今日の午後、自宅の仕事部屋でセッションの準備をしていると、一階から、5歳の息子が「パパーっ!!」と呼ぶ声がした。
自分はすかさず時計を見た。
次のセッションまで10分ほどある。息子が階段を上ってくる足音がする。きっと「パパ、あそぼう!」というだろうと思い、10分でどうやって彼を満足させようかと考えていたら、部屋のドアが開いた。
ところが扉の前に現れた息子は、両手で大事そうにお皿を持っていて、そのお皿の上には、小さなチョコバナナが載っていた。
「はい、これ、パパのおやつだよ」、とお皿を差し出すので、自分は驚いて、
「え、これ、Sが作ったの?」
と聞くと、
「そうだよ」
と、彼は得意そうに答えた。
「上手じゃん!よくできたね!おいしそうだね。これ本当にパパがもらっちゃっていいの?」
「うん」
「ありがとう!!パパ、すごいうれしいよ」
「パパ、しごとなんじにおわるの?」
「これが最後のセッションだから、5時だね」
すると彼は、
「え~、5じまでまてないよぉ」
と言いつつも、「またあとでね」と言って、すたすたと階段を下りていった。
自分は思わず何度も礼を言い、息子のうしろ姿はどこか誇らしげだった。
皆様、新年あけましておめでとうございます!
北陸大震災で被災された皆様、心よりお見舞い申し上げます。また、一日も早い復興をお祈り申し上げます。
これから始まる一年も、皆様お一人おひとりとの掛け替えのない交流を、心待ちにしております。
今年も一年間、どうぞ宜しくお願い致します。
黒川
こちらの写真のひまわりは、昨年末に開花して、今も元気に咲いております。10月に息子のリクエストで半信半疑に一緒に植えた種子が無事開花しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/76/3ced8548f5ef1c6f2652faa4ad9b671d.jpg?1704379136)
いつからだろう。
夕方に風呂釜を洗う時に浴室で吹く口笛が日々の小さな楽しみになっているのは。
口笛は、亡き父がよく吹いていた。父は寡黙な人だったが、酒が入るとよくしゃべった。そういえば、酒に酔った彼が口笛を吹いていたのは見たことがない。今思ったけれど、もし父が酩酊状態で口笛を吹いていたら、自分は今頃口笛を吹いていなかっただろう。
どうして彼が口笛を吹いていたのか、今ではよくわかる気がする。そして気づいたら息子も口笛を吹き始めている。5歳児がこんな風に上手に口笛を吹けるとは知らなかった。音階はまだだけれど、それも時間の問題で身につけるだろう。父は自分に口笛を教えていないし、自分も息子に口笛を教えていない。
口笛の良さのひとつに、普通に歌うよりもずっと音域が広いということがあると思う。演奏する曲は、その時によく聴く曲の場合が多い。最近は、Aimerの『カタオモイ』をよく聴いていて、気づいたらこの曲をよく演奏?している。
先日ふと思いついた。Googleの曲調べ機能は自分の口笛からちゃんと原曲を抽出してくれるのだろうかと。この可能性を妻と息子に伝えて、「やってみるね」と言っていざやろうとすると、息子が競ってきてとてもできない。
その時は諦めて、彼を幼稚園に送って行った後で、静かな仕事部屋で再び試してみた。
意識を集中して、サビの部分を吹いてみたら、Googleはすぐに認識してくれて、しかも表示された3つの提案曲全てが『カタオモイ』で、妙に嬉しくなって「よっしゃ!」とガッツポーズをしてその画面をスクショして、階段を駆け降りてそれを妻に見せて、彼女の「ふーん」というクールなリアクションを見て、ふと我に返った。
誰もいない部屋でひとりでスマホに向かって口笛吹いて、一体自分は何をやっているのだろうと。
十代の終わりぐらいからフレグランスが好きで、貰ったものや、自分で買ったものなど、香水をたくさん持っていた。
いろいろな色や形や手触りの瓶も好きだったし、毎日、その朝の気分によって使い分けるのも日々の小さな楽しみだった。
渡米してからもそれは変わらず、帰国してからは、日本社会に「香害」という概念があることを知り、かなり控えめになったけれど、香水のある生活は続いていた。
しかし、5年前に子供が生まれて間もなく、妻に、
「〇〇が、ギャル男の匂いがするんだけど」
と言われてはっとした。生まれてきた息子がかわいくてかわいくて仕方がなくて、家にいる時はとにかくずっと抱っこしていて、それは、「原初的母性的没頭」ならず、「原初的父性的没頭」の如しで、何かの用事で息子を妻に委ねて出掛けて帰ってきたら言われたのだ。
「なるほど。。ギャル男の匂いのする赤ちゃんとかちょっと嫌かも」
「そうだよ。それに、赤ちゃんは嗅覚も敏感だし」
「そうだよね。わかった。香水を使うのはもうやめよう」
「うん。〇〇が赤ちゃんの時はそうして」
「そうだね。間違いない。使わないようにするね」
こんな感じで、自分の香水ライフは終わったけれど、最近、なんとなく立ち寄ったお店で、ちょうど一番最後に使っていたフレグランスととてもよく似た匂いに出くわして、フレグランスのある生活が懐かしくなった。
家に帰って、なんとなく封印していたその香水の瓶を取り出して、そっとひと押ししてみたら、それはやはりとても好きな匂いで、なんだか楽しい気持ちになった。「香害」とか気を付けながら、再び生活に取り入れていこう。これは妻から貰ったものだけれど、再び妻から、もしかしたら、息子から、何かよろしくないフィードバックを貰ったら、またやめようかなと思う。そうならないように、自分にしかわからないくらいの微量で使っていこう。誰にも気づかれないように。自分だけの密かな楽しみに。海外のフレグランスは微量でも強いので、そんなことが可能だとも思えないのだけれど。
今年は庭に揚羽蝶がたくさん来るようになり、どうしてだろうと観察していたら、レモンの木に用があるようだった。
それで息子が幼稚園から借りてきた図鑑で彼と一緒に調べてみたら、揚羽蝶はレモンを含む柑橘系の木に卵を産む事がわかった。
随分前からこのレモンの木の葉は何者かによって食い荒らされていて、小さな芋虫を見つけては取り除いていたけれど、それが揚羽蝶の幼虫だったと知ったのは比較的最近だ。
息子は1歳ぐらいからレモンが大好きで、例えばレストランなどで、我々夫婦が食べるカキフライに付いてくるカットされたレモンを目敏く見つけては食べてしまっていた。とても酸っぱそうに、とても嬉しそうに。
それもあって、2年半ぐらい前に、妻がパルシステムでレモンの苗木を買ってくれたのだけれど、送られてきた苗木はほとんど葉っぱもない不思議なシロモノで、「これが果たしてレモンの木に展開するのだろうか」と半信半疑に育てていたら、ニョキニョキと大きくなり、いつしか私の身長を超えた。2メートルぐらいだろうか。
しかし今のところまだレモンは結実していない。
毎年、きれいで良い匂いのする白い花が咲き、小さな実ができ始めるけれど大きくなる前に落ちてしまう。息子も楽しみにしているので残念だ。
でもレモンの木は姿が良くいい匂いで成長も早いので、既に十分に楽しくて、実はいつかそのうちに成ればいいと思っていた。
しかし最近、揚羽蝶の大きな幼虫を複数発見して、新たな葛藤が出てきた。
息子はレモンも好きだけれど、昆虫も大好きで、今はその緑色のかわいらしい芋虫に興奮している。
「そだてようよ!」
というので、芋虫たちが付いている枝ごとハサミで木から切り離し、水の入った一輪差しに入れて、大きな虫籠を縦にして、その中にそれらを丸ごと入れると、芋虫たちは、何事もなかったように、おいしそうにレモンの若葉を食べていた。
揚羽蝶の幼虫を優先するか、レモンの木を優先するか。
揚羽蝶の幼虫にとってはレモンの葉はご馳走で不可欠なものだけれど、うちのレモンの木はまだまだ小さく、あまり大きなダメージは与えたくない。すでにだいぶやられている。
それにしても、「害虫」って何だろうとつくづく思う。揚羽蝶の芋虫が害虫かどうかは、あくまでそれをその人間がどう捉えるかだと思う。
話が若干逸れるけれど、最近、アメリカザリガニについてよく考える。
というのも、6月ぐらいに、地域の固有の種のメダカを保護するための子供向けのザリガニ釣りのイベントに参加したときの、そこにいた何人かの子供たちのザリガニに対する残酷な扱いがとても気になったからだ。その子たちの親御さんたちの様子も気になった。
そのイベントでは、みんなでザリガニを釣って一か所に集めて、最後は深く掘った穴にそのザリガニたちを生き埋めにして処理をしているので、そのイベントによく参加している子供たちは、大人たちのそうしたザリガニの扱い方をよく見ているのだろう。
命と生態系の話にひとつの正しい答えなどもちろん存在しないし、大事なのは、それぞれが答えのない問いに考え続けて自分たちなりに行動していく事だと思う。
自分としても、息子に、生き物の命の大切さと、外来種からその土地固有の生態系を守ることの重要性のバランスについてどう伝えていくか、考え続けている。
いずれにしても、命に上下や優劣があるのだというメッセージは伝えないように気を付けているけれど、そこには様々な矛盾が孕んでいて、なかなか難しい。自分自身この辺りは矛盾していて、その矛盾がなかなか解けない。
「絶対に解放せずに、そのザリガニが死ぬまで責任をもつ」という条件で、このイベントでは、ザリガニは持ち帰らせてくれる。
興味深いことに、持って帰る子はほとんどいない。いや、持って帰りたいという子はちらほらいたけれど、親御さんがそれを許さなかったりして、持ち帰りが成立しないのだ。
うちには、以前カラスに襲われているところを息子と一緒に助けた大きなヒキガエルがいるので、そのヒキガエルの餌になると思い、事情をお話したら、主催者の方が、「まさに命の循環!」と快諾してくださり、特に小さいザリガニを厳選して持ち帰ってヒキガエルに与えてみたところ、最初は食いつきが良かったが、途中から全く見向きもしなくなった。
それで、殺すわけにもいかないしどうしたものかと考えて、結局、この少し前から、めだかを飼おうと、タイミングよく息子と一緒に作っていたビオトープ池にはまだ居住者がいなくて空いていたので、そこで育てることにした。とりあえず、水草とタニシをたくさん入れて。ソーラーパネル式のエアポンプもついていて、なかなか悪くない環境だと思う。ザリガニは食欲がとても旺盛で、水草もすごい勢いで食べていくし、お世話はなかなか大変だけれど、それもだんだん落ち着いてきた。数か月経った今もそのザリガニたちは元気で、毎朝毎晩仕事の行き帰りなどにその子たちを観察するのが楽しみになっている。ザリガニは子供のころ大好きだったので、ザリガニを見るたびに、小さな幸福感が湧いてくる。
話が大幅に脱線したけれど、今回の我が家の庭のレモンの木とアゲハチョウの幼虫の件は、そんなに難しい問題ではなく、彼の興味関心がレモンから揚羽蝶の幼虫にシフトした今は、幼虫を優先しようと思った。彼はもう少し大きくなると今度はレモンの木の方に再び興味を持つかもしれないし、小さな子供の好奇心はそれこそ生モノだ。
「よし、レモンの葉っぱをたくさんあげてアゲハ蝶の幼虫を育てよう!」
というと、息子は嬉しそうに「いいね!いいね」と言ったけれど、同時に、
「らいねんは このきに あみかけておこうね」
というので、どうして?と聞くと、
「らいねんは れもんたべたいから、はっぱがたべられちゃう」
と言う。「まあそうだけど、今後は揚羽蝶が卵産めなくてかわいそうだね」、と言いそうになったけれど、やめた。
希望としては、揚羽蝶の幼虫がたくさん育っても大丈夫なくらいにレモンの木を大きく育てる事だ。
今朝、息子は、その揚羽蝶の幼虫の入った虫かごを持って幼稚園に行った。息子の幼稚園は、みんなと共有する、という目的で、家で育てている生き物を幼稚園に持って行って良いことになっている。
幼稚園に入ると、踊り場に、息子の親友の、大の虫好きの男の子が育てているカマキリの虫かごがあったので、その隣に揚羽蝶の幼虫の虫かごを置いた。
すると、息子のお友達や親御さんたちがわらわらと集まってきて、絵本や図鑑によく出てくる揚羽蝶の幼虫の姿をみて喜んでくれて、息子もとても嬉しそうで、虫たちが与えてくれる豊かさを改めて感じた。
あとで、カマキリの持ち主の男の子に聞いたけれど、彼は最近は、毎日幼稚園が終わると、カマキリのご飯のために必ず蝶を捕まえてから家に帰っているという。
日曜日の昼下がり。
徒歩3分ほど先に住んでいる母がちょうど我が家の前の路地に迷い込んできたところを妻が見つけてくれて、とりあえず家の中に入ってもらった。
その時自分は4歳の息子と内緒話をしていて、「今日はママの日だから、ママに内緒でケーキ屋さんでケーキ買ってきて驚かせようね」ということで、出掛けるタイミングを見計らっていたところだった。母にも買って、持って行こうと思っていたので、ちょうどよいと思い、母と息子と3人で車で出掛ける事にした。
息子と母が後部座席で話している。よく思うことだけれど、この二人の関係性は不思議なものだ。
何かの会話をしていて、息子が、
「ばあばはわすれんぼうだから」
というと、
「まあ。言われちゃったわ」
と母が楽しそうに笑って答えた。
「確かに忘れん坊だよね」
と私がいうと、母がさらに笑い出し、そこで息子が、
「だってばあば、あしたにはぜんぶわすれちゃうでしょ」
と言った。私は一瞬悲しくなったけれど、息子は母を責めているわけでもなく意地悪を言っているわけでもなく、思っている事を素直に言っていて、母もそれに楽しそうに応じていた。
そこで私はいつものように、
「確かに忘れちゃうけれど、大事なのは今日だよ。今この瞬間が楽しければそれでいいんだよ」
というと、母と息子はまた楽しそうに笑った。
外は土砂降りで道はいつになく混んでいたけれど、それはなんだか楽しいドライブだった。