[思考] ブログ村キーワード
数日前「梵天勧請の意味に照らされて」と題したブログの中で、
<お釈迦様はバラモンたちの聖典であるヴェーダの権威を認めませんでした。ウッパニシャッドが主張する宇宙原理の実在性を認めず、お釈迦様やそのお弟子さんたちはウッパニシャッドと同じようには自己と宇宙との同一を主張しませんでした、が別の方法で「自己と宇宙の本来的同一性の経験」を追求したのです。それが縁起説です。>
ということを書きました。インド哲学と仏教との関係性においてはポピュラーな話なのですがその理解となるとお釈迦様を離れた宗派の指導者により経験は己の経験を離れ他者の疑似的な経験に醸成され、ひどい時には全く己は喪失状態になります。
破邪的な排他性があるのにそれさえも理解できない、聞く耳もない、五感は身体を離れている精神と肉体がまったく統一を破壊されているということです。
「自己と宇宙の本来的同一性の経験」
という言葉で思い出すのは、
「自己を深く理解せば、その根底において精神的統一を認めねばならず、また完全なる真の精神とは自然と合一した精神でなければならなぬ、すなわち宇宙には唯一の実在のみ存在するのである」(ワイド版岩波文庫・西田幾多郎著『善の研究』p120)
「仏教の根本的思想であるように、自己と宇宙とは同一の根柢を以っている。否直ちに同一物である。この故に我々は自己の心内において、知識では無限の真理として、感情では無限の美として、意志では無限の善として、みな実在無限の意義を感ずることができるのである。我々が実在を知るというのは、自己の外の物を知るのではない、自己自身を知るのである」(ワイド版岩波文庫・西田幾多郎著『善の研究』p202~p203)
という『善の研究』で語られている言葉です。この言葉の意味するところから分かるように西田幾多郎先生は何を語ろうとしていたのかが直ぐに判ります。語る言葉は難解ですが基本的なことをしっかりつかんでいると厚みのある精神性を身につけることができるような気がします。
「自己と宇宙の本来的同一性の経験」
この言葉は生命の哲学で語られるもので、「私とは何か」「人間とは何か」が自分に現れている時には「自己と宇宙の本来的同一性の経験」を語る思想、哲学、宗教に惹きつけられます。
これは以前ブログに書いたことですが、「私とは何か」「人間とは何か」と問う以前の問いのない「私」「人間」という疑いのない存在があります。この場合に「存在」という言葉を使用してしまいますが「存在さえ疑うことのできない状態」があるといった方がよいかも知れません。
これはどういうことかというと、そのような問いをもたない人がいるということです。 「存在などを問うことに理由がない」と言明できる人々です。それは人間のこの世にあるという生成に関わることで、旧約聖書に書かれている人間創造の根源が疑いのない事実としてあるからです。
神に似せて創造されたもの。
神が土に息を吹き込み創造されたもの。
どちらにしろ神が創造されたという、絶対的信がそこにある時には敬虔なる僕であるならば「存在」は哲学の対象にはなりません。存在を問うことは不敬なのであります。
ニヒリズムという言葉があります。そもそもこの言葉は、どのような過程で使われるようになったかというとキリスト教関係者たちが「キリスト教的人間の存在を脅かす」破壊的、反抗的、攻撃的な態度と見える人をニヒリズム呼ばわりをしたことに始まり、その後この言葉は、神を持たない人々、本質をもたない事実のみの存在の人々を言います。そして現代社会では存在の基盤(バックボーン)を失い虚無感に陥った人のことを実存的虚無感に陥った人々と呼びます。
「自己と神の本来的同一性の経験」
となるところ、
「自己と( )の本来的同一性の経験」
となり、人間は不思議にこの空白の( )があると不安と虚無感に襲われます。経験は自分を作り、人間はその表現の総体です。この( )に普遍的に神をおいている人は生きる過程の経験は神とともにある人生になるわけで、そういう( )がない人はその時々に何を代入していきます。愛の心情をもつ人々をその( )に入れる人もいるかもしれませんし、新興宗教信者のように偉い先生を入れる人もいます。
「自己と宇宙の本来的同一性の経験」
空海さんお教え、真言密教の大日如来の信仰を見て原始仏教信奉者が本来的な釈迦仏教ではないと語る人がよくいます。「自己と宇宙の本来的同一性の経験」でいうところの「経験」という言葉の意味をどのように理解しているか、そこに大きな問題があるように思います。
「経験」とは自らが主人公であることを示し、「経験」とはその時その都度のことです。
V・E・フランクルは「人生が出す問いは、瞬間瞬間、その人その人によって、まったくちがっています。」(『それでも人生にイエスと言う』春秋社・p29)とあまりにも当たり前のことを言っていますが、耳を澄ませば、そこには「人生の意味」が語られています。
以前にブログにも書きましたが、フランクルは同書に2000年前のユダヤ教のラビ(教師)、ヒレルの言葉を引用します。(同書p56)
もし私がそれをしなければ、だれがそれをするのだろうか。
しかし、もし私が自分のためにだけそれをするなら、
私は何であろうか。
そして、もし私が今しなければ、いつするのだろうか。
当然「自己と神の本来的同一性の経験」と「宇宙」が「神」になりその信仰から語られている言葉だと思いますが唯一性が語られています。
「唯一性」とは何を意味するか。ヒレルの言葉には「行為」も語られているわけで、行為には「する行為・作為的行為」もあれば「しない行為・不作為的行為」も含まれそれが語られています。
行為には責任が伴う、歩けば足跡が残り、虫を踏むこともあるだろうし、車を運転すれば不注意で事故も起こすこともあります。そこからもわかるように、行為は責任性をともなうものです。
「もし私がそれをしなければ、だれがそれをするのだろうか。」
は問いでもあり、呼びかけでもあり、期待でもあります。
「汝(なんぢ)」
はそこに現れてきます。
今・ここと言う一刹那は、時間的な瞬間の一回性と絶対性が形成され統合されたその瞬間は直ちに明滅の継続性に経験を作り出していきます。したがって一回性・唯一性が最後の一息まであるわけです。
唯一性と責任性がある存在とは、実存的虚無感の克服に個人的には欠かせない表現の総体である「汝」の体験であるように思います。
汝自身の問いでもあり、呼びかけでもあり、期待でもあります。
「自己と神の本来的同一性の経験」は「汝自身の問い」は己の奥底に至りて還って来たって語る内の声です。それを西田先生は「物来たって我を照らす」と表現します。
自覚とは矛盾的自己同一の明滅の連続性の持続性の我を照らし続けます。純粋経験とは意識の先端の初発の経験で止まる概念ではありません。思考が始まる志向性がそこに向けられ意識の先端が刺さるその時その瞬間が常に人のまなざしの先端にあります。経験の先端、感光するフィルム(古いですが)のその瞬間、梵鐘の音の「ゴォーン」のその瞬間、まだ梵鐘と認識されないその時その瞬間、主客未分の只中そこに純粋経験はあるのですが止まった概念ではない、常に開かれたなかに継続されている生の経験ということだと思います。
日本語では、「ある」は、在る、有る、生るとも書くことができます。
これが私の表現です。
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