興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

消極的に攻撃的 (受動的攻撃性、Passive Aggressive)

2014-04-15 | プチ臨床心理学

 よくアメリカ人の日常会話で使われる面白い表現に"Passive aggressive"(消極的に攻撃的)というものがあります。Passive(消極的)と、Aggressive(攻撃的)という、ほとんど正反対の言葉がひとつに結び付いた、一見ありえないような形容詞ですが、これは会社でも学校でも、良く聞く言葉です。たとえば、「うちの上司は本当にPassive aggressiveなのよ」(My boss is so passive aggressive)とか、「彼女は今Passive aggressiveになっている」(She is being passive aggressive now)という感じです(脚注1)。

 それで、Passive aggressive (パッシブ アグレッシブ) とはいったい何でしょうか。

 パッシブアグレッシブとは、「消極的」に、また、間接的に、不満や怒り、「攻撃性」を表現することです。

 ダイレクトでオープンなコミュニケーションが社会的に美徳とされるアメリカ社会において、間接的で、まっすぐでない(Indirective、インディレクティブ)コミュニケーションは、特にアメリカ人の間では不快感を感じるもので、彼らの普段のコミュニケーションのあり方にはそぐわない異質なものです。このため、その現象が起こっているとき、彼らは敏感にそれを察知します。

 しかし、この言葉が良く使われることからもわかるように、この現象は、アメリカ社会のあらゆるところで、よく起こります。しかし、スタンダードなアグレッションとは性質が異なるため、それと区別するために、このような面白い言葉があるのです。

 日本語には、これに該当する言葉がありません。なぜでしょう。日本人はダイレクトなコミュニケーションが大好きで、曲がったことをする人はどこにもいないからでしょうか。残念ながら、それは違います。周りとの調和、礼儀を重んじる日本社会では、ダイレクトな表現がなかなか難しく、敬遠されるため、怒りや不満を消極的、間接的に表現する人が多すぎて、この現象が、あまり人々の間で異質に映らないのです(脚注2)。

 それでは、パッシブアグレッシブ、消極的攻撃性は、日本人のあいだでは、問題にならないのかというと、そんなことはありません。消極的攻撃性は、人間関係においてとても有害なもので、実際、日本人にも、これを常套手段とするひともいれば、これを滅多に使わないひとも多いです。社会において、これを使う人の割合が、日本ではアメリカと比べてずっと高い、ということであり、これを普段使わない日本人は、たくさんいます。

 さて、消極的攻撃性とは、具体的に、どういった行為でしょうか。これは、本当にいろいろな例があります。

 たとえば、あなたが誰かに用があって、メールをします。しかし、相手は、あなたに怒りを抱いていたり、あるいはその要件に不満があります。ここで、適切なのは、その不満について、返信のメールにおいて、適切にあなたに伝えることですが、消極的攻撃性のある人は、あなたへの返信を怠ったり、ものすごく日を置いて返信したり、あなたが挙げた重要な要件については何も触れずに別の内容で返信してきたりします。それであなたは気になるので、何気なくどうしたのか聞いてみると、「ごめん、携帯が壊れちゃってて」、とか、「コンピュータがウイルスに感染しちゃって」、とか、「すごく忙しくってすっかり忘れちゃってたんだ、ごめんねぇ」、と言った反応をするわけです。でもあなたとしたら、「へぇ、1週間も携帯壊れてたんだ」とか、「1週間、インターネット使えるところはどこにもなかったんだ?」と、疑問に思うわけです。疑問というよりも、相手が嘘をついていて、不満を間接的に表現しているのだと、普通にわかるわけです。

 同様に、いくら電話しても電話に出なかったり、期限の迫っているプロジェクトで、協力が不可欠であるのに、いろいろと非協力的だったり、という表現もあります。

 これよりかはいくらかましなもので、直接不満を言葉にする代わりに、間接的に相手を批判する、という場合もあります。たとえば、あなたが、他の4人の同期の人と、ひとりの上司と一緒に、小さな部署で働いていて、その上司があなた達にそれぞれ提出するように言っていた書類があり、あなた一人だけまだ提出していないとします。このとき、上司はまだあなたが提出していないことに不満があるのですが、それをあなたに直接いう代わりに、みんながいるところで、「皆さん、タイムリーに提出してくれてありがとう。助かるよ」、と言ったりします。これはあなたにとっては、結構じわじわくるものですが、相手としては、あなたに直接立ち向かうよりも楽なのです。それでいて、自分の不満も表現できるので、ストレスもたまりません。

 嫌煙家のひとが、無作法に喫煙する人の横で、その人に注意するかわりに、ゴホゴホと大きな咳をし始めます。

 遅刻の多い部下に不満のある上司が、その部下に注意する代わりに、その人の前で、他の皆を褒めはじめます。

 などなど、枚挙に暇がありませんが、このように、消極的攻撃性は、日本社会に溢れています。

 気になった方も多いかと思いますが、消極的攻撃性は、必ずしも悪いわけではなく、特に後者の例(間接的に言葉にして伝える)などは、場合によっては、その問題の相手を直接責めることを避けつつ、その問題について汲み取ってもらう、という良い意図が存在することもあるからです。上司は、部下を傷つけることなく、間接的に、フィードバックを与えているのかもしれません。

 喫煙家の前でゴホゴホと咳をしはじめる嫌煙家においても、ダイレクトに注意するのが現実的に困難であったり、危険であったりする場合、このようにでも表現することで、相手に自分の意図が伝わり、ストレスがたまることもなく、これが最善の選択、ということもありえます(ところで、この例は、消極的攻撃性のなかでも、一番消極的でない、直接的な攻撃性に近いもので、割とダイレクトなコミュニケーションともいえます)。

 また、前者の例でも、メールの送信を始める側に問題があり、たとえば、そのプロジェクトそのものが、間違ったことであったりして、しかし、力関係により、相手はダイレクトに反対はできないため、せめてもの抵抗として、また、それ以外に選択肢がないゆえに、しかたなく、返信を遅らせたり、怠ったりしている、というシナリオもありえます。

 つまり、消極的攻撃性は、場合によっては、必要悪であったり、ある種の好ましくない状況下で最善の選択であったりもするわけです。どんなに健全な人格の持ち主で、公平でオープンなコミュニケーションを好むひとでも、たまにこうした手段を使わざるを得ない事態は存在します。

 問題は、先にも述べたように、消極的攻撃性を、その人の人間関係の常套手段として使う人たちです。消極的攻撃性は、本人はそのようにして怒りを出しているので良いですが、それをされた相手はとても嫌な気持ちになるし、傷つきます。それはフェアでなく、気分の悪いものだからです。

 そして、この最大の問題点は、消極的攻撃的である人は、他者とのきちんとしたコンタクトを取れないひとである、ということです。

 どんな人間関係においても、気まずい局面、難しい対峙、というのは存在します。しかし私たちは、こうした難しい局面において、自分の気持ちに向き合い、相手ときちんと向き合って、互いに正直に話し合うことで、衝突はあるかもしれませんが、その結果、さらなる相互理解ができて、人間関係が深まります。

 ダイレクトなコンタクトは、相手と親密になることです。

 つまり、消極的攻撃的なひとは、他者と親密になることができません。きちんと他者と繋がれないのです。何しろ、他者とのコンタクトを回避しているわけですから。また、周りは、自分のことを相手が避けながら、悪意のあることをしているのが良く分かるので、とても嫌な気持ちになり、周りもその人を避けるようになります。また、周りは、その人が何かで怒っていたり、不満があるところまでは分かるものの、コミュニケーションを回避されているため、その人が実際に何を考えているのか分かりません。相互理解の断絶、悪循環です。

 お分かりのように、消極的攻撃性は、ある意味非常に効果的です。怒りや不満を表現し、相手をコントロールしたり、自分の思い通りにしつつ、口論や話し合いといった、面倒くさいことを避けられるわけですから、当人は、たいしてストレスもたまりません。実際、社会的にとても成功していて、消極的攻撃的なひとはたくさんいます。

 しかし、こういう人たちは、多くの人にとって、まず一緒に働きたくない人たちです。

 まとめますと、消極的攻撃性は、その程度問題であり、使用頻度の問題です。また、これは対人関係における癖のようなものです。それがゴールを達成することにおいて効果的であれば、その行動パターンは、強化されます。そのため、なかなか見えにくくなっているかもしれません。

 しかし、今のあなたの人間関係を見つめてみて、なんだかよく分からないけどこじれているところがある、何かが気持ち悪い、と思ったら、この消極的攻撃性の存在の可能性について考えてみてください。あなたがしているかもしれないし、相手がしているかもしれないし、お互いにしているかもしれません。

 それに気づいたら、どのようにして、より素直に、自分の気持ちを相手に伝えられるか、その方法を模索して、試していきましょう。また、相手が、あなたに直接気持ちを伝えることに難しさを感じているかもしれません。思い当たるふしがあれば、少し踏み込んで、その人と話してみましょう。何か気になっていることはないか、実は困っていることはないか、上手に、でもストレートに、聞いてみましょう。そのような試行錯誤のなかで、その人間関係は、少しずつ、良くなっていくことでしょう。


 (脚注1)正確には、Passive (消極的)の反義語は、Active(積極的、活発な)です。日本では、アグレッシブという言葉が、「もっとアグレッシブにならないと」とか、「アグレッシブに仕事に取り組む」などと、「アグレッシブ=積極的」というような、ポジティブなニュアンスで使われていますが、これは和製英語であり、あなたがアメリカ人と会話するときにこの言葉を使うのは注意が必要です。たとえば、「僕は積極的な女性が好きなんだ」、というときに、"I like agressive women"などというと、相手はびっくりするかもしれません。これは、アメリカ人には、「僕は攻撃的な女が好きなんだ」という風に聞こえます。積極的、であれば、"assertive," "proactive"などが適切ですし、また、"active"(活発な)も使えます。しかし、Aggressiveではありません。もちろんこれは文脈にもより、本当に引っ込み思案で消極的であることで、職にありつけない仲の良い友達を叱咤激励するときに、「もっとアグレッシブにいけ」"Be more aggressive”などのようには普通に使われます。つまり、アグレッシブという言葉は、英語圏では、あまりポジティブな意味合いでは使われません。ところでpassive aggressiveは「受動的攻撃性」とも訳されますが、「消極的攻撃性」のほうがこの言葉の持つニュアンスや面白さを良く表しているので私はこのように呼んでいます。

もうひとつ余談ですが、Naive(ナイーブ)という英語(語源はフランス語ですが)も、日本では、どちらかというと、ポジティブな意味合いで使われていますが、これは誰かを褒めたいときには絶対使うべきではありません。和製英語のナイーブは、「素朴な」とか、「素直な」というような良い響きがありますが、英語Naiveは、「世間知らずの」、「無知な」、「騙されやすい」という意味であり、誰かを批判するときに使われるものです。

さらに関係ない話ですが・・・Naim(ナイーム)とは、ヘブライ語で、「心地よい」という意味で、Lo Naim(ロ ナイーム)は、「不快感な」、「居心地の悪い」、という意味です。Loは、ヘブライ語で、No(ちなみにYesはKenです)、つまり、「ない」+「心地よい」=「居心地よくない」(Lo Naim)ということになります。

(脚注2)これはどこか、日本語の「腋臭(わきが)」に該当する言葉が英語には見当たらないのと似ています。日本人のあいだでは、わきがである人は少数派であるため、気を付けないと、人目を引くもので、そのため、この症状に、名前があるわけですが、西洋では、腋臭のひとが、そうでない人よりもずっと多いため、このような言葉自体が必要ないのです。


差別意識と反動形成 (Prejudice, Discrimination, & Reaction Formation)

2014-04-14 | プチ精神分析学/精神力動学

 最近、どこかの小学校の入学式で新しいクラスの記念写真撮影時に、その学校の校長先生の判断で、ダウン症を持つ男の子が、その集合から外された写真と含まれたものと、二通り撮影されていた、というにわかに信じがたいようなニュースがありました。

 この校長先生の言い分は、男の子の母親が、どこか躊躇するように見えたから、「それでしたら、お子様を入れた写真と、除いた写真と、二通り撮影するのはどうでしょう」、と提案したのだ、ということと、ほかのお母さんのなかから、この男の子が入学することに不安の声があった、というものでしたが、この記事を読んで、私は何とも言えない不快感と悲しみを感じました。

 この男の子のお母さんは、大事な息子が、小学校入学式という、親子にとって大切な一場面で、障害がある、ということで、皆から外されて撮影されたことで、どのような気持であったかを思うと、本当に心が痛みます。小学校入学までに、本当にいろいろなご苦労があったと思うのです。そして、待ちに待った小学校入学式、というときに、このような経験をされたわけです。

 記事を読む限り、この校長先生には、まったく悪気はなかったようで、私は却って恐ろしくなりました。この校長先生には、男の子と、男の子のお母さんに対する共感性が、全くなかったのです。

 躊躇していたように見える、というのは、彼のなかにあった、彼が認めたくない、或は自覚できていない差別意識の投影です。校長先生は、自分のなかにあった躊躇を、お母さんに投影して、お母さんのなかに見ていたのでしょう。確かにこのような場で、自分の子供だけダウン症を抱えている、ということで、お母さんは、自然に不安になるでしょう。でもこれは、自分の大切な子供が受け入れてもらえるかという不安です。実際お母さんは、このような対応に、悲しみ、失望しておられました。

 彼は、一見お母さんを見ているようで、まったく見ていません。お母さんの中に、自分自身の受け入れがたいものを見ていたのです。

 ここで校長先生という立場の人間がすべきであったのは、お母さん、大丈夫ですよ、これから力を合わせてみんなで一緒にやっていきましょう、という受け入れの姿勢です。障害を超えて、みんなで一緒にやっていく、という、受容です。もし彼にこの親子に対する共感があれば、そのように振る舞っていたことでしょう。そういう、お母さんもお子様も安心できる雰囲気を作り出すのが学校のリーダーの役目だと私は思うのですが、彼がしたことは、残念ながら、その真逆のことでした。あなたの子は、他のことは違う、という、排他的で、拒絶的なメッセージです。

 この校長先生は、このように人目を引くようなできごとに発展したのは今回が初めてだったかもしれませんが、過去にも何度となく、こうした無自覚の差別意識でひとを傷つけることはたくさんあったと思います。人の、とっさの行動には、その人の人柄や人格がよく出るものです。これが単発で唯一のうっかりミスだとは思いません。

 私は、彼の差別意識を批判しているのではありません。差別意識に対する無自覚さです。

 差別意識は、誰にでもあります。差別、というと強い響きかもしれません。ほとんど生理的な苦手意識や偏見、といえるかもしれません(脚注1)。

 しかし、教育者として大切なのは、そうした、自分の差別意識に自覚をもつ、ということです。まず自分の問題に向き合うことです。自分と向き合えない人間が、他人ときちんと向き合えることはありません。しっかりした自覚ができていれば、細心の注意をもって行動できるので、抑制も効き、このように他者を傷つけることは防げるし、また、最低限にとどめられます。

 問題は、そうした自分の「汚い部分」、「見たくない部分」から目を背け、それを覆いかぶせるように、良く振る舞おうとするところから始まります。そのようにして、自分から切り離され、ほとんど無意識に葬られたものは、このようにして、その人を、思わぬところで捕えます。あるいは、鬱や不安、体の不調などといった形で表れてきたりします。

 このように、自分の本来の気持ちを無視したり、否定したりして、その真逆の行動にでるこのこころの防衛機制を、精神分析学では、反動形成(Reaction-formation)といいます。「受け入れたくない自分」を意識するのは、こころにとって、不快であったり、脅威であったりするため、ひとはそこから目を背けたり、また、そうしたものを克服しようと、その気持ちとは正反対のことをします。

 誰かに怒りを感じている人が、自分の怒りという感情が受け入れがたいため、それを押し殺すかのように、却ってその相手に優しくする、というようなものです。

 悲しいことに、このように無理をして、体を壊したり、鬱や不安障害に陥るひとは、日本にはたくさんいます。周りとの調和、ハーモニーを重んじる文化的、社会的な背景もあるでしょう。そして、多くの人は、正しくありたい、公平でありたい、ポジティブでありたい、という、善意や、良い意図に基づいて、このように振る舞います。おそらくこの校長先生も、彼なりの善意であったのでしょう。防衛機制ですので、無意識に行っていることです。

 私が提案することは、自分のあらゆる感情において、きちんと自覚を持つということです。

 その感情が嫌なもの、受け入れがたいものであったり、克服したいものであれば、なおさら自覚は大切です。

 自分の見たくない感情に向き合って、それで正しい行動に努めることと、そこから目を背けて、ポジティブに振る舞おうとするのでは、一見同じ行動のようでも、その質も、その人が向っている方向も、まるで違います。

 自覚して、なお、正しく、公平に振る舞うひとは、自分の難しい気持ちに向き合った上での行動であるため、そこに不自然なものはなく、また、こうしているうちに、実際に、その対象に対するネガティブなものは、減少していきます。なぜなら、人の、「好き、嫌い」は、絶対的なものではなく、それ自体が、たいていにおいて、我々がもともと自分のなかにあった、受け入れがたいものを、自己から排除して、その対象に投影しているものだからです。つまり、その対象を真に受け入れられるようになる、ということは、そのまま、その人の更なる自己理解、自己受容、人間としての成長へと繋がっていくのです。

 一方、そこから目を背けて正しくあろうとする人は、周りから見ると、その態度がどこか不自然であったり、そこに何か苛立ちや偽善を感じたりします。また、そのように「臭いものに蓋」をして、いつまでも向き合わないので、無意識においやられたその感情は、いつまでもそのはけ口を求めて、その人をサボタージュします。意識は低いままですし、視野も広がらず、成長も望めません。

 今回のできごとを機に、この校長先生が、今まで知らなかった自身の差別意識に自覚をもって、それにきちんと向き合いながら、その生徒とお母さんを含めた、いろいろな個性、違いを持った子供たちと、その親御さんと、交流を続けていくことを願っています。そして、これは本当に悲しいできごとですが、これを機に、教育現場における、社会における差別意識について、また、障害をもつ子供たちが、どのように、みんなと一緒に、自分らしく、生きていけるのか、皆で考えることが増えていったらと思いました。

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脚注1) 差別(Discrimination)と、偏見(Prejudice)と、ステレオタイプ(Stereotype)は、それぞれが関係した概念ですが、心理学的、社会学的にいう、厳密な違いは、差別が、行動(Behavior)を伴うことに対し、偏見は、(負の)感情(Emotion)という、その人の内面の問題で、それが必ずしも行動にでるとは限りません。そして、ステレオタイプは、その対象に対する、固定観念、偏った考え(Thoughts)であり、そこに負の感情(Prejudice)が必ずしも存在するわけではありません。たとえば、「中国人客は成金」というのはステレオタイプですが、「中国人客は成金で、買い物マナーが悪く、嫌な客だ」というのは、偏見で、「中国人客は成金で買い物マナーもなっていないし、接客したくないし、ぞんざいに対応している」、というのが、差別です。マナーの良い、礼儀正しい中国人客はたくさんいるわけですが、こうしたステレオタイプが悪感情を引き起こし、すべての中国客に対する差別へとつながるわけです。もっとも、お分かりのように、ステレオタイプは偏見を招き、偏見は差別に繋がるわけで、これはあくまで便宜定な分類です。