興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学者黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

自分を他人と比べる心理: 社会比較理論 (Social Comparison Theory)

2014-03-04 | プチ社会心理学

 人は本質的に社会的存在であり、その社会的な環境においてうまく生きていくために、自分の能力、才能、実力、容姿、社会的ステイタス、経済状況などを、正確に評価しようとする傾向にあります。しかしひとは、何しろ社会的存在、そうした自分の立ち位置がどのあたりなのか、一人ではわかりません。たとえば、フィギュアスケートの上手な10歳のナナちゃんは、なぜ自分が上手であるのか知っているかというと、同じスケートのクラスの同年代のこの中で一番できるからです。でもナナちゃんは、自分が世界一でないことも良く知っています。浅田真央さんにあこがれてスケートを始めたわけで、自分にはできないことを、真央さんはやっています。さて、このように、人は自分と何かしら共通点のある他者と自分を比べて自分を評価するわけですが、これを最初に理論として提案したのは、レオン・フェスティンガー(Leon Festinger)というアメリカの心理学者です。これは今や古典的な理論ですが、現在でも有益なもので、またその基本は理解しやすく日常生活にも応用しやすいので、今回は、Takaさんから頂いた質問がきっかけで、書いてみることにしました。

 さて、「何かしら共通点のある他者」と言いましたのは、自分の何らかの属性を他者と比べるときに、有効な比較対象が必要です。たとえば、ナナちゃんは、自分と同年代のフィギュアスケートの選手と自分を比べたり、浅田真央選手と比べたりしますが、たとえば、プロ野球のダルビッシュ選手の投球と自分のスケートのどちらが優れているかとか、同学年のサッカー選手とどちらがすごいか、などと比べるのはやや無理があります(脚注1)。やはり、自分と何か同じことをしている誰かと比べるほうがしっくりきます。

 さて、ひとは自分を基準にして、他人と比べるわけですが、ナナちゃんの例にみられるように、人は2つの異なった比較を行います。ナナちゃんが、同年代の自分よりも劣る選手と自分を比べることを、下方社会的比較(Downward social comparison)といい、自分よりも優れている浅田選手と比べることを、上方社会的比較(Upward social comparison)といいます。ナナちゃんは、自分と同年代の子たちを比べることで、自分は人よりも優れているのだという優越感を感じ、また、浅田選手と比べて、一種の劣等感を感じ、もっとがんばろうと思います。ナナちゃんは優しくて健全な精神の持ち主なので、優越感を表に出すこともしないし、オリンピック選手と自分を比較して落ち込むこともありません。しかし、望ましいセルフイメージを保ちながら、向上心を持って練習していくために、ナナちゃんには両方の比較が必要なのです。

 ところで、ひとは、自分の置かれた状況や精神状態によっても、比較の方向が異なることが知られています。何らかの状況下で、自尊心が脅かされるようなときには、ひとは自分よりも良くないところにいる人と比べて精神の安定を図ります。リストラの対象になりそうな人が、ホームレスの人と自分を比べて、「大丈夫だ。まだ貯金だってあるし、家賃もしばらくは払える。あの人と比べたら自分は恵まれている」、と言い聞かせて安心したりします。

 逆に、安定した状況で、自己評価も高いひとは、より良くなりたいと思い、自分よりも良いところにいる人と自分を比較する傾向があります。恋人との関係が良好で、信頼関係が深まりながら1年が過ぎた人が、仲の良い友達で、最近婚約した人を見て、「いいな。私たちもがんばろう」、と前向きな気持ちになったりします。営業に携わるビジネスパーソンが、自分の成績がトップ3であり、向上心に燃えているときに見るのは自分より上にいる2人であり、自分よりも成績の良くない人とはあまり比べません。しかし、この人の成績が真ん中より少し下ぐらいになってしまったら、自分よりも下にいる人と比べて自尊心を守るかもしれません。

 まとめますと、人は心が安定していてそれなりの充足感があるときに、自己向上(Self-improvement)の欲求が強く、上方社会的比較によって、自分のモデルとなる人を見つけて、その人のようになろうとします。逆に、心が不安定で、自尊心が傷ついている状況だと、自己高揚(Self-enhancement)の欲求が高まり、下方社会的比較をして、傷ついた自尊心の修復、改善を図ります。このように、人は多かれ少なかれ、人と自分を比較する存在なのですが、問題は、比較手段がこのどちらかに偏っている場合です(脚注1)。比較手段が下方比較に偏っている人は、下の人と比べて満足してしまい、向上心も湧かないし、人生の幅は広がりません。また、下方比較にばかり依存する人は、無意識的に避けている、低い自己評価に挑む機会もないため、成長することも難しいです。

 逆に、自分に過度に厳しく、自己批判性の強いひとは、それが不適応である状況でも、常に上方比較をし、「自分はなんて駄目なんだろう」、と落ち込んだり、慢性的な鬱感情に悩まされたりします。つまり、大事なのは、そのバランスです。他人と自分をむやみに比較することはよくありませんが、もしあなたがひどく落ち込んでいることに気づいたら、自分が知らずのうちに上方比較をしていないか注意してみたり、ときには、自分よりも良くないところにいる人と比べてみるのも良いかもしれません。その人と自分の成功を願いながら。


 (脚注1)もちろんここでナナちゃんは、自分はまだプロじゃないけど、ダルビッシュ選手はプロとして活躍している。すごい。かっこいい。私もがんばろう!と思うかもしれません。また、ダルビッシュと自分の社会的ステイタス、経済状況など、別の分野によって上方比較が起こることもありえます。

(脚注2)たとえば、自己愛の強い人は、自分が他者よりも優れていると思いたいため、下方比較が防衛機制として常習化し、この防衛機制としての下方比較が利かなくなり、上方比較が避けられなくなると、ものすごい怒りを経験したり(自己愛憤怒、Narcissistic rage)、ひどい落ち込みを経験します。自己愛性人格障害のひとたちが、常に他者を見下したり罵倒したりするのもこのためです。

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自己証明理論(Self Verification Theory)

2012-04-28 | プチ社会心理学

 今回はひさびさに社会心理学(Social psychology)の分野です(ここのブログは無駄にカテゴリーばかり多く実際の記事は臨床心理学と精神分析学と戯言にばかり偏っている気がしてなりません)。さて、以前にも述べた気がするのですが、社会心理学とは、人間の感情、思考、行動が、社会的刺激によってどう影響されるかについて研究する行動科学です。しかも今回はその名も自己証明理論、意味深長な響きですね?

 自己証明理論(Self Varification Theory)は、1980年代にSwann氏などによって研究されたもので、我々人間が、いかに自己概念に対する証明を必要とし、求めているかについての理論で、ここで興味深いのは、その自己概念がポジティブなものであれ、ネガティブなものであれ、人はその自己概念の証明を希求する傾向にある、ということです。別の言い方をすると、人は幸福である以上に正しいことを好む、ということがいえます。たとえば、太っていて、それを認識している人が、誰かに「全然太ってないじゃん」などと言われるよりも、「確かに太ってるね」と言われたほうがずっとしっくり来ることや、胸が小さいことを気にしている女性が、「そんなことないよ、大きいと思うよ」と言われるより、「そうだね、小さいかも知れないね」と言われたほうがしっくり来ることや、英語が苦手で気にしている人が「君の英語はとても良いね」と言われるより、「確かに改善しないとね」と言われたほうが気分はまし、というようなもので、これは、よく巷で言われる、人は自分が聞きたいポジティブな発言だけ受け取る、という考えには相反するものですね。

 この理論はさらに、我々はよく、自己概念を証明してくれる他者との交流を無意識のうちに求め、逆に、その自己概念に反したり、証明を与えない誰かとの交流を避ける、ということも示唆しています。これはドラえもんを見ていても分かりますが、のび太くんは、散々いじめられつつも、スネ夫くんやジャイアンと時間を過ごしますよね、出来杉くんと時間を過ごす代わりに。傍から見たら、のび太くんの自己評価を常に貶める人間関係で、出来杉くんと居たらそんなことはなかろうに、彼らは一緒にいますよね。なぜでしょう。それは、(もちろんいろいろな意味がありますが)ひとつに、スネ夫くん、ジャイアンが、のび太くんの「まるで駄目だ」という自己概念を証明してくれる存在だからといえるでしょう。スネ夫くんも、「自分はお金持ち」という自己概念を彼らによって証明してもらっているし、ジャイアンも、「自分はガキ大将」という自己概念を常にその人間関係で証明してもらっています。一方、出来杉くんといたら、その人間関係において、彼らはそれらを証明してもらえないので(出来杉くんにとっては彼らのそのような自己概念はあまり関係のないことです。相手が誰だろうと、彼は同じように普通に接します)ついつい避けてしまうわけです。

 学生時代、派手な子が派手な子達と集い、静かな子は静かな子達と集い、不良は不良達と集っていたでしょう。その人間関係で、その子の自己概念が、どんなものであれ、常に立証、証明されていたからです。これは、人が社会に出てからの人間関係にも見られるし、結婚関係にも見られます。これが、良い結婚関係の場合、互いのポジティブな部分の自己概念が常に証明されるもので、それぞれ幸せなのですが、逆にDVなどのある、虐待的な夫婦関係、また、どちらかがどちらかを軽蔑して蔑むような夫婦関係で、そのネガティブな部分の自己概念が常に証明される故、それが非常に苦痛であるのになかなか終わらない、ということもあります。

 これは、鬱病の人がその鬱をしばしば永続化させてしまうその人間関係においても知られています(Joiner, Katz, & Lew, 1997)。ある研究結果によると、鬱の人は、鬱でない人に比べ、無意識のうちに、自分に対してネガティブなことを言う人を求め、ゆえに拒絶の経験も多くなっている、ということです。さらに、そのようにして経験した負の発言、拒絶などは、その人たちの鬱をさらに悪化させます。恐ろしいことです。しかし、これは逆に、もし我々がこの人間の社会的傾向をよく認識していたら、鬱状態のときに、まずい人との交流を避けて、鬱の悪化を防ぐことにも役立つといえるでしょう。

 今の人間関係にとても満足している方は良いのですが、もしそこに何か不満があるのならば、(自己証明理論ゆえに)最初はあまり居心地がよくはなくても、新しい人間関係や、あまり普段時間を過ごしていない人との交流など、試してみるといいかもしれません。なにしろ、自己概念そのものが、我々がその幼少期や、以前の人間関係や人生経験によって作り上げた、実は実体のないファンタジーに過ぎないのですから。実体のないファンタジーなので、人はそれを常に補強してくれる相手と一緒にいるのです。

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囚人のジレンマ (prisoner's Dilemma)

2011-04-23 | プチ社会心理学

私達人間は、集団社会(家族から学校から職場に至るすべての集団、夫婦やカップルなどの二人関係を含む)において、その個人は言動によって互いに影響を与え合っていて、つまり私達は、本質的に、相互依存関係(Inder-dependent relationship)であるといえます。この相互依存関係において、自分に利益をもたらす行為が同時に他者に利益をもたらす場合もあれば、逆に他者に損害を及ぼす状況もあります。

例えばあなたがあるお友達の家に行ったらその人のコンピュータのインターネットが繋がらず、たまたまあなたがその直し方を知っていたために直してあげた。これは、あなたの行動がその友人の利益になるわけだけれど、実はあなたもインターネットが使いたかったわけで、それがあなたの利益にもなった、というのが前者の例です。

逆に、たとえば飲用水のペットボトルをある人たちが買い占めることによって、それ以外の人たちがそのペットボトルにありつけない状況が後者の例にあたります。

専門的には、前者の例を「協力的状況」、後者の例を「競争的状況」などと呼ばれますが、興味深いことに、この世の中には、二人関係、集団関係において、上に挙げたどちらの状況も当てはまらない、という状況がしばしば存在します。そういう状況を、ゲーム理論においては"Non-zero-sum game"(「非ゼロ和ゲーム」)と呼ばれ、(逆にZero-sum gameとは、これは、あなたの利益が即他者の損失となるゲームで、つまり、どちらかの利益ともう一方の損失の和が0になるゲームです)、協力することも競争することも考えられる状況です。

毎度のこと、前置きがだいぶ長くなりましたが、この非ゼロ和ゲームの代表的なものに、「囚人のジレンマ」(prisoner's dilemma)というものがあります。これは協調、競争の研究において最も研究されてきたゲームのひとつなので、以下のようになります。

これは基本的に、二人関係においての協調、競争を観察するゲームで、ここでは二人の参加者は、二人の囚人という役を受けます。さて、この二人の囚人は、刑事から尋問を受けることになるのですが、ここで彼らにはふたつの選択肢-自白するか、黙認するか-が与えられます。さて、ここからが重要なのですが、このゲームにおいて、1)もし二人とも黙秘を守れば、それぞれがごく瑣末な罰をうけることになります。2)もしひとりが自白して、もう一方が自白しなかった場合、自白した人は釈放され、自白しなかったひとが大きな罰を受けることになります。さらに、3)もし両者とも自白した場合、両者とも、大きな罰を受ける、ということになります。

このゲームで最善の戦略はもちろん、それぞれが黙秘すること、つまり協調、協力することなのですが、興味深いことに、参加者の多くはいずれにしても競争すること、つまり、自白することを選びます。自白して、他者が重罰を受ける代わりに自分は釈放される、というシナリオです。そして両者が同じように競争することを選ぶので、両者とも重罰を受けることになります。

この実験から分かるのは、人は基本的に競争する傾向にある、ということです。これは前述したように、とくにその状況が、競争も協調もあり得る、曖昧な状況下においてです。逆にいうと、協調したほうが明らかに賢明な場合、競争することが明らかに賢明な場合、以外の状況です。競争するか協調するかは、その人たちが置かれている状況や立場や性格も大きく作用するわけで、たとえば、被験者が、非常に仲の良い、互いに労わりあう高齢者の母親と娘だったりしたら、彼らが黙秘を通す確率は非常に高くなるし、逆に被験者が、破局寸前で、毎日喧嘩をしていて、互いに憎しみ合っているカップルだとしたら、それぞれが自白する傾向もぐんと高くなることが考えられますが、これらの極端な状況は別として、人はその性質として、競争する傾向にある、ということです。競争することが他人に有害であるばかりか、自分にとっても有害になる可能性が高い場合にも、です。

この事実をあまり好ましく思わなかったり、受け入れがたく思ったりする方もいると思われますので、以下は蛇足になりますが、大事なのは、脳にプログラムされた人間本来の性質を自覚したうえで、いかにその状況ごとに最善の選択をしていくか、ということだと思います。もともと自分が持っている傾向を否定して反動形成的に利他的に動く人と、それを受け入れた上で、状況を把握したうえで、利他的に動くことを選ぶ人とでは、やはりその意味も違ってきますし、逆説的に、後者の場合のほうが、その利他性、協調が、本当の意味で他者の利益になる可能性も高くなります。ところでこれは、小学校の運動会の徒競走で、勝ち負けが良くないとか負ける子がかわいそうだからと言って、彼らにみんなで手をつないでゴールインさせようとする「協調」と異なるのは、いうまでもないことだと思います。競争することが大切で、協調することが負になる状況というのも、やはり世の中にはたくさん存在するわけで、やはりその自覚と見極めが大事だと思います。

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halo effect (光背効果)

2011-04-16 | プチ社会心理学

 世の中、容姿や外見の良い人がいろいろなところで何かと得をしている、ということについて疑念を持つ方はあまりいないと思います。あなた自身がそういう経験を実感しているかもしれないし、あなたの身近にいる人、たとえば親、きょうだい、親しい友人、恋人、配偶者が、そのように何かと「得」をしているのをしばしば見ているかもしれません。いずれにしても、「『見かけ』の良い人が社会的に有利」だということは、誰もが感覚的に知っていることだと思います。ところで直前の文で、『見かけ』と鍵括弧付きで書いたのは、見かけがイコール生まれつきの容姿とは限らないからです。ただ、仕事の面接などで、「第一印象が大事」というのは科学的にも根拠のあるもので、それゆえ人は大事な用事のときに外見に気を配ります。さらには、見かけだけではなく、学校で、成績の良い生徒が、成績がよいというだけで、それ以外の点、たとえば、性格や、行動面などでも、教師からポジティブに評価される傾向にある、ということについては誰もがご存知だと思います。

 さて、容姿や見かけについては、上記と正反対のことも事実であること、つまり、容姿や外見のよくない人が、何かと損をしていたり、社会的に不利だったりすることについても、疑念を持つ人は少なくないと思います。たとえば、太っている人がやせているひとに対して、ネガティブなイメージを受けやすかったり、中高年の女性が、若い女性よりも不利に扱われたり、秋葉系の男性が、そうでない男性と比べて何かと損をしていたり、喫煙者が非喫煙者に比べて、煙草を吸っている、というだけのことで、それ以外の点で偏見を受けたりして損をする傾向にあるのもご存知の方は多いと思います(これは超嫌煙地域カリフォルニア州では火を見るより明らかなことだけれど、近年嫌煙傾向が強くなってきている日本でもよく見られるようになってきている印象があります)。前の段落で、成績の良い生徒について述べましたが、成績の悪い生徒が、性格や行動面でも、教師から不当にネガティブな評価を受けやすいこともよく知られていますね。

 前置きがだいぶ長くなりましたが、これは社会心理学(或いは認知心理学)においては、「光背効果」(Halo effect)と呼ばれるものです。光景とは、聖像などの後ろに見られるあの光の輪です。わーっと背後からその人物を照らす光です。つまり、他者がある点においてポジティブな特徴(たとえば成績や能力や外見など)を持っていると、その評価が、その人の全体的な評価にまで広がってしまう、という手に汗握る恐ろしい傾向です。これは逆に、他者がある点においてネガティブな特徴(たとえば成績や能力や外見や喫煙など)を持っていると、その人全体の評価までがネガティブなものになってしまう、という手に汗握る恐ろしい傾向でもあります。そしてこの傾向は、好むと好まざるとに限らず、我々人間誰もが持っているもので、それはしばしば無意識的な選択や言動として現れていることがあります。

 これは社会における、明らかな差別や偏見の背後にあるものでもあるし、ずっと些細で当事者にしか分かりにくいけれど確かに存在する、という差別や偏見の根本でもあります。これは誰もが普段から「人間の性質」として十分に自覚している必要があるものですが、人を評価する立場にある人、たとえば教師、親、会社の上司などの立場にある人は、とくに注意が必要なものです。評価する側の人間は無意識的にしていることでも、評価される側の人間は、こういうことに敏感です。そこでこの二者の間でなんとなくネガティブな人間関係が展開して、それが複雑化する、ということもよくあります。人間が「完全にフェアに」誰かをありのままに見据えるのは難しいことですが(それが可能であるかも疑問です)この光背効果に気をつけることで、周りの人間が持っているいろいろな面を、バイアスなしに、あるいは少ないバイアスで、より正確に評価できるようになります。

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同調(Conformity)

2006-10-11 | プチ社会心理学

 同調(Conformity)とは、その個人が、集団や他者の持つ基準や価値観や期待などに沿って行動することで、 これは、職場、学校、家庭内をはじめとする、ありとあらゆる社会集団の中で見られる現象である。

ここで大切なのは、個人は、自分のものと対立する、集団内の他の人達の見解を受け入れるということで、 「集団圧力」の無いところでその人が同じ刺激に対して同じ判断、行動を取ることとは区別する必要がある。

例えば、日本では電車内で、携帯電話を使うこと(通話)は、四方八方からの集団圧力によって著しく制限されるもので、それはたとえ、個人がそこで携帯を使いたくても我慢せざるを得ない、目に見えない強固な圧力がそこに存在するわけだけれど、逆に、終電間際で、
周りにほとんど人のいない状況だと、その人は、大した迷いもなく携帯を使えたりする。

もし、ある人が、終電間際のがらがらに空いた車内では問題なく携帯電話を使えるのに、通常の時間帯は使いたくても使う気になれなかったとしたら、この人は、集団の価値観に沿って行動したわけで、これは「同調」と考えられる。

まさに、状況の力によって、個人の行動に影響がもたらされるわけだ。

同調に関する研究では、Asch(アッシュ)の実験が有名で、多少異なるけど、以下のような感じ。

それは、7人1組の集団において、「視覚実験」という名目で、3つの比較線分、例えば、

1)―――――
2)――――
3)――――――

の中から、標準線分 0)――――――
と同じ長さの線分を選ぶという課題を与えるもので、 このテストは、間違いの非常に少ない、分かりやすいものなのだけれど、実際は7人中6人がサクラで、6人が意図的に誤答を繰り返すと、全体として40%近い被験者の誤答が発生したという。

ちなみに、ニュートラルな状況での誤答率は、0.7%と、非常に易しい問題だったという。

(ちょっと分かりにくい説明ですね。この記事の例だと、 上の線分1~3の中で、0と同じ長さの線はどれかと問われて、正解は(3)と非常に簡単なのだけれど、 7人のグループで、6人のサクラが(1)と答えたのに影響されて、被験者も(1)と答えてしまう強い傾向がこの実験から確認された、ということです)

これは、集団の中の少数派が、多数派の集団圧力に屈した反応と考えられ、この実験を機に、同調に関する様々な研究が行われるようになった。

同調を誘発する集団の特徴として、集団としてのまとまりが強いこと、つまり、集団としての目的があり、集団や、情報源に魅力があり、また、集団内一致とが高いことがある。逆に、集団内の多数派の全員一致度が崩れると、同調率も大幅に低下することが知られている。

また、課題の重要性、あいまいさや、困難度などが増すに従って、同調率も高くなる。例えば、重要な会議において、重要な決議をしている時に、多数派の意見が明らかだと、少数派は意見が出しにくく、周りに同調しやすくなる。

個人的な要因としては、その人の自己の確信や自信が低下すると、同調は促進されるし、大きな失敗経験のある者は、同調しやすいと言われている。

逆に、パートナーの存在や、自分に対する社会的支持がある場合、同調は大幅に減少することも知られている。

さらに、興味深いのは、集団における地位が真ん中ぐらいの人間が、一番同調しやすく、これは、彼らにとって、 同調することによって得られるものと、同調しないことによって失うものが一番大きいからだと言われている。

社会的な生き物である人間において、同調することはサバイバルにおいて必要不可欠である。慣れない環境、例えば、新しい職場や、海外旅行などにおいて、 どう振舞っていいか分からないとき、まず、多くの人間のする適応手段は、周りを観察して周りの人間の振舞うように振舞うことである。

不確かな環境でうまくやっていくには、とりあえず、周りに同調するのが無難である。

言い換えると、人間は、様々な状況において、他者の言動や振る舞いから、様々な情報を得ている。 曖昧な状況下においては、とりわけ周りの人間からの情報は、そこでどう振舞うべきかの大きなヒントとなる。

例えば、競馬をやったことのない人間が、競馬場に行って、周りのほとんどが同じ馬に掛けていたら、とりあえず、自分も同じ馬にかけるのではないだろうか。全然違う馬にかけた時のリスクが大きいのは、容易に予想できるだろう。

また、人間は、元来、他者に受け入れられたい存在である。人は周りに同調することで受け入れられることや、逆に、自分の所属する集団で周りと同調しないことから来る居心地の悪さや、拒絶などは、多くの人が、経験的に知っていることだと思う。

混んでいる電車内で携帯で通話した時に、自分がどのような心境になるかを想像してみると、いかに社会が同調によって成り立っているかがわかると思う。

このように、同調することは、人間が生きていくなかで、常に強化されている。

職場における、悪い風習がなかなか変わらなかったり、コミュニティーが低迷を続けていたり、社会が変わらなかったりすることの理由の一つに、この「同調」があるけれど、会社やコミュニティーや社会が円滑であるためにも同調は必要不可欠なわけで、良くも悪くも、人間は同調の束縛の中で生きている。

同調することは、適応能力でもあるけれど、 集団が誤った方向に同調する例は数知れず存在し、同調における問題点も非常に多いので、少なくとも、 無自覚に同調するのと、人間に同調する傾向があることを自覚した上での同調との間には、大きな差があるように思う。


(参考文献:有斐閣 心理学辞典)

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利他的行動(Altruistic Behavior)についての考察

2006-09-06 | プチ社会心理学

「良い牧者は羊のために命を捨てます」
          ~ヨハネの福音書10:11



先日「愛」について書いたけれど、そこで問題に
なってきたのは「自己犠牲の愛」についてでしたね。
これは、「利他主義」「他愛主義」といった、
一般的に、「利己主義」とは対極に位置するものと
考えられる概念であり、古くから利他的行動については
いろいろな議論が展開されてきました。

自己愛を超えて、無条件の愛によって
他者のために行動することは、人の人たる所以であるように
思います。実際、自己犠牲の愛は、映画や文学など、
様々な形で、人間の最も美しい姿として描かれています。

キリスト教徒が生涯を通して追求する、キリスト教的愛は、
先にも述べましたように、人間である限り到底不可能な、
真の自己犠牲の愛です。

自己犠牲の愛の源でもある、「利他的行動(Altuistic
Behavior)」は、実際、「他者の利益のために、外部から
の報酬などを期待しないで、自発的に取られる行為」と
定義されます。

利他的行動は、つまり、自分の都合よりも、他者の
幸福や状況を大切にするという価値観が、こころの
なかに内在化(internalized)されたことによって
起こる、一種の「向社会的行動」といえます。

さて、ここで問題になってくるのは、
「果たして全く自己愛の入っていない、100%
 無条件な、愛他性(利他性)は存在し得るのか」と
いうことになってきます。

個人的に、僕は、そうであって欲しいと思っています。
その可能性があることを信じたい人間の一人です。

ただ、残念ながら、現代の心理学においては、
そのような、完全な愛他性は、存在し得ないという
見解が主流です。あくまで一つの見解ですけど。

第一に、たとえ誰か「他者を助ける」という
行動をとったとしても、その行動をとった人間の動機が
利己的だったら、それは、「向社会的行為」では
あっても、「利他的行動」ではないわけです。

たとえば、そうですね、ある女性が歌舞伎町で
暴力団数名に絡まれているところを、ある男性が、
自らの危険を犯して救出するとします。でも、
もしこの男性に、実は「この女性と関係を持ちたい」という
動機が背景にあったら、これは、「向社会的行動」
ではあったとしても、「愛他的行動」ではないですね。

これは、ちょっと極端な例ですね、問題は、
もっと微妙なケースです。世の中には、実際多くのひとが、
赤の他人の命を救うために、自らの命を失っています。

線路に転落した酔っ払いを助けるために、自らも
線路に降り、その酔っ払いの身代わりになって、
ホームに入ってきた電車にはねられて亡くなった方もいます。

僕は、個人的に、この領域の自己犠牲の愛は、
本物だと思っています。こういう領域を分析する
必要もないんじゃないかと思います。

でも、心理学とはみもふたもない学問で、分析は
続きます。このように、自らの命を捨てて、誰かを
助ける人間も、その人は、自尊心や、誇りや、
自己満足といった報酬をこころのうちに受けるわけで、
そういう意味で、つまるところで「利他主義は利己主義に
起因する」ということになります。

さらに、「他愛性」という心の中に内在化された
価値観と一致した行動を取らないと、僕たちは、
罪の意識や、無能感などで、とても嫌な気分に
なったりします。これは一種の罰(Punishment)で
あり、結局のところ、「利他的行為」にしても、こうした
心の中に起こる罰を避けて、こころの報酬を受けるわけで、
そういう意味で、「利己的な行動」ともされます。

それとか、困っている人を見ると、自分もその人の痛みを
自分のことのように感じ、そんな自分の中に起こる
嫌な気分をなくしたいから、困っている人を助ける
ということもありますね。

以前、クラスでこの「他愛主義」についてディスカッション
があったとき、最近出産したあるクラスメイトが言いました。

「子供を生んで気付いたのは、子供を持つということ自体、
親の利己的なことなのよね」

これも、本当にみもふたもない話だけれど、子供を
生むという行為は、自分の遺伝子を次世代に残すという
本能が関係しているし、愛する人との子供が欲しいという
のは、確かに大人の都合ではあります。

そんなディスカッションが続く中で、ある生徒は
「真の利他主義」を主張していましたが、そのクラスの
教授がいいました。

「真の利他主義が有り得ないということの、何が問題なの?」

僕はこのとき、とても両義的な気持ちだったけれど、
その教授の発言に、あるところで救われた気がしました。

結局のところ、人間は、遺伝子や進化論の呪縛から
逃れることはできず、これは、キリスト教では、
「原罪」と呼ばれるものだけれども、それならば、
「人間は本質的に利己主義な存在」でいいじゃないか、
と思うようになりました。

利己主義な要素が、生まれたときから脳みそに
プログラムされて、その後の人生で、それは
強化されていくわけだけれど、だからこそ、そんな、
ある意味「自然の力に逆らった」他愛主義を追求していく
ところに、人間の素晴らしさがあるんじゃないかと
思うのです。それこそが人間性だと、最近よく思うんです。

昨日の夜、妻から電話があり、彼女は久しぶりに
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を読んだのだと教えて
くれました。読んだことある?と聞くので、
小学5年のときにその読書感想文書いて選ばれたと
答えると、「ね~なんて書いたの?」と聞いてきました。

少し考えて、思い出しました。カンパネルラはその夜、
友達の命を救うことと引き換えに、天に召されたけれど、
彼は幸せだったのか、小5の自分には答えが出なかった
のです。

「だけど、死んでも人は幸せなのでしょうか」

と、疑問を残して作文を締めくくったことだけ覚えています。

妻とそんな話をしていて、なんとなくだけど、
はっきりと解りました。カンパネルラは幸せだったんですね。

自分は妻のために命を捨てられたら、本当に幸せだと
思います。それができるかどうかは、そんな極限の状況に
なってみないとわからないけれど、自分のような偽善の
塊のような者に、そんなふうに思わせてくれる妻という人間が
いてくれることに、自分は本当に嬉しくなりました。

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Othering -他人化すること-

2006-09-04 | プチ社会心理学

近年のアメリカの社会科学の分野では、Other (他人)という名詞が動詞として使われるようになってきている。

これは、"Othering"という概念で、差別、偏見、ステレオタイプにおける理論に使われる(Otherはここでは便宜的に「他人化する」と訳しておく)。

差別と偏見のメカニズムにおいて、In-Group/Out-group Dynamism という理論があって、これは、「人間は自分が属しているグループ内の人達を、強い個性を持った一人一人と見るのに対し、自分達のグループの外にいる人はみんな同じに見える」という人間の認知の傾向について言っている。

学生時代、たとえば、中学や高校で、一つのクラス内はいろいろなグループに分かれる。自分が属していたグループのことを今でも鮮明に記憶している人も多いと思う。

ちょっと思い浮かべて頂きたい。あなたはどこにいただろう。あなたのグループにはいろいろな個性を持った人がいたと思う。個性派ぞろいで楽しい学校生活だったかもしれない。さて、他のグループっていくつかあったと思う。どうだろう、なんかどちらかというとみんな同じように見えなかっただろうか。

たとえば、バスケ部で固まっているグループがあったとする。彼らは、自分達のグループはみんな個性的だと認識し、お互いを「個人」としてみるけれど、自分達の所属していない、鉄道部とか写真部の人達の作ってるグループ(つまりバスケ部の立場からすると外のグループ)の人達が、みんな同じに見えたりする。「秋葉系」として、ほとんど無意識に一括りにしがちである。

これがIn-Group/Out-Group Dynamismの一つの例だ。実際には、鉄道研究部や写真部の人達だって彼らと同じくらい、もしくはそれ以上、一人一人個性的なはずなのだけれど、その個性は、一つの、大雑把な、「秋葉系」というカテゴリーで終わってしまう。このような、一般化の仕過ぎを「ステレオタイプ」というのだけれど、こういうことはどこででも起こり得るものだ。

人間の脳は、あらゆるものを分類・一般化して整理しておいて、その分類を、日常生活で出会うあらゆる情報のすばやい処理に使うのだけれど、ステレオタイプは、一般化が行き過ぎた形だと言われている。

このIn-Group/Out-Group Dynamismの最大の問題点は何かというと、この認知の過程で、人間はどこかへ所属していたいという本能があるのだけれど、その自分が所属するグループがよいものと信じたいので、そのために、他のグループを自分達より劣るものとしてみる傾向だ。

In-Groupのメンバーは、自分と何か同じ性質を共有している仲間としているのに対し、外のグループは、取るに足らない群集と見なしがちだ。これがOtheringの過程である。

他人化された人は、みんな同じに見える。個性が見られない。これをステレオタイプ呼ぶ。言うまでもないことだけど、このステレオタイプはたいていネガティブなもので、偏見へとつながってゆく。精神障害をもったひとを、「メンヘラ-」と一括りにする人が多いのもこの良い例だ。

この理論はもともと、アメリカの白人とそれ以外の民族や人種においてのものだった。アメリカ白人は、自分達のお互いの違いにはものすごく自覚があり、お互いの「個人」の「個性」をみとめて生活しているのだけれど、黒人とか、アジア人とか、ヒスパニックといったグループに属する人がみんな同じに見えてしまったりする。韓国人と日本人と中国人とタイ人は我々日本人から見れば全然違うけれど、彼らからはその違いが分かりにくく、「アジア人」でひとくくりになる。

逆に、日本にアメリカ人やイラン人や中国人がいたら、我々はとりあえず「外国人」と一括りにしたりする。それで、「アメリカ人はこうだ、イラン人はこうだ、中国人はこう」といった具合に、典型的な行動パターンや容姿で単純化してしまう。「日本人」というIn-Groupの外にいるOut-Groupの人達は皆同じようにみえる。

さて、話が大きくなってきたけれど、こういうことって私たちの日常生活でかなりよくあると思う。たとえば会社でも、仲のいい人達のグループってあるけれど、その外部の人がやたらと共通点の多い似たり寄ったりの人に見えたりする。ここに、他人化が起こっている。どうでもいい人。関係ない人。個性のない人。つまらない人。知らない人。

でも、このIn-Group/Out-Group Dynamismの構造の中で暮らしていたら、グループを出たところでの、深い人間関係や、新しい発見のチャンスを逃し続けることになる。自分のグループの外にいる人はみんな同じに見えるけど、「それは認知の問題だ」と自覚して、グループを超えた人との交流をしてみると、面白いことあるかもしれない。

マザーテレサが言っていたように、人間一人対一人の関係はとても大切だ。




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