興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

自己開示 #1 (Self disclosure #1)

2014-09-15 | プチ臨床心理学

 ふたりの人間が親しくなっていく過程において非常に大きな役割を占めている要素に、自己開示というものがあります。

 自己開示という言葉について聞いたことのある方は多いと思いますが、それでは自己開示とはいったい何なのか、普段から意識して考えている方はあまりいないのではないでしょうか。なぜならそれは、あなたがそのときに置かれている状況、これまでの人生経験や、大きくなる過程におけるあなたの親との関係性、また、そのなかで形成されるあなたの性格などに基づいて、自然に行われているものだからです。

 このようにして、あまり意識せずに起きている自己開示ですが、これは人間関係において非常に重要です。また、あなたや他者のこころの在り方についての理解においても大切な概念です。そういうわけで、これは深くて複雑な概念ですが、今回はこの自己開示について考えてみたいと思います。

 さて、自己開示とは何かといいますと、平たく言えば、読んで字の如く、自分のことについて相手に開いて示すことです。良く分かりませんね。これはつまり、あなたが、あなたにおける情報を、他者に対してオープンにすることです。この「あなたにおける情報」とは、あらゆるレベルの情報が考えれますが、今回は言葉による自己開示に絞って考えてみたいと思います。

 人間関係において、ある人ともう少し親しくなりたいけれどなかなかうまくいかない、良い方法が見つからない、という悩みを持っている人は意外と多いですが、この自己開示は、そうした問題を改善する鍵であることが知られています。

 たとえば、あるそれほど親しくはないけれど仲が悪いわけでもない、ニュートラルな関係の人と話していて、ちょっとしたきっかけで、「もしかしたら批判されるかも知れない、軽蔑されるかもしれない、笑われるかもしれない」、などの恐怖やネガティブな可能性を覚悟して何かの打ち明け話をしたら、相手は思いのほかあなたの経験に共感して、似たような個人的体験を話してくれて、それを機に一気に打ち解けた、という経験を今までの人生において何度となく経験している方は多いと思います。これは心理学では「自己開示の交換 (Self-disclosure exchange)」と呼ばれるもので、この「自己開示の交換」による親しみの効果は実際に実験などで証明されています。

 ただ、自己開示には適切な量と質、そしてタイミングがあり、ランダムに自己開示することで見ず知らずの人と仲良くなれるわけではありません。場の雰囲気には関係なくなんでも開けっ広げに自分のことを話す人は組織やグループのなかであまり信頼されていなかったり、尊敬されていなかったりすることが多いです。

 なぜならこれは、その人の他者や社会との境界線、Boundaries(バンダリー)が不適切である表れであり、つまり、自分と他者とのあいだのこころの線引きがきちんとされていません。ただ、こういうタイプの人は、透明性が強いので、「この人はいったい何を考えているのかわからない」と周りから警戒されることもありません(Boundariesについての記事もご覧ください)。

 逆に、世の中には、自分の話をほとんど、或いはまったくしない、という問題を持っている人がいます。無口なタイプの人が多いですが、逆に、口数はものすごく多いけれど、よく聞いていると、自分の個人的なことについてはまったく話さない、という人もいます。こういう人は、「マシンガントーク」という煙幕を張って無意識のうちに自分という存在をつかみどころのないものにしています。また、彼らは自分自身の本心について無自覚であることが多いです。こういう人は、話が面白かったり、冗談がおかしかったりするので「面白い人」という印象を受けていたりしますが、よく見ると、常にある一定以上の距離を他者との間に保っていて、決して近づけない、という性質が見えてきたりします。感じは良いけれど、実際にどういう人なのかは良く分かりません。よってその人の友好関係は広く浅いもので、周りから好かれてはいるものの、本当に親しい人はあまりいません。

 と、ここまで、どちらかというと極端な例を挙げましたが、これらの例からもお分かりのように、自己開示には、量(ここでは口数の絶対数)と、質(情報がどれだけ意味のあるものか、個人的であるか、など)の問題があり、このどちらが不適切であっても、他者と親しい関係を築くのは難しいということです。なんでも開けっ広げの人は、周りの人がその人のことをいまいち尊敬できないことで、自己開示が一方的になってしまうことが多く、無口な人、やたらと口数ばかり多い人は、いずれも本当の意味での自己開示はしていないため、他者がその人のこころに近づけません。人と人が親しくなるための「自己開示の交換」がうまく起こらないのです。

 また、自己開示には適切な「場」やタイミングがあることについても触れました。たとえばあなたが初対面の人と、あまり時間もないときに、突然あなたの個人的な話をしたら、相手は当惑し、あなたに警戒し、なんとなく気まずい空気が流れたりして、そこに自己開示の交換は起きない、という可能性は高いです。どこかでたまたま居合わせた赤の他人がいきなりすごい個人的な話をしてきて、どう反応して良いか、そのリアクションに困った、という経験がある方は多いでしょう。この状況で開示の交換が起きないことも社会心理学の実験で証明されています。

 そういうわけで、あなたが誰かともっと親しくなりたいけれどなかなか人間関係が発展しない、というときは、まずはその人と比較的ゆっくり話せるような場を探してみましょう。注意してみると、意外とあるものだと思います。また、少し工夫して、そういう場をあなたが作ることもできるかもしれません。

 そういう場ができたら、始めはいつものように当たり障りのない話をしながら、ちょっとしたタイミングを探してみましょう。ここでのポイントは、あなたが少し勇気をだして、ちょっとしたリスクを冒す、ということです。当たり障りのない、害のない話には、そのところどころに、自己開示のきっかけが隠れています。普段はそれに注意を向けていないために、なんとなくそういうとっかかりを見逃している可能性があります。まずは、そういうとっかかりがあるかどうか、話しながら観察してみてください。

 それで、とっかかりが見つかったら、いよいよ自己開示ですが、ここで注意すべきは、あまりすごい自己開示をしない、ということです。相手が知らない自分のことで、今話している話題に関係があり、いつもよりちょっと個人的なこと開示してみましょう。相手の人に問題がない限り、向こうはあなたの開示を歓迎してくれることでしょう。それで向こうもいつもよりも少しだけ個人的なことを話してくれるかもしれません。自己開示の交換です。

 このような場を何度か意識して持つようにして、上手に自己開示をしながら、徐々に人間関係を深めていきましょう。「話し過ぎたかな」と思っても、あまり気にしないようにしてください。自己開示はその練習のなかで徐々に新しい習慣となっていきます。もし話したことで何かふたりの間に気まずい空気ができてしまった、と思うときは、その「気まずい空気」そのものについて、後ほど開示してみるのもいいでしょう。自分の気持ち(二人の間になんだか気まずい空気ができてはいないか。話したことで相手に何か嫌な思いをさせてしまったか)について、早い段階で開示するのです。そのようにあなたが自分の気持ちを相手に伝えることで、さらに人間関係が深まることもあります。相手には、あなたが勇気を出して少し言いにくいことを伝えてくれている、信用してくれている、ということが伝わります。

 以上が自己開示の導入編となりますが、次回は、なぜあなたが自己開示に難しさを感じているのかなどに焦点を当てて考えてみたいと思います。また、今回は言語による自己開示について話しましたが、言語以外の自己開示についても考えてみたいと思っています。

 


変わりたいけれど変われなくて困っている人のために

2014-09-12 | プチ臨床心理学

 生きていると、人それぞれ、本当にいろいろな悩みがあります。今の自分の人生の大半は満足しているけれど、どうしても治したいことがあって困っているという人もいれば、今の人生のあらゆる面においてうんざりしている人もいます。それは仕事のことであったり、パートナーとの婚姻関係、恋愛関係であったり、家族のことであったり、友人との人間関係であったり、依存症など、自分自身における問題であったり、様々です。

 そして、問題の種類は何であれ、それを治すために何とかしなくてはならないとはわかっているものの、それを行動に移せなかったり、始めた行動を続けることができなかったり、また、実際に何をしたらいいのかわからない、という人もいます。

 昨今本屋に行くと、『5分で変われる~』とか、『1分で変わる~』とかいった、分単位、時間単位、1週間以内、といった、非常に短期間のうちにあなたの人生が変わることをほのめかすとっても魅力的なタイトルの自己啓発本がずらりと並んでいるのを見受けます。思わず飛びつきそうになります。実際に手に取って、前書きや各章のサブタイトルなどを見て「これは!」と思って買ってみた方も多いのではないでしょうか。

 それで、そうした本を買ってみて、あなたの人生は実際に変わりましたか。人生とまではいかなくても、日々の生活に新しい良いものが始まって、それが続いていたり、問題になっていたことが著しく改善した、という方はどのくらいいることでしょう。これを読んでいる方の中には、実際にすごい名著に出会って人生が明るくなった、という方もいるかもしれません。しかし残念ながら、そういうあなたは、むしろ少数派ではないかと思われます。まず、もしそうしたごく短時間の時間単位がタイトルに入っている自己啓発本で「本当に効く」本があるのであれば、矛盾するようですが、あのように多くの同様のタイトルの啓発本が店頭に並ぶはずがないのです。そういう本が数冊存在していたら、後発で書いても売れませんから。

 そして、先に述べた、「実際にすごい名著に出会って人生が明るくなった方」は、実のところ、その本というよりも、あなたの本当に変わりたいという気持ちとそのモチベーションの強さのほうに理由があった可能性が高いかもしれません。別の言い方をすると、その本をあなたのお友達に勧めたところで、そのお友達があなたのように変われるかといえば、それは疑問であるということです。

 このように書いていると、世の中にはろくな自己啓発本がない、と言っていると思われる方もいるかもしれませんが、決してそういうわけではありません。私も本屋に行った際に気が向くと、そうした本を手に取って読んでみることがありますが、中には優れた本もあります。ただ、読んでいて感じるのは、タイトルはどちらかというと「言葉のあや」であり、潜在的な読者の購買意欲をそそるためのタイトルであり、実際に変わるためには、その1分なり5分なり1時間なりを、相当に長いこと続けていかなくてはならず、つまり、実際にはタイトルが示唆するような気軽さ、簡単さとはかけ離れた根気と努力が必要であるということです。

 最近の自己啓発本は、そうした努力や根気といった精神力や心の負荷などを現代人が避けたがる心理をうまくついてきているものが多い印象があります。まず、お気づきの方も多いと思いますが、文字のフォントが大きいです。そして、行間が広い。とても易しい言葉遣いで漢字も少ない。つまり、「本当の読書」に伴う心の負荷すら億劫に思う人たちでもすぐに読了できるように書かれています。スラスラ読めるので、普段読書が嫌いであったり苦手であったりする人も読了できて、それだけでも達成感があります。読んですっきり爽快感、なんかポジティブなこと書いてあってにわかに希望がでてきた。でも実際に何がポイントだったのか思い出せない、2週間もすればその本のことなどすっかり忘れてしまい、3週間目には知らずのうちに今までの気持ちに戻っている、ということが少なくありません。読んでみてなんとなく気持ちよくなった、しかしその本の内容に実態はなかった。恐ろしい話です。

 ここでもしかしたらあなたが聞きたくないかもしれない事実をいえば、No pain, No gain、痛みを全く伴わずに何かを本当に得ることはあまりありません。変わりたければ、やはりそれなりに精神力の必要な、こころの負荷のある行動をとらなくてはなりません。そのためには、あなたは変わることを決断しなければいけませんし、そこにコミットメントがないといけません。

 これを書き始めたときは宣伝する気は毛頭なかったのですが、それではどうして良質の(脚注1)サイコセラピーを受ける人が大きく変われるのかといえば、(それには様々な理由がありますが、ここでは)サイコセラピーには、こうした世の中に溢れる多くの自己啓発本の根本的な弱点をいくつかカバーしてることが挙げられます。

 まず、サイコセラピーには、そのモティベーションがあるに越したことはないものの、必須ではありません。実際、変わりたいけれどそのためのモティベーションが出てこなくて困っている、という方もたくさんやってきます。それでいいのです。一人では出てこなかったモティベーションも、秘密厳守の安心、安全な環境で、セラピストにこころを開いて話を深めていく中で、ゆっくりかもしれませんが、着実に出てきます。これはサイコセラピーにおける、クライアントとセラピストの「良い人間関係」のなせる業です。

 さらに、自己啓発本は、その大衆を相手にしなくてはならない性質上、どうしても「フリーサイズのTシャツ」的な、つまり「誰にでも多かれ少なかれ当てはまるけれどピッタリ合う人はごく少数」であるアプローチに依存しなくてはならないのですが、サイコセラピーは、あなただけのためにオーダーメードで仕立てられたあなただけの幸せのためのレシピです。そしてこのレシピには、自己啓発本では決して到達できない深みがあります。実際、10人のうつ病に苦しむ方が私のところに来ると、10通りのユニークな方法で彼らは良くなっていきます。そこには10通りのユニークな人間関係があるからです。それから、これも自己啓発本では見落とされがちですが、10人鬱に苦しむ人がいれば、そこには10通りの独特な問題もあります。酷い精神科の5分以内の面接の投薬治療がどうして効きにくいのかといえば、彼らはこの「患者ひとりひとりのユニークな部分」を取り扱えていないからです。

 ここまで書いてみて、どうもやはり宣伝的な響きがあるので、サイコセラピーとは少し離れてもう少し書いてみます。

 今あなたが抱えている恐怖には、大きく分けて2種類の恐怖があります。ひとつは、変わることの恐怖であり、もうひとつは、今の不幸せな現実が続いていくことの恐怖です。変わることの恐怖にはいろいろな要素が考えられます。たとえば、変わることに伴う苦痛、変わるために傷つくこと、また、もし努力しても変われなかったらという不安などがあるでしょう。

 もう一つの恐怖、今の不幸せな現実が続いていくことの恐怖。これにはあまり説明は要らないでしょう。あなたを不幸せにしていることに対して何の行動もとらなければ、その現実は続いていくことでしょう。

 かつてある人が私のところに来て言いました。「母が死んだあとに、私のための人生が始まります。今は地獄だけど、母が死んだら私はずっと楽になります。自由になります」と。「でもあなたのお母さんはぴんぴんしていますね」。「そうです。でも私にはどうすることもできません。母は私が幸せになれないように何でもします。彼女が生きているうちは駄目なんです。待つしかないんです」。「分かりました。それでお母さんはあと何年ぐらい生きるんでしょう」。「分かりません。あと10年は生きるでしょう」。「10年経ったらあなたは50代も半ばになっています」。「・・・・・!!」。この方は、重度の自己愛性人格障害を持つ母親に人生を滅茶苦茶にされて苦しんでいて、このときは変わることの恐怖と変わらないことの恐怖の狭間で揺れ動いていましたが、これからしばらくして、変わることを決意しました。今までやられっぱなしになっていたこの方が勇気をもって自己主張をするようになり、母親も態度を変えることを余儀なくされ、「子供がろくでもないセラピストに会ってしまった」と文句を言いながら変わり始めました(これはこの母親の人生にとっても実際のところ良かったと思います)。もちろんこの過程は大変なもので、うまくいかないときもありましたが、ひとりでは出来ないことも、いつも応援して一緒に考えてサポートしてくれるセラピストがいると、出来るようになります(これも自己啓発本とサイコセラピーの違いです・・・)。

 この方のなかで、変わらないことでいつまでも続いていく現実とそれで失われてゆく時間という恐怖が、変わることで傷つくかもしれないことやうまく変われないかもしれないという恐怖をはるかに上回り、変わる決意をした訳ですが、これはあなたにも言えることだと思います。

 変わるための行動の過程で、あなたは傷つくかもしれないし、失敗して辛い思いをすることもあるかもしれません。でも、そのように、自分の人生に前向きに進むことに伴う痛みと、今の不幸せなことが続いていく痛みを比べたら、前者の方がましではないでしょうか。その痛みには大きな価値があります。あなたを成長させる、あなたを強くする、こころの筋肉痛です。前者は最悪の場合でも、うまく変われなかった、というぐらいです。今の現実で感じている痛みとその度合いは変わらないでしょう。しかし後者は致命的です。あなたの人生を損なわせるものです。

 危険であるかもしれないことと、致命的であることと、どちらがいいのか、という話です。

 今回私が書いたブログがあなたを変えられるとは思いませんが、これについてじっくりと考えることで、これがあなたの決断のきっかけになってくれたら幸いです。応援しています。

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(脚注1)なぜ私が「良質の」サイコセラピーと書いたかといいますと、非常に残念なことですが、近年は、こうした文字のフォントのでかい楽に読める自己啓発本と何ら変わりのない、クライアントのこころに何の影響もない、よって敷居は低いけれどもサイコセラピー本来の要素を欠いた、数回で終わるようなサービスが出回っているからです。受けてみて気持ちがよかった、すっきり、でも1、2週間経ったら元に戻っていた、そういう種類のファスト・フード、ファストクローズよろしく、ファスト・サイコセラピーです。まず、サイコセラピーは、「ただ吐き出す」こととは本質的に異なります。「不満を吐き出せ」ば、人はそれなりにすっきりしますが、「吐き出す」だけでは根本的な変化は期待できません。吐き出す、という言葉はあまり好みませんが、吐き出す(言語化する)のであれば、吐き出したものをゆっくりと見つめて、向かい合って、検討していくプロセスが必要なのです。そこには当然、セラピストとしては「傾聴」以上のスキルが必要です。


大きなYesのために大切なNo

2014-09-02 | プチ臨床心理学

 皆さんこんにちは。ご無沙汰しております。いかがお過ごしでしょうか。

 早いもので9月に入りました。季節の移り変わり目、夏休み明けなどで、気持ちに切り替えが何かと難しい時期であり、多くの方にとって、体調管理はもちろん、こころの管理にも注意が必要な時期であります。もちろん、体調管理とこころの管理は密接に繋がっております。新しい環境への適応、リラックスした休暇からの会社、学校などの元の環境やスケジュールへの適応などで、知らず知らずのうちにストレスを感じていて、そこに最近の予想不能な天候と温暖差などが加わり、気付いたら喉が痛くなっていた、風邪をひいてしまった、という方も多いと思います 

 さて、こうした新しい季節に臨んで、今回のタイトルは、『大きなYesのために大切なNo』です。

 これは以前ここでも触れたBoundaries, 境界線にも通じる話ですが、ひらたくいうと、私たちは、人間関係において、誰かからの誘い、依頼、要求において、常に良い返事をして受け入れるわけにはいかず、必要に応じてきちんと断らなくてはならない、ということです。

 なぜなら、すべてにおいて、Yesと返事をしていると、時間の問題であなたのリソースの限界がやってきて、最初は快く受け入れていた誘いや依頼も、徐々にこころの負担、ストレス源となってきて、やがては頼んできた人に対してネガティブな感情を抱くようになったり、自分にイライラしたりして、こころに支障がでてきます。「いや、私は大丈夫」、と、すべてを受け入れて、足りなくなった自分のための時間を捻出するために睡眠時間を短縮したりして頑張っているうちに、体を壊してしまう方もいます。

 私たちの人生は、みんな平等に24時間しかなく、そこには人それぞれの人生における優先順位というものが存在し、そこには人それぞれの生活というものがあります。自分にとって、何が大事で、何が大事でないか、きちんと認識する必要があります。

 そして、今の自分に、時間的、体力的、精神的、金銭的に、どれぐらいのゆとりがあるのかも把握している必要があります。こうしたあなたのリソースに合わせて、必要に応じて断ること、Noということが、何かもっと大事なことにおいて、選ぶこと、Yesということが可能になります。

 断ることに伴う罪悪感が強く、ついつい何でも受け入れてしまうことで、いざというときにリソースが残っておらず、不本意にも、本当に選びたかったこと、受け入れたかったことを断らなくてはいけなくてさらに強い罪悪感、自己嫌悪に陥る方が世のなかには少なからずいます。

 これはとても悲しいことです。その人の他者を受け入れる良い人柄が、結果として負に働いてしまうのです。こうならないためにも、普段から、ものごとの優先順位を意識して、あまり重要でないこと、興味がないこと、頼んでくる本人にもできそうなことなどには、Noという必要があるのです。Noということが、必ずしもその人を拒絶することにはなりません。選んで断ることが、逆説的に、相手をより深い意味で受け入れることに繋がります。