームで、ここでは二人の参加者は、二人の囚人という役を受けます。さて、この二人の囚人は、刑事から尋問を受けることになるのですが、ここで彼らにはふたつの選択肢-自白するか、黙認するか-が与えられます。さて、ここからが重要なのですが、このゲームにおいて、1)もし二人とも黙秘を守れば、それぞれがごく瑣末な罰をうけることになります。2)もしひとりが自白して、もう一方が自白しなかった場合、自白した人は釈放され、自白しなかったひとが大きな罰を受けることになります。さらに、3)もし両者とも自白した場合、両者とも、大きな罰を受ける、ということになります。
このゲームで最善の戦略はもちろん、それぞれが黙秘すること、つまり協調、協力することなのですが、興味深いことに、参加者の多くはいずれにしても競争すること、つまり、自白することを選びます。自白して、他者が重罰を受ける代わりに自分は釈放される、というシナリオです。そして両者が同じように競争することを選ぶので、両者とも重罰を受けることになります。
この実験から分かるのは、人は基本的に競争する傾向にある、ということです。これは前述したように、とくにその状況が、競争も協調もあり得る、曖昧な状況下においてです。逆にいうと、協調したほうが明らかに賢明な場合、競争することが明らかに賢明な場合、以外の状況です。競争するか協調するかは、その人たちが置かれている状況や立場や性格も大きく作用するわけで、たとえば、被験者が、非常に仲の良い、互いに労わりあう高齢者の母親と娘だったりしたら、彼らが黙秘を通す確率は非常に高くなるし、逆に被験者が、破局寸前で、毎日喧嘩をしていて、互いに憎しみ合っているカップルだとしたら、それぞれが自白する傾向もぐんと高くなることが考えられますが、これらの極端な状況は別として、人はその性質として、競争する傾向にある、ということです。競争することが他人に有害であるばかりか、自分にとっても有害になる可能性が高い場合にも、です。
この事実をあまり好ましく思わなかったり、受け入れがたく思ったりする方もいると思われますので、以下は蛇足になりますが、大事なのは、脳にプログラムされた人間本来の性質を自覚したうえで、いかにその状況ごとに最善の選択をしていくか、ということだと思います。もともと自分が持っている傾向を否定して反動形成的に利他的に動く人と、それを受け入れた上で、状況を把握したうえで、利他的に動くことを選ぶ人とでは、やはりその意味も違ってきますし、逆説的に、後者の場合のほうが、その利他性、協調が、本当の意味で他者の利益になる可能性も高くなります。ところでこれは、小学校の運動会の徒競走で、勝ち負けが良くないとか負ける子がかわいそうだからと言って、彼らにみんなで手をつないでゴールインさせようとする「協調」と異なるのは、いうまでもないことだと思います。競争することが大切で、協調することが負になる状況というのも、やはり世の中にはたくさん存在するわけで、やはりその自覚と見極めが大事だと思います。
世の中、容姿や外見の良い人がいろいろなところで何かと得をしている、ということについて疑念を持つ方はあまりいないと思います。あなた自身がそういう経験を実感しているかもしれないし、あなたの身近にいる人、たとえば親、きょうだい、親しい友人、恋人、配偶者が、そのように何かと「得」をしているのをしばしば見ているかもしれません。いずれにしても、「『見かけ』の良い人が社会的に有利」だということは、誰もが感覚的に知っていることだと思います。ところで直前の文で、『見かけ』と鍵括弧付きで書いたのは、見かけがイコール生まれつきの容姿とは限らないからです。ただ、仕事の面接などで、「第一印象が大事」というのは科学的にも根拠のあるもので、それゆえ人は大事な用事のときに外見に気を配ります。さらには、見かけだけではなく、学校で、成績の良い生徒が、成績がよいというだけで、それ以外の点、たとえば、性格や、行動面などでも、教師からポジティブに評価される傾向にある、ということについては誰もがご存知だと思います。
さて、容姿や見かけについては、上記と正反対のことも事実であること、つまり、容姿や外見のよくない人が、何かと損をしていたり、社会的に不利だったりすることについても、疑念を持つ人は少なくないと思います。たとえば、太っている人がやせているひとに対して、ネガティブなイメージを受けやすかったり、中高年の女性が、若い女性よりも不利に扱われたり、秋葉系の男性が、そうでない男性と比べて何かと損をしていたり、喫煙者が非喫煙者に比べて、煙草を吸っている、というだけのことで、それ以外の点で偏見を受けたりして損をする傾向にあるのもご存知の方は多いと思います(これは超嫌煙地域カリフォルニア州では火を見るより明らかなことだけれど、近年嫌煙傾向が強くなってきている日本でもよく見られるようになってきている印象があります)。前の段落で、成績の良い生徒について述べましたが、成績の悪い生徒が、性格や行動面でも、教師から不当にネガティブな評価を受けやすいこともよく知られていますね。
前置きがだいぶ長くなりましたが、これは社会心理学(或いは認知心理学)においては、「光背効果」(Halo effect)と呼ばれるものです。光景とは、聖像などの後ろに見られるあの光の輪です。わーっと背後からその人物を照らす光です。つまり、他者がある点においてポジティブな特徴(たとえば成績や能力や外見など)を持っていると、その評価が、その人の全体的な評価にまで広がってしまう、という手に汗握る恐ろしい傾向です。これは逆に、他者がある点においてネガティブな特徴(たとえば成績や能力や外見や喫煙など)を持っていると、その人全体の評価までがネガティブなものになってしまう、という手に汗握る恐ろしい傾向でもあります。そしてこの傾向は、好むと好まざるとに限らず、我々人間誰もが持っているもので、それはしばしば無意識的な選択や言動として現れていることがあります。
これは社会における、明らかな差別や偏見の背後にあるものでもあるし、ずっと些細で当事者にしか分かりにくいけれど確かに存在する、という差別や偏見の根本でもあります。これは誰もが普段から「人間の性質」として十分に自覚している必要があるものですが、人を評価する立場にある人、たとえば教師、親、会社の上司などの立場にある人は、とくに注意が必要なものです。評価する側の人間は無意識的にしていることでも、評価される側の人間は、こういうことに敏感です。そこでこの二者の間でなんとなくネガティブな人間関係が展開して、それが複雑化する、ということもよくあります。人間が「完全にフェアに」誰かをありのままに見据えるのは難しいことですが(それが可能であるかも疑問です)この光背効果に気をつけることで、周りの人間が持っているいろいろな面を、バイアスなしに、あるいは少ないバイアスで、より正確に評価できるようになります。