興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

感情と気持ちと身体の反応

2006-09-29 | プチ生物心理学

普段の日常生活の中で、何気なく使っている
「感情」という言葉だけれど、それでは、
「感情ってなんですか?」とか、
「感情と気持ちの違いって何ですか?」
と言った質問をされて、上手く答えられる人は
少ないのではないだろうか。

一般に「気持ち」、「気分」、「感情」と
いったものは相関的、同義的に使われているけれど、
心理学における「感情」とは、一般社会における
「感情」の概念とは少し異なる。

心理学者の間でも、「感情」(Emotion)の定義に関しては
意見の分かれるところで、満場一致ということの決して
有り得ない概念であるということは、人間の「感情」という
ものが、いかに主観的で、複雑で、多岐にわたる概念かを
物語っているように思う。

多くの心理学者が感情的に異論を唱える
「感情」だけれど、基本的に、心理学における
感情というのは、どちらかというと、「進化論的」、
「生物学的」なものだと言うことにおいては、
異議はないと思う。

感情における考察には、少なくとも3つの局面があり、
それは、1)その感情を喚起する、特定の状況に
対する、個体としての、反応パターン、
2)個体において認識された感情の、他者への
コミュニケーション(表情、ジェスチャー、言語、また、
その言語の声のトーンなど)、そして、
3)Feeling of Emition,つまり、より主観的な感情だ。

この、3つ目の要素が、日常的に人々が使っている
「感情」の概念に一番近いようだ。

私たち人間の感情とは、自然淘汰における賜物で、
人間以外のいろいろな動物間で確認されている。
それが進化の過程で残ったのもだとされる根拠の一つは、
上記2の、「感情の他個体へのコミュニケーション」に
よるものだけれど、人間の、特定の感情を表す表情は、
地域や文化を越えて、普遍的だということがある。

感情のコミュニケーションは、非言語的(Non-verbal)な
ものが言葉による伝達よりも優先されるのだけれど、
(実際私たちは、相手の言っていることよりも、相手の
 声のトーンや表情の方を判断材料において重視する)
これは、言語を持たない個体間が、いかに上手くそれぞれの
感情をまわりに表現しているかをみると理解できる。

感情について書くことそれこそ無数にあり、切りがないの
だけれど、今回は、上記3つ目の要素、「主体的な感情」に
ついて考えてみたいと思う。

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私たちは日常生活のいろいろな局面で、じつに様々な
感情を体験しているけれど、「主観的な気持ちは実は
2次的なもので、その状況における体の反応の方が
気持ちに先行する」と聞くと、違和感を感じる人も
多いと思う。「何いってるの? 気持ちが先で、身体の
反応は後でしょう」と。

しかし、以下の体験をしたことはないだろうか。

・映画を見ていて、とりわけこころが動かされたと
 思っていないけど、気付いたら涙がでていた

・人前で、ある状況で、恥ずかしいと思っていないのに、
 気付いたら赤面していた

・誰か、不快な人を前にしたとき、自分はそれほど嫌では
 ないと思っていたけれど、体中鳥肌が立っていた

他にもいろいろな例があるけれど、これらのことや、
これと似たような大変をしたことのある方は多いと思う。

このように、いろいろな状況下で、私たちが認識する
主観的な気持ちというのは、身体の反応(自律神経系、
内分泌系、筋肉など)を体感した後の、フィードバックに
よるものだと言われている。

つまり、1)外部のある特定の状況→2)脳の反応→
3)脳からの、自律神経系、内分泌系、筋肉系の喚起
への指令→4)発汗、動悸、身構え、鳥肌などの
身体的、感覚的な反応→5)脳へのフィードバック→
6)主観的な気持ち→再び2)へ

となっている。

(次回に続く)


「怒り」という感情における考察

2006-09-28 | プチ精神分析学/精神力動学

 今回は、人間の基本感情の一つである、「怒り」について少し考えてみようと思います。

 私たち人間が持っている、すべての感情には、生物学的、 進化論的な、「適応」のための存在理由があると言われていますが、とりわけ「怒り」の感情は、 人間以外の様々な種族において確認できるもので、 しかも、怒りの感情の喚起に伴う生理学的な反応は、
異種族間で共通点も多く、実際にサバイバルのうえで必要な機能であるのは確かです。

 「悪感情」(Negative Emotion)については、別の機会にまたゆっくりと書きたいと思いますが、怒りという「悪」 感情も、もともとは、生きていくうえで必要な、ある意味 「良い」ものだという事実は、なんだか興味深いです。

 一般に、怒りとは、個人の欲求や目的到達が、何らかの状況によって阻害された時や、何ものかによって、自分の領域が侵されそうになったり、実際に侵入されたときに起きる感情とされていて、怒りを体験した個人には、 「破壊」などの、攻撃性が出てきますね。

 怒りの原因となっている対象物に直接攻撃性をぶつける人もいれば、より怒りをぶつけやすい「安全」な対象に怒りの矛先を向ける、置き換え(Displacement)、つまり八つ当たりとして表現する人もいれば、怒りを無意識の中に抑圧(repression)して、その結果、身体的な痛みとして間接的に怒りが表現される人もいるように、怒りの表現には、
その時の状況や、個人差などで、様々なものがあります。

 前置きが長くなったけれど、今回書きたいのは、怒りの感情に対する一つの対処法についてです。

 怒りの感情とは、誰にとっても不快であり、面倒なものだと思います。動物大国では、怒りはその対象物に直接ぶつけられて、自分や家族の身を守るうえでも有益なものだったけれど、私たちが現在住んでいる文化圏の複雑な人間社会では、怒りの感情はしばしば「不適応」 を呼び起こすものでもあり、極度な怒りの感情やその継続は、様々な、身体的、精神的な支障へと繋がります。

 さらに、人間において、怒りの感情は必ず、「自己愛」と関係しています。僕は、その昔、母親と争っているとき、彼女を見ていて、「怒っている人は、現在進行中に傷付いている人だ」という事実に気付いて、当時の母の心の痛みに気付くことができたのだけれど、怒っている人間というのは、必ず、何らかの原因によって心が傷ついています。

 複雑でタイトで歪んだ社会、生活していて何かに怒りを感じずにいるのはかえって難しいものだと思うけれど、すぐに収まってしまう種類の怒り(電車の中でマナーの悪い人に対する怒り)もあれば、もっと個人的な人間関係における、なかなか収まらない怒りもあり、本当にやっかいなのは多くの場合、 後者の、長引くタイプの怒りです。

(電車の中の赤の他人同士の一触即発な殺人事件はあるけれど、それはまた別の問題ですね)

 さて、この、比較的強烈で、場合によっては何日も続くような種類の怒りだけれど、これには人それぞれさまざまな対処法があります。ある人は、気晴らしに飲みに行ったり買い物に行ったりするかもしれないし、ある人は、前述のように、誰かに八つ当たりするかも知れないし、ある人は、その怒りを完全に無意識の世界に封じ込めて、身体を壊したりします。

 或いは、その怒りの原因となる直接の対象に攻撃性を持っていって、互いに強く傷付けあうかもしれない。

 冷静な話し合いや、直接的な問題の解決が可能な場合もあるけれど、本当にどうしようもない状況って残念ながら存在します。たとえば、世の中には、本当に、誰が何を
言っても変わらない人がいます。他人の意見に全く耳を傾けず、いつも自分が正しいと確信していて、常に自己中心的に行動する人と重要な局面で対峙しなければいけないときなど、これにあたります。

 また、本当に酷い事件の被害にあったけれど、 その加害者がどうしても見つからない、という状況も、 これに該当するでしょう。

 ちょっと極端な例を挙げたけれど、もっと身近なことで、本当にどこにもやり場のない、それでいて強い怒りを体験する人は、多いと思います。

 ここで、一つ不思議なことがあります。

 怒りというのは、先程書いたように、生物学的には、本当にせいぜい数分の現象に過ぎません。身体の反応なので、本来は、数分で、ニュートラルな状態に戻るはずなのです。

 たとえば、道を歩いていて、後ろから突然走ってきた自転車とぶつかりそうになったとき、「危ないなあ!」と、 あなたは腹を立てるかもしれないけれど、数分後に友達と会っておしゃべりに盛り上がっているうちにこの怒りはすっかり忘れているかもしれない。

 思い出して不快になることはあっても、その時に感じたほどの怒りにはならないでしょう。

 では、なぜある種の怒りは継続するのでしょうか。

 怒りが継続するには、その生理学的な反応を維持するための燃料を常に加え続ける必要があります。

 つまり、継続的な怒りを体験しているとき、その人は、その怒りにどんどん燃料を加え続けているのです。

 もちろんこれは、無意識の世界です。誰にとっても、怒りという不快な感情は早く収まって欲しいもので、それを自分で維持させてるわけないじゃないかと思う人も多いと思うけれど、その怒りを燃やし続けているのは、 実はその人の心の中にあるものなのです。

 面白いもので、私たちは、その、ほとんど「無意識」に怒りにくべていた燃料の存在に気付くと、その怒りは解消へと繋がっていきます。その燃料を加えるのをやめるからです。

 その燃料は、たとえば、絶対に分かってくれるはずのない人間にたいする、ほんのわずかな期待(と、そこからくる失望感)だったり、もうどうにもならない物事に対する、 諦めきれない小さな希望だったりするけれど、そのような、怒っている最中はなかなか見えにくい、怒りを継続させる要素の発見などの、より客観的な自己分析は、 本質的な意味での怒りの解消に繋がり、 それは自分自身の成長や癒しへも繋がります。


プロセスの重要性

2006-09-27 | プチ臨床心理学

「結果よりもそのプロセス(過程)が大事」とは、
よく聞く言葉だけれど、日常生活の中で、どれだけの
人が、実際に結果よりもプロセスに重点を置いて
物事を判断しているだろうか・・・

こういう疑問は時々抱くのだけれど、今回はこの
「プロセスの重要性」について少し考えてみたいと思う。

世の中にはもちろん、「結果がすべて」という現実が
存在する。しかし、多くの物事においては、結果と
同じくらい、いや、それ以上に、そこまでの過程が
大切な事象も多い。

とにかく結果の方に意識や重点を置いている人のことを、
英語では、"Goal-Oriented"などと呼んだりするけれど、
極端に「目的達成」ばかり考えている人は、しばしば、
その過程の中で本来経験すべき気持ちや感情をあまり
経験しないで通り過ぎてしまうことが多い。

Goal-Orientedの人は、いかに目的を達成させるかを
効率よく考えるので、実際最終産物は完成度の高い
ものが得られることが多い。しかし、同時に、
ゴールのことばかり考えているので、気持ちに余裕が
なく、その過程を楽しんだり、その過程の中でいろいろ
学んだり、という好機を逃すことも多い。

(ちょっと余談だけれど、SEXにおいて、男性は
どちらかというと、ゴール(つまり射精)の方に
意識が向いている傾向にあるのに対し、女性は、
そこまでの過程のほうを大切にする傾向がある、と
言われているけれど、これも非常に興味深い話だと思う。
話を元に戻そう・・・)

さて、どれだけ物事のプロセスが大切かは、あなたが
今までに経験したいろいろな物事において、何が一番
あなたにとって大切な思い出になっているか、また、
何があなたを成長させたかを考えてみると分かると思う。

たとえば、ある人が教習所に通いつめて苦心して
車の免許を取ったとする。その時の達成感はとても
大きなものだと思う。後になってから、この人は、
免許を獲得した日を思い出しては幸せな気持ちに
なるだろう。でも、この人がもっとよく思い出すことは、
もしかしたら、それまでの小さな失敗や成功の試行錯誤
だったり、その教習所での小さな出会いだったり、
街に繰り出したときの風景だったりするかもしれない。

とにかく心を無にして、短期間で割り切って免許を
効率よく取ることだけ考えて免許を取った人は、
そのような風景や感情をあまり経験していないかもしれない。

と、ここまでで僕が言いたいのは、これから何かに
取り組むとき、また、人との付き合いなどを含めた、
様々な行動の中で、その過程の方を大切にしながら
行動していくと、思わぬ収穫やこころのゆとりが
出てくることが多いかもしれないということだ。

さて、ここからが今回の話題の本題である。
ここまでは、「自分」のプロセスとゴールについて
書いてきたけれど、これから、他者のゴールとプロセスに
ついて考えてみようと思う。

これは恐らくは当たり前のことなのかもしれないけれど、
私たちは、他者の経験において、多くの場合、その最終産物に
ばかり注意が行きがちで、そのプロセスについて考えることを
忘れがちである。

たとえば、誰かがある日突然、「会社を辞める」という
決断を打ち明けるとする。すると、多くの人は、とかく
「何で?」「どうして?」「やめるのは簡単だけど
もっとよく考えなよ」「甘いなあ」・・・などとついつい
言ってしまうものだけれど、その時に忘れがちなのは、
その人が、打ち明けるまでにどれほど考えたり悩んだり
したかという、その可能性についてだ。

会社を辞めるという、大切なことを、そうそう気軽に
決断する人もいないのは、少し考えればわかるもの
だけれど、他者の試行錯誤やプロセスは、見えにくい
だけに、忘れがちだ。

他者が何かの決断を下すまでに通ってきた過程を
考慮にいれることを忘れているために、周りの人が
その人を責めてしまうこともよくある。

たとえば、ある女性が、悩みに悩んだ挙句に、
妊娠人工中絶を選んだとき。

この女性の決意は、様々な葛藤や罪の意識や罪悪感に
さいなまれて、本当に大変なところを通ってきて、
ようやく出てきた結論なのかもしれない。

しかし、その最終産物である、「中絶」という事実だけに
人々は注意を向けがちで、勝手な推測や想像などを
無意識にこの女性に投影して、心無いことを言ってしまったり
する。面と向かって言わなくても、陰でそのようなことを
いう人は多いと思う。

これは、「プロセス」について察することをしないがために
傷ついている人をさらに追い込んでしまうというケースだ。

最近、ある人が、妹の結婚式に出ないことを、本当に
悩みに悩んだ挙句に決心した。その人は妹と大の仲良しで、
妹も、その人の決断を理解していたのだけれど、共感性に
欠ける両親は、その人を強く非難した。
その人が、その結論に至るまでにどれほどの涙を
流したのか、彼らはまるで分からないようだ。

皮肉なことに、他者の決断や結果において、その事象が
重要なものであればあるほど、周りの人間は、プロセスを
考慮しないで、自分の感情を投影して、その人を非難したり
裁いたりしがちである。大事な物事というのは、それだけ
私たちにとって、強い思いを伴うもので、その過程を
考慮に入れる余裕もなくなりがちなのだろう。

以上の様なことを踏まえてみると、プロセスについて
考えることは、それが自分のものであっても、他者の
ものであっても、心の余裕に繋がるもので、非断定的で
ゆとりのある人間関係にとってとても大切なもののように
思える。

あなたの周りの誰かが最近思いがけない決断をした時、
その決断に対して直接的にコメントするのではなくて、
その背景にあるいろいろなことを推し量ったり、なんとなく
聞いてみたりすると、あなたはその人にとって、より
支持的になれて、その人のこころの支えになるかも
知れない。



意味の作り変え

2006-09-26 | プチ臨床心理学

私たちは、過去に様々な経験をし、現在も何らかの 経験を現在進行中で、これから先もいろいろな 経験をしていくことになるけれど、その中には、 本当に楽しくて素晴らしいものもあれば、 思い出すのも不愉快だったり苦痛だったりする、 トラウマティックなものも多いと思う。

この、不愉快で苦痛な経験というのは、時に 精神に支障を来たすほどに深刻な体験だったり するけれど、トラウマとして記憶されている 自分の中でまだ未解決な出来事は その出来事における解釈とワンセットになって存在している。

ここで大切なのは、全ての物事には、 「起こったこと」そのものの意味での「現実」と、 個人によって捉えられた、解釈を含んだ「現実」とが 存在することだ。

もちろん、全ての経験された出来事には、 個人的な解釈が伴うわけで、それは、ポジティブな体験にもネガティブな体験にも言えることだけれど、 今回話題にしているのは、主にネガティブな 経験についての話である。

誰にでも、過去の出来事で、今でも思い出すたびに 嫌な気分になることってあると思う。また、 ここ最近を振り返ってみても、不快な体験の 一つや二つはあるのではないだろうか。

そうした出来事において、「なんでそれは 自分にとって不愉快なのかな」とか、 「その出来事の(具体的に)何が自分を これだけ嫌な気分にしているのだろう」とか、 「自分の気持ちを乱している本質はなんだろう」と 考えてみると、そこには必ず、その体験における なんらかの「意味」が見つかると思う。

たとえば、「とても愛していて、誠意を尽くしていた 恋人が、誰かと浮気をした挙句に、自分を捨てて その人の方に行ってしまった」、という体験。

この「体験」の描写は、割りと個人的なニュアンスが 含まれているけれど、もっと素のままの、 「一つの出来事」として捕らえてみると、 「カップルのうちの一人が、他の異性に興味をもって、 結局その新しい異性を選んだ」

というもっとシンプルな現実が出てくる。

この体験が、去られた人間にとって苦痛なのは 誰にでも分かることだと思うけれど、では なぜそれが苦痛なのかといえば、そこには、 「裏切り」、「見捨てられ感」、「拒絶」、 「幻滅」、「失望」、「尊厳の欠如」、 「一人の女/男としての敗北感」、「失敗」、 などの、「一方的で理不尽な形の失恋」という 意味や解釈が伴うからだったりする。

しかし、多くの人が体験するように、そうした 身を切られるような思いの失恋に伴う 辛い気持ちは、時を経て、忘れた頃に
癒されている。

どのようにして、失恋の傷は癒されたのだろうか。

そこには、時の経過や忘却のシステムなど様々な 要素が関与するけれど、それとは別に、私たちは、 時間をかけて、その体験から少し距離を持ちつつ、 その出来事に対する新しい意味を見出すようになる。

失恋の渦中にいるうちは、強烈な感情などで 見えなかったけれど、そのうちに、「そういえば、 自分は相手の気持ちに全然答えてなかったな」とか、 「もっと一緒にいる時間を作ればよかった」とか、 「もっとコミュニケーションを大切にすれば よかったかな」とか、「自分がそっけなくて、 相手は寂しかったのかな」・・・などと、いろいろ 新しいことを思いつくようになり、やがて、 失恋当時に感じていた解釈とは全く異なった 新しい意味が、その体験に見出されるようになる。 「裏切り」や、「敗北」とはまた違った意味が。

過去の経験で、今でもこころの中で未解決なもの というのは、ほとんどの場合、こうした、「新しい 意味」が見出せない状態だったりする。それは、 「新しい意味」など到底見出せないほどに複雑な 状況だったり、まだその出来事にたいしてこころの 距離が近すぎたりするわけだけれど、精神療法に よって、クライアントがトラウマから癒されて 進んでいける過程には、こうした深刻な体験の 意味の「分解」と、新しい形での、「再構築」が 伴うのだ。

「起こったこと」そのものの現実は一つなのだけれど、 そこには様々な概念や意味が存在する。

起こってしまったことは、もちろん元には戻らない。 しかし、人間は、それに伴って長いこと存在する 「ネガティブな意味」を、より建設的な意味へと 変えていくことができる。

なんだか大げさな話になってしまったけれど、 もっと小さな日常の嫌な出来事でも、それを、 「面倒なこと」「厄介なこと」「自分は被害者」と いうところから、なにかしら、自分を成長させる よい機会など、違った意味に置き換えることで、 ストレスは随分と軽減されたりする。

ある分析家は言った。

「私は、ストレスを感じるようになったとき、 なんでそれが自分にとってストレスになっちゃったのかな、それはいつからかな、と考えてみる」

「先進国の、私たちの日常生活で、ストレスの源のほとんどは、人間関係が絡んでいて、外部から来るように感じるストレスも、結局のところ、それをストレスにしているのは自分なんだよね」と。

今現在、何かあなたのこころを乱したり、嫌な 気分にしているものがあるかもしれない。その物事の 出来事としての現実は変わらないけれど、その意味だとか、捉え方というのは、変えていけるものだ。

しかも、そうした「意味の再構築」というのは、 「問題のすり替え」とは違って、本題に取り組みつつ体験していることの意味を作り変えているので、それはやがて、物事の本質的な 解決へと繋がっていく。


こころの内から出てくるやる気と外部環境からの圧力

2006-09-14 | プチ精神分析学/精神力動学

私たち人間は毎日の生活の中で様々な活動をする。
人生とはある意味であらゆる活動の集積だけれど、
そのあらゆる活動には、必ず何かしら理由があり、
その、私たちを動かしている「何か」は大きく分けて、
External Oppression (外部・環境からの圧力や、
プレッシャー)と、Internal Motivation
(こころの内から湧き出てくるようなやる気や動機)
の二通りあると見ることができる。

仕事をしたり、勉強したり、飲んだり、食べたり、
芸術活動をしたり、誰かとどこかへ出かけたり、
掃除をしたり、運転をしたり・・・と、様々な
活動があるけれど、たとえば、「洗車をする」という
行為について考えてみたとき、その人が、自分の車が
大好きで、いつも愛車と時間を過ごすことで
満たされていて、愛車の手入れをするのが至上の
楽しみ、と言う場合、この人にとって、洗車するのは
「こころの内からの動機」によるものだ。

一方で、別に自分の車にたいした愛着もなく、
仕事に行くのに仕方なく運転している人が、
「汚れていると、みっともない」とか、周りの
目を気にして、「時間がないのに」とか、
「洗わなきゃ」と思いながらする洗車は、
「外部からの圧力」による。

これは他にもいろいろなことに言えることで、
「誰かとどこかへ出かける」という行為にしても、
その人が好きで、一緒に時間を過ごしたい、という
場合と、面倒くさいし乗り気じゃないけど、
行かないと人間関係がギクシャクするから、とか、
みんなが行くから、という理由で行くのとでは、
同じ、「誰かとどこかへ出かける」にしても、
二者の体験する精神活動は、全然違うものになるだろう。

ただ、人間は、社会的な動物だから、多くの場合、
この2つの要素は作用し合っているので、どちらか
一つの要因、というのではなく、その2つの割合や
程度の違いによって分けられる。

ここで面白い話があるのだけれど、絵を描くことが
大好きな、子供がいて、その子はどんどん自発的に
絵を描いていくのだけれど、その子供の親が
喜んで、その子に、もっと描く様にと、お菓子やお金
などの物理的な報酬を与たら、その子は、だんだん
絵を描くのが嫌になって、最後にはやめてしまった、
と言うものだ。

こういう話は、しばしば聞くもので、実際にこういう事って
多いのだと思うのだけれど、この話は、もともと
その子が、絵を描くことそのものを楽しんでいて、
それはこころの内面から湧き出てくる
喜びだったのに、それが、外部からの報酬という
プレッシャーによって台無しになってしまった、という
分かりやすい例だと思う。お金などの報酬がないから
こそ、その子供達は絵を描くのが喜びだったのだ。

私たちが、今している活動の中には、嫌々している
ことがあるかもしれない。それが何で嫌かと言うと、
それは、「そうしないと困ったことになる」とか、
「面倒なことを避ける」(締切日や法律や、周りの
人間の期待や、プレッシャー)という「自分の
置かれた状況や環境のプレッシャー」が私たちを
動かしているからだ。

そうした全てのことを、なんとか楽しく、というのは
難しいけれど、その活動の中に、自分のこころの
内から出てくる楽しみを見出せたら、その活動はまた、
今までとは違ったものになってくるから面白い。

ちょっとした工夫や思考の転換で、それは見つかったり
して、その「己の華」が、生活を豊かにしてくれることに
なるかもしれない。


時間 (Concept of Time)

2006-09-12 | プチ臨床心理学

「時間」という言葉において、多くの人が、ほとんど
大前提のように抱いている概念は、Clock Timeだと
思う。いわゆる、世界共通の、過去から未来へと
流れる、不可逆的で、直線的な、「時間」だ。

でも、我々がこうして「時計」という器具を通して
便宜的に感じることができる、規則的に経過する
時間は、「時間」という概念のうちの、ほんの
一部に過ぎない。この「目に見える時間」ですら、
微分していったら、実は切りがない、本来は連続した
ものだ。時計やカレンダーによって知覚できる時間は、
ある意味で、時間であって時間でない。

「時間は止まらない」とか、「時間は不可逆」だとか、
「時間は直線的」だとかいう前提も、ある状況や環境では、
あまり意味を成さないものだったりする。

いくつかの文化においては、時間とは、直線ではなくて、
円周のように捉えられ、それは、過去から未来へではなく、
その周期として巡り巡ってくるものと捉えられたりする。

癌の生存者においても、時間の概念と言うものは、
大きく変わってくることが少なくない。たとえば、
我々は、自分の誕生日を迎えるとき、「また一歳年を
取った」と捉えることが多いと思うが、癌の生存者の
人たちには、人生は、誕生日を軸として、
円周のように捉えられるようになったりする。

未来記憶で触れたように、極度のストレスや、生命の
危機に晒されると、ひとの「未来記憶」は大きく
変わってくる。同様に、時間の概念も、人それぞれ
新しい形で捉えられるようになる。「あと何年生きられるか」
という直線的な時間ではなく、たとえば、「またもとの場所に
戻ってきた」という捉え方。

普段我々が意識している時間の概念だけれど、実はそれが
「時間の可能性のほんの一つに過ぎない」と考えてみた
とき、時間の意味は変わってくるから面白いと思う。

最近よく思うのは、人間関係においても、時間の
流れと言うのは、人それぞれ実にまちまちで、
個人差が大きいものだということだ。たとえば、誰かと、
ある物事を共有したとする。それがポジティブなもので
あれ、ネガティブなものであれ、我々は対人関係に
おいていろいろなことを経験する。

それで、自分の中ではとっくの昔に終わっていたことが、
相手の中ではずっと続いている、と言うことは少なくない。
その逆に、自分の中ではまだホットな事象が、相手の
中ではすでに忘却の彼方にある過去の物事だったりして、
一つの物事においても、時間の流れは人それぞれ違っていて
面白いと思う。

これは僕が気をつけていることの一つ
だけれど、誰かに何かもらったり、良くしてもらって、
それから日が経って、久しぶりに会ったとき、自分は
その間に実にいろいろなことがあって、そういうことも
すっかり忘れそうになるときがあり、でも、この
「自分の中では終わっていること」が、相手の中では
もしかしたら続いていることを決して忘れてはならない、
ということがある。

だから、久しぶりに会う人とは、前回会ったときに
何があったか、ちょっと思い出してみると良かったり
する。あと、誰かに何かすごい話をした後、自分の
中では解決したけど、相手はずっと心配してくれていた、
などということがないように、なるべく気をつけている。


未来記憶 (Future Memory)

2006-09-09 | プチ健康心理学
 我々の、自己同一性(アイデンティティ、Identity)、つまり、自分が誰であるか、 自分とは何かなど、「自分と言う存在における自分なりの 概念」には、「記憶」という要素が重要な役割をもって いる。 


記憶とは、通常、「過去に起こったもの」という 前提があるけれど、記憶という感覚を、「自分の人生で 起こるあらゆる事象においての具現化と連続性」と捉える時、これから我々が体験するであろうこと、そうなって 欲しいこと、また、そうなると予測されるものとして、「未来の記憶」という概念が、重要性を帯びてくる。

未来記憶とは、通常、我々が、「今現在より先の ある時点(明日かもしれないし、大晦日かも知れないし、 来年の今日かもしれない)で、何らかの行動に出たり、 予定を実行することを『覚えている』という記憶」を指すのだけれど(なんだか分かりにくい説明だ。 書いている自分もよく分からない)、基本的に、我々人間は、明日も明後日も、一週間後も一年後も「自分が生きていること」を前提として、今を生きている。

今日の行動のすべてがそうではないだろうけれど、 そのうちのいくつかの行動は、自分の近未来のために行ったことだったりする。誰でも、「来年の今頃自分は」という、自己イメージは、多かれ少なかれあると 思う。ここで大事なのは、この「未来のイメージ」は、現在の自分自身の自己同一性と密接に結びついていて、現在と未来は「連続」している。

ところが、癌や、自然災害や、性犯罪や、事故など、自分にとって、あまりにも脅威で衝撃的なことを経験したとき、人は時に、「未来における自己イメージ」を失い、そこには「不連続性」が生じてくる。
連続性の断絶と言ったほうがいいかもしれない。

これは、言うまでもなく、自分とは何かと言う、 Identityにおける脅威であり、未来が分らないゆえの、絶望感に見舞われたりする。

癌の生存者においてもこれが言える訳で、死の恐怖を長期に渡って体験したり、手術による身体部位の切断によって、以前とは違う形の身体となり、それは、今までの、
自分のボディ・イメージがある日突然、永久に変わってしまうわけで、そこには明らかな自己同一性の断絶があり、未来像も大きく変わってしまう。

「今年のクリスマスは何をしようか」

このような、普段我々が、全く当然のことのように考えて、計画している未来は、今の精神・身体機能を持った自分がその時点でも変わらずにいることが、実は大前提になっている。

未来の記憶について考えるとき、今自分が当たり前だと思っていたことが、掛け替えのないものなのだと思いがけず気付かされたりして、それはなんだか未来からの警告のような気がする、今日この頃だ。


++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

この記事は、2005年の12月上旬に書かれたものです。
当時私は癌の生存者の心理について研究していて、その時に
未来記憶について学びのときを持ちました。


Future Memoryは、 Prospective Momory(展望記憶)
とも呼ばれます。


他者の体験

2006-09-07 | プチ臨床心理学

カップルセラピーという心理療法があって、それは、関係がまずくなったカップルや夫婦が、最善の合意点(それは和解かも知れないし、離別かもしれない)を求めて、基本的にはカウンセラーと三者面談をするのだけれど、このカップルセラピーの初期の会話は、多くの場合、お互いの過ちや欠点や、問題点などの罵り合いだ。

これは当然といえば当然のことで、お互いがそれぞれの今現在の相手に対して不満や怒りを抱いている訳だから、この罵り合いはしばらく続く。

これは別に、セラピールームに限ったことじゃないと思う。友人のカップルが、険悪な関係になってあなたに相談しにやってきたとき、そういうことは普通に起こるだろう。相手の中傷や攻撃やこき下ろしなど、「いかに相手が酷い人で、いかに自分は
傷ついたか」という話が延々と続いたりする。

あらゆるカップルの争いには、「自己憐憫」(Pity)と罪悪感(Guilt)の感情が付き物で、この二つの感情は常に隣り合わせである。たいていの場合、自己憐憫を抱く側と、罪の意識を感じる側の、二者のやり取りで、その役回りは入れ替わったりする。

たとえば、浮気した彼女の行為に傷付いて、 自己憐憫の感情でいっぱいになる彼氏と、 彼が自己憐憫のムードになっていることで、罪悪感を感じる彼女。でも、浮気の背景には、彼が彼女をほったらかしにして寂しい思いをさせ続けていたかも知れず、ここで、「あたしは寂しかった」となると、彼女の罪の意識は自己憐憫に変わり、彼の自己憐憫な感情は、罪の意識へと変わる。

これは単なる一つの例に過ぎないけれど、このようにして、少しずつ、相手を非難したい感情も収まってきたりする。 


実際に、カップルが、和解に向かって歩み始めるのは、相手のことを、表面的な言動ではなくて、人間全体のダイナミズムとして理解でき始めた時だ。結局のところ
誰でも欠点だらけで、根本は自己中心的な人間だから、間違いも犯すし、相手を深く傷付けることもしてしまう。

でも、それを含めて人間で、あらゆる行為には、その本人にしか分からない、意味は必ずある。

実際に、たとえば浮気をした彼女の「実際の体験」を彼が正確に知ることはできない。この彼は、「自分より他の男の方がよかったんだ。 自分に隠れて楽しんでたんだ。ひでえよ」と 思うかも知れないけれど、もしかしたら、彼女は、彼とは得られない、親密感や、こころの交流や、受容がどうしても欲しかっただけなのかもしれない。 

全然楽しんでなかったかもしれないし、楽しんでいたにしても、彼の想像する快楽とは全然種類の違うものかも知れない。

同様に、彼の傷ついた気持ちや、それに付随して起こった、暴力や罵倒などの、本質的な動機については、彼女には分からないかもしれない。

古代から、「他者のこころ」についての問題は "Problem of Other Mind"として哲学者たちによって議論され続けてきたが、どうしたって、他人の体験を本当に理解しあうのは不可能なのが人間だ。(相手のこころがホントに読めたら人間発狂するだろう)

ただ、ここで面白いと思うのは、僕たち人間が、「他者の精神世界や体験は、全くユニークなものであり、本人にしか分からない」という事実を一度認めてしまうと、却って相手の事を深く理解できるように
なるということだ。

別の言い方をすると、「この人はこういう人で、こういう願望があったゆえにこういう行動に出た」などと決め付けてしまうと、相手に対する理解や共感性はここでストップし、相手に対する攻撃や反感や軽蔑がはじまる。

誰かが、腹立たしい行動に出たときや、人を失望させるアクションを取ったときに、自分の世界観を相手に当てはめて、その動機を推測して決め付けてしまうのは簡単だし、人間そういうふうに考えるようにできているけれど、そこで、踏みとどまって、
他の可能性があることを考慮に入れた上で喧嘩したら、もしかしたら、相手のことをより深く知った上での仲直りも、それほど難しくないのかもしれない。


利他的行動(Altruistic Behavior)についての考察

2006-09-06 | プチ社会心理学

「良い牧者は羊のために命を捨てます」
          ~ヨハネの福音書10:11



先日「愛」について書いたけれど、そこで問題に
なってきたのは「自己犠牲の愛」についてでしたね。
これは、「利他主義」「他愛主義」といった、
一般的に、「利己主義」とは対極に位置するものと
考えられる概念であり、古くから利他的行動については
いろいろな議論が展開されてきました。

自己愛を超えて、無条件の愛によって
他者のために行動することは、人の人たる所以であるように
思います。実際、自己犠牲の愛は、映画や文学など、
様々な形で、人間の最も美しい姿として描かれています。

キリスト教徒が生涯を通して追求する、キリスト教的愛は、
先にも述べましたように、人間である限り到底不可能な、
真の自己犠牲の愛です。

自己犠牲の愛の源でもある、「利他的行動(Altuistic
Behavior)」は、実際、「他者の利益のために、外部から
の報酬などを期待しないで、自発的に取られる行為」と
定義されます。

利他的行動は、つまり、自分の都合よりも、他者の
幸福や状況を大切にするという価値観が、こころの
なかに内在化(internalized)されたことによって
起こる、一種の「向社会的行動」といえます。

さて、ここで問題になってくるのは、
「果たして全く自己愛の入っていない、100%
 無条件な、愛他性(利他性)は存在し得るのか」と
いうことになってきます。

個人的に、僕は、そうであって欲しいと思っています。
その可能性があることを信じたい人間の一人です。

ただ、残念ながら、現代の心理学においては、
そのような、完全な愛他性は、存在し得ないという
見解が主流です。あくまで一つの見解ですけど。

第一に、たとえ誰か「他者を助ける」という
行動をとったとしても、その行動をとった人間の動機が
利己的だったら、それは、「向社会的行為」では
あっても、「利他的行動」ではないわけです。

たとえば、そうですね、ある女性が歌舞伎町で
暴力団数名に絡まれているところを、ある男性が、
自らの危険を犯して救出するとします。でも、
もしこの男性に、実は「この女性と関係を持ちたい」という
動機が背景にあったら、これは、「向社会的行動」
ではあったとしても、「愛他的行動」ではないですね。

これは、ちょっと極端な例ですね、問題は、
もっと微妙なケースです。世の中には、実際多くのひとが、
赤の他人の命を救うために、自らの命を失っています。

線路に転落した酔っ払いを助けるために、自らも
線路に降り、その酔っ払いの身代わりになって、
ホームに入ってきた電車にはねられて亡くなった方もいます。

僕は、個人的に、この領域の自己犠牲の愛は、
本物だと思っています。こういう領域を分析する
必要もないんじゃないかと思います。

でも、心理学とはみもふたもない学問で、分析は
続きます。このように、自らの命を捨てて、誰かを
助ける人間も、その人は、自尊心や、誇りや、
自己満足といった報酬をこころのうちに受けるわけで、
そういう意味で、つまるところで「利他主義は利己主義に
起因する」ということになります。

さらに、「他愛性」という心の中に内在化された
価値観と一致した行動を取らないと、僕たちは、
罪の意識や、無能感などで、とても嫌な気分に
なったりします。これは一種の罰(Punishment)で
あり、結局のところ、「利他的行為」にしても、こうした
心の中に起こる罰を避けて、こころの報酬を受けるわけで、
そういう意味で、「利己的な行動」ともされます。

それとか、困っている人を見ると、自分もその人の痛みを
自分のことのように感じ、そんな自分の中に起こる
嫌な気分をなくしたいから、困っている人を助ける
ということもありますね。

以前、クラスでこの「他愛主義」についてディスカッション
があったとき、最近出産したあるクラスメイトが言いました。

「子供を生んで気付いたのは、子供を持つということ自体、
親の利己的なことなのよね」

これも、本当にみもふたもない話だけれど、子供を
生むという行為は、自分の遺伝子を次世代に残すという
本能が関係しているし、愛する人との子供が欲しいという
のは、確かに大人の都合ではあります。

そんなディスカッションが続く中で、ある生徒は
「真の利他主義」を主張していましたが、そのクラスの
教授がいいました。

「真の利他主義が有り得ないということの、何が問題なの?」

僕はこのとき、とても両義的な気持ちだったけれど、
その教授の発言に、あるところで救われた気がしました。

結局のところ、人間は、遺伝子や進化論の呪縛から
逃れることはできず、これは、キリスト教では、
「原罪」と呼ばれるものだけれども、それならば、
「人間は本質的に利己主義な存在」でいいじゃないか、
と思うようになりました。

利己主義な要素が、生まれたときから脳みそに
プログラムされて、その後の人生で、それは
強化されていくわけだけれど、だからこそ、そんな、
ある意味「自然の力に逆らった」他愛主義を追求していく
ところに、人間の素晴らしさがあるんじゃないかと
思うのです。それこそが人間性だと、最近よく思うんです。

昨日の夜、妻から電話があり、彼女は久しぶりに
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を読んだのだと教えて
くれました。読んだことある?と聞くので、
小学5年のときにその読書感想文書いて選ばれたと
答えると、「ね~なんて書いたの?」と聞いてきました。

少し考えて、思い出しました。カンパネルラはその夜、
友達の命を救うことと引き換えに、天に召されたけれど、
彼は幸せだったのか、小5の自分には答えが出なかった
のです。

「だけど、死んでも人は幸せなのでしょうか」

と、疑問を残して作文を締めくくったことだけ覚えています。

妻とそんな話をしていて、なんとなくだけど、
はっきりと解りました。カンパネルラは幸せだったんですね。

自分は妻のために命を捨てられたら、本当に幸せだと
思います。それができるかどうかは、そんな極限の状況に
なってみないとわからないけれど、自分のような偽善の
塊のような者に、そんなふうに思わせてくれる妻という人間が
いてくれることに、自分は本当に嬉しくなりました。


「トリビア」という抵抗-Trivia as a Form of Resistance

2006-09-05 | プチ精神分析学/精神力動学

トリビアという言葉は、日本ではすっかりお馴染みの言葉になりましたね。先日も、とあるマイミクさんが、「トリビア」という題で、とても面白い豆知識を紹介してくださっていました。

トリビア(trivia)とは、ご存知のように、『つまらないもの、取るに足りないもの』を意味する英単語ですが、心理カウンセリングにおいても、トリビアという概念があります。

カウンセリングルームで、「このクライアントが今話してるのはトリビアかな」などと心理療法家は推測したりするのだけれど、ここでいうトリビアとは、カウンセリング用語で、「問題の核心とは全然関係ないどうでもいい話」というような意味です。

クライアントが、カウンセリングにおいて、問題の核心や自分の本当の気持ちや感情に触れる準備がまだできていなかったり、そうすることが心地悪かったり、脅威に感じたりするとき、クライアントは表面的な話や世間話を続けたりします。

これは一種の「抵抗」(resistance)と呼ばれるもので、カウンセリングの進行を阻害する、クライアントの、時に無意識の働きかけだけれど、心理療法において、この「抵抗」そのものの分析が鍵となってきたりします。

これは、別にカウンセリングルームに限られたことではなく、僕たちの日常生活のなかで、しばしば見られるものです。たとえばこんな時:

お友達や、恋人や、ご家族の方が、今日に限ってどうしてこんなどうでもいい話ばかりするのでしょう。

この人はなにが言いたいのかな。全然気持ちが伝わってこない。

この人は本当にこんな話を楽しんでしてるのかな。

などと、感じたとき、その方はトリビアについて話しているかもしれません。ここでKEYになってくるのは、「なんかいつもと違う」事、また、「どうでもいいように思える話が始まったタイミングとその直前の話題」、あるいは、「トリビアな話の長さがちょっと気になる。止まらない」などで、実は何か本当に話したいことがあるけど話せなかったり、話すタイミングをうかがっていたり、なにか辛い体験をしたあとだったり、内面の気持ちや感情に触れたくなかったり、そんな理由が考えられます。

普段から「どうでもいい話」を好んでする人でも、「そのどうでもよさ加減が尋常でない」ときは、何かあったりするから、その個人の普段の話の内容やパターンによって、「なにがその人にとってトリビアか」も変わってくるわけですね。ある人にとってはトリビアなことが、ほかの誰かにとってはとても大切なことだったりって、よくありますね。

こういう時僕は、基本的に、その人の「トリビア」に出来るだけだけ付き合うようにしています。そうしているうちに、だんだん、トリビアの中にトリビアでないものが混じり始めてきたり、自然に本題に入り始めたり、また、ずっとトリビアは続くけれど、そのトリビアなトピックそのものが実は象徴的だったり、その人の感情を反映していたりするのが分かったりします。

だから、「そんな話どうでもいいじゃん」とは絶対に言わないようにしています。相手をしっかりと見て、なるべくじっくりと聞きます。「トリビア」は本質の「種」だったりします。これは「トリビアの種」というよりもむしろ、「トリビアは種」ですね。